第13話:ニンジンと、遠くで鳴る軍靴
トントン。
厨房のまな板の上で、ひどく不格好な音が響く。
ボンド卿の悪事を暴いた夜から、数日が経った。
ジルは毎日のように夜明け前にドンズ亭を出て行き、昼過ぎに戻ってくる。港湾組合の理事に預けた帳簿から、不正の調査がどこまで進んでいるかを確認しに行っているらしい。
「……遅い」
横から身を乗り出してきたジルが、イライラしたように腕を組んだ。
「違う、そうじゃない! そこは力任せに押すのではなく、手首のスナップで引くのだ! 見ろ、俺の完璧な手本を!」
ジルは私から包丁をひったくると、目にも留まらぬ速さでニンジンを刻み始めた。
トトトトトン。
透き通るような美しい輪切りがあっという間にできていく。
ドヤ顔で私を見下ろすジルの口角が、限界まで上がっていた。
平和な午後だった。
鍋がコトコトと鳴る音だけが、厨房を満たしている。
だが。
開け放たれた窓から、冷たい海風が吹き込んだ。
それと一緒に、私の耳が異音を拾う。
ザッ、ザッ、ザッ。
遠くから音が聞こえてくる。市場の喧騒じゃない。水路の澱んだ音でもない。
規則正しく、重く、石畳を砕くような足音の束。
軍隊の行軍だった。
バンッ! と扉が開き、常連客の老水夫が血相を変えて飛び込んできた。
「おい、ドンズ! 店を閉めろ! 上の街のボンド卿の私兵団が、スラムの入り口を封鎖しやがった!」
「な、なんだって!?」
「『偽造文書を盗んだ大悪党』を捜してるんだと! 家々を片っ端からひっくり返して回ってるぞ!」
ドヤ顔のまま、ジルの手がピタリと止まる。
彼の表情から一切の感情が消え去り、無意識のうちにエプロンをきつく握りしめた。
ボンド卿。
先日ジルが帳簿の偽造を暴き、破滅させた悪徳商会の後ろ盾となっている巨大な権力者だ。追いつめられた卿が、私兵を使って強引に証拠隠滅を図り、私たちを消しに来たのだろう。
ジルはゆっくりと、まな板の上のニンジンを木皿に移した。
「……オルフェ。厨房の奥に隠れていろ」
「……ジルも一緒でしょ?」
「俺はドンズ亭の厨房責任者だ。厨房に現れたネズミの駆除は、俺の仕事だ」
ジルは腰の袋から愛用のペティナイフを抜き、その冷たい刃先をランプの光に透かした。
手にした刃物は短く、ただの料理用の果物ナイフにすぎない。
だが、その目に宿っているのは、名門騎士の誇りでも、正義への怒りでもない。厨房を荒らす輩を決して許さない、狂気の料理長のものだった。




