第11話:依頼のない日と、雨音のシチュー
朝から、海都はずっと雨だった。
灰色の雲が空を覆い、水路は薄暗い路地で濁っている。
こんな日に「ドンズ亭」まで足を運ぶ物好きな客はいない。
「……暇だなあ」
私は窓枠に顎を乗せ、窓ガラスを滑り落ちる水滴を眺めていた。
「暇だなじゃねえよ! 客が来ねえってことは、宿の売上がねえってことだ!」
店主のドンズが、カウンターで帳簿を叩きながら頭を抱えている。
その横で、ジルは厨房の奥に積まれた木箱を漁っていた。
「騒ぐなドンズ。こういう日は、備蓄の点検と設備の維持に努めるのが騎士の務めだ」
ジルは木箱の中から、干からびたキノコと、塩漬けにされてカチカチになった豚肉を引っ張り出した。
それから、まるで魔王に立ち向かう勇者のように、誇らしげにあの小さなペティナイフを抜いた。
「見よ。この絶望的な保存食を、俺の腕で極上のシチューに変えてやろう」
「お前のその自信はどこから湧いてくるんだ……」
ドンズは呆れたようにため息をつき、帳簿の計算に戻った。
私は窓辺を離れ、厨房の隅にある指定席——かまどの横の藁の束——に座った。
ジルの包丁の音が響く。
トントン、トントン。
硬い肉を繊維に沿って丁寧に細かく刻む音。
外の雨音と、鍋で水が沸騰するポコポコという音。
普段なら街の喧騒で耳が痛くなるけれど、今日は違う。
規則的な雨音と、ジルの料理の音が、不快な雑音を全て掻き消してくれていた。
「……ねえ、ジル」
「なんだ」
「あんたのコート、雨の日は少し埃っぽいね。それにカビ臭い」
ジルはビクッと肩を震わせた。
「無礼な! これは由緒正しきグランツ家の……っ、まあ、確かに湿気には弱いが」
彼は言い返そうとして、自分の袖口を嗅ぎ、結局小さくため息をついた。
その日は、本当に誰も来なかった。
私たちはただ、鍋から立ち上る湯気を眺めて一日を過ごした。
* * *
夕方。
ドンズが酒の仕入れで外出してしまい、宿には私とジルの二人だけになった。
「よし、完成だ」
ジルが木皿にシチューをよそう。
塩抜きされた豚肉の旨味と、干しキノコから出た深い出汁の香り。
見た目は茶色くて地味だけど、香りは信じられないくらい豊かだった。
「……あま」
私が一口食べて呟くと、ジルは満足そうに腕を組んだ。
「当然だ。時間をかけて煮込むことで、素材の魂を解放したからな」
ジルは自分の分のシチューを口に運び、ふぅ、と息を吐く。
「……たまには、こういう日も悪くないな」
ジルが珍しく、静かな音で言った。
外の世界で虚勢を張る必要もない。誰かの嘘を聞き分ける必要もない。
「うん」
私はシチューの温かさを胃の奥で感じながら、自分の上着の裾を指差した。
「ジル」
「ん?」
「ここ、ほつれてる。騎士なら裁縫もできるでしょ。直して」
「……は!? な、なぜ俺が貴様のような小娘の安物の服を……!」
「できないの?」
「馬鹿を言え! 騎士たるもの、戦地での野営術として裁縫など朝飯前だ! 貸せ、俺の完璧な針捌きを見せてやる!」
私が上着を脱いで渡すと、ジルはそれをひったくり、どこからか見つけてきた針と糸で格闘し始めた。
数分後。凄まじいスピードで針を動かした彼がドヤ顔で返してきた上着の裾は——縫い目自体は恐ろしいほど均等で完璧なのに、なぜか真っ赤な極太の毛糸が使われており、ひどく悪目立ちする仕上がりになっていた。
「……どうだ。俺の芸術的な手際を見……おい、なぜため息をつく! 補強には太い糸が良いに決まっているだろう!」
「……ありがとう」
私は、自己主張の激しい赤い縫い目をそっと撫でた。
ジルの音が、照れ隠しで少しだけ跳ねている。
雨音とシチューの匂い。
何もない一日だったけれど、私のお腹と心は、満たされていた。




