第28話:庇う、皇弟
その一語が、満座を凍らせていた。
――李冰は、女だ。
締結の大広間。墨色の靄が天井の梁を這い、灯火を喰い、国家級の大妖が柱のように立ち昇るその下で、紅蘭は乱れた黒髪を背に垂らしたまま、国書の写しを握りしめていた。崩れた結い髪、外れかけた胸の布。三日かけて作り上げた「少年・李冰」が、いま満座の前で、ほどけ落ちている。
誰かが、震える声を上げた。
「女が……男と偽り、後宮を欺いていた」
「あれは亡国の血だ。滅びた小国の、姫だというぞ。煌に潜り込み、国書の儀を乱しに来た間者だ」
ざわめきが、波になって紅蘭へ押し寄せた。
欺いた罪。亡国の素性。間者。――言葉が、彼女を縛る縄に変わっていく。紅蘭は、これまで幾度も見てきた。一語が、人を救いもすれば、殺しもする。今その一語が、自分を喰う側に回っていた。
「ひと月、こやつの訳に宮を任せていたのだぞ」
「亡国の血が、煌の国書に触れていた。穢れだ。斬って清めよ」
声と声が、勝手に紅蘭の罪を編み上げていく。誰も、彼女が今しがた靄の真名へ手をかけかけていたことを、見ていない。武官の一人が、剣の柄に手をかけた。
(縄を打たれれば、終わる)
紅蘭は奥歯を噛んだ。手の中の原文だけが、頭の中で淡く光っている。あと一語で、この大妖の真名を訳し直せる。それなのに、その一語を口にする立場を、いま満座が奪おうとしている。
末席で、小鈴が「李冰さまは間者なんかじゃない!」と叫んだ。桂才人がたどたどしい煌語で「この者は、私の言葉を、正しく……」と訴える。黎大人までが「あの者の訳は、正しい」と前へ出かけた。
だが、亡国の姫という四文字の前に、その声は、潮に呑まれる小石でしかない。
(信じてもらえる場所など、最初から無かった)
紅蘭の指から、写しが滑り落ちかけた――その時だった。
「――鎮まれ」
低く、しかし広間の隅々まで届く声が、ざわめきを一刀で断った。
紫の衣が、人垣を割って進み出る。皇弟・蒼月。皇族の証たる紫を、墨の靄の下でなお揺らがせず、彼は満座の中央――紅蘭の隣へ、ただ一人、立った。
武官の手が、剣から離れる。皇族の御前に、剣は抜けない。
「殿下」黎大人が息を呑む。「その者は、女と露見し、亡国の――」
「だから、何だ」
蒼月は、紅蘭を背に庇うように、半歩、前へ出た。
「この者が女であろうと、亡国の姫であろうと、それがどうした。――今この時、墨の妖が宮を喰い、国書の誤りひとつで両国が戦に転げ落ちようとしている。そのただ中で、原文を正しく読み、妖の真名を訳し直せる者が、この満座に、ほかに一人でもいるか」
答えは、なかった。
宮廷通訳たちは青ざめて俯き、儀を仕切る官は口を結んだ。三人がかりでも沈められぬ大妖の前で、誰も、一語も差し出せない。
「いないな」蒼月の声が、静かに満座を撫でた。「素性を裁くのは、戦を止めてからでも遅くない。だが正しく訳せる者を今ここで縄に打てば、この宮は――煌は、誤訳のまま、妖に喰われて終わる」
彼は、紅蘭へ目をやった。からかいの色は、ない。
「この者の素性が何であれ――たった今この国を戦から救おうとしているのは、正しく訳す、この者だけだ」
言葉が、広間に落ちた。
亡国の翻訳姫。陰陽祓いの家を継ぐ、最後の一人。誤訳が呼んだ妖を、正しい名で祓う――それは罪ではなく、この国がいま、喉から手が出るほど欲している、ただ一つの正統。蒼月の一語が、紅蘭を縛っていた「間者」の縄を、裏側から「祓い手」へと訳し替えていく。
紅蘭は、息を詰めて、隣の青年を見た。
(守られて、いる)
出会った夜は手首を掴まれ、ただ逃げるしかなかった。のちに、初めて対等に手を組んだ。あの夜の「黙っておく」という約束を、この男は今、満座の前で、皇族の名ごと差し出している。秘めておくどころか、自らの立場を賭けて、紅蘭の正当を、皇族の声で天下に示した。
(信じる、と――この男は、こんな形で示すのか)
怖れではなかった。亡国を出てから初めて、誰かの背に守られながら、なお自分の足で立っている、という手応えだった。守られる側だった者が、皇弟に信じられ、満座の中に、初めて居場所を得る。
(一語の誤りで、私は故郷も家族も、名すら失った。その同じ満座で――一語の正しさが、私に、立つ場所を返す)
あの夜、焼けた回廊で誓ったことが、ぐるりと一巡して、ここへ戻ってきた気がした。言葉に殺された者が、言葉に救われている。
紅蘭は、落ちかけた原文を、握り直した。指先の墨の汚れが、いつもよりくっきりと見えた。
「……感謝します、殿下」声を、作るのはもうやめた。低く澄んだ、女の声で。「では――正しく、訳します」
その時。
広間の奥、女官たちのざわめきの陰から、鈴の音が、ちりん、と鳴った。
白霜。長爪に鈴を付けた女官長が、捕り方に囲まれてなお、優美に微笑んでいた。黒幕と暴かれ、追い詰められ――それでも、その目に、敗北の色はない。
縄目は、もう間近だ。逃げ場はない。けれど白霜は、捕り方を見ようともしなかった。彼女の武器は、最後の一息まで、剣でも逃げ足でもない。一語だ。
「正しく訳す? ――それが、何の役に立つの」
白霜は、ゆっくりと、大妖の靄を見上げた。
「お前たちは、一つ忘れている。言葉は、訳し直せる。なら――もう一度、訳し違えることも、できる」
彼女の唇が、滑らかに動いた。
国書の一節。紅蘭が今まさに正そうとしていた、その同じ一語を――白霜は、わざと、最も深く歪む意味へ、ねじ曲げて読み上げた。文脈を黙殺し、確信を持って踏み外す、あの手口。
武器は、剣ではない。言葉だ。彼女のとっておきの、一語の毒。
「『セナ』を――『セナル』と。煌は西燕に、膝を折れと書いてある。さあ、妖よ。お前を呼んだのは、この国の、傲りだ」
歪んだ一語が、靄に喰われた。
大妖が、ぶわりと膨れ上がる。怨嗟を新たに注がれ、墨色がいっそう濃く、天井を割らんばかりに沸き立った。喰い消された灯火の数だけ、闇が広間を呑んでいく。せっかく訳し直そうとしていた真名の上に、白霜が、もう一枚、新しい誤りを塗り重ねたのだ。
(この女は――最後の最後まで、言葉で抗うか)
紅蘭の背に、八年前と同じ寒気が走った。歪曲の型は、寸分違わぬ。故郷を焼いた、あの誤訳と。
「白霜……!」
紅蘭が叫ぶより早く、靄の中心に、巨大な口が裂けた。
それは、もはや女官たちには見向きもしない。
己を「正しく訳し直そう」とする者――紅蘭と、その隣に立つ蒼月、ただ二人へ向けて、墨の牙を、ぐわりと剥いた。
月のない夜の広間に、香ではなく、墨の焦げる臭気だけが、満ちていた。
第28話、お読みいただきありがとうございます。第3章の山場――正体を露見させた紅蘭を、皇弟・蒼月が満座で庇う回でした。
第一話で手首を掴まれ、ただ逃げるしかなかった紅蘭。第十五話で交わした「黙っておく」という約束を、蒼月は今度は秘める形ではなく、皇族の名を賭けて満座に差し出しました。「素性が何であれ、この国を救えるのはこの者だけだ」と。守られる側だった者が信じられ、立場を得る――静かな逆転の、結実です。
ですが、追い詰められた白霜は、まだ折れません。最後の歪曲――とっておきの誤訳一語で、大妖をさらに煽りました。言葉は訳し直せる、ならもう一度訳し違えることもできる、と。煽られた大妖が牙を剥くのは、いよいよ二人へ。
次回、第29話。紅蘭と蒼月が二人がかりで国書の真名を正しく書き、国家級の祓いに挑みます。クライマックスです。ブックマーク・評価で応援いただけると、紅蘭が最後の一語を研ぐ励みになります。




