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婚約破棄でやっと自由になれたはずなのに、 死んでるはずの殿下の妃にされそうです  作者: 葉月晴子


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第27話 結婚式前夜

婚約のご公布から半月が過ぎた。


その半月、王宮は結婚式の準備で動いていた。


宮廷の仕立て屋が、私の純白の絹のウェディングドレスを夜通しで仕上げてくれていた。襟元の銀の細い糸の五弁の星形の刺繍は、お姉様お二人が指でひと針ひと針入れてくれた。


王宮の薬草園では、薬草の守人のご老人が結婚式の日のために、聖樹の枝の先の星の形の花をひとひらだけ分けてくださることが決まっていた。


王都の各通りには、私たちの婚約の公布の布告書と結婚式の日の通達が貼り出されていた。


王国のすべての民が、明日の結婚式を待っていた。



◇◇◇



結婚式の前夜。


宮廷の奥の、白い私室。


普段は、国王陛下と王妃殿下がお休みの日に紅茶を召し上がる、いちばん私的なお部屋。聖女覚醒の後、王太子殿下の謝罪のお部屋、そして即位の儀の後の対話の場としても、私たちが何度も使った場所。


その白い私室を、本日の前夜のために特別に準備してくれていた。


白い大理石の床の上に、白い絹のクッションがふたつ。窓辺に、白い陶器のテーブル。テーブルの上に、淡い金色のハーブティーのポットと、白い陶器の小さな茶杯がふたつ。


蝋燭が、お部屋の四隅に四本。


私とルークは、お部屋の中央のクッションに向かい合って腰を下ろした。


ヴェラとフィンが、扉の外側に控えていた。お部屋の内側は、ルークと私のふたりだけ。



私の絹のドレスは、明日の結婚式のドレスではなく、淡い水色の、婚約者として最後の夜の装束。襟元の銀の刺繍。胸元の銀の星の花、銀の羽根、お母様のヴァルトハイム家のペンダント、そして指の銀の星の指輪。


四つの銀の星が、蝋燭の光の下で瞬いていた。


ルークの夜会服は、深い藍色。襟元と袖口に、王家の双頭の鷲の銀の刺繍。胸元に、王太子の徽章。


私たちはしばらく無言で、互いの瞳を見つめ合った。



◇◇◇



「エリー」


「はい、ルーク」


ルークの声が、いつもよりひと段深かった。


「明日、ぼくらは教会で、公式の誓いを立てる」


「はい」


「ぼくの十二年の見守りのすべてが、明日の朝、公式の、ぼくらの絆として、王国のすべての目の前で公示される」


「はい」


ルークの空色の瞳の、いちばん奥に、深い感慨が満ちていた。


「エリー、ぼくは今夜、君に、自分の十二年の、いちばん奥の独白をすべて伝えたい」


「はい、ルーク」



◇◇◇



「十二年前」


ルークの声が、しずしずと始まった。


「君が六歳。ぼくが八歳の春」


「王宮で、君が王太子兄上の婚約者として正式に紹介された、その日の朝」


「ぼくは、その日、君を、好きになった」


「好きに」


「うん。兄上の婚約者の君を、好きになってしまった」


──八歳の初恋。薔薇の茂みの裏で初めて私に会った、その日の朝のことだった。


「殿下、それは、いけない恋ですわ」


「うん。いけない恋だった」


ルークの口元が、わずかに緩んだ。


「八歳のぼくは、まだ、その気持ちに、どんな名前をつければいいのかも、知らなかった」


「けれど、君がぼくに、薔薇の茂みの裏で言ってくれた、『あなたは、あなたのままで、必要な人よ』というお言葉の、その温度を、ぼくは、自分の身体のいちばん深い場所で受けた」


「その温度が、ぼくの初恋になった」


「兄上の婚約者の君を、ぼくは、ずっと好きでいよう、と」



◇◇◇



「以来、十二年」


ルークの声が続いた。


「ぼくは、王宮に通う君を、廊下の影、図書館の窓辺、庭園の木陰から、自分の目で見守り続けてきた」


「君は、十二年、ぼくの存在を知らなかった」


「ぼくは、それでよかった」


「君が、王太子妃教育の階段を、自分の足で上っていく、その輪郭を、ぼくは、自分の目の奥に刻み続けていた」


ルークの空色の瞳が、私の目を、深く見つめた。


「君が、十一歳のある日、王宮のお茶会で、自分の手のひらの上に、薬草の小さな花を乗せて、嬉しそうに微笑んだ、その日」


「ぼくは、自分の胸の中で、十年後の結婚式の準備を始めた」


十一歳の私が、お茶会で薬草の小さな花を手のひらに乗せて嬉しそうに笑った、その顔。それを見たルークは、もう十年後の準備を始めていた。


「ぼくは、十年後の結婚式の準備、と、自分で決めていた」


「式の場所は、王都の中央の、いちばん大きな教会」


「準備のお花は、君が十一歳のお茶会で乗せた、薬草の小さな花の一輪を、必ず」


「式の朝、君を、ぼくのいちばん深い場所で迎える、その瞬間を、ぼくは、十年、描き続けていた」



◇◇◇



「ルーク、執着、すごい」


私の口から、勝手に言葉がこぼれた。


ルークが、わずかに首を傾げた。


そして、口元を優しく緩めた。


「うん。執着、すごい」


「ぼくは、自分の人生のすべてを、君のひとりに預けていた」


「明日の結婚式の朝、その十二年の準備が叶う」


「ぼくは、本日この夜、君の隣で、ぼくの十二年の、いちばん奥の独白をすべて伝える」


「君のすべてを知った上で、明日、公式の誓いを立ててほしい」



◇◇◇



私の喉の奥が、熱く詰まった。


ルークの長い指が、私の頬を、指の腹でそっと包んだ。


「ルーク」


「うん」


「貴方様の十二年の、いちばん奥の独白、私は、本日受けました」


「うん」


「明日、貴方様の隣で、公式の誓いを立てます」


「エリー」


「私は、貴方様の、ただひとりのお妃になります」


ルークの目尻に、薄く光るものが滲んでいた。



◇◇◇



ルークが、クッションから立ち上がった。


そして、私の前で片膝をついた。


「エリー」


「はい」


「本日この夜は、ぼくらの、公式の婚約者として最後の夜」


「はい」


「明日からは、ぼくらは夫婦」


「はい」


「今夜は、ぼくのそばでお休み」


ルークの長い指が、私の手を取った。そして、ゆっくり私を立ち上がらせた。


そして、自分の腕の中に引き寄せた。



◇◇◇



お部屋の奥の、白い天蓋付きのベッド。


ルークが、私の手のひらを取って、ベッドの方へ導いてくれた。


絹のシーツの上に、私を、しずしずと下ろした。


ルークが長い指で、私の絹のドレスの背中の絹のリボンを、ゆっくりほどき始めた。


リボンが、ひとひら、ふたひら、ほどけていく。


絹のドレスが、私の肩から、二の腕の輪郭の上を、ゆっくり滑り降りた。


純白の絹が、波のように、私の身体の輪郭を辿った。


「エリー」


「ルーク」


「ぼくの、いちばん奥の、ただひとりの、お妃」


ルークの唇が、私の唇に、深く降りてきた。



◇◇◇



長い、長い口づけ。


ルークの吐息が、私の口の中の、いちばん奥まで染み込んできた。


ルークの長い指が、私の頬から、首筋へ、ゆっくり辿った。


首筋から、鎖骨の窪みへ。


「ん」


私の喉の奥から、私も知らない、小さな声がこぼれた。


ルークの唇が、鎖骨の窪みに押し当てられた。


「エリー、ぼくの十二年の、すべての想いを、今夜、君に預ける」


「はい、ルーク」


ルークの長い指が、自分の夜会服のボタンを、ひとつずつ外した。


ルークの素肌の胸の真ん中に、二年前の毒の痕が、薄い銀色の線で、ぽつりと走っていた。


私の指が、無意識に、その薄い銀色の線の上に置かれた。


ルークの心臓の音が、私の指の腹の下で、とくん、とくんと、いつもより、ずっと速く走っていた。


「ルーク、本日の心臓の音は、いつもより、ずっと速い」


「うん。十二年、待ち続けていた、その夜の前夜、だから」



◇◇◇



ルークの唇が、私の鎖骨の窪みから、もう一段、下へ、ゆっくり滑った。


私の身体の芯の、いちばん奥が、熱を持ち始めた。


熱、というよりは、ぱっと、火花が、暗い場所ではぜている、感覚。


「ルーク、私の身体、灯りが、すべて、ともってしまう」


「うん。ぼくも、エリー」


ルークの長い指が、私の身体の輪郭を、ひとつひとつ、自分の指の記憶に刻み込むように辿った。


肩、二の腕、お腹、腰の輪郭。


「ぼくの、ただひとりの、お妃」


「はい、ルーク」


「明日からは、君は、ぼくの夫婦のお妃」


「貴方様の、お妻になります」



ルークの唇が、私の唇に、もう一度深く降りてきた。


絹のシーツの上で、絹と素肌が、ふっと混ざり合っていった。


蝋燭の光が、白い大理石の床の上を、ゆっくり、深い薔薇色に染め変えていった。


その薔薇色の薄闇の中で、私の身体の芯の、いちばん奥に、白い、白い、光がはぜた。


「ルーク」


私の声が、ルークの胸の中で薄く震えた。


そして、私たちの輪郭は、ふんわりとひとつに混ざり合っていった。



◇◇◇



月光が、ガラスの天井越しに、淡い銀色のひと膜を、絹のシーツの上にこぼしていた。


ルークの腕の中で、私の身体から、力という力が抜けていた。


ルークの長い指が、私の左の薬指の、銀の星の指輪を、ゆっくり撫でた。


「エリー」


「はい、ルーク」


「明日、この指輪の脇に、結婚指輪が、もう一輪、加わる」


「はい」


「銀の星の指輪と、結婚指輪が、君の左の薬指で並ぶ」


「はい」


ルークの唇が、私の薬指の上の、銀の星の指輪に押し当てられた。


「エリー」


「はい」


「ぼくの十二年の、いちばん深いお祈りが、明日、叶う」


「ありがとう、ルーク」


「ぼくの、ただひとりの妻」



◇◇◇



私はルークの胸の中で、ゆっくり目を閉じた。


ルークの心臓の音が、私の頬の骨を通して、脳のいちばん奥に、とくん、とくんと届いていた。


胸元の銀の星の花、銀の羽根、お母様のペンダント。


そして、左の薬指の、銀の星の指輪。


四つの銀の星が、月光の下で、同時に、ひと瞬きを返してきた。


五百年前の聖女様。明日、私は公式に、私の銀の王子のただひとりのお妻になります。貴方様が進めてくださった、その道の、いちばん深い場所で。



本日この夜、私は、婚約者として最後の夜を、ルークの腕の中で過ごした。


明日、私は、王国の新王太子の、公式のお妃になる。


私のいちばん奥の温度は、ルークの心臓の音のシーツの下で、十二年前の、薔薇の茂みの裏で会った、八歳の少年の初恋と繋がっていた。

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