第20話 王太子にかけられた禁術
儀式が終わった後。
国王陛下が王太子殿下、ルーク、そして私を、宮廷の奥の白い小さなお部屋にご案内くださった。
普段は国王陛下と王妃殿下が、お休みの日に紅茶をお飲みになる、いちばん私的な対話の部屋。
部屋の白い大理石の床の上に、白い絹のクッションが置かれていた。私たちはそのクッションに、しずしずと腰を下ろした。
国王陛下が私の向かいに、ゆっくりと座られた。そしていつもの王というよりは、ひとりの年配の方の顔で、私を見つめてくれた。
「エリーゼ嬢」
「はい、陛下」
「本日のお力、ぼくは五百年待っていた」
「陛下」
「ぼくの即位のその日から、ぼくは聖樹の前に通っていた」
「その三十年の祈りが、本日君の両手のひらの温度に叶った」
国王陛下の目尻に、薄く光るものが滲んでいた。
「陛下、ありがたく頂戴いたします」
私の声も震えていた。
国王陛下が、長い指で目元を軽く押さえた。そして王太子殿下に、ゆっくりと目を向けられた。
◇◇◇
「エリオット」
「はい、父上」
「お前は、エリーゼ嬢に言っておきたいことがある、と言っていたな」
「はい、父上」
王太子殿下が絹のクッションの上で、ゆっくりと背筋を正した。そして私に向かって、深く頭を下げた。
王太子殿下の銀色の髪が、白い大理石の床の上にふっと滑り落ちた。王族の方が、貴族の令嬢に頭を下げる。それは王国の歴史の中でほぼ前例のない光景。
私の喉の奥がぴたりと止まった。
「エリーゼ」
「は、はい、王太子殿下」
「夜会での断罪、本当に申し訳なかった」
王太子殿下の声がふっと震えた。
「ぼくはミラ嬢の薬の影響で、お前を公式に断罪する判断をしてしまった」
「ぼくの言葉ひとつで、お前の人生のぜんぶが、断ち切られかけた」
「ーー」
「そしてあのまま街道で、お前は命を奪われていた」
王太子殿下の空色の瞳の奥に、深い悔いの色が湛えられていた。
「ぼくはルークの密偵の報告を、半月前にすべて読んだ」
「報告書を読みながら、ぼくが、ぼくでなかった、その期間の判断を振り返っていた」
「半月、お部屋から出られなかった」
◇◇◇
「ミラ嬢のピンクのドレスの胸元の黒い宝玉、ぼくも同じものを胸元に持たされていた」
──、!
王太子殿下の長い指が、夜会服の襟元から、銀の細い鎖をふっと取り出した。
鎖の先には、黒い小さな宝玉のペンダント。ミラ嬢のあの宝玉と、同じ形。同じ色。
「同じ禁術の触媒を、ミラ嬢はぼくにも持たせていた」
「半年前、いえ、もっと前から、夜会服の襟元の内側に、『お母様の形見』とお言葉を添えて、結いつけてくれていた」
「これがぼくの判断を、半年、いえ、たぶん一年近く、捻じ曲げていた」
王太子殿下が、その黒い宝玉を、ご自分の手のひらの上にしずしずと置いた。
「エリーゼ、お前の本物の聖女の光で、ぼくの中のこの黒い影を、剥がしてくれないか」
◇◇◇
私は震える指で、王太子殿下の手のひらの上の黒い宝玉に、指先をゆっくりと近づけた。
私の胸元の銀の星の花が、ふっと、王太子殿下の方を向いて、明るく光った。
その花の光が、ふんわりと、王太子殿下の手のひらの上の黒い宝玉に届いた、その瞬間。
ぱきり。
宝玉が、ふっと、軽い音を立てて、半分に割れた。
割れた宝玉の中から、黒い小さな煙のようなものが、ふっと立ちのぼって、ガラスの天井の隙間の方へ、消えていった。
一年近く、王太子殿下の身体のいちばん奥に居座っていた何かが、ようやく解放された瞬間。
王太子殿下の空色の瞳が、ふっと一段深く澄んだ。
その澄み方は、十年前の、まだ婚約者として知り合った頃の、王太子殿下の瞳の澄み方と、ぴったり同じだった。
「ーー、エリーゼ、いま、ぼくは、たぶん十年ぶりに、ぼく自身の頭で、お前を見ている」
私の喉の奥に、ふっと、温かいものが、立ちのぼった。
◇◇◇
「王太子殿下、もう頭をお上げください」
「エリーゼ」
「私、王太子殿下を恨んでおりません」
「私の本日の力が、いずれ王太子殿下とミラ嬢の禁術の解毒にお力添えできれば、私のいちばん奥の喜びでございます」
王太子殿下の空色の瞳が、ふっと深く揺れた。
「エリーゼ、お前は本当に、ぼくが十年婚約者として知っていたお前のままだ」
「はい、王太子殿下」
「ぼくの赦しの願いを受け取ってくれて、深く感謝する」
王太子殿下の頭が、ゆっくりと上がった。その目尻に、薄く光るものが滲んでいた。
私は深く頭を下げた。十年の婚約者として共に過ごした方への、最後の婚約者としての、ひとつのお別れの礼。
◇◇◇
国王陛下が、王太子殿下の肩に長い指をふんわりと置いた。
「エリーゼ嬢」
「はい、陛下」
「本日の儀式の祝賀の晩餐は、明後日公式に執り行う」
「本日の夜は、ルーカスと二人で過ごすとよい」
国王陛下の声に、わずかな優しい深さが混じった。その意味を、私の頬の温度がぱっと引き上げた。
「ありがたく頂戴いたします、陛下」
◇◇◇
宮廷の奥の白い静養のお部屋。
白い絹の天蓋付きの大きなベッドと、白い大理石の暖炉と、ガラスの天井からの夕日の淡い橙色の光で満たされていた。
ガラスの大きな窓の向こうに、聖樹のいちばん上の葉の輪郭が見えた。
ヴェラとフィンが、部屋の扉の外側に控えていた。部屋の内側には、ルークと私のふたりだけ。
ルークが私のすぐ前まで進んできた。そして長い指を、頭の上の銀の簪に近づけた。
「エリー」
「はい」
「儀式は無事に叶った」
「儀式の力で、君の肩、疲れただろ」
「ーー」
「銀の簪を抜くね」
ルークの長い指が、頭の上の銀の簪をひと本ずつゆっくりと抜いた。簪の銀の細工の星の形の花が、ルークの指の中で、ふっと軽く瞬いた。
そしてルークの長い指が、結い上げた髪をふんわりと解いた。長い髪が、白い儀式服の肩から背中の輪郭の上に流れ落ちた。
◇◇◇
「エリー」
「はい」
「ぼくの聖女で、ぼくの妃で、ぼくのすべて」
ルークの声が、いつもよりひと段深くなった。
「本日の君の力の輝きを、ぼくは生涯目の奥にしまった」
「ルーク」
「その光をくれた君を、今夜、ぼくのいちばん奥に預けてくれ」
ルークの空色の瞳の奥のいつもの自信に満ちた光と、もう一段深い独占欲の響きが、同時に揺れていた。
私は深く息を吐いた。そして両手をルークの夜会服の襟元に、ゆっくりと預けた。
「ルーク、私を預けます」
ルークの長い指が、私の頬の輪郭をゆっくりと辿った。頬から、顎の線、首筋へ。
ルークの唇が、私の額に、ふっと深く押し当てられた。額から、頬へ。頬から、瞼へ。ひとつひとつの唇の温度が、私の肌の上に、ふっと薄い火種を置いていく。
ルークの唇が、私の唇の上で、ふっと止まった。そしてゆっくりと深く降りてきた。
長い、長い口づけ。ルークの吐息が、私の口の中のいちばん奥まで染み込んできた。
◇◇◇
ルークが私の身体を、ふっと横抱きに抱き上げた。
そして白い絹の天蓋付きの大きなベッドまで運んでくれた。絹のシーツの上に、しずしずと降ろした。
ルークが私の隣に、ゆっくりと身体を預けた。長い指で、儀式服の襟元の銀の星の刺繍を、上から軽くなぞった。
「エリー、儀式服を、脱がせていい?」
「はい、ルーク」
ルークの長い指が、私の背中に回って、儀式服のいちばん下の絹のリボンを、ゆっくりとほどき始めた。
絹の擦れる音が、ふっと軽く走った。そしてルークが、儀式服の絹の裾を、肩からゆっくりと滑り下ろした。
純白の絹が、鎖骨、肩、二の腕の輪郭の上を、絹の波のように降りていく。
絹が滑り落ちる、その温度の感覚に、私の身体の芯のいちばん奥に、ふっと灯がともった。
◇◇◇
ルークの長い指が、私の鎖骨の輪郭を、ふっとなぞった。
ルークの唇が、私の首筋の、いちばん柔らかい場所に、ふっと押し当てられた。
「ーー、っ」
私の喉の奥から、私も知らない、小さな声がこぼれた。
ルークの唇が、首筋から、鎖骨の窪みへ、ゆっくりと降りていった。
「ルーク、ーー、私の身体、ーー、灯りが、ぜんぶ、ともって、しまう」
「うん。ぼくも、エリー」
ルークの指が、肩、二の腕、お腹、腰の輪郭を、丁寧に辿っていく。私の身体のひとつひとつの輪郭を、指の記憶に刻みつけているような動き。
そしてルークの唇が、鎖骨の窪みから、もう一段下へ滑った。
「ーー、っ、っ」
私の身体の芯のいちばん奥が、ふっと熱を持ち始めた。
熱というよりは、ふっと、ぱっと、火花が、私の身体の奥の暗い場所で、はぜているような感覚。
ルークの長い指が、ご自分の夜会服のボタンを、ひとつずつ外していった。
ルークの素肌の胸の真ん中に、二年前の毒の痕が、薄い銀色の線でぽつりと走っていた。
私の指が、無意識のうちに、その薄い銀色の線の上に、ぴたりと触れた。
ルークの心臓の音が、私の指の腹の下で、とくん、とくん、と走っていた。
◇◇◇
「ルーク」
「うん」
「貴方様の心臓は、ここで、ちゃんと、走っている」
「うん」
「二年前、私の手で救った、その命が、いま、私の指の下で、生きている」
ルークの空色の瞳が、月光の中で、ふっと深く揺れた。
「エリー、ぼくの命のぜんぶを、君に預ける」
「はい、ルーク」
「ぼくの妃に、なって」
「はい」
ルークの唇が、私の唇に、もう一度深く降りてきた。
絹のシーツの上で、絹と素肌が、ふっと混ざり合っていった。
ガラスの天井越しの夕日の淡い橙色の光が、白い大理石の床の上をゆっくりと深い薔薇色に染め変えていった。
その薔薇色の薄闇の中で、私の身体の芯のいちばん奥に、ふっと、白い、白い、光がはぜた。
「ーー、ルーク、ーー、!」
私の声が、ルークの胸の中で、ふっと薄く震えた。
そして私たちの輪郭は、ふんわりとひとつに混ざり合っていった。
◇◇◇
ガラスの天井越しの夜空に、月が淡い銀色の輪郭で浮かんでいた。
その月の光のいちばん奥に、聖樹のいちばん上の葉が、もう一度ふっと淡い銀色に瞬いた気がした。
私はルークの夜会服の襟元に頬を預けて、ゆっくりと目を閉じた。
ルークの心臓の音が、頬の骨を通して、脳のいちばん奥にとくんとくんと届いていた。
胸元の銀の星の花と、その脇の銀の羽根が、月光の下でふっと一度同時に瞬いた。
本日、私は王国の光になった。
けれど私のいちばん奥の温度は、ルークの心臓の音のお布団の下で、いつもの私のままだった。




