第26話 婚約発表と結婚式の準備と
ルークの即位の儀式と、銀の星の指輪のプロポーズから、五日が過ぎた。
その五日間、王宮は新王太子と、王太子妃候補の婚約の公示の準備で、動いていた。宮廷の文官たちが、貴族への通達の文面を整え、近隣諸国への使者を選び、王都の各通りに掲示される布告書の文字を、夜通し書き写していた。
私はルークの離宮に戻って、宮廷の女官長と、結婚式の準備の打ち合わせを、毎日のように重ねていた。
──私が、結婚式の準備をする日が来るなんて。
──十二年前、ベッドの中で自由ライフ計画を組み立てていた六歳の私が、今の私を見たら、たぶん、椅子から転げ落ちる。
◇◇◇
六日目の朝。
朝食の席で、ハンナが銀のトレイの上に、二通の封書を運んできた。
「お嬢様、ヴァルトハイム家から、お姉様お二人それぞれより、お手紙でございます」
──お姉様お二人。
──リディアお姉様と、ソフィアお姉様。
私は震える指で、最初にリディアお姉様の封書を開いた。
『エリーゼ、
ご即位の儀、ご婚約のご公布、本当におめでとうございます。
明日、ヴァルトハイム家のお屋敷ではなく、わたくしのお屋敷で、ソフィアと三人だけのお茶会を、開きたいの。
結婚式のご準備のお話と、もうひとつ、わたくしどもからお伝えしたいことがあります。
ご都合がよろしければ、午後二時にお迎えに参ります。
リディア』
ソフィアお姉様の封書も、ほぼ同じ内容。
──お伝えしたいこと。
──姉妹のご加担の続き、たぶん。
「ルーク、明日の午後、お姉様のお屋敷で、姉妹三人だけのお茶会、と」
「いいよ」
ルークが紅茶のカップを置いた。
「君のご準備の打ち合わせは、宮廷の女官長と、午前のうちに済ませよう。午後は、ご家族のお時間に」
「はい、ルーク」
「フィンとヴェラを、ぼくの代わりに、お姉様のお屋敷の周辺に、配置する」
「ありがとう、ルーク」
──宰相が捕縛されて、ミラ嬢も連れ去られたから、もう街道での襲撃の心配はないはずなのに。
──ルーク、いつまでも、私の警備を緩めない。
◇◇◇
翌日の午後。
リディアお姉様のお屋敷。
王都の西の閑静な貴族街、伯爵家のお屋敷。
応接間ではなく、二階の小さな白い部屋。窓辺に三脚の白い椅子と、丸い小さなテーブル。テーブルの上に、ハーブティーのポットと、三つの白い陶器のカップ。
リディアお姉様とソフィアお姉様が、私を椅子の真ん中に座らせた。
「エリーゼ」
「はい、お姉様」
リディアお姉様のお声が、いつもの落ち着いた響きで、続いた。
「ご即位の儀、ご婚約のご公布、本当におめでとうございます」
「ありがとうございます、お姉様」
ソフィアお姉様も微笑んだ。
「貴女が、新王太子妃候補。わたくしどもの末の妹が」
「お姉様、私自身が、いまだに、夢の中のような気持ち、ですわ」
「夢ではないわ、エリーゼ」
リディアお姉様の指が、私の手のひらの上に置かれた。
「貴女がお選びになった道は、貴女の、十二年の準備の上に、立っている」
「ーー」
「わたくしは、貴女を、本当に、誇りに思います」
◇◇◇
ソフィアお姉様がカップを置いた。
「エリーゼ、わたくしどもから、貴女に、お伝えしたいことが、あるの」
「はい」
「ヴァルトハイム家のお祝いの席では、人前で、お話することが、できなかったのよ」
リディアお姉様も頷いた。
「わたくしどもは、半年前から、ルーカス殿下より口添えを頼まれていた、と、お祝いの席で、申し上げた」
「はい」
「けれど、本当のことを、申し上げると、わたくしどもが、殿下から口添えを頼まれたのは、半年前、では、ない」
──!
「お姉様、それは」
「十二年前。エリーゼ、貴女が六歳の頃」
リディアお姉様のお声が、深くなった。
◇◇◇
「十二年前、王宮で、貴女が王太子殿下の婚約者として、正式にご紹介された、あの日」
「はい」
「あの日、わたくしはまだ十六歳、ソフィアは十四歳。お屋敷で留守番をしていた」
「貴女が、お父様お母様と、王宮から、お屋敷にお戻りになった、その日の夕方」
ソフィアお姉様も続けた。
「その夕方、お屋敷の門の前に、若い、小さな、銀の髪の男の子が、お一人で、ぽつんと、お立ちになっていた」
「ーー!」
「銀の髪。空色の瞳。八歳の、ルーカス第二王子殿下」
──八歳のルーク。
──十二年前。
──ヴァルトハイム家のお屋敷の門の前に。
「殿下は、お屋敷の門の前で、深々と、わたくしとソフィアに、頭を下げられた」
「『エリーゼ嬢を、いつか、ぼくの腕の中で、お守りしたい。お姉様お二人にも、その時が来たら、口添えを、お願いしたい』」
「八歳の、お一人で、わたくしどもの屋敷の門まで、お訪ねくださって」
私の喉の奥が止まった。
──八歳のルーク。
──お一人で、屋敷の門まで。
──私と初めて、薔薇の茂みの裏で会った、その日の夕方に。
「わたくしどもは、最初は、信じられなかった」
リディアお姉様のお声が震えた。
「八歳の、お一人で、王宮から、ヴァルトハイム家のお屋敷まで、護衛もつけずに、お忍びで」
「『どうやって、ここに来たの』と、わたくしが、お尋ねした」
「殿下は、お答えになった」
「『近衛騎士の方が、ぼくを乗せてくださった。お父上には、お叱りを、覚悟して、ぼくが、一人で、決めた』」
ソフィアお姉様も続けた。
「わたくしは、その八歳のお顔と、ご決意のまなざしを、今でも忘れません」
「八歳の少年が、わたくしどもの妹の、十二年後の幸せを、もう、心に決めていらした」
◇◇◇
私の胸が、ぎゅっと詰まった。
──十二年前の、ルーク。
──私に、薔薇の茂みの裏で初めて会った、その日の夕方。
──八歳の身体で、王宮から私の屋敷まで、お忍びで来てくれた。
──そして、お姉様お二人に、十二年後の口添えを、頭を下げて頼んだ。
──十二年前から、私の未来を、胸の中で見据えていた。
「お姉様、私、知らなかった」
「ええ。わたくしどもも、その日のことは、貴女には、十二年、お伝えしなかった」
リディアお姉様のお声が続いた。
「殿下が、『エリーゼ嬢には、ぼくが自分の口でお伝えする日が来るまで、内緒に』と、お頼みになっていた」
「わたくしとソフィアは、その十二年、貴女が王宮に上がる時、王太子殿下とお茶会の時、いつも、指の中で、その秘密を、握りしめていた」
「半年前、殿下が、ご自分の口で、いざという時のお話を、わたくしどもの夫に、お送りくださった、その時」
「わたくしどもは、ようやく、十二年の秘密を、夫にだけ、お伝えした」
◇◇◇
私はリディアお姉様とソフィアお姉様に、深く頭を下げた。
「お姉様、お二人とも、十二年、私のために、指の中に、秘密を、お持ちくださって、ありがとうございます」
「いいえ、エリーゼ」
ソフィアお姉様が、私の手を、そっと握ってくれた。
「わたくしどもは、十二年、貴女の未来が、八歳の小さな男の子の決意の通りに、整うか、見守ってきたの」
「半年前、殿下からのお手紙が、夫宛に届いた、その瞬間、わたくしどもは、ようやく、貴女の十二年の行く先が、本当に整う、と確信した」
「そして、今日、貴女が、新王太子妃候補に、ご即位なさった」
「わたくしどもの、十二年の見守りが、叶った」
リディアお姉様の目尻にも、薄く光るものが、滲んでいた。
◇◇◇
「エリーゼ」
「はい、お姉様」
「結婚式のドレスのご相談を、わたくしどもと、進めない?」
リディアお姉様のお声が、少し明るくなった。
「わたくしとソフィアは、貴族のお妃のドレスの選び方については、わずかな経験はあります」
「ぜひ、お姉様」
ソフィアお姉様が、絹のハンカチの下から、何枚かの絹の見本を、取り出した。
「絹は、純白でいかが」
「襟元の刺繍は、銀の細い糸で、五弁の星の形に」
「ーー!」
「貴女の胸元の、銀の星の花と、銀の羽根と、銀の星の指輪と、お母様のヴァルトハイム家のペンダント、その四つの、銀の星に、お並びになるはず」
──私の身体に集まった、すべての、銀の星。
──結婚式のドレスにも、その模様が、織り込まれる。
「ありがとうございます、お姉様」
私の頬が、薔薇色に染まった。
◇◇◇
日が、ゆっくりと傾き始めていた。
リディアお姉様のお屋敷から、王宮への帰りの馬車。
馬車の中で、私の頭の中は、十二年前の、八歳のルークの姿で、いっぱいだった。
──八歳のルーク。
──一人で馬車に乗って、ヴァルトハイム家の門まで訪ねてくれた。
──お姉様お二人に、私の未来への口添えを、頼んだ。
──私が、その十二年後、新王太子妃になる、その日のために。
私の胸が、もう一度、熱くなった。
馬車が、王宮の離宮の馬車寄せに、停まった。
ルークが、玄関ホールの前で、私を待っていた。
「エリー、お帰り」
「ルーク」
私はルークの胸に、頭を預けた。
「お姉様お二人から、お聞きいたしました」
「お姉様、お話に、なったのか」
「はい」
ルークの空色の瞳が、わずかに翳った。
「ぼくは、自分の口で、君に、話すつもりだった」
「いつ?」
「結婚式の前夜に。ぼくの十二年の、すべての独白の、いちばん奥にある部分」
◇◇◇
私はルークの夜会服の襟元を、ぎゅっと握りしめた。
「ルーク」
「うん」
「八歳のお身体で、お一人で、お忍びで、私のお屋敷まで」
「うん」
「なぜ、そんなに、無謀なことを」
「無謀、ではなかった」
ルークの声が、優しく、続いた。
「ぼくは、十二年前の、薔薇の茂みの裏で、君と初めて会った、その日の昼、ぼくの胸の中で、決めていた」
「君を、ぼくの腕の中で、守る、と」
「八歳のぼくは、自分の意思を、すぐにお姉様お二人に、伝えたかった」
「明日になれば、ぼくの中の決意が、薄れるかもしれない」
「八歳のぼくは、その日のうちに、ぼくの決意を、お姉様お二人の、胸の中に、預けたかった」
「そうすれば、ぼくが、自分の気持ちを、忘れてしまっても、お姉様お二人が、ぼくの決意を、覚えていてくださる」
──八歳のルーク。
──自分の意思を、お姉様お二人に、預けた。
──十二年、ルークの決意を、お姉様お二人が、覚えていてくださる、と。
◇◇◇
ルークが、私の頬を、指先で、ゆっくり包んだ。
「エリー」
「はい」
「明日の午後、王宮の大広間で、ぼくらの婚約の公布が、公式に、執り行われる」
「はい」
「王国の貴族のすべての方々の前で、ぼくと、君の、婚約が、公示される」
「はい」
「その明日の、夜の前夜、ぼくらの最後の、婚約者としての夜が、深く染み込む夜になる」
ルークの声が、いつもよりひと段、低く震えた。
◇◇◇
その夜。
離宮の私のお部屋。
絹のシーツの上で、私はゆっくりと身体を沈めた。
天蓋越しの淡い月光が、私の頬の上に、ふんわりと降りていた。
奥の壁の白い扉が、コンと軽くノックされた。
「エリー、起きてる?」
ルークの低い声。
「はい、ルーク」
扉が開いた。
ガウンを羽織ったルークが、入ってきた。
ベッドの脇に、片膝をついて、私の頬を撫でた。
「エリー」
「はい」
「明日の婚約の公布の前に、ぼくは、君に、もう一度、自分の口で、伝えたい」
「はい」
「君を、十二年前の、薔薇の茂みの裏で、初めて会った、その瞬間から、ぼくは、自分の妃に、と決めていた」
「ルーク」
「明日からは、公式の婚約者として、ぼくの隣に、立ってくれる」
「はい」
「ぼくは、その瞬間を、十二年、待ち続けていた」
◇◇◇
ルークの唇が、私の唇に、深く降りてきた。
長い、長い口づけ。
ルークの吐息が、私の口の奥まで染み込んできた。
「ルーク」
「うん」
「明日、私は、貴方様の隣で、公式の婚約者として、立ちます」
「ぼくの、ただひとりの、お妃」
「貴方様の、ただひとりの、お妃」
ルークの長い指が、私の絹の寝間着の襟元の、銀の星の刺繍の上に置かれた。
そして、刺繍の中央を、ゆっくり、辿った。
「君の胸元の、銀の星の花、銀の羽根、銀の星の指輪、お母様のペンダント、明日の婚約の公布の場で、王国のすべての方々の前で、並ぶ」
「はい」
「ぼくは、自分の妃の、すべての銀の星を、王国のすべての目の前で、示す」
ルークの唇が、私の額に、深く押し当てられた。
その温度に、私の胸の奥に、明日への覚悟が、そっと染み込んできた。
◇◇◇
ルークの長い指が、私の頬から、首筋、鎖骨へ、ゆっくり辿った。
「エリー」
「はい」
「今夜は、ぼくの腕の中で、ぼくの心臓の音を、聞きながら、お休み」
「はい、ルーク」
ルークが、ベッドの上に、私の隣に身体を預けた。
そして、両腕で、私の身体を、後ろから抱き締めた。
ルークの胸が、私の背中に押し当てられた。
ルークの心臓の音が、私の背中越しに、とくん、とくんと走っていた。
──明日。
──王国の貴族のすべての方々の前で、私たちの婚約が、公示される。
──悪役令嬢エリーゼ・ヴァルトハイムが、新王太子妃候補として、王国のいちばん深い場所に、立つ、その日。
──私の自由ライフ計画は、すべて、書き換わった。
──けれど、その書き換わった先で、ルークの心臓の音が、響いていた。
月光が、絹のシーツの上に、淡い銀色のひと膜を、こぼしていた。
胸元の銀の星の花、銀の羽根、お母様のペンダント、そして指の銀の星の指輪。
すべての銀の星が、月光の下で、同時に、ひと瞬きを返してきた。
──明日、お会いに参ります、皆様。
──私は、王太子妃候補、エリーゼ・ヴァルトハイム。
──私の隣に、新王太子ルーカス殿下。
私はルークの腕の中で、ゆっくり目を閉じた。
ルークの心臓の音が、私の背中越しに、響き続けていた。
その音の上に、明日の婚約の公布への、深い覚悟が、静かに刻まれていった。




