第16話:帰る場所と、一番美味しいスープ
目を覚ました時、私はまだジルの腕の中にいた。
煙の匂いと、朝の冷たい空気がする。
ドンズ亭の周囲の火は消し止められており、黒い鎧の男たちは皆、手枷をはめられて地面に座らされていた。
彼らを取り囲んでいるのは、上の街の騎士たちだ。
その中心で、銀の鎧を着た初老の将校がジルを見つめている。
「……まさか、ボンド卿の悪事の証拠を港湾組合経由で我々に届けたのが、貴殿だったとはな」
「……」
「貴殿の身に起きた三年前の事件も、再調査の手配を済ませた。……ヴァージル・グランツ。我が騎士団に戻る気はないか。君ほどの腕があれば……」
それは、ジルがずっと待ち望んでいたはずのものだ。
私はジルのマントの裾を、そっと手放した。
彼が騎士に戻るなら、もう「あまみ」を探してゴミ捨て場を彷徨う小娘なんて必要ない。
ジルはゆっくりと立ち上がった。
腰の袋から、あのペティナイフを抜く。
血と脂で汚れ、柄の木目がすり減った、ちっぽけな料理用のナイフだ。
彼はそれを将校の前に突き出した。
「……俺は今、海都で一番美味いスープを作る、ドンズ亭の厨房責任者だ。騎士の剣など、もう持つ手がない」
将校が息を呑む。
ジルはナイフを腰の袋にしまい込むと、うずくまっている私の前にしゃがみ込んだ。
「立てるか、オルフェ」
「……うん。ちょっと頭が痛いけど」
私が頷くと、ジルは怪我をしていない方の左手で私の小さな体を抱え起こし、将校に背を向けた。
「行くぞ。あの親父が、朝の仕込みが遅いとうるさいからな」
* * *
半壊したドンズ亭の厨房。
奇跡的にもかまどだけは無事で、そこに入った火が鍋をコトコトと鳴らしている。
ジルは右腕に包帯を巻き、私も酸欠の頭痛を抱えてかまどの前に座っていた。
ドンズは「俺の店が……俺の店がぁ……」と燃えたテーブルの残骸を抱えて泣き崩れている。
コトン、と私の前に木皿が置かれた。
具材は昨日、ジルと一緒に切ったニンジンだけのスープだ。私が最初に切った不格好な欠片と、ジルが手本を見せながらドヤ顔で切った透き通るような輪切りが、一緒に仲良く煮込まれている。
私はスプーンを手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。
「……あま」
塩加減は完璧で、野菜の甘みが疲れた体に染み渡っていく。
私が顔を上げると、腕を組んだジルがいつものように傲慢な顔をしていた。でも、少しだけソワソワしながらこちらを見ている。
「どうだ。この天才料理人が作った至高のスープの味は」
「……うん。今までで一番美味しい」
ジルの目元がわずかに緩み、彼は得意げに鼻を鳴らした。
「ふん! 当然だ! 俺の完璧な火加減と、素材の持ち味を極限まで引き出す技術が……」
いつもの威勢のいい声が、半壊した厨房に響く。
世界は相変わらず不快な音で溢れているけれど。
このうるさくてポンコツな騎士様がいる限り、大丈夫だ。私の毎日は、きっとずっと「あまみ」で満たされている。
(了)




