第二幕 真実は、ときどきクッキーより厄介だ
王宮の薔薇園は、相変わらず無駄に豪奢だった。
真っ白なテーブルクロス、銀の燭台、磨き上げられた水晶のグラス。
庭師たちが何時間かけて整えたのか想像もつかない薔薇のアーチ。
それを背景に、令嬢たちが見せかけの笑顔で扇を揺らしている。
もっとも、その「見せかけの笑顔」は、以前よりずいぶん引きつっている。
当然だ。
いつ自分の手の甲が光って、自分の素の表情が広場に投影されるかわからないのだから。
笑顔のまま固まっている令嬢、おしゃべりの途中でちらちらと手の甲を確認する令息、開いた扇の陰で目だけ泳がせている婦人。
――滑稽だ。
私はそう思いながら、薔薇のアーチの下のベンチに腰かけ、給仕から取ったクッキーを齧った。
さくっと音がした。
バターの香りがする。悪くない。
「……モンフォール公爵令嬢」
声がして、顔を上げた。
そこに立っていたのは、噂のソフィア・ベルティエ侯爵令嬢、その人だった。
金色の縦ロール、深紅のドレス、扇の縁取りには小粒のダイヤ。
三か月前までは「淑女の鑑」と謳われ、社交界の中心にいた令嬢だ。
ただし、現在のソフィアの評判は、もう一文字も残っていない。
二か月前、彼女の左手甲が光った瞬間、神鏡には、メイドの頬を扇でしたたかに打ち据えている彼女の姿が映った。
その三日後、今度は第二王子と、宮殿の奥まった廊下で密会している姿が映った。
第二王子は別の令嬢と婚約中だった。
二連続の暴露を喰らって、ソフィアは社交界の表舞台から消えた――はずだった。
「あら、ソフィア様。お久しぶりですわね」
私は口の中のクッキーを飲み下してから、最低限の敬語で挨拶した。
それ以上の感情を込めるのはコスパが悪い。
ソフィアの目が、ぴくりと細められた。
「……ご機嫌うるわしゅう。モンフォール公爵令嬢におかれましては、《ヴェリタス》の御世にあっても、変わらぬご様子で何より」
「ええ、変わらず面倒くさく過ごしておりますわ」
「……」
「あら、何か」
「いえ。ただ、あなたが園遊会にいらっしゃるなんて、珍しいと思いまして」
ソフィアの扇が、ゆっくりと開かれた。
扇の陰から覗く目に、明確な敵意がある。
ああ、面倒くさい。
私は内心でため息をついた。
彼女が何を考えているかは、だいたい察しがつく。
彼女は失った。私は失っていない。
それだけで、彼女には十分な動機になる。
だが、それを口に出して指摘するのも、また、コスパが悪い。
「お父様の厳命ですの。出ろと言われたから出ただけですわ」
「……お父上の」
「ええ。私自身は、家のソファで本を読んでいたかったのですけれど」
「……」
ソフィアの扇が、ぱちん、と閉じられた。
「リゼット様」
「はい」
「あなた、《ヴェリタス》が降ってからも、なぜそんなに平然としていられるのですか」
直球で来た。
私はクッキーをもう一枚、皿から取った。
「平然というか」
さくっ。
「私、晒されて困ることが、特にないんですの」
「……は?」
「化粧してませんし、猫被りもしてませんし、誰かを陰で虐めたこともありませんし、密会する相手もおりませんし」
さくっ、さくっ。
「強いて言えば、今クッキーを食べている姿が映ったら、お行儀が悪いと父に叱られるかもしれません。それくらいですわ」
ソフィアの顔から、表情が抜け落ちた。
扇を握る手が、震えている。
――ああ、しまった。これは怒らせた。
私は別に、彼女を煽るつもりはなかった。
事実を述べただけだ。
だが、失ったばかりの人間に「私は失うものがない」と告げるのは、たとえ事実でも、刃物より鋭い。
これがコスパが悪いというやつだ。
社交辞令を覚えていないと、こういう事故が起きる。
私はクッキーを飲み下し、ベンチから立ち上がろうとした。
――その瞬間。
視界の端で、金色の光が瞬いた。
ソフィアの左手の甲が、光っている。
そして、私の左手の甲も。
私たちだけではない。
周囲の令嬢、令息、給仕、楽団――園遊会に集まったすべての人間の左手が、同時に金色の紋章を浮かばせていた。
これは、ヴェリタス様、たまにやる「広域同期発動」だ。
通常は一日一回ランダムだが、月に一度、全国民の手が同時に光る。
神様の気まぐれだろう。
だが、今この瞬間に発動するのは、最悪のタイミングだった。
なぜなら、ソフィアは今、まさに私を睨みつけていたから。
三秒。
ソフィアの表情が、私の脳に焼き付くようにそこにあった。
――憎悪、嫉妬、屈辱。
それらが綯い交ぜになった、社交界では絶対に晒してはならない顔。
三秒が過ぎた。
紋章の光が消えた。
ソフィアが、はっと我に返って、扇で顔を覆った。
だが、もう遅い。
神鏡には、もう投影されている。
広場の野次馬が、今この瞬間、彼女のあの顔を見ている。
「……っ」
ソフィアは、青ざめた顔のまま、無言で踵を返した。
ドレスの裾を翻し、薔薇のアーチを抜けて、人混みの向こうへ消えていく。
残された私は、まだ手に持っていたクッキーを口に運んだ。
さくっ。
――ところで、私は今、何が映ったのだろう。
私はぼんやりと考えた。
たぶん、いつも通り、クッキーを齧っている姿が映ったのだろう。
広場の野次馬は今日も笑っているだろうな。
「平常運転だ」と。
私はベンチに座り直して、二枚目のクッキーを取った。
「――そなたが、モンフォール公爵令嬢か」
声がした。
低い。男の声だ。
顔を上げた。
そこに立っていたのは、銀の髪を肩で揃えた、長身の男だった。
氷青の目。整った顔立ち。
だが、その表情には、温度というものが一切なかった。
軍服に近い意匠の黒い上衣に、銀の肩章。腰には剣。
社交場には不釣り合いな佇まいだが、誰もそれを咎めようとしない。
咎められるような者ではない、ということを、その立ち姿が物語っていた。
――辺境伯ノルディア卿。
私は名前を思い出した。
北の辺境を守る武人。
五年前に婚約破棄騒動を起こして以来、王都を避けていると噂の、冷徹有能枠。
なぜ、この人が、私を見下ろしているのだろう。
「……はい、リゼット・ヴァン・モンフォールでございます」
私は座ったまま、最低限の挨拶をした。
立ち上がるのは面倒だったし、彼の目は、立ち上がらせて品定めしたいという種類の視線ではなかった。
むしろ、彼の目は、私が立ち上がらないことそのものを、観察していた。
「今、神鏡を見てきた」
「はあ」
「広場の」
「はあ」
「そなたの姿が映っていた」
「いつものことですわね」
「クッキーを齧っていた」
「いつものことですわね」
「隣にベルティエ侯爵令嬢がいた。彼女の顔は、憎悪に歪んでいた。そなたを睨みつけていた」
「……はあ」
「だが、そなたの顔は、何の感情も浮かべていなかった」
アルセン辺境伯――ノルディア卿は、そこで一度言葉を切った。
そして、ほんの少しだけ、首を傾けた。
「クッキーが、美味いか?」
「……はい?」
「クッキーが美味いという顔をしていた」
私はクッキーを見た。
それから、ノルディア卿の顔を見た。
「……バターの香りが、悪くなかったので」
「そうか」
彼は、それ以上は言わなかった。
だが、私を見下ろす氷青の目が、ほんのわずかに、ほんのわずかに、和らいだ気がした。
――あら。
なんだろう。
この人の視線、悪くない。
化粧をしているか、表情を作っているか、品定めしようとしているか――社交場でいつも投げかけられる、あの値踏みする視線ではない。
ただ、私が「クッキーを美味そうに食べていた」という事実を、面白がっている目だ。
私は、二枚目のクッキーを差し出した。
「召し上がりますか? ノルディア卿」
彼は、一瞬、面食らったような顔をした。
それから、
「……いただこう」
そう言って、彼は薔薇のアーチの下で、私の隣に腰を下ろしたのだった。




