第10話:偽造のサインと、雨上がりの沈黙
豪奢な屋敷の執務室だ。
ふかふかの絨毯の上には、土で汚れた二つのブーツが黒い足跡を残している。
「……何かの冗談かと思ったが。まさか、本当にあの没落したヴァージル・グランツとはな」
立派なデスクの向こうで、横領をでっち上げたという商会の主である男が鼻で笑った。
「ゴミ捨て場を漁っていると聞いたが、ついに頭までイカれたか? その浮浪者のようななりで、この私の屋敷に乗り込んでくるとは」
「……」
ジルは無言のままだ。雨水を滴らせるマントを羽織り、真っ直ぐに男を見据えていた。
握りしめられた拳が、静かに震えている。
「おい! この汚いゴミ共をつまみ出せ!」
男が顎をしゃくると、部屋の隅に控えていた二人の護衛が剣に手をかけた。
私はすかさず、首から下げたオカリナを口に当てる。
ピィーーーッ!
空気を切り裂くような高周波が響いた。
護衛たちは突発的な目眩に襲われてうずくまり、男も顔をしかめて耳を塞ぐ。
その隙を突いて、ジルが音もなくデスクへ歩み寄った。
彼は懐からあの革張りの帳簿を取り出し、男の目の前に叩きつける。
「……三年前。俺から土地と爵位を奪った時と、全く同じ手口だな」
「な、なんのことだ……!」
男の太い眉が跳ね上がった。
「この無駄に仰々しいサインの筆跡。……俺の家の家令だった男の字だ。貴様、ボンド卿に取り入ったあの裏切り者と結託してこの商人を嵌めたな」
「証拠もない言いがかりを……!」
「証拠はある」
ジルは帳簿のページを開き、サインを指差した。
「奴は昔から『R』の跳ね上げだけがひどく不格好だった。俺が何度注意しても直らなかったあの癖……俺が没落した時に作られた偽の借用書にも、この帳簿にも、その間抜けな癖がそっくりそのまま残っている」
男の顔から、さぁっと血の気が引く。
「……ま、待て、これは……」
「……詰めが甘いな。俺が見逃すはずがないだろう」
「……っ!」
男の膝がガクガクと震え出す。
「この帳簿は、貴様と対立している港湾組合の理事に持ち込む。貴様の横領の捏造も、そして三年前の俺の借用書も、全てが偽造だと証明してやる。……商人を解放し、奪った倉庫を直ちに返還しろ。さもなくば全てを暴露する」
ジルは男の襟首を掴み、その脂ぎった顔に冷酷な瞳を近づけた。
「貴様と、その後ろ盾であるボンド卿の悪事はここまでだ。……震えて眠れ。俺の反撃は、ここからだ」
屋敷の外へ出ると、雨はすっかり上がっていた。
雲の切れ間から、冷たい月明かりが水たまりの多い石畳を照らしている。
すべての交渉を終え、無事に商人の解放を確約させた後、私たちはようやくスラムの路地裏まで戻ってきた。
その時だった。ジルの足がピタリと止まった。
「……」
彼はゆっくりとレンガの壁に背中を預け、ズルズルと座り込んだ。
肩が激しく上下している。
あの男をやり込めた。
でも、彼の家が今すぐ戻ってきたわけじゃない。
奪われた誇り、失った三年間の時間、あの薄汚れた路地裏で這いずり回った記憶。それらが消えるわけじゃない。
私は水たまりの横の冷たい地面に無言で腰を下ろした。
ジルの隣に座り、ただ肩を並べる。
かける言葉なんて知らない。
私はただ、彼が静かに呼吸を整えるのを待っていた。
やがてジルが深くため息をつき、膝に顔を埋めた。
その背中から、張り詰めた糸が切れたような音が鳴る。
「……あ、そうだジル」
「……なんだ」
「今日のまかない、特上肉の塩焼きにしてくれるって約束、忘れてないよね?」
私の言葉に、ジルは弾かれたように顔を上げた。
そして信じられないものを見るような目で私を見ると、呆れたように大きく息を吐き出した。
「……貴様という奴は、本当に……!」
ジルは乱暴に頭を掻きむしり、よろよろと立ち上がった。
「ふん! よかろう! この天才料理人の手で、その安い舌を狂わせてやる!」
いつもの威勢のいい声が、夜の路地裏に響く。
私は小さく笑って、彼の後ろを歩き出した。




