第3話 拉致された先は殿下の城
馬車が速度を落とした。
「エリーゼ嬢、着いたよ」
殿下の優しい声が耳元で囁いた。
着いた、ってどこに。ゆっくり目を開けて、馬車の小窓から外を覗く。
見たことのない深い森。その奥に、白い石造りの品のいいお城が、夕暮れの中に佇んでいた。王宮ほどは大きくない。それでいて貴族のお屋敷よりはずっと立派。夕日が白い壁を淡い金色に染めている。
ここ、いったいどこ。王都の外だろうか。私、馬車の中でどれくらい眠っていたのかしら。
殿下が口元を緩めた。
「ここはぼくの離宮。王宮の裏の森の中にあるんだ」
「は、はあ」
王宮の裏の森。……あ。そういえば、と前世の記憶が引っかかる。王宮の裏の森には、何代も前から使われていない忘れられた離宮がある、という設定だった。前世で地球で夢中になって読んだ女性向け小説『銀の王子と聖女の終わりなき悲恋』。その序章に、確かこう書いてあった。「王宮の北の森に、ひっそりと誰も使わなくなった、古の離宮が佇んでいた」、と。
──あ、そうだわ。あの忘れられた離宮は、ルーカス殿下の住まいだったのね。
原作ではルーカス殿下が亡くなって、誰も住まなくなって忘れられていた、ということだったのか。けれどこちらの世界では、殿下は生きている。だから引き続き、殿下が住んでいる、というわけね。
つまり私、ヴァルトハイム侯爵令嬢エリーゼは、世間の目には行方不明、ということになる。お父様、お母様、安心して。私、ちゃんと無事に生きております。
◇◇◇
馬車が停まった。殿下が先に馬車を降りる。
馬車の前、離宮の玄関ホールの扉の手前に、白髪の執事長と年配のメイド頭、そして若いメイドが十人以上、ずらりと整列して私たちを出迎えていた。殿下の帰還と私の来訪は、先回りの早馬でしっかり伝達済みらしい。全員、白いエプロンに銀のトレイを片手に、ぴしっと姿勢を正している。
「殿下、お帰りなさいませ」
「エリーゼ嬢、ようこそお越しくださいませ」
全員の声がぴったり揃って、夕暮れの森に響いた。
メイド総出の、王宮レベルの歓迎。……私の来訪まで、これも伝達済みなのね。
執事長とメイド頭が、馬車から降りた殿下に深々と頭を下げる。殿下は執事長に軽く頷いた。
「ああ、エリーゼ嬢はぼくの婚約者だから」
「執事長、お部屋はいつもの、東棟の角部屋で」
「かしこまりました」
執事長とメイド頭がお互いに目を見合わせて、意味ありげに頷き合った。若いメイドたちはぱぁっと頬を染める。
こ、こ、婚約者ーー!? まだ何ひとつ了承していないのに、外堀だけがしっかり埋められていく。ま、まずい。それに「いつもの」東棟の角部屋、とはどういうことだ。いつも、ということはつまり、ここにはいつも若い女性が滞在している、ということ? 王族の第二王子、二十歳、絶世の美貌。これまで何人のご令嬢が、ここに招かれてきたのやら。
──執事長とメイド頭の、あの意味ありげな頷き、見逃しませんからね。
そっかー、殿下、女性に慣れていらっしゃると。
メイド頭がしずしずと奥に下がっていく。殿下が馬車の中の私に振り返って、両手を差し伸べた。私はおずおずと殿下の手を取る。
「は、はい」
その瞬間、殿下の両手が私の腰にしっかり回された。そしてふわりと、私を馬車から抱き上げる。
──!
お姫様抱っこ。街道で助けられた時に続いて、本日これで二度目。第二王子殿下にこうして抱き上げられる貴族令嬢、エリーゼ・ヴァルトハイム。しかも今度は、執事長とメイドたちの目の前で。
「で、殿下、自分で歩けます」
「君は命を狙われたばかりだから」
「心身ともに疲労しているはずだから、無理をしなくていい」
「いいから、ぼくに任せて」
殿下の腕の中、私の身体はぴったり殿下の胸板に押し付けられていた。仄かな白檀の香り。男の人の体温。しっかりとした剣士の腕の力強さ。
心臓、もたない。
殿下が私の耳元に唇を寄せた。
「これは新婚の夫婦がやること、らしいよ」
「花嫁が自分の足で敷居を跨いだら不吉、という古い言い伝えだ」
「で、殿下、まだ婚約者でもありませんのに」
「対外的には婚約者、と、たった今宣言した」
殿下が口元を緩めた。そして私を抱き上げたまま、離宮の正面玄関へゆっくり運んでいく。足元の白い玉砂利が、夕日に淡く光っていた。
見られてる。執事長にも若いメイドたちにも、ぜんぶ見られてる。私、たった今、貴族令嬢としての品位を、ぜんぶ失いました。こ、これは恥ずかしい。……けれど確かに、婚約者ということにしておいた方が安全ではある。私の家名を守るためにも。
私は抱えられたまま、殿下の胸の中でおずおずと見上げた。殿下が私に微笑む。
「すべてはお部屋でゆっくりお話しよう」
「は、はい」
殿下は私をそのまま、優雅にエントランスホールへと運んでいった。
◇◇◇
離宮の中は静かで清潔で温かかった。廊下には白い大理石の床と深紅の絨毯。壁には銀の燭台と繊細な薔薇の彫刻。
東棟のいちばん奥。殿下が白い扉を開けた。
「ここが君の部屋だ」
私はまだ腕の中に抱かれたまま、扉の向こうのお部屋を覗き込んで、思わず息を呑んだ。
広い、明るい、女性向けのお部屋。天井からは繊細なクリスタルのシャンデリア。窓辺には淡い水色のレースのカーテン。中央には天蓋付きの白いベッド。シーツは絹に薔薇の刺繍。壁は薄紅色の上品な壁紙。化粧台には銀の鏡と、王国でも一流の香水瓶のコレクション。
──けれど私の目は、お部屋の真ん中で深々と頭を下げる人物に釘付けになった。
ハンナ!? 今この瞬間もヴァルトハイム侯爵邸にいるはずの、私の専属メイド、ハンナ。それがなぜ、こんな森の奥の離宮に。いつの間に、屋敷からここまで来たの。
「殿下、お部屋のご準備、整ってございます」
殿下が私を抱えたまま、お部屋に入り、白いベッドの傍まで私を運んだ。そして絹のシーツの上に、そっと私を降ろしてくれる。
「殿下、自分で座れます」
殿下は私の隣に、ベッドの縁に腰を下ろした。近い、近い、近い。殿下の長い指が、私の手を取る。
「エリーゼ嬢、落ち着いて聞いて」
「は、はい」
「君はまだ命を狙われているかもしれない」
「えっ」
「ぼくの密偵から報告が上がっている。だから君を、ヴァルトハイム侯爵邸に帰すわけにはいかない」
「お、お父様とお母様は」
「お父様にはすでに、密書で状況をお伝えした」
「なるほど」
「ぼくの離宮であれば、外部に君の滞在が知られることはない」
「は、はい」
「けれど若い貴族令嬢が、王族の離宮に長期滞在する。それをただの『お客様』では、君の名誉が守れないだろう」
「だから対外的には、婚約者として扱う」
「大丈夫。うちのメイドは口が堅い。離宮の外に君のことが漏れる心配はない」
殿下が私の頬を撫でた。
「エリーゼ嬢、ごめんね」
「えっ」
「こんな強引な方法を取って」
「殿下」
「けれどこれが、ぼくにできる君を守るための最善の方法なんだ」
殿下の空色の瞳が、夕日の光に淡く揺れていた。その目には何の迷いもない。
お父様もお母様も了承済み。私の身の安全のため、私の名誉のため。この混乱した頭でも、確かにこれが最善だと納得するしかなかった。
「殿下、はい、納得いたしました」
殿下の口元が緩む。
「ありがとう」
「で、殿下、いつからこんなご準備を」
「いずれゆっくりお話しする」
「殿下、もしかして私が襲われる可能性を、ご存知だったのですか」
殿下がにこりと笑った。
「今はゆっくり休んで」
答えになってない。……けれどその笑顔、反則だ。
殿下が私の額に、軽く唇を押し当てた。そしてベッドの脇に控えていたハンナに声をかける。
「ハンナ、エリーゼ嬢の身の回りのこと、頼んだよ。お風呂に入れてあげて」
「かしこまりました、殿下」
「夕食は客間で、ぼくとご一緒しよう」
殿下はそのままお部屋を出ていった。
◇◇◇
ハンナがベッドの脇まで寄ってきた。
「お嬢様、改めましてご無事のご到着、心よりお慶び申し上げます」
「は、はい。ハンナ、いつの間にこちらに?」
「お嬢様より一足早く、殿下のご使者からお話を伺いまして。お父様お母様にもご了承いただき、私もお身の回りのご支度を整えるべく、別の馬車でこちらに参じました」
ハンナ、先回りで。しかもお父様お母様の了承の上で。
「お嬢様のご家族にはすでに、殿下より密書でご状況をご連絡済みでございます。ご安心くださいませ」
「なるほど」
それにしても、ハンナまで先回りとは。しかも、お父様とお母様の了承の上で。私の知らないところで、すべての段取りが、着々と進んでいたらしい。……まあ、いい。今日はもう、なにも考えられない。
「お嬢様のお身の回り品はすべて、こちらの離宮でご準備いたしました。湯浴みのご準備も整っております。本日はお疲れでございましょう。まずはゆっくりお流しくださいませ」
「ありがとう、ハンナ」
「ではお湯加減を整えて参ります」
「あの、ハンナ」
「はい、お嬢様」
「ハンナのお部屋は」
「はい、私のお部屋はお嬢様のお部屋のすぐ隣でございます」
「えっ、隣?」
「はい、何かございましたらお声がけくださいませ。すぐにお参りいたします」
ハンナのお部屋、私の隣。なんという徹底ぶり。いえ、徹底ぶりというよりは。もしかして私が夜中にこっそり逃亡しないように、見張り、ですか?
ハンナは深々と頭を下げて、湯殿の方へ下がっていった。
◇◇◇
扉がぱたんと閉まった。私はふらふらとソファに座り込んだ。
ハンナが湯殿の方から戻ってくる。
「お嬢様、湯浴みのご準備が整いました。こちらへどうぞ」
ハンナがテキパキと、私を湯殿へ導いた。湯殿には薔薇の入浴剤、ラベンダーの石鹸、柔らかい白い湯上りタオル。ぜんぶ王都一流の極上品である。……はぁ。お風呂、最高。
湯浴みを済ませると、ハンナがクローゼットを開いた。中には十着もの新品の上質なドレスが、ずらりと並んでいる。
これ、ぜんぶ新品!?
「お嬢様、こちらのクローゼットのドレスはすべて、王都一流の仕立て屋から新品でお取り寄せしてございます」
「えっ、新品で?」
「はい、お嬢様のお好みに合わせて、淡い水色、薄紅、白を中心に十着ご用意してございます」
十着もの上質な新品のドレス。それぜんぶ、私のために。
「本日はこちらの、淡い水色の絹のドレスはいかがでしょうか。お嬢様のお肌によくお似合いになります」
「ありがとう、ハンナ」
ハンナがテキパキと、私のドレスを整え、髪を結い上げてくれた。化粧台の鏡の中には、淡い水色の絹のドレスに夜会用の上品な髪型の私が映っている。サイズもぴったりだ。ハンナがサイズを殿下に伝えたのかしら。……誰、これ。いえ、私です。けれども。
「お嬢様、本当にお美しいです」
「ありがとう、ハンナ」
「では客間にご案内いたします」
ハンナが扉の前で、深々と頭を下げた。
◇◇◇
客間の暖炉の前。ソファに殿下が優雅に座っていた。私が入ると、殿下はゆっくり立ち上がって私を出迎える。
「エリーゼ嬢」
「殿下」
殿下の長い指が、私の手を取った。そして向かいのソファに、私をエスコートしてくれる。暖炉の火がぱちぱちと、優しく燃えていた。
ハンナと若いメイドたちが、夕食を運んでくる。白い陶器の皿に、湯気の立つ温かいスープ、焼きたてのパン、彩り豊かなお肉料理。……王宮レベルの夕食である。
殿下が私に微笑んだ。
「エリーゼ嬢、お腹が空いたね」
「は、はい」
「ゆっくりいただこう」
殿下と向かい合って、静かに夕食をいただく。会話は当たり障りのない、薬草の話、最近の王宮の流行の話。けれど殿下の空色の瞳が、ずっと私を見つめている。その視線の温度に、私の食欲は半減した。
ようやく夕食が終わった頃には、もうすっかり夜更けだった。
「エリーゼ嬢、今日はお疲れさま」
殿下の声が柔らかくなる。
「ゆっくりお休み」
「は、はい」
私はハンナに、お部屋まで案内されて戻った。
◇◇◇
お部屋に戻ってほどなく。殿下が東棟の角部屋に、また来た。私の身体はもう、ぐったりと力が抜けたままだった。
「エリーゼ嬢、ゆっくりお休み」
「は、はい」
殿下が私の枕元に片膝をついたまま、私の頬を撫でる。
「エリーゼ嬢、ひとつ伝えておきたいことがある」
「は、はい」
殿下の指が、私のお部屋の奥の壁の、一枚の白い扉を指し示した。
「あのドア」
「は、はい」
「あれを開けるとぼくの寝室に繋がっている」
待って。ということは。つまり私のお部屋は、殿下のお寝室の続き部屋。執事長とメイド頭の、あの意味ありげな頷き、これだったのか。いえ、「いつもの」若い女性が滞在するお部屋、まさか、まさか。
殿下が口元を緩めた。
「いつでもぼくの部屋に来ていいからね」
「夜中、寂しくなったら、ぼくがすぐ君の隣に行くから」
「いえ、大丈夫ですわ」
殿下が静かに笑った。そして私の額にもう一度唇を押し当てて、奥のドアから自分の部屋に戻っていった。
扉がぱたんと閉まる。
私は絹のシーツの上で、ぐったりと天井を見上げた。
つまり、こういうことだ。殿下はいつもこの東棟の角部屋に女性を滞在させて、続き部屋の白いドアから毎夜、自分の寝室と行き来している。だから私にも、馬車の中で二度も、客間でもう一度、あんなに慣れた手つきで深いキスをした。執事長とメイド頭の、あの意味ありげな頷き、これで確定。殿下、絶世の美貌の二十歳。二十歳まで女性経験のまったくない王族なんて、いるはずもない。そういうこと。
──いえいえ、私は別に嫉妬してません。別に、ぜんぜん。
ただ、ただ殿下には、本当に愛する方と結ばれてほしいの。私みたいな訳ありの悪役令嬢ではなく、清らかなご令嬢と。私は私で、いつか平民として自由に生きていく。それがお互いの幸せ。
うん。それでいい。決めた。いつか必ず、ここから出ていく。それが殿下の幸せのため、私の幸せのため。
こうして私の、離宮での軟禁生活が始まったのだった。




