第21話 宰相とミラ嬢の妨害
聖女覚醒の儀式から二日が過ぎた。
その二日間、私は宮廷の白い別棟ではなくルークの離宮に戻って過ごしていた。戻れたのはルークの強い希望だった。
儀礼を破って扉を開けた件で、ルークは国王陛下から正式に「注意」を受けた。罰というほどの重さではなかったらしい。けれどその夜の独断専行が王宮内で議論になったことは確からしかった。
ルークは私の前でその話を一度もしなかった。ただ朝、馬車に乗り込む時、その横顔にいつもより半音深い疲労が滲んでいるのを私は見逃さなかった。
◇◇◇
離宮に戻った夜。
ルークの寝室の続き部屋で、私はようやく自分のお部屋の絹のシーツにゆっくりと身体を沈めた。
天蓋越しの淡い金色の光。ハンナがいつものように紅茶のポットを運んでくる。ヴェラが廊下のいちばん日当たりの良い角に控えている。フィンの気配がお部屋の外の影にぽつりとある。
それら全部がもう私の世界の輪郭になっていた。
宮廷の白い別棟も悪くはなかった。けれどここに戻ってくると、肩のいちばん奥の力がふんわりと抜ける。これは離宮というよりは、もう私のお家なのだ。そのことに自分でも初めて気がついた気がした。
◇◇◇
三日目の朝。
朝食の席で、ハンナが銀のトレイに一通の封書を運んできた。
封蝋の紋章は王家の双頭の鷲ではなく、もう少し控えめな、けれど見覚えのある模様。ヴァルトハイム家。お父様お母様からのお手紙だった。
ルークが私の方をちらりと見て、軽く微笑んだ。
「君宛だ」
「はい」
私は震える指で封蝋の縁をそっと開いた。中の便箋にお母様の流麗な筆致が走っていた。
『エリーゼ、
聖女覚醒のご儀式、本当に本当にご無事でなにより安堵しております。
来週の半ば、ヴァルトハイム侯爵邸でささやかな身内のお祝いを執り行いたく存じます。
ご家族だけの、お茶会のような軽いお席で。
お父様、お母様、お兄様、お姉様、皆お待ちしております。
ご都合のつくお日にちをお聞かせくださいませ。
エマ』
私の喉の奥がふっと熱く詰まった。
聖女覚醒の儀式の後、改めて家族のお祝いを、とお母様は書いていた。私の聖女の力も私の婚約もその何ひとつ知らないまま、ただ「無事に帰ってきた娘の祝い」を準備してくれている。
その温度に私の肩の輪郭がふんわりとほどけた。
「ルーク、お父様お母様がヴァルトハイム侯爵邸でお祝いを、と」
「うん。ぼく宛ての手紙も来てる」
ルークが自分の便箋を広げた。
「ぼくも一緒に招かれてる。来週の半ば、都合がよければ、と」
ルークの空色の瞳がふっと優しく私の目を捉えた。
「行こう。ぼくも、ご家族に挨拶したい」
「はい、ルーク」
◇◇◇
その日の午後、フィンが客間に呼ばれた。
「フィン、来週の水曜、ヴァルトハイム侯爵邸へ向かう」
「はい」
「警備をもう一段厚く」
フィンの深緑の目がわずかに鋭くなった。
「殿下、ご懸念は」
「うん。聖女覚醒の儀式の後、宰相とミラ嬢、両方の動きが止まってる」
「左様でございます」
「妙だ」
「はい」
私はその会話を客間の窓辺の小さなソファからゆっくりと聞いていた。それはきっと、何かが起きる前の嫌な静けさなのだろう。
◇◇◇
水曜日の朝。
ハンナが淡い水色の絹のドレスを私の肩にふんわりと当てた。
「お嬢様、ヴァルトハイム侯爵邸のお祝いにふさわしい、お装いで」
「ありがとう、ハンナ」
襟元には白い小花の銀の刺繍。胸元には聖女覚醒の儀式で身に着けた星の銀のブローチ。お母様は銀の花がお好きだ。このブローチを胸に下げてお母様の前に立ちたかった。
馬車寄せに深紅の馬車がゆっくりと停まった。
御者の隣にはフィン。その後ろの馬車にはヴェラと、もう一人、見覚えのない密偵が付いていた。警備の馬車がもう一台、控えめに後ろを走る。いつもの倍以上の警備に、ルークの警戒の深さが肌に伝わってくる。
ルークが私の手を取って、深紅のシートにふんわりと預けてくれた。
「エリー、今日は、ぼくの隣を離れないで」
「はい、ルーク」
ルークの長い指が私の手袋越しの指に重ねられた。
◇◇◇
馬車は王宮の裏の森の小道をゆっくりと滑り出した。
窓のカーテンは半分だけ引かれていた。その隙間から初夏の緑がふんわりと流れていく。ラベンダーの淡い甘い香りが、馬車の中の絹のクッションの繊維の隙間にふっと染み込んできた。
いつもの道。いつもの空気。けれど今日に限って、その「いつも」の輪郭がほんの半音ずれている気がした。
私は自分の指先で絹の手袋の縁をぎゅっと握りしめた。
ルークがその動きをふっと横目で確かめた。そして長い指で私の指の関節の輪郭をゆっくりとなぞった。
「エリー、肩の力、抜いて」
「はい」
「君の心配は、ぼくの密偵団のぜんぶで背負う」
「ありがとう、ルーク」
ルークの指の温度に、私の肩の輪郭が半分だけほどけた。
残りの半分は、いつかこの旅が無事にお父様お母様のお屋敷に着くまで、たぶんほどけそうになかった。
◇◇◇
森の道を馬車が二刻ほど走った頃。
馬車がふっと急に速度を落とした。そして停まった。
私の肩のいちばん奥がぴくりと強張った。
ルークの空色の瞳がふっと馬車の窓のカーテンをまっすぐに見つめた。
「フィン」
ルークの声が低く抑えられた。
外で、フィンの低い声が御者に何かを告げた。いつもよりひと刷毛深いフィンの声。
馬車の扉が外側からゆっくりとノックされた。
「殿下、お嬢様、街道の真ん中に人影が立っております」
「数は」
「五人と、もう一人、女性が」
──!
私の喉の奥が止まった。女性。まさか。
ルークの空色の瞳がぱっと深く、暗い藍に変わった。
「ミラ嬢か」
「はい、おそらく」
「街道、引き返せるか」
「後方にも三人、回っております。挟まれてございます」
ルークの長い指が、私の指の上でぎゅっと固く結ばれた。
「エリー、聞いてほしい」
「はい」
「これからぼくは、君を馬車の中に置いて外に出る」
「ヴェラが君の真横に控える。フィンが馬車の脇から離れない」
「ぼくの剣で片付ける。短時間で終わらせる」
ルークの空色の瞳の奥に、刃のような決意が立ち上がった。
「君は深紅のシートのいちばん下に身を伏せて。何があっても馬車から出ないで」
私の声は震えていた。けれど最後まで途切れずに出た。
◇◇◇
ルークが馬車の扉をゆっくりと開けた。
外の空気がふっと馬車の中に流れ込んできた。その空気の中に、聞き慣れない低い薬草の苦さのような香りが混じっていた。
これは毒ではない。もっと別の、見えないものの香り。禁術の触媒の痕跡。宮廷魔術師に近い者の手が街道の空気に染み込んでいる。
「ルーク」
私の声が震えた。
「うん」
「街道の空気に禁術の痕跡が混じっています」
ルークの空色の瞳がぱっと深くなった。
「確かか」
「はい。私の肌が、はっきりと感じます」
「うん」
ルークが腰の銀の鞘から剣をゆっくりと引き抜いた。
「エリー、君の手でぼくの剣に聖女の祝福を移してくれないか」
「はい、ルーク」
私は両手のひらをルークの剣の刃の上に近づけた。
胸元の銀の星の花がふっと淡い銀色に光った。
両手のひらから淡い銀色の光が立ちのぼって、ルークの剣の銀の刃に染み込んでいく。
刃の銀色がいつもよりひと段明るい色に変わった。
「これで禁術の影の中の敵も斬り込める」
「うん」
「フィン、ヴェラ、こちらに」
馬車の外からフィンが顔を覗かせた。ヴェラも深い藍色の外套のまま馬車の脇へ来た。
ルークが二人のそれぞれの短剣の刃を馬車の中に差し出させた。
「エリー、お願い」
「はい」
私はフィンの短剣に銀色の光を移した。続いてヴェラの短剣にも。
三人の刃が揃って、いつもより明るく光った。
「ヴェラ」
「はい、お嬢様」
「禁術の煙をお受けになったら、すぐに私の手のひらの下にお背中をお見せください」
「承知いたしました」
ヴェラが頭を下げた。
「フィン」
「お嬢様」
「ルークのお背中をお守りに」
「承知」
◇◇◇
ルークがゆっくりと馬車から降りた。
ヴェラが馬車の中に入って、私の隣に深い藍色の外套の輪郭で控えた。
「お嬢様、頭をお下げください」
「はい」
私はヴェラの腕の中で、深紅のシートのいちばん下に身体を伏せた。
胸元の銀の星の花はまだ淡く光ったままだった。万一の時の、二度目の祝福のために。
◇◇◇
馬車の外で、剣戟の音が走った。
カチン、カチンと銀の刃の音が宙を舞った。ルークの剣の音はいつもよりも半音低く、けれど整っていた。
その音の合間にぱっと、別の低い男たちの呻き声が走った。
ルーク。どうか無事でいて。心の中でそれだけを祈った。
その時、ふっと街道の空気の密度が変わった。
馬車の中の私の肌の上で何かが揺れた。その何かは温かい空気ではなかった。冷たい、けれども湿度の高い、誰かが息をふっと私の首筋に吹きかけたような感覚。
「お嬢様」
ヴェラの低い声が警戒を深めた。
ヴェラの深い藍色の外套の袖の下からぱっと短剣の銀色の刃が現れた。
「お嬢様、お下がりください」
私はヴェラの背中のいちばん奥に頭を伏せた。
◇◇◇
馬車の扉が外側から、ばん、と勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、栗色の髪のピンクのドレスの令嬢。ミラ嬢だった。謁見の間で王宮の東棟に軟禁されたはずの方。
その顔のいちばん奥に、もう夜会のあの清純な女性の影はひと欠片もなかった。代わりに、深い深い執着の刃が宿っていた。
「エリーゼ嬢」
ミラ嬢の声が低く、ねっとりと響いた。
「貴女、本当にしぶといのね」
「ミラ嬢」
「わたくしの聖女の力を奪っただけでは足りなくて、王太子殿下の婚約者の地位まで奪うのね」
ミラ嬢はまだ王太子殿下の婚約者の地位を諦めていない。しかも、私が聖女の力を奪った、と思い込んでいる。
「ミラ嬢、私は何も奪っておりません」
「嘘」
ミラ嬢の白い指がピンクのドレスの袖の中から、ふっと深紫色の小さな小瓶を取り出した。
その小瓶の中の深紫色の液体がふんわりと揺れた。禁術の触媒だ。
ヴェラの短剣の銀色の刃がミラ嬢の方を向いた。
「お嬢様の命を狙う者」
「動けば、首を頂戴する」
ヴェラの声に、いつもの簡潔さの奥に騎士の本気の刃が立ち上がっていた。
ミラ嬢の白い唇がぴくりと引き攣った。
「お前ごときが、聖女のわたくしに」
ミラ嬢の白い指が深紫色の小瓶の栓をぱっと引き抜いた。そしてその液体をぱっと馬車の中に放った。
◇◇◇
深紫色の液体がぱっと馬車の中の空気の中で、ふんわりと煙に変わった。
その煙が私とヴェラの肌の上に染み込んできた。
ヴェラの灰青色の目がふっと霞んだ。
「お嬢様、お下がりーー」
ヴェラの両膝が絨毯の上につくのを私はぼんやりと見た。
ヴェラが禁術の煙で力を抜かれてしまった。私の肌のいちばん奥が震えた。私の聖女の力。いま、試しの瞬間が来たのだ。
私は深く深く息を吸った。そして両手のひらをヴェラの肩の上に置いた。
私の肌のいちばん奥の聖樹の温度がふっと立ち上がった。両手のひらから淡い銀色の光がふんわりと立ちのぼった。
その光がヴェラの肩から首筋から頭の上まで、ゆっくりと染め上げていく。
ヴェラの灰青色の目がぱっと深く戻った。禁術の煙がヴェラの肌の上からふっと消えていった。
「お嬢様」
ヴェラの声が戻った。
◇◇◇
ミラ嬢の白い指が止まった。
「な、なぜ」
「わたくしの禁術がーー」
「ミラ嬢」
私の声が深く響いた。
「私の聖女の力は、禁術を剥がします」
「ミラ嬢の禁術は、もう、私には効きません」
ミラ嬢の栗色の髪の肩がふっと震えた。
「嘘」
ミラ嬢の白い指が別の深紫色の小瓶を取り出した。
私の両手のひらの銀色の光がもう一段深く輝いた。その光が馬車の中の空気のぜんぶに、ふんわりと染み込んだ。
ミラ嬢の栗色の髪の付け根の肌に、ふっと禁術の薄い影が見えた。
その影が私の銀色の光の前で、ふっとふんわりと剥がれていく。
ミラ嬢の顔のいちばん奥の刃のような冷たさが、ぱっとふっと薄くなっていった。代わりに、ひとりの若い女性の深い深い虚しさが滲んでいった。
◇◇◇
馬車の外で、剣戟の音がぱたりと止まった。
街道の空気の密度がふっと軽くなった。そしてルークが馬車の扉からぱっと駆け込んできた。
ルークの夜会服の襟元と袖口にわずかな銀の刃の汚れが走っていた。長い指の関節が固く結ばれていた。
「エリー!」
「ルーク」
「無事で、無事で、本当によかった」
ルークが馬車の中の私の両手をぱっと両手で包み込んだ。
その指の温度がいつもよりずっとずっと震えていた。
「エリー、ぼくは君を失うところだった」
ルークの空色の瞳のいちばん奥に、深い震えが滲んでいた。
「ルーク、私、無事です。ヴェラも無事です」
「エリー」
「私の聖女の力で、禁術を剥がしました」
ルークの長い指が私の頬の輪郭を辿った。その指の震えがゆっくりとほどけていった。
◇◇◇
馬車の外で、フィンの低い声が走った。
「殿下、襲撃者、ぜんぶ捕縛いたしました」
「うん」
「宰相家の紋章を持つ者が三人」
「丁寧に縛ってくれ」
「承知」
「ミラ嬢は」
ルークの空色の瞳が馬車の中のミラ嬢の栗色の髪の肩に向いた。
ミラ嬢は絨毯の上にぐったりと両膝をつけて、もう禁術の刃は消えていた。
代わりに、ひとりの若い女性の深い深い虚しさの輪郭だけが残っていた。
「ミラ嬢も、捕縛」
「承知いたしました」
近衛の騎士たちが馬車の中に入って、ミラ嬢の両側に付いた。
ミラ嬢はもう抵抗のしずくも見せなかった。ただ絨毯の上でぼんやりと、私の薄い銀色のドレスの襟元の星の刺繍を見つめていた。
その顔のいちばん奥に、もう夜会の清純な女性の影はひと欠片もなかった。代わりに、わたくしがわたくしでなかった間、何をしていたの、という深い深い迷子の輪郭だけが残されていた。
◇◇◇
馬車の外で、衛兵たちの剣の柄の銀色の輪郭が整列した。
ミラ嬢がしずしずと衛兵たちに導かれて、馬車の外に進んでいった。
ピンクのドレスの最後のひと振りが街道の向こうにすっと消えた。
馬車の中で、ルークの両腕が私の肩の輪郭を包み込んだ。
抱きしめるというよりは、両腕で私の輪郭のぜんぶを自分の肌の上に刻みつけるような動きだった。
ルークの空色の瞳のいちばん奥に、深い震えが沈んでいた。
◇◇◇
私はルークの夜会服の襟元に頭をふんわりと預けた。
ルークの心臓の音がいつもよりずっとずっと速く走っていた。その速いひと拍ひと拍を、私は自分の頬の骨を通して脳のいちばん奥に刻み込んだ。
ルークの両腕が、自分の肩の輪郭のぜんぶを私の背中の輪郭のぜんぶに押し当てた。
「エリー」
ルークの声が震えていた。
私は震える両手でルークの夜会服の襟元をぎゅっと握りしめた。
「ルーク、私、無事です」
「ルークの腕の中に戻ってきました」
◇◇◇
ルークが私の身体を自分の方に引き寄せた。
そして私の背中の後ろから両腕を回して、抱き締められた。
後ろから、深い深いバックハグ。
ルークの胸の輪郭が私の背中に押し当てられた。
ルークの心臓の音が私の背中越しに、とくん、とくんと走っていた。
「エリー」
「はい、ルーク」
「君が無事で、本当によかった」
ルークの声がいつもよりひと段深く震えた。
ルークの息が私の耳のすぐ後ろにふっと当たった。
そしてルークの唇が私の耳の縁にしずしずと降りた。
「ーーっ」
耳の縁のいちばん柔らかい場所に、ルークの吐息が染み込んできた。
「エリー、街道の剣戟のいちばん奥で君を失うと思った、その瞬間、ぼくの命のいちばん奥がご終了する音を聞いた」
ルークの声が耳元でわずかに震えていた。
「ルーク」
「もう二度と、君を危ない目には遭わせない」
ルークの唇が耳の縁からゆっくりと首筋へ降りた。
首筋のいちばん柔らかい場所に、ルークの唇が押し当てられた。
「ーーっ、ルーク」
首筋から、襟元のいちばん上の絹の縁の手前の肌へ。
ルークの唇は絹の襟元を乱さなかった。ただ肌の上だけをしずしずと辿った。
「ぼくの、お一人の、お方」
いつものお部屋の中での口づけよりも、ずっとずっと独占の温度。街道で命を失いかけた、その震えの裏返しなのだ。
ルークの両腕が私のお腹の前で、もう一段ぎゅっと締めた。
私の身体がルークの胸の輪郭の中に納まる。
◇◇◇
どれくらいの時間が流れたか。
たぶん、馬車が街道の次の曲がり角をひとつ曲がるほどの長さ。
ルークの唇がようやく私の首筋から離れた。
そして自分の長い指で私の頬の輪郭を、ゆっくりそっと撫でた。
「エリー」
「はい、ルーク」
「ヴァルトハイム侯爵邸に着いたら、ご家族のお顔をお見せになってあげて」
「はい」
「ぼくは、ご家族の前で君のお背中をお守りになる」
「ありがとうございます、ルーク」
ルークが優しく口元を緩めた。
その温度に、私の頬の熱がもう一段深く染まった。
◇◇◇
馬車の中の深紅のシートの上で、ルークの長い指が私の震える両手を、両手でふんわりと包み込んだ。
そしてその私の両手を、自分の夜会服の左胸のちょうど心臓の上に押し当てた。
ルークの心臓の音が私の手のひらに直接、とくん、とくんと届いた。
窓のカーテンの隙間から、午後の光がふっと馬車の中の薄闇の上に淡く染め込んできた。
その光の中で、私とルークの輪郭はふんわりとひとつに混ざり合っていった。
馬車の外で、フィンとヴェラと近衛の騎士たちの、控えめな、けれど確かな警備の気配が街道のぜんぶを優しく覆っていた。
◇◇◇
宰相とミラ嬢の最後の悪あがき。
それは、私の銀色の光とヴェラの短剣とルークの剣とフィンの密偵団の確かな輪郭で、ぜんぶ押し返した。
けれど、私の肩のいちばん奥の警戒は止まらなかった。宰相本人はまだ王宮の執務室に座っている。本日の襲撃に加わっていなかった。
宰相は自分の手をまだ動かしていない。本日のミラ嬢の襲撃はたぶん、宰相の最初の手のひと振り目に過ぎないのだ。宰相のいちばん深い手はまだ、王宮のもっと奥の誰も見えない場所で、もう一度振るその瞬間を待っている。
ルークの空色の瞳がふっと深くなった。
「エリー」
「はい」
「本日のミラ嬢の襲撃、宰相はご自分のお手をお汚しにならなかった」
「はい、私もそう感じました」
「宰相は本日のミラ嬢のご結果を、王宮の執務室でご観察になっていらっしゃる」
「うん」
「ぼくらがヴァルトハイム侯爵邸から王宮にお戻りになる、その途中のもう一度のお手のひと振りを、ご準備になっていらっしゃるかもしれない」
ルークの長い指が、私の指の上でぎゅっと握った。
「エリー、もう君を、ぼくの腕の届かない場所にお置きしない」
「はい、ルーク」
馬車がゆっくりとヴァルトハイム侯爵邸の方角へ走り出した。
ルークの心臓の音が私の手のひらの下で、ようやくいつものリズムに戻り始めた。
けれど、これで終わりではない。本日の襲撃は宰相の本気のひと振り目の、ご準備の最後の合図だった。本気のひと振りは、これから来る。




