第四幕 毒入りの微笑みは、鏡の前では隠せない
――結論から言うと、私はその場で返事をしなかった。
さすがの私も、即答するには、情報が足りなさすぎた。
だいたい、コスパの計算ができない。
婚約のメリットとデメリット、辺境暮らしの労力、社交界からの距離、彼の人柄、家族の反応――変数が多すぎる。
「一晩、考えさせていただいてもよろしいですか」
と、私は冷静に言った。
アルセン卿は、頷いた。
「当然だ。返答は、貴殿の好きな時に。三日でも、三月でも、三年でも待つ」
「三年は長すぎますわ」
「では、三月待つ」
「ありがとうございます」
彼は紅茶を飲み干して、丁寧に一礼して、辺境からの貢物を残して帰っていった。
残されたのは、馬車一台分の蜂蜜と、菓子と、果物と、白茶と、蒸留酒と、それから――。
――婚約話。
私は、ソファに、もう一度、寝転がった。
天井を見上げた。
……信じられない。
化粧もせず、猫被りもせず、面倒くさがって本ばかり読んでいた令嬢に、辺境伯から、婚約の申し込みが来た。
これが、ヴェリタス様の呪いの、思いがけない副産物だとしたら――。
神様、ありがとう。
たぶん、暇つぶしついでだったんでしょうけれど、ありがとう。
私は、心の中で、神様に礼を言った。
* * *
その日の夕方、屋敷に、来客があった。
ソフィア・ベルティエ侯爵令嬢。
……はい?
マリーから来客の名を聞いた瞬間、私は耳を疑った。
昨日、社交界の最後の体面を晒し上げたばかりの彼女が、なぜ、我が家に。
「お会いになりますか?」
「……仕方ないわね、お通しして」
私はソファから起き上がり、ドレスの皺を伸ばした。
……いや、伸ばしていない。
今日は伸ばさない。
アルセン卿の時とは、コスパが違う。
通されたソフィアは、化粧が薄かった。
今までの彼女からは考えられないほど、薄い。
――《ヴェリタス》以降、彼女は化粧を変えたのだろう。
素肌に近いほうが、ギャップで死なずに済む。
学習している。
だが、その目には、まだ、昨日の憎悪の残りが、わずかに見えた。
「ご機嫌うるわしゅう、リゼット様」
「……ご機嫌うるわしゅう、ソフィア様」
「本日は、お詫びに参りましたの」
「お詫び?」
「昨日、神鏡に、私のあのような姿を晒してしまい、あなたを巻き込む形になりましたわ。新聞各紙が、あなたと私を並べて記事にしているとか」
「……あら、そうでしたの」
私は朝刊しか読んでいなかった。
夕刊では、続報が出ていたらしい。
ソフィアは、扇を開いて、口元を隠した。
「お詫びと言ってはなんですが、こちらを」
彼女が差し出したのは、小さな菓子折りだった。
王都で評判の菓子店のものだ。
「焼き菓子ですわ。あなた、お好きでしょう?」
「……ありがとうございます」
私は受け取った。
マリーが脇から、すっと手を伸ばして、菓子折りを受け取って、下がった。
ソフィアの目が、菓子折りを追った。
……あら?
今、彼女、菓子折りを目で追ったわね。
渡したものなのに、なぜ目で追うのだろう。
私の中で、警報が鳴った。
コスパの悪い疑念だが、念のため、確認しておくべき種類の疑念だ。
「ソフィア様。お茶をお出ししますわ。少し、お話を伺っても?」
「ええ、もちろん」
私は、応接間に、改めて場を整えた。
マリーに目配せをして、菓子折りを「あの方法」で処理してもらった。
――「あの方法」とは、毒見役の老犬ロロに、菓子をひとかけ食べさせることだった。
我が家には、過去に他家からの嫌がらせがあった経験から、毒見役の老犬がいる。
コスパは悪いが、保険として機能する。
私は紅茶を運びながら、ソフィアと当たり障りのない会話をした。
社交界の様子、新聞の論調、最近の天候。
ソフィアは、しきりに「あの焼き菓子は美味しいですから、ぜひ召し上がって」と勧めてくる。
……ふむ。
マリーが、応接間の扉の隙間から、私に小さく頷いた。
――ロロが、痺れて動けなくなったらしい。
ああ、毒。
まあ、そんな気はしていた。
私は、紅茶のカップを置いた。
そして、ちらりと、自分の左手を見た。
――今のところ、紋章は光っていない。
だが、ヴェリタス様は気まぐれだ。
いつ光ってもおかしくない。
そして、もしも、この瞬間に光ったら。
ソフィアが、私に毒入りの菓子を勧めている姿が、神鏡に映る。
王都中央広場、五分間。
……これは、待ったほうがいいかしら。
私は、コスパを計算した。
待つメリット:ソフィアの完全な失墜。彼女の家ごと、社交界から消える。
待つデメリット:ヴェリタス様が今日に限って発動しなかった場合、私が彼女の毒殺未遂を告発するのに、証拠が少ない。
計算した結果――。
ヴェリタス様、信じています。
私は、ソフィアに向かって、にっこりと微笑んだ。
「ソフィア様、せっかくですから、頂きますわね」
「ええ、ぜひ」
私は、菓子折りに手を伸ばした。
焼き菓子をひとつ、つまんだ。
口元に、ゆっくりと運ぶ。
ソフィアの目が、これ以上ないほど、爛々と輝いた。
――その、瞬間。
私の左手の甲が、金色に光った。
ソフィアの左手の甲も、光った。
――出ましたわね、ヴェリタス様。
私は、菓子を持つ手を止めた。
そして、ソフィアの顔を、まじまじと見た。
ソフィアの顔は、歓喜と、憎悪と、計算高い悪意で、完全に歪んでいた。
三秒。
ヴェリタス様、ありがとう。
紋章の光が、消えた。
ソフィアが、はっと、自分の手を見た。
そして、私の手を見た。
そして、自分の顔を、両手で覆った。
「……ぁ」
短い、声にならない声が、彼女の口から漏れた。
私は、菓子を、お皿の上に、そっと置いた。
「ソフィア様」
「……」
「この焼き菓子、ロロが先に食べてしまいまして」
「……ろろ?」
「うちの毒見役の老犬ですわ」
「……っ」
「今、応接間の隣で、痺れて動けなくなっておりますの」
ソフィアの顔が、見たことのない速度で、白くなった。
「お代わりは、また今度にいたしましょう」
私は、にっこりと微笑んだ。
これが、私の人生で、最も労力を込めた微笑みだった。
* * *
翌朝の《社交新報》一面。
「ベルティエ侯爵令嬢、モンフォール公爵令嬢に毒入り菓子を献上か――《ヴェリタス》の鏡が捉えた歓喜の表情」
ベルティエ侯爵家は、その日のうちに、王都から退去した。
二度と、社交界に戻ることはなかった。




