第19話 完全覚醒
翌朝。
白い絹のシーツのふんわりとした感触の中で、私はゆっくりと目を開けた。
宮廷の奥の奥の薬草園の、白い別棟のいちばん奥のお部屋。覚醒の儀式の当日の朝。
お部屋の天井は、白い漆喰の半円のドーム型。中央に、銀色の星の細工をあしらった小さなシャンデリアが、ふっと、ぴたりと、湛えられていた。お部屋の四隅に、白い長い蝋燭が一本ずつ、もう昨夜から、いちばん下の燭台の上に立てられていた。
東向きの大きなアーチ窓の絹のカーテンは、淡い銀色。窓辺の白い大理石のテーブルの上に、白い陶器の小さなお皿、白い陶器の水差し、銀の燭台がひとつ。床は、磨き上げられた白い大理石。その床の上に、淡い銀の刺繍の入った絹の絨毯が敷かれていた。
天蓋付きの私のベッドは、四本の白い大理石の柱に、絹のカーテンが垂れていた。シーツも、枕も、薄い銀色の絹。
覚醒の儀式は、五百年前から王家に伝わる秘儀。聖樹の根から汲み上げた一滴の樹液に、聖女候補の両手のひらを浸す。樹液が光を返せば、その人は本物の聖女。
国王陛下は、ご自分のご即位から三十年、本日のひと日のために、聖樹の前で祈り続けてこられた。
胸元の銀の星の花が、私の呼吸に合わせて静かに揺れていた。
◇◇◇
天蓋の絹のカーテンの向こう側に、ヴェラの深い藍色の外套の輪郭が見えた。
ヴェラは夜通し、ベッドの脇の白い大理石のベンチに控えていた。深い藍色の外套の下に、ふだんと同じ、地味な紺色の侍女服。けれど袖の下の右の腕には、護衛用の短剣の、固いひと筋の輪郭が隠されていた。
ヴェラの栗色の長い髪は、いつも通り、後ろでひと束に結い上げられていた。
「ヴェラ、おはよう」
「お嬢様、おはようございます」
ヴェラの灰青色の目が、私の顔の輪郭を確かめた。その目のひと瞬きに、夜通し私の寝息を見守ってくれていた長い時間が湛えられていた。
東向きの大きなアーチ窓のカーテンが、夜通しほんのひと筋分、開いたままになっていた。そのひと筋の隙間の向こうに、宮廷の奥の東屋の淡い橙色の灯りは、もう消えていた。
──、扉のすぐ外側に、ルーク。
──、ひと晩中、扉一枚向こうに、いてくれた。
──、王家の儀礼を破ったその罰を、明朝、国王陛下にきちんと受けに行く覚悟で。
◇◇◇
お部屋の扉の外側で、低い足音がいくつか軽く走った。
「お嬢様、殿下、お入りになります」
「はい」
白い開き戸がゆっくりと押し開けられた。ルークが入ってきた。
ルークの夜会服は、深い藍色の絹地。襟元と袖口に、銀の細い糸で、王家の双頭の鷲の刺繍。胸元には、王家の徽章の銀のブローチが、ぴたりと留められていた。けれど襟元と袖口の絹に、夜通しの見守りのわずかな皺が走っていた。
空色の瞳の目尻に、薄い疲労の影。銀色の前髪が、いつもより少し額の上に垂れていた。
それでもその瞳が私の姿を確認した瞬間、ルークの顔が優しくなった。
「エリー、眠れた?」
「はい、ルーク。よく眠れました」
「うん。よかった」
ルークの長い指が、私の絹の寝間着の襟元の星の刺繍の上で止まった。
「ぼくの祈りが、君の夜の闇を半分くらい守れたかな」
「半分以上、守ってくれました」
ルークの口元が緩んだ。
◇◇◇
朝食のお盆が、ヴェラの脇でフィンの確認を受けてから、私の前に運ばれた。
白い陶器の小さなお皿に、軽い温野菜と、白い小さなパンと、淡い金色のスープ。白い陶器のカップに、淡い金色のハーブティー。
フィンは、いつも通り、口元を覆面で覆っていた。黒い覆面の下に、深緑の瞳の輪郭だけが、ぴたりと見えた。フィンの背後の、深い藍色の腰帯に、長い短剣の銀の鞘の輪郭が、ぴたりと湛えられていた。
「お嬢様、本日のご朝食はすべてわたくしが確認いたしました」
「フィン、ありがとうございます」
宮廷魔術師団のお手紙によれば、昨夜お茶に毒を混ぜようとした宮廷侍女は、まだ口を割らない、という報告が朝一番で届いていた。軟禁中のミラ嬢か、その背後の宰相の手が、まだこの宮廷の奥まで及んでいる。
◇◇◇
宮廷の侍女のおひとりが、覚醒の儀式の召し物を、絹の包みで運んできた。
絹の包みを、白い大理石のテーブルの上でほどく。
中から、ふっと、白い絹の長い儀式服が、ふんわりと現れた。
胸元から足元まで、純白の絹のひと続き。襟ぐりはVの字に深く開いていて、襟元の縁に銀の細い糸の、五弁の星形の刺繍が、ふっと、しずしずと走っていた。袖は、ふんわりと長く、袖口にも、同じ銀の星の刺繍。
裾は、白い大理石の床まで届く長さで、足元の絹に、もうひと層、深い、銀の細工の蔓草の刺繍が走っていた。
最後にお召しになった方は、四代前のアンネリーゼ王妃。百二十年の眠りから目覚めた絹は、いつものドレスの絹よりもわずかに冷たかった。
胸元の銀の星の花は、寝間着から儀式服へ自然に移った。儀式服の銀の星の刺繍の中央に納まる。
──、花、おまえも今日が本番ね。
化粧台の銀の鏡の前で、宮廷の侍女が私の長い髪を結い上げてくれた。頭の上に銀の長い簪が二本差し込まれた。
簪の頭の細工は、聖樹の星の形の花。銀の細い枝が、しずしずと、絡み合って、ひとつの星の形を作っていた。簪の柄の部分にも、淡い銀の蔓草の彫り。
鏡の中に、知らない女性が立っていた。
白い絹の長い儀式服。頭の上の銀の簪と結い上げた髪。胸元に淡く光る銀の星の花。
ルークが化粧台の脇に近づいた。そして鏡の中の私の肩に、両手を置いた。
「鏡の中の君は、いつもの君だ。白い絹の儀式服を着ても、銀の簪を差しても、ぼくが十二年見つめ続けてきた君の輪郭はひと欠片も変わってない」
その瞳の揺るぎなさが、鏡の中の知らない女性の輪郭を、私の知っているエリーゼに戻してくれた。
◇◇◇
宮廷の奥の奥の薬草園。
正午のいちばん高い太陽の光が、ガラスの天井越しに、ラベンダーの茂みの深紫色の頭の上にこぼれていた。
ガラスの天井は、白い大理石の柱に支えられた、半円のドーム型。ドームの内側に、銀の細い格子が走って、その格子のひと枡ひと枡に、青みがかった透明なガラスがはめられていた。光は、その青みがかったガラス越しに、薬草園のぜんぶの空気を、淡い銀色に染めていた。
ラベンダーの茂みの両側には、月光草、星霜草、聖女の百合、銀のミントなど、希少な薬草が、しずしずと並んでいた。地面は、薄い銀色の細かい石が敷かれていて、私の絹の靴底が、ことりことりと音を立てていた。
聖樹の前まで案内された道のりの両側に、貴族のぜんぶの方々が整然と並んでいた。男性の方々は深い藍色や、深い緑、深い紫の夜会服。女性の方々は、いつもよりひと刷毛、控えめな色の絹のドレス。
いちばん奥に、白い大理石の祭壇。祭壇の三段の階段の上に、深紅の絹の絨毯が敷かれて、玉座が置かれていた。
玉座は、白い大理石の土台の上に、深紅の絹の張られた椅子。椅子の背もたれに、王家の双頭の鷲の銀の細工。
その玉座の脇に、国王陛下がお座りになっていた。深紅の長いローブ。胸元に、王家の徽章のついた銀の細い鎖。頭の上に、銀の小さな冠。
ご隣に、宮廷魔術師長のご老人。白い長いローブ。胸元に、深い藍色の月と銀色の星の徽章。
そのご隣に、王太子エリオット殿下。深い銀色の夜会服。胸元に、王太子の徽章のついた銀の鎖。
王太子殿下の空色の瞳が、私の姿を確認した。
そのひと瞬きに、もう夜会の断罪の顔の影はなかった。代わりに深い後悔と、私への赦しの願いが湛えられていた。
ルークが言っていた。王太子殿下は、暗殺計画の物証提示を受けて、半月の間、お部屋でひと言もしゃべらずに過ごされていた、と。今日初めて、ご自分の足でこの薬草園に立たれた、と。
◇◇◇
聖樹のすぐ前の白い大理石の祭壇。
祭壇の中央に、白い陶器の深い皿。皿は、両手のひらをすっぽりと収めるほどの大きさで、縁に銀の細い細工の蔓草が走っていた。
皿の中には、聖樹の根のほんのひと滴の樹液が、ぴたりと、湛えられていた。樹液は、淡い金色に近い、ふっと、透明な液体。
宮廷魔術師長のご老人の長い杖は、白い木で、先端に銀色の宝玉が嵌め込まれていた。
「皿の中の聖樹の樹液に、お嬢様の両手のひらをお預けください」
「はい」
私は深く息を吸った。そして両手を、ゆっくりと皿の中の聖樹の樹液の上に預けた。
◇◇◇
私の手のひらが、聖樹の樹液の表面に触れたその瞬間。
樹液がふっと淡い銀色に光り始めた。皿の中の樹液がふんわりと立ちのぼって、私の両手の輪郭をゆっくりと包み込んだ。
光は温かくも冷たくもない。ただ私の肌のいちばん深いところに、ふっと染み込んでくる感覚。
両手の輪郭から染み込んできた銀色の光が、腕、肩、首筋、胸、お腹、太腿、足、と染め上げていく。最後に頭のてっぺんまで銀色に染め上げたその瞬間、私の身体のぜんぶの輪郭が、淡い銀色の光に包まれていた。
胸元の銀の星の花が、ふっと一段深く光った。
その光が私の身体の銀色の輝きと共鳴して、薬草園のぜんぶの空気を満たすほどの広がりに変わっていく。ラベンダーの深紫色の頭のひとつひとつが、銀色の層に包まれていく。聖樹の銀色の幹の皺のひとつひとつが、深い温かい光を灯していく。
そして私の意識が、ふっと別の場所に引っ張られた。
◇◇◇
三日前と同じ、銀色の霧の中。
霧の中で、五百年前の聖女様の輪郭がふっと浮かび上がった。
淡い銀色の長い髪は、足元まで真っ直ぐに流れていた。空色の瞳。足元まで届く白い長衣の襟ぐりにも、銀の細い糸で、星の形の刺繍が走っていた。胸元に、ーー、銀の細い鎖のペンダント。
そのペンダントは、ーー、お母様のお祖母様のお祖母様の代から伝わるという、ヴァルトハイム家の星形のお守りと、よく似た輪郭だった。
『よく、ここまで来ましたね』
──、聖女様。
『あなたの両手のひらには、もう、五百年分の聖女の力が、湛えられました』
『けれど、これは始まりです』
『あなたのこの先の道のりに、まだ、ふたつ、深い影が待っています』
──、ふたつの、影。
『ひとつは、宰相と偽聖女』
『もうひとつは、五百年前の悲恋の、いちばん深い、根っこ』
宰相と偽聖女よりも、深い、影。その「根っこ」が、これからの道のりのどこかで、私を待っている。
聖女様の指が、私の胸元の銀の星の花を指した。
『この花は、あなたの守り。禁術を、剥がす、力』
『けれど、もうひとつ、あなたに、お渡しするものがあります』
聖女様の白い指が、左の手のひらをゆっくりと開いた。
その手のひらの中央に、ひとひらの淡い銀色の小さな羽根。鳥の羽根のようでもあり、星の光のかけらのようでもあった。
『これは、声、を、運ぶもの』
『あなたが、いちばん深い場所でルーカスを呼べば、ルーカスの胸に必ず届きます』
──、声を、運ぶ。
『五百年前、わたくしは、これを、銀の王子に、渡せなかった』
聖女様の空色の瞳の奥に、五百年の悲恋の深いひと粒が湛えられていた。
『わたくしの銀の王子は、わたくしの声が届かないまま、お亡くなりになった』
『あなたは、わたくしができなかったその一歩を、お進みなさい』
聖女様の指の上の銀の羽根が、ふっと私の方へ飛んできた。私の胸元の銀の星の花の脇に、ふっと留まった。
『お進みなさい』
聖女様の輪郭が、銀色の霧の中で、ふっと薄れていった。
◇◇◇
私の視界が、ふっと薬草園に戻った。時間はほんの一瞬しか経っていなかった。
私の両手のひらは、ゆっくりと聖樹の樹液から離れた。樹液はもう光っていなかった。代わりに私の両手のひらの肌の上で、淡い銀色の光がまだぼんやりと残っていた。
胸元の銀の星の花の脇に、もうひとひら、淡い銀色の小さな羽根が留まっていた。
──、聖女様、お預かりいたします。
◇◇◇
宮廷魔術師長のご老人の声が、ゆっくりと深く響いた。
「宣告いたします」
「エリーゼ・ヴァルトハイム侯爵令嬢のお力は、五百年前の王家の聖女様と同じ温度のお力でございます」
ご参列の貴族の方々の声が深く震えた。
「もって、エリーゼ・ヴァルトハイム侯爵令嬢を、王国の本物の聖女と、公式に宣告申し上げます」
◇◇◇
国王陛下が玉座から、ゆっくりと立ち上がった。深紅の長いローブの裾が、白い大理石の階段の上に、しずしずと流れた。
「諸卿。エリーゼ・ヴァルトハイム侯爵令嬢が本物の聖女でいらっしゃること、本日明らかになった」
「お嬢様のお身柄は、王家のお祈りの守りの対象と、公式に認める」
国王陛下の銀色の前髪が、午後の光の中で、ふっと、淡く輝いた。お声に震えが混じった。三十年のお祈りがようやく叶ったことへの安堵の震えだった。
「諸卿、エリーゼ・ヴァルトハイム侯爵令嬢に深い礼を示してくれ」
薬草園のぜんぶの貴族の方々が、いっせいに絹の絨毯の上に深く頭を下げた。男性の方々の燕尾服の銀の徽章が、ぴたりと並んで、午後の光に瞬いた。
これは、私ひとりに向けられた礼ではない。王国のぜんぶの方々の、五百年分のお祈りの温度。
ルークの長い指が、儀式服の後ろの裾のいちばん下から、ぎゅっと握って支えてくれた。
◇◇◇
国王陛下のお言葉の後、王太子殿下のお顔がふっと、私の方に向いた。
その空色の瞳の奥に、まだ、私に、お申し上げたい言葉が湛えられているのが、見えた。
「エリーゼ嬢」
国王陛下のお声が、静かに続いた。
「儀式のあと、王家の私室でお話を聞いてほしい」
「はい、陛下」
王太子殿下のお肩が、ふっと、わずかに、引き締まった。




