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婚約破棄でやっと自由になれたはずなのに、 死んでるはずの殿下の妃にされそうです  作者: 葉月晴子


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第4話 離宮二日目、客間で殿下と二人きりのお茶会に招かれた件

朝。


絹のシーツに包まれて、私はゆっくりとまぶたを開けた。天蓋越しに淡い金色の光が頬をくすぐっている。


ここ、どこ。……あ、殿下の離宮。東棟の角部屋だ。


枕の隣に無意識に手を伸ばしかけて、私ははっとその手を引っ込めた。何を確かめようとしたの、私。


奥の壁の白い扉が、視界の隅に映る。その向こうは、殿下の寝室。そう思った途端、頬にじわりと熱が込み上げた。朝日のせい。そう自分に言い聞かせる。



◇◇◇



コンコンと、扉の向こうから控えめなノックの音。


「お嬢様、おはようございます」


ハンナの落ち着いた声。


「入って、ハンナ」


扉がすっと開いた。ハンナの両腕には、淡い薄紅色のレースがふんわりと重なっている。


「本日は客間で、殿下と朝食をご一緒に、と」


「客間で?」


「はい。殿下からのご指示でございます」


私はシーツを握りしめた。朝から二人きりの朝食。夫婦かしら。違う。婚約者でもない。けれど対外的には婚約者。じゃあ対内的には何なのだ。頭の中のつっこみがぐるぐる回って、答えが出ない。


「わかったわ」


私はベッドから降りた。



◇◇◇



湯浴みが終わった頃。ハンナが淡い薄紅色のドレスを私の肩にそっと当てた。


「淡い薄紅色でございます。お嬢様の肌によくお似合いになります」


「ありがとう」


化粧台の鏡に、見慣れない貴族令嬢が映っていた。社交界で見せる、刺すような目元の悪役令嬢じゃない。頬がほんのり上気した、柔らかい顔。


誰、これ。私のような気もするし、私じゃない気もする。


「では客間へご案内いたします」


ハンナのしずしずとした足音の後ろを、私はついて歩いた。



◇◇◇



客間の空気は、薔薇の鉢植えの香りで満たされていた。朝の光が白いレースのカーテン越しに斜めに差し込んでいる。中央のテーブルに白い陶器の皿が二人分。焼きたてのパン、卵料理、果物。湯気の立つ紅茶のポット。


ソファから殿下がゆっくりと立ち上がった。


「エリーゼ嬢、おはよう」


「殿下、おはようございます」


殿下が私の手を軽く取って、向かいの席までエスコートしてくれる。肌に触れる長い指の温度。殿下と私の間には、テーブルが一枚。ぎりぎり安全圏だ。


殿下が向かいに腰を下ろした。


「よく眠れた?」


「は、はい」


「ぼくの寝室の続き部屋に夜中来てくれたら、もっとよく眠れたのに」


朝から突き刺さる発言。私は紅茶のティーカップを口元に持ち上げて、半分顔を隠した。熱い液体をごくりと呑み下す。聞いてない。何も聞いていないことにする。


殿下の口元が、私の隠れ方を面白がるようにわずかに緩んだ。



◇◇◇



朝食を半分ほど食べた頃。ハンナがワゴンを押して入ってきた。ワゴンの上には白い陶器の新しいティーポット。その横に、見覚えのあるものが四つ。


──!


ティーカップを持つ私の指が、ぴたりと固まった。四つの小さなガラスの瓶。それぞれに、見覚えのある私の手書きのラベル。「春の花」「夏の風」「秋の月」「冬の雪」。


これ、私の店「森の小さな薬草店」の四季ブレンドだ。「春の花」なんて、今年、店で出したばかりの新作。なぜ王家直属の離宮の客間に、私のノヴァク村の小さな店のお茶が並んでいるの。


「で、殿下、これは」


「君に、淹れてもらえないか。そのほうが、ずっと美味しいだろうからね」


殿下が、空のティーポットと、四つの小瓶を、私の前へすっと押し出した。ワゴンの端では、銀の湯沸かしが、ほこほこと湯気を立てている。


──え。私が、淹れる。


いえ、でも。「貴族令嬢が、自ら茶を」と頭ではためらうのに、手のほうが、もう勝手に動いていた。「春の花」の小瓶の蓋を開け、香りをひと嗅ぎ。指先で、茶葉の乾き具合を確かめる。……うん、いい状態。お湯は、ほんの少し冷ましてから。蒸らしは、きっかり三分。


考えるより先に、身体が覚えている。何度も店でくり返してきた、いつもの手つき。気づけば私は、すっかりサラの顔で、てきぱきとお茶を淹れていた。


白い湯気とともに、馴染みのある春の香りが、ふわりと立ちのぼる。


「どうぞ」


淹れたてのお茶を、殿下のカップに注いで──そこで、はっとした。私、いま、完全に店主モードでしたよね。


殿下がティーカップを唇に運んだ。私も、震える指でそれに続く。口の中に、淡い芯のある春の味わいが、ふんわりと広がった。……我ながら、いい出来だ。


「美味しいね」


殿下がつぶやいた。


「は、はい」


「君が淹れるお茶は、いつ飲んでも美味しい」


──!


私の指が、ティーカップの取手からぴくりと離れた。ストップ、ストップ、ストップ。いま殿下、何と言った。君が淹れるお茶。いつ飲んでも。


私はティーカップをソーサーに戻した。陶器がかたんと軽い音を立てる。


「殿下、たった今何と」


「君が淹れるお茶は、いつ飲んでも美味しい」


殿下はもう一度、はっきりと繰り返した。それからテーブルにカップを置き、私の目をまっすぐに見つめる。その瞳に揺らぎはない。迷いもない。ただ絶対の確信だけが宿っていた。


「ノヴァク村のハーブティーの店『森の小さな薬草店』の店主、サラ嬢」


──!!!


肋骨の内側で何かが跳ねた。


「お久しぶり、と言うべきかな」


私はソファに貼り付いたまま、動けなかった。


「殿下、それは何のお話でしょうか」


私の声は震えていた。


殿下は答えずにゆっくりと立ち上がって、暖炉の前まで歩いていく。棚のいちばん上から、小さな手帳を取り出した。革表紙の、地味な薬草レシピノート。私の、紛れもない手書きのノート。


それ、店の納屋の奥の棚に隠しておいたはず。誰の目にも触れないところに。


殿下は戻ってきて、テーブルの上にノートをそっと置いた。


「ぼくは君のことなら、なんでも知っている」



◇◇◇



頭の中が白くなった。もう隠しても無駄だ。いえ、隠す隠さないの問題ではない。私には店がある。常連さんが待っている。


膝の上で両手をぎゅっと握りしめて、唇から震える声を押し出した。


「殿下、お願いがございます」


「うん」


「私、ノヴァク村のサラの店に戻るつもりでおりました」


「うん」


「常連さんたちが、新しい春のブレンドを待っておりますの」


「うん」


「うん」しか返事しない。この人、ぜんぶ知ってるのね。


「殿下、店に行かせていただけませんか。明るいうちに必ず帰って参りますわ」


殿下が私の頬に長い指を添えた。指先はあたたかいのに、その奥に、私を帰す気はない、という静かな意志が、はっきりと感じられた。


「だめ」


「えっ」


「君を離宮の外に出すことはできない。君は今、命を狙われている。一歩でもここを出たら、ぼくは君を守れない」


「店のことはぼくの方で手配する。常連さんたちには、店主のサラさんがしばらくご静養のためお休み、と貼り紙を」


「けれど」


「分かってくれ。君の命より大事なものは、この世にないからね」


殿下の声が低く、しっとりと響いた。


確かに、お父様から私の命を預かっている身だものね。私にもしものことがあったら、王家とヴァルトハイム侯爵家の責任問題になる。なるほど。殿下の王族としての責任感、立派なこと。……これ以上、店、店と駄々をこねるのは、王族の顔に泥を塗るようなもの。ここはおとなしく引き下がるしかない。



◇◇◇



殿下がソファから立ち上がって、私の隣に腰を下ろした。距離がぐっと縮まる。殿下の指が、私の顎を軽く持ち上げた。


「エリーゼ嬢」


「は、はい」


「君はぼくの特別な人だ」


「君を誰にも譲る気はない」


けれど、降りてきた殿下の唇は、私の唇ではなく、頬に、そっと触れた。


馬車の中の、あの口づけよりも、ずっと軽い。ずっと、優しい。


頬に押し当てられた、やわらかな熱。ふわりと、白檀の香りが、鼻先をかすめた。


たったそれだけなのに、私の背筋が、ぴくりと震えた。


顔から、火が出そう。


ようやく、殿下の顔が離れた。殿下の親指が、私の頬を、軽くなぞる。


「エリーゼ嬢、早くぼくのこと、好きになって」


「沈黙はイエス、と受け取るよ」


そ、そっかー。殿下、女性をこんな風に口説くの、慣れているのね。王族なら当然だわ。危なかったー。たった今、とんだ勘違いをしそうになった。本気にしてはダメ。私は修道院送りの悪役令嬢。殿下、私じゃなかったら勘違いしてしまいますわよ。……よし、心、落ち着いた。


「あ、あの、殿下。念のため、申し上げますけれど」


私は、できるだけ毅然と切り出した。


「私の沈黙は、ぜんぶ、ノーですので」


殿下が、ふっと、おかしそうに目を細めた。


「そう。じゃあ、これからは、ちゃんと声に出して言ってもらおうかな」


……うっ。藪蛇だった。


私の手が、ティーカップの取手を握りしめたまま、震えていた。殿下の親指が、私の鎖骨の上をもう一度なぞる。暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。


私の離宮二日目は、お茶会の名を借りた殿下の種明かしで、静かに幕を開けた。

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