第五幕 平常運転のまま、幸せになりました
ベルティエ家の没落から、三日後。
私は、辺境伯ノルディア卿に、返事を出した。
文面は、短かった。
『拝啓 ノルディア卿
婚約のお話、お受けいたします。
ただし、一点、確認させてくださいませ。
北の辺境では、社交界の付き合いは、ございますか?
リゼット・ヴァン・モンフォール』
翌々日、返事が届いた。
こちらも、短かった。
『拝啓 モンフォール公爵令嬢
北の辺境に、社交界は存在しない。
あるのは、雪と、剣と、蜂蜜と、本である。
貴殿の好きなだけ、ソファで寝転がって過ごされたい。
アルセン・ド・ノルディア』
――即決。
私は、その手紙を、生涯大切に持つことを、その場で決めた。
* * *
婚約式は、簡素なものだった。
王宮の小さな祭壇の前で、両家の家族と、立会人の聖職者だけが見守った。
大々的な披露宴は、私が「コスパが悪いから嫌」と断った。
アルセン卿も「同感だ」と頷いた。
私はドレスを着た。
最低限の化粧をした。
髪も整えた。
五年ぶりに、ちゃんと「飾った」。
だが、それは、見せかけのためではなかった。
隣に立つ、銀髪の冷徹そうな男に、私の覚悟を、ほんの少し、見せたかったから。
――この人のためなら、化粧の一時間も、コスパが合う。
そう、思ったのだった。
婚約の誓いを交わした、その瞬間。
私の左手の甲が、光った。
アルセン卿の左手の甲も、光った。
神鏡に、私たちの姿が映る。
三秒。
五分間の投影。
王都中央広場の野次馬たちが、その日、神鏡で見たものは、こうだったらしい。
――黒い上衣の冷徹そうな辺境伯が、隣に立つドレスの令嬢に向かって、わずかに口元を緩めて、優しい目をしていた。
――そして、その令嬢は、誓いの場であるにもかかわらず、片手にこっそり持っていたクッキーを、口の端で齧っていた。
――令嬢の顔は、ものすごく、満足そうだった。
翌朝の《社交新報》一面の見出しは、こうだった。
「《ヴェリタス》の御前にて――真実の婚約、ここに成立」
* * *
ベルティエ家が消えた後、社交界では、奇妙な現象が起きた。
完璧であろうとしていた令嬢たちが、次々と、化粧を薄くし始めた。
猫被りをやめ、社交辞令を最小限にし、コルセットを緩めて呼吸を整え始めた。
「モンフォール公爵令嬢のように」
「飾らないことが真実なのだ」
と、そう言いながら。
私は、それを、辺境への嫁入りの馬車の中で聞いた。
聞いて、思った。
――真似しなくていいのに。
――私はただ、面倒くさかっただけよ。
だが、口には出さなかった。
出すのが、コスパが悪かったから。
馬車の隣の席で、アルセン卿が、私の手をそっと握っていた。
私は、その手を握り返した。
北の辺境までは、まだ、五日かかる。
五日間、馬車の中で、ソファ代わりに寝転がって、本を読んでいよう。
ヴェリタス様、ありがとう。
あなたの暇つぶしのおかげで、私は、私のままで、幸せになりました。
――今日も、たぶん、神鏡には、馬車の中でクッキーを齧る私の姿が映るのでしょう。
――広場の野次馬たちは、笑うのでしょう。
「今日も平常運転だ」と。
ええ、平常運転です。
だって、私、面倒くさがりですもの。
――了




