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婚約破棄でやっと自由になれたはずなのに、 死んでるはずの殿下の妃にされそうです  作者: 葉月晴子


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第25話 新王太子即位

王太子エリオット殿下の禅譲のご決断から、十日が過ぎた。


その十日間、王宮は、新しい王太子の即位の儀式の準備に、絶え間なく動いていた。


宮廷魔術師団のご老人と、近衛騎士団長と、宰相補佐の宮廷文官たちが、ルークの離宮に毎日のように出入りした。即位の儀式の段取り、貴族たちへの通達、近隣諸国への報告。そのひとつひとつが、ルークの采配の下で、丁寧に組み立てられていく。


私の方は、宮廷の女官長から、王太子妃候補としての社交界の準備の指南を、毎日のように受けていた。


──悪役令嬢から、王太子妃候補。


──半月で、人生の階段、何段、駆け上がったのかしら。


──私の自由ライフ計画、もう跡形もなく、消えました。



◇◇◇



十一日目の朝。


ルークの離宮の馬車寄せに、深紅の馬車が停まった。


私の白い絹のドレスは、今日のために宮廷の仕立て屋が、夜通しで仕上げてくれた一着。襟元から袖口、裾まで、銀の細い糸で王家の双頭の鷲の刺繍が走っている。


頭には、銀の細い鎖の冠。王家の女性の、王族の一員としての即位の儀式に立ち会う、その正式な装束。


胸元には、いつもの銀の星の花。そしてその脇に、銀の羽根。


ハンナが私の絹のドレスの裾を、もう一度整えてくれた。


「お嬢様、本日のご即位の儀式は、王家にとって、またとない晴れの日でございます」


「ありがとう、ハンナ」


「お嬢様の、新王太子妃候補としての、初めての公式のご臨席でもございます」


「うん」


「ハンナは、本日、王宮の門の手前で、お見送りいたします。お嬢様のお背中は、ヴェラがお守りいたします」


「ありがとう、ハンナ」


ハンナの目尻に、薄く光るものが、滲んだ。


──ハンナ。


──お嬢様、と、呼んでくれていたハンナが、本日から、私を、いずれ「王太子妃殿下」と、呼ぶ。


──私とハンナの十八年の主従関係が、本日、別の形に、書き換わる。


私はハンナの肩を、ぎゅっと抱きしめた。


「ハンナ、私の十八年、ありがとう」


「お嬢様」


「これからも、私のいちばん近い場所に、いて」


「はい、お嬢様。命に代えても」



◇◇◇



馬車に乗り込んだ私の隣に、ルークがいつものように腰を下ろした。


今日のルークの夜会服は、深い藍色ではなく、深紅。


王太子の即位の正式な装束。


胸元に、王家の徽章の、銀のいちばん大きなブローチ。頭には、銀の細い鎖の、王太子の冠。


ルークの空色の瞳が、いつもよりほんの半音深く、私の目を捉えた。


「エリー」


「はい、ルーク」


「本日、ぼくは、王太子になる」


「はい」


「君は、ぼくの隣に、王太子妃候補として、立ってくれる」


「はい」


ルークの長い指が、私の絹の手袋越しの手を、ぎゅっと握った。


「ぼくは本日、君を王国のすべての目の前で、ぼくの妃候補として示す」


「はい」


「君は、ぼくのいちばん近い場所」


「はい、ルーク」



◇◇◇



王宮の大広間。


王国の貴族のすべての方々が整然と並んでいた。


宮廷大広間の中央、深紅の絨毯のいちばん奥に、白い大理石の祭壇。祭壇の上に、王家の双頭の鷲の銀の細工をあしらった、王太子の冠の台座。


その祭壇の手前に、玉座。玉座には国王陛下。隣に、宮廷魔術師長のご老人。


そして、玉座の脇の少し低い椅子に、王太子エリオット殿下、いえ、本日からは、エリオット様。


エリオット様の空色の瞳が、私たちを優しく見つめていた。


そのお顔は、もう王太子としての硬さはなく、家族として私たちを見守ってくださる、お兄様のものだった。



私とルークは、深紅の絨毯の上を、しずしずと進んだ。


玉座の手前で、深々と頭を下げた。


国王陛下のお声が、響いた。


「ルーカス・アシュフォード第二王子」


「はい、父上」


「エリオットの禅譲の決断を受け、本日、お前を王太子に任命する」


「はい、父上」


「お前はこれから、王国のいちばん深い場所のお祈りを引き受ける」


「はい、父上」


国王陛下が玉座から、ゆっくりと立ち上がった。


そして、祭壇の台座の上の、王太子の冠を、ゆっくりと取り上げた。


冠は、銀の細い細工に、五百年前から伝わる宝玉が、ひとつ嵌められた、王国でいちばん古い冠。


国王陛下が、その冠を、ルークの頭の上に、そっと、お載せになった。



◇◇◇



宮廷大広間の空気が、深くなった。


ルークの銀色の前髪の上に、王太子の冠が、納まった。


──ルーク、王太子に、なった。


──十二年前、王宮の薔薇の茂みの裏で、一人で泣いていた、八歳のあの子が、本日、王国の聖なるお祈りを、引き受けた。


私の喉の奥が、熱く詰まった。


ルークが、私の方を振り返った。


その瞳の奥に、十二年の見守りの、すべての重みと、決断の覚悟が、宿っていた。



◇◇◇



国王陛下のお声が、もう一度、響いた。


「諸卿」


王国の貴族のすべての方々が、絨毯の上に、深く頭を下げた。


「本日、ルーカス・アシュフォードを新王太子と公布する」


絹の衣擦れの音が、宮廷大広間のすべてに、走った。


「そして、もうひとつ」


国王陛下のお声が、続いた。


「エリーゼ・ヴァルトハイム侯爵令嬢」


「は、はい、陛下」


「お前を、新王太子の婚約者として、公布する」


「はい、陛下」


「即位の正式な儀式は、追って公布する。それまでの間、お前の身柄は、王家の聖なる守りの対象として置く」


「ありがたく、頂戴いたします、陛下」


国王陛下のお声に、ご老人の深い安堵が、にじんだ。


「諸卿、新王太子ルーカスと婚約者エリーゼ嬢に、深い礼を示してほしい」


王国の貴族のすべての方々が、いっせいに絨毯の上に、深々と頭を下げた。


絹のドレスの裾、燕尾服の銀の徽章、扇の動き。


それらのすべてが、私とルークの方を、向いていた。



◇◇◇



即位の儀式の後。


宮廷大広間で、貴族のすべての方々が、お祝いの挨拶のために、私とルークの周りに、ぐるりと集まっていた。


「殿下、ご即位、おめでとうございます」


「エリーゼ妃殿下候補、王家のご一員に加わられたお身柄に、深くご祝福申し上げます」


私の頬は、ずっと火照り続けていた。


──お祝いのお言葉すべてに、お返しを申し上げる。


──王太子妃候補の公式の、初めての務め。


ルークの手が、いつも、私の腰の脇に、置かれていた。


その指の温度が、私の足元を、支えてくれていた。



◇◇◇



日が傾き始めた頃。


王宮の奥の、いつもの白い静養のお部屋。


ヴェラとフィンが、扉の外側に、控えていた。


部屋の内側に、ルークと私のふたりだけ。


私の白い絹のドレスは、即位の儀式と、貴族のすべての方々へのお祝いのお返しで、わずかに皺が走っていた。


ルークの深紅の夜会服も、同じ。


ふたりとも、本日のすべての重みを引き受けた疲労が、肩のあたりににじんでいた。



ルークが、自分の頭の上の王太子の冠を、ゆっくりと自分の手で外した。


そして、白い大理石のテーブルの上に、静かに、置いた。


「エリー」


「はい」


「ぼくは本日ようやく、君を堂々とぼくの妃に迎えられる場所に立った」


ルークが、ゆっくりと、私の前で片膝をついた。



──片膝。


──これは。


──まさか。



ルークの指が、自分の夜会服の襟元の内側から、小さな、白い絹の袱紗を、取り出した。


袱紗を、ゆっくりと、開いた。


中に、銀の細い細工の、指輪。


指輪の中央に、銀の星の形の、小さな宝玉。


聖樹の星の形の花と、同じ模様。



「エリー」


「はい、ルーク」


「ぼくは十二年前、王宮の薔薇の茂みの裏で君に初めて会った、その日から、君だけをぼくの妃にと、自分の胸の中で決めていた」


「ルーク」


「公式に、申し上げる」


「エリーゼ・ヴァルトハイム嬢」


「ぼくの、ただひとりの妃に、なってください」



◇◇◇



私の息が、ふっと止まった。


──十二年。


──十二年、一人で胸の中に抱えていた、お願い。


──本日ようやく、公式に、私に申し込んでくれた。


「ルーク」


「うん」


「はい」


「エリー、聞こえない」


ルークの空色の瞳が、わずかに、笑った。


その瞳の奥に、八歳の、薔薇の茂みの裏で、一人で泣いていた、あの子の面影が、見えた気がした。


「はい、ルーク」


「貴方様の、ただひとりの王太子妃に、なります」


「貴方様の、ただひとりのお妃に、なります」


私の声が、震えた。


ルークの指が、袱紗の中の、銀の細い指輪を、取り上げた。


そして、私の左の薬指に、ゆっくりと、通した。



◇◇◇



指輪の銀の細い縁が、私の指の上で、納まった。


中央の銀の星の形の宝玉が、夕日の淡い橙色の光の中で、ふっと自分の意思で、淡く瞬いた。


──銀の星の花、銀の羽根、お母様のヴァルトハイム家の星形のペンダント、そして、本日の、ルークからの、銀の星の指輪。


──すべて、すべて、同じ、星の形。


──五百年前から、深いところで繋がっていた、すべての品。


──本日、すべてが私の指と胸元に、集まった。


私の左の手のひらの上で、銀の星の指輪と銀の星の花と銀の羽根が、同時にひと瞬きを返してきた。



ルークが、両手で、私の左の手のひらを、包んだ。


そして、その手のひらを、自分の唇に、そっと、押し当てた。


「エリー、ありがとう」


「ルーク、貴方様こそ、十二年もお待ちくださり、ありがとうございます」



◇◇◇



ルークが、指先で私の頬の線を、ゆっくりと辿った。


頬から、顎の線、首筋へ。


ルークの唇が、私の額に、深く、降りた。


額から、頬へ。頬から、瞼へ。


その口づけのひとつひとつの温度に、十二年の見守りのすべての重みが、込められていた。


「エリー」


「はい、ルーク」


「ぼくの、ただひとりの、お妃」


ルークの唇が、私の唇の上に、しずしずと、降りた。


深く、長く、十二年お待ちくださった、ご褒美のような口づけ。


ルークの吐息が、私の口の奥まで、染み込んできた。


私の指が、いつの間にか、ルークの銀色の髪の中に、滑り込んでいた。



◇◇◇



ルークの指が、私の絹のドレスの背中の、いちばん下のリボンを、解いた。


リボンが、ひとひら、ふたひら、解けていく。


純白の絹の生地が、私の肩から、二の腕の上を、滑り降りた。


絹が滑り落ちる、その温度の感覚に、私の身体の芯に、灯がともった。


「エリー」


「ルーク」


「ぼくの、ただひとりの、お妃」


ルークの唇が、私の鎖骨の窪みに、降りた。


「ーーっ」


私の喉の奥から、私も知らない、小さな声が、こぼれた。


ルークの指が、自分の深紅の夜会服のボタンを、ひとつずつ、外した。


ルークの素肌の胸の真ん中に、二年前の毒の痕が、薄い銀色の線で、ぽつりと、走っていた。


私の指が、無意識のうちに、その薄い銀色の線の上に、触れた。


ルークの心臓の音が、私の指の腹の下で、とくん、とくん、と、いつもよりずっと速く走っていた。



◇◇◇



「ルーク」


「うん」


「貴方様の心臓は、本日、王太子の冠の重みで、いつもよりずっと速く走っていらっしゃる」


「うん。けれど、それ以上に、君がぼくの妃になると返事をくれた、その瞬間の震えが、いちばん速く走らせている」


「ルーク」


「エリー、ぼくの命のすべてを、君に預ける」


「はい、ルーク」


「ぼくの、ただひとりの、王太子妃」


「貴方様の、ただひとりの、お妃」



ルークの唇が、私の唇に、もう一度、深く、降りた。


絹のシーツの上で、絹と素肌が、ふっと、混ざり合っていった。


ガラスの天井越しの夕日の淡い橙色の光が、白い大理石の床の上を、ゆっくりと深い薔薇色に染め変えていった。


その薔薇色の薄闇の中で、私の身体の芯の奥で、白い光が、はぜた。


「ルーク、ーー!」


私の声が、ルークの胸の中で、薄く、震えた。


そして、私たちの輪郭は、ふんわりと、ひとつに、溶け合っていった。



◇◇◇



ガラスの天井越しの夜空に、月が淡い銀色の輪郭で、浮かんでいた。


ルークの腕の中で、私の身体は、すべての強張りを、解いていた。


ルークの長い指が、私の左の薬指の上の、銀の星の指輪を、ゆっくり、撫でた。


「エリー」


「はい、ルーク」


「これからの、ぼくらのお祈りの守りを、この指輪が、引き受ける」


「はい」


「ぼくと、君の、いちばん近い場所で、永遠に」


「永遠に」


ルークの唇が、私の薬指の上の指輪の上に、深く、押し当てられた。


その温度が、銀の星の指輪、銀の星の花、銀の羽根、ヴァルトハイム家の星形のペンダント、すべての奥深くに、刻まれた。



私の自由ライフ計画は、もう、すべて、書き換わった。


けれど、その書き換わった先で、ルークの心臓の音が、私の頬の骨を通して、いつもとくんとくんと響いていた。


私の新しい人生の大切な章の見出しが、本日ようやく公式に、ぼくの妃、と書き始められていた。



本日、私は、王国の新王太子の婚約者に、なった。


けれど、私のいちばん奥の温度は、ルークの心臓の音のお布団の下で、いつもの私のままだった。


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