第30話:誤訳姫の、居場所
戦を回避した翌朝の後宮は、嘘のように静かだった。
墨色の靄に喰われていた灯火は、すべて元の橙に戻り、回廊には、いつもの香の匂いが流れている。白檀、龍涎。妃たちが競って焚きしめる、平穏の匂い。
ただ一つ、昨夜までと違うのは――もう誰も、紅蘭を「李冰」とは呼ばないことだった。
女官長・白霜は、朝のうちに捕縛のまま中央へ送られた。後宮の妖害を仕組み、八年前の戦の誤訳にまで手を染めた女官長。だが取り調べで彼女が口にしたのは、ただ一言――「言葉を歪める者は、わたくしだけではない」。その先を、彼女は決して訳さなかった。
(奥に、いる。後宮の、さらに奥に)
紅蘭は、朝の中庭で、八年ぶりに故郷の夢を見なかった自分に気づいていた。胸の奥でずっとくすぶっていた焦げ跡が、昨夜、少しだけ遠のいた。一語を、訳し直せたから。
「紅蘭さま」
たどたどしい煌語が、背に掛かった。西方の妃・桂才人が、異国の刺繍衣の裾を揺らして歩いてくる。その隣には、何かを齧りかけの小鈴。
「あの、わたし……お礼を、正しく、言いたくて」
桂才人は、懐から一枚の紙を出した。母語と、たどたどしい煌語が、二段に並べて書いてある。彼女が自分で、辞書を引きながら綴った言葉だった。
「『あなたが、わたしの言葉を、正しく訳してくれた。だから、わたしの故国は、戦をしないで、済んだ』。――これで、合ってる?」
紅蘭は、その紙を、頭の中でいつものように光らせて読んだ。一語の、誤りもなかった。
「……ええ。完璧です」
桂才人が、ぱあっと笑った。孤立していた、訳せない妃の顔ではなかった。
「あたしも!」と小鈴が割り込む。「あたし、決めたんだ。紅蘭さまに、文字、習う。いつか、あたしも『写し役』じゃなくて、ちゃんと訳せる人になる。――そんで、誰かが言葉で泣かされる前に、止めるんだ」
(次代の、祓い手か)
紅蘭は、思わず目を細めた。言葉で人を殺す者がいるなら、言葉で人を救う者も、増えていけばいい。
昼、紅蘭は、皇帝の名代として、皇弟・蒼月の前に呼ばれた。
後宮を欺いた罪。亡国の姫が、男装で潜り込んだ咎。本来なら、首が飛んでもおかしくない。
だが、皇帝の沙汰は、違った。
「亡国の翻訳姫・紅蘭を、後宮付きの翻訳官にして、妖祓いの任を正式に授ける」
蒼月が、勅を読み上げ、それから、いつもの人の悪い笑みで付け足した。
「ただし――男装のままで、だ」
「……は?」
「お前を女官にすれば、後宮の派閥が放っておかん。お前を表の官にすれば、朝廷の連中が政の駒にする。どちらも、お前の言葉を曲げる。だから、お前は『李冰』のままでいい。男でも女でもない、ただの――言葉を正す者として、ここにいろ」
紅蘭は、しばらく、言葉をなくした。
亡国の姫でもなく、政治の駒でもなく。ただ、言葉を正す者として。それは、九つのあの夜から、彼女がずっと欲しかった、たった一つの居場所だった。
(私の、居場所だ)
「……謹んで、お受けします。皇弟殿下」
「蒼月だ」と、彼は小さく言った。「昨夜、名で呼んだだろう。今さら戻すな」
紅蘭は、答えなかった。ただ、ほんの少しだけ、頬を赤らめて、深く一礼した。
その先の関係を、二人とも、まだ言葉にはしなかった。誤訳を恐れる二人だからこそ、その一語は、慎重に、いつか、正しく訳すべきものだった。
夕暮れ。
紅蘭は、自分に与えられた小さな通訳房で、一枚の古い写しを広げていた。
八年前。故郷を滅ぼした、あの戦の国書。祝いの言葉が、たった一語の誤訳で宣戦布告に化けた、あの文書の写し。
その隅に、見覚えのある「歪曲の型」があった。白霜の手癖と、同じ。
だが――その型の、さらに下。
国書を発注した者の、小さな花押が、墨で潰されていた。誰かが、意図的に、消した跡。
(白霜は、一番の使い手にすぎない。発注した者がいる。八年前も、昨夜も)
潰された花押を、紅蘭は、指でなぞった。
まだ、読めない。だが、いつか必ず、訳す。
誤訳が妖を呼ぶこの国の、一番奥にいる――言葉を歪めた、真の発注者を。
「次に訳すのは」
紅蘭は、金の光を宿す七つの言語を、頭の中に灯しながら、静かに呟いた。
「あの戦の、真の発注者だ」
窓の外、後宮の朱と金が、夕陽に染まっている。
亡国の翻訳姫の、男装の祓いは――まだ、始まったばかりだった。
第30話、お読みいただきありがとうございます。これにて第1部「後宮潜入」、ひとつの区切りです。
誤訳が呼ぶ妖を一語ずつ祓いながら、紅蘭は後宮の黒幕・白霜を退け、戦を止め、そして「男装のまま、言葉を正す者」という、自分だけの居場所を手に入れました。男装の翻訳姫の、ひとまずの完結です。
けれど、白霜の残した「言葉を歪める者は、私だけではない」――八年前の戦と昨夜の国書、その両方を発注した「真の発注者」は、まだ後宮の、さらに奥に潜んでいます。そして、蒼月との、まだ訳されていない一語も。
第2部「真名の戦」で、紅蘭はその奥へ踏み込んでいきます。ここまで、紅蘭の祓いを見届けてくださって、本当にありがとうございました。面白かったら、ブックマーク・評価・感想で、続きへの応援をいただけたら嬉しいです。
――正しく訳せ。さもなくば、妖が笑う。




