第12話:再来の客と、恩返しの香辛料
雨が上がった翌日の夕方。ドンズ亭は、最悪の空気に包まれていた。
薄暗い食堂の中央で、三人の男が横柄な態度で椅子にふんぞり返っている。彼らはこの辺りの裏路地をうろつく柄の悪いゴロツキだった。
「いいかドンズ。この辺り一帯は俺たち『黒波一家』が新しく管理することになった。みかじめ料を払えねえなら、店を畳むんだな」
顔に傷のある男が、テーブルに足を乗せて凄んだ。
ドンズは顔を青くして震えている。
ジルは私の前に立ち、男たちを鋭く睨みつけていた。
「無礼な野犬どもめ。この神聖な厨房の……いや、俺のいる宿で狼藉を働くか。よかろう、ならばまずは決闘の作法に則り、互いの家柄と祖先の功績を三時間かけて語り合おうではないか!」
ジルが腰の袋に手を伸ばし、騎士の構えを取る。
でも、彼の腰にあるのは刃渡りの短いペティナイフだけだ。時間稼ぎのハッタリにも程がある。
相手は三人。全員が物騒な長剣を腰に下げており、「はあ?」と呆れ顔をしている。
私の耳には、ジルの心臓の音が聞こえていた。
ドッドッ、ドッドッ、と、早鐘のように激しく打つ音。
彼は怖いのだ。マントの布擦れの微かな音で、彼の足が小刻みに震えているのが分かった。
「あん? なに訳の分からねえこと言ってんだ。ぶっ殺されてえのか?」
男の一人が剣の柄に手をかけた。
ジルが「ひっ」と小さく息を呑む。彼が思わず一歩後ろに下がりそうになった、その時だった。
「おやおや。私に恩を売ってくれたお二人に、なんという無礼を」
店の扉が開き、恰幅の良い商人が入ってきた。
あの時の、靴の隙間に落としたルビーの指輪を見つけてあげた商人のおじさんだ。
「な、なんだオッサン! 引っ込んでろ!」
「口を慎みなさい。君たちのようなゴロツキを雇っている元締めに、私の商会からどれだけ融資をしていると思っているのかな?」
商人が静かに、しかし威圧感たっぷりに言い放つ。
男たちの顔色が変わった。この街の商会の長に睨まれれば、彼らの親分でさえただでは済まない。
「ち、チィッ! 覚えてろよ!」
男たちは捨て台詞を吐き、逃げるように店を出ていった。
ジルは「ふぅっ……」と長いため息をつき、膝から崩れ落ちた。
「……き、肝が冷えた。感謝する。あと数秒遅ければ、俺の完璧な戦略が発動するところだったぞ」
ジルはまだ小鹿のように足を震わせながら、どうにか強がってみせた。
「とんでもない。以前の恩返しができて光栄ですよ」
商人は微笑み、紙包みをテーブルに置いた。
「今日は、西の大陸から入った珍しい香辛料をお裾分けに来たのです。料理がお上手なあなたなら、上手く使いこなせるでしょう」
* * *
夜の厨房。
ジルは商人が置いていった赤い香辛料を鍋に振り入れ、真剣な顔でシチューをかき混ぜていた。
ピリッとした、鼻を抜けるような刺激的な匂い。
「……怖かったくせに。三時間語り合うとか、よくあんなハッタリ言えたね」
私がからかうように言うと、ジルはビクッと肩を震わせ、鍋から目を逸らさずに答えた。
「ハ、ハッタリではない! 騎士たるもの、非礼な輩にはまず言葉で教えを説くのが義務だ!」
「でも、心臓の音めちゃくちゃ早かったよ。足もガクガクだったし」
「なっ……! ば、馬鹿を言うな! あれは武者震いだ! 決してチンピラの長剣にビビって腰が抜けそうになっていたわけでは……!」
図星を突かれたジルは、顔を真っ赤にしてお玉を振り回した。
手はまだ、ほんの少しだけ震えている。
でも、あの時、彼が私の前に立って庇ってくれたのは本当だ。
私は無言で、彼のマントの裾を後ろから軽く引っ張った。
「……どうした」
「別に。……それにしても、あの商人のおじさん、いい人だったね。ジルが強がる前に来てくれてよかった」
ジルは小さく笑い、ふっと肩の力を抜いた。
「ああ。人を助ければ、巡り巡って己を助ける。俺は金以上の『資産』を築いていたということだ。名門の当主にふさわしい人脈だな」
「またそうやって偉そうにするー」
できあがったシチューは、いつもの優しい味の奥に、ピリッとした熱い刺激があった。
それは、ジルの強がりみたいな、少しだけ舌に残る味。
私はスプーンをくわえたまま、新しい「あまみ」をゆっくりと味わった。




