第三幕 冷徹辺境伯は、素のままの令嬢を見つけた
翌朝。
私は、屋敷の応接間のソファに寝転がって、昨日読みかけだった恋愛小説の続きを開いていた。
朝の陽射しが、レースのカーテン越しに柔らかく落ちている。
サイドテーブルには温かい紅茶と、焼きたての蜂蜜パイ。
最高の朝だ。
――昨日のことは、もうほとんど忘れていた。
厳密に言うと、ソフィア令嬢が憎悪の顔を晒した件は、《社交新報》の朝刊一面を飾っていたので、忘れようがなかった。
父が朝食の席で「あの娘は終わったな」と新聞を畳んでいた。
でも、ノルディア卿のことは、忘れていた。
隣に座って、クッキーを一枚、無言で食べて、無言で立ち上がって、無言で去っていった人。
会話らしい会話もなかった。
ただ、別れ際に「貴殿のような令嬢が王都にいるとは思わなかった」と一言だけ言って、去っていった。
それだけのことだ。
……それだけのことなのだが。
「お嬢様」
マリーが応接間の扉を開けて入ってきた。
顔色がおかしい。
「どうしたの、マリー」
「……ノルディア辺境伯閣下が、いらっしゃいました」
「あらそう」
さくっ、と、私は蜂蜜パイをひとかけ齧った。
「……お嬢様」
「なに」
「ノルディア辺境伯閣下が、いらっしゃっているんですよ」
「聞こえたわ」
「お父様のところではなく、お嬢様にお会いになりたいと」
「あら」
私はぱたんと本を閉じた。
そして、ソファから上半身を起こした。
「……何のご用かしら」
「『昨日のクッキーの礼を述べに来た』とのことです」
「……」
「お通ししても?」
「クッキー一枚に対して、わざわざ公爵家まで?」
「『北の辺境では、施しを受けたら必ず倍にして返す』とのことです」
「面倒くさい風習ね」
「お通ししても?」
「……仕方ないわね」
私はソファから立ち上がり、寝転がってよれたドレスの皺を、軽く手で伸ばした。
それから、髪も軽く撫でつけた。
……いや、待って。
私は今、何をした。
服を整えた。髪を整えた。
――取り繕った。
五年ぶりだ。
私が、誰かに会うために、自分の身なりを整えたのは。
私は自分の手を見て、少し驚いた。
それから、別にいいか、と思った。
コスパの計算は、状況によって変わる。
今、目の前にやってくる人物は、たぶん、ほんの少し身なりを整える程度の労力に、見合うだけの何かを持っている。
たぶん。
「閣下をお通ししなさい」
「かしこまりました」
マリーが下がってしばらくして、応接間の扉が開いた。
アルセン・ド・ノルディア辺境伯は、昨日と同じ黒い上衣を着ていた。
腰の剣はない。
代わりに、両手で、何かを抱えていた。
――木箱。それも、かなり大きい。
「クッキーの礼に参った」
彼は無表情のまま、そう言った。
そして、応接間のテーブルに、その大きな木箱を、どんと置いた。
「……これは」
「北の辺境で採れる蜂蜜と、それで焼いた菓子と、乾燥した果物と、白茶葉と、それから、ベリーの蒸留酒だ」
「……」
「クッキー一枚の倍量、と思って詰めた」
「ノルディア卿」
「うむ」
「これ、馬車一台分くらいありますわよ」
「クッキーは、貴重だ」
「いえ、貴重ではありませんわ。給仕の盆に山ほど積まれておりましたわよ」
「だが、貴殿が分けてくれた一枚は、貴重だった」
――。
……これは。
これは、何だろう。
私はソファに腰を下ろした。
彼にも向かいの席を勧めた。
彼はゆっくりと腰を下ろした。
マリーが紅茶を出して、下がっていった。
沈黙。
私は、紅茶を一口飲んだ。
アルセン卿も、紅茶を一口飲んだ。
沈黙。
……面倒くさい人だな、と私は思った。
五年ぶりに身なりを整えてまで会ったのに、会話のひとつもない。
これでは、コスパが悪い。
私は決めた。聞いてしまおう。
「ノルディア卿」
「うむ」
「単刀直入に伺いますわ。何のご用ですの」
アルセン卿は、紅茶のカップをソーサーに戻した。
そして、私を真正面から見た。
氷青の目。
だが、昨日よりも、わずかに熱を帯びている気がした。
「私は、五年前に、婚約を破棄した」
「……はい、存じております」
「相手は、社交界で『完璧令嬢』と謳われていた女性だった。だが、婚約してから一年で、彼女は使用人を蹴り倒し、私の友人に色目を使い、私の前では聖女のような微笑みを浮かべた」
「……」
「私は、人間の見せかけを、信用しなくなった」
アルセン卿の指が、カップの縁を、つ、と撫でた。
「だから、王都を離れた。辺境で剣を振っていれば、見せかけは関係ない。剣の腕は、嘘をつかない」
「ええ」
「《ヴェリタス》が降ったと聞いて、私は、笑った」
「……笑った?」
「ようやく神も、見せかけにうんざりしたか、と」
ああ、なるほど。
この人、わりと性格が悪い。
私は、少し、彼のことが好きになった。
「だが、今回王都に呼び出されて、私は確信した」
アルセン卿は、テーブルの上で、両手を組んだ。
「《ヴェリタス》が降っても、人間は変わらない。むしろ、見せかけを保とうとして、より醜く歪んでいる」
「ええ。私も同感ですわ」
「そんな中で、私は、貴殿を見た」
「……」
「神鏡に映る貴殿は、いつも同じだった。本を読んでいる。クッキーを齧っている。ソファに寝転がっている。広場の野次馬が笑っていた。『また平常運転だ』と」
「……お恥ずかしい限りですわ」
「私は、それを、美しいと思った」
――は?
私は、紅茶のカップを取り落としそうになった。
アルセン卿は、淡々と続けた。
「貴殿は、神の呪いの前で、何も変わらない。なぜか、と昨日、貴殿の隣に座って、考えていた」
「……」
「答えは、簡単だった。貴殿は、最初から、見せかけがなかったのだ」
「……それは」
「ベルティエ嬢に憎悪を向けられていた時も、貴殿の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。クッキーが美味いという顔だけが、本物だった」
「……」
「貴殿のような女性が、王都に存在することを、私は、五年前に知りたかった」
アルセン卿は、そこで、ふっと息を吐いた。
そして、
「単刀直入に申し上げる」
と、もう一度言った。
「リゼット・ヴァン・モンフォール公爵令嬢」
「……はい」
「私と、婚約していただきたい」
私の手から、紅茶のカップが、こと、と落ちた。
幸い、もう中身は飲み干していた。




