第18話 聖女覚醒の儀式の前夜
謁見の間で、ミラ嬢の偽の聖女の力が私の前で消えてしまった日から、五日が過ぎた。
その五日間、私はほとんどの時間を、離宮の自分のお部屋の白い天蓋の中で過ごしていた。
ハンナが朝、絹のカーテンを開けてくれる。
ヴェラが昼、廊下のいちばん日当たりの良い角を静かに見守ってくれている。
フィンの気配が夜、お部屋の外の薄暗い回廊の影にぽつりとある。
私を囲んでいる三人の気配のいずれも、いつもより半音深く密度を増していた。
その密度の中で私は、ミラ嬢の最後の刃物のような眼差しを何度も自分の肩の奥から引き上げては、しまい直していた。
──、あの目。
──、軟禁くらいで止まる人の目ではなかった。
──、何かがたぶん、これから来る。
◇◇◇
五日目の朝。
朝食の席で、ハンナが銀のトレイの上に新しい封書をしずしずと運んできた。
封蝋はいつもの王家の双頭の鷲。
ただしその下に、もう一筋銀色の細い別の紋章が控えめに押されていた。
宮廷魔術師団の深い藍色の月と銀色の星。
ルークの空色の瞳が、その銀色の紋章の上でふっと止まった。
「父上と魔術師団、連名の手紙」
ルークが銀のナイフをゆっくりと取り出した。
刃が封蝋の縁をすっと滑った。
便箋がふんわりと広げられた。
私は紅茶のカップを自分の指の中でゆっくりと温めながら、ルークの瞳の動きを横から静かに追いかけた。
「三日後の夜。覚醒の儀式を正式に執り行う」
「三日後の夜」
「うん。前日の夜から、君は宮廷の聖樹のごく近くの白い部屋に泊まる」
「ひと晩泊まるのですか」
「うん。覚醒の儀式は、聖樹の根の温度と月の満ち欠けと、力の主の肌の状態を合わせて行う儀礼だから」
「ーー」
「だから前日のひと晩、君は聖樹のそばで過ごす」
ルークの長い指が、便箋のある一行の上をもう一度なぞり直した。
その指の動きに、わずかなためらいの跡が走った。
「エリー、ぼくもその夜、宮廷の別棟に待機する」
「別棟、お部屋は別なのですね」
「うん。覚醒の儀式の前夜は、聖女候補は一人で過ごす儀礼だ」
「ヴェラが一緒する。フィンが部屋の外で待機する。父上の近衛も、廊下と屋根の両方に配備される」
ルークの空色の瞳が、私の目をまっすぐに捉えた。
「それでもぼくは、君の部屋の外のいちばん近い別棟までしか行けない」
その声のわずかなしおれ方に、私の胸のいちばん奥がふっと和らいだ。
──、ルークったら、私のすぐ隣にいたかったのね。
私は紅茶のカップをテーブルの上にそっと戻した。
そして震えない声で答えた。
「ルーク」
「うん」
「私、ヴェラとフィンと近衛の方々がご一緒なら大丈夫です」
「それにルークの気配が隣の別棟にあると思えば、夜の闇も半分くらい優しくなります」
ルークの長い指が、テーブルの上の私の指の関節の輪郭をふっとなぞった。
「君は本当に強くなった」
「いえ、ルークが強くしてくださっているんです」
ルークの口元がふっとわずかに緩んだ。
その目尻の深い深い優しさを、私は自分の目の奥にしっかりとしまった。
◇◇◇
三日前から、宮廷の儀式の準備が密かに始まった。
宮廷の奥の奥の薬草園の、聖樹のすぐ近くの白い大理石の小さな別棟。
その白い別棟の東向きのお部屋を、宮廷の侍女たちがしずしずと整えていく、とハンナから伺った。
天蓋付きの白い絹のベッド。
枕元に白い長い聖女の儀式服。
化粧台に銀の簪と髪飾り、銀の鏡。
部屋の四隅に白い長い蝋燭がひと本ずつ。
──、それらの準備のひとつひとつを、私はハンナの口からゆっくりと伺った。
──、伺いながら私のお部屋のハンナの整えていた薄紅色の絹のドレスや、薔薇の入浴剤や、化粧台の香水瓶をふっと目で追った。
──、これらの私の知っているものたちと、白い別棟の白い儀式服や銀の簪は、たぶんまったく別の世界の準備なのだろう。
──、私はこれからその別の世界の入り口にひと晩、ひとりで立つ。
◇◇◇
二日前の午後。
ヴェラがいつもより念入りに、私の身辺の見回りをしていた。
廊下の角の植木鉢の後ろ。
窓辺の絹のカーテンの内側。
ハンナの銀のトレイの底の輪郭。
ヴェラの灰青色の目が、それらのすべてをゆっくりと確認していく。
「ヴェラ、何かお探し?」
「いえ、お嬢様。念のためでございます」
ヴェラの答えは簡潔だった。
けれどその簡潔さの奥に、警戒のひと層深くなった輪郭が湛えられていた。
「ヴェラ」
「はい」
「何か不安にお思いのこと、ありますか」
ヴェラの灰青色の目が、私をちらりと見上げた。
そしていつもよりもほんの半音低い声で答えた。
「お嬢様。軟禁という処分は、部屋の内側からの動きを止めるものではない、と考えております」
「部屋の内側からの動き」
「部屋の中の筆や便りや、使用人を通じての意思の流れ。それらは軟禁では止まりません」
「ーー」
「お嬢様。わたくしどもは念のため、いえ念のため以上に警戒を深めております」
ヴェラの白い指が、深い藍色の外套の袖の下にふっと滑り込んだ。
その袖の下の硬いものの輪郭が、私の目の奥にはっきりと刻まれた。
◇◇◇
前日の午後。
離宮の馬車寄せに、深紅の馬車がゆっくりと停まった。
私は白い絹の長いマントを、絹のドレスの上からふんわりと羽織った。
マントの襟元の銀の留め金が、午後の光にぴたりと瞬く。
ハンナが私の前で、深々とお辞儀をした。
「お嬢様、明朝ご無事のお戻りを心からお祈り申し上げております」
「ありがとう、ハンナ。明日の夕方には戻ります」
ハンナの目尻に、薄く光るものがふっと滲んでいた。
私はハンナの肩を軽く抱きしめた。
ハンナの絹のエプロンの僅かに震える感触が、私の両手に伝わった。
──、ハンナ、本当に心配してくれている。
──、ヴェラの警戒の深さを、ハンナも肌で感じている。
馬車に乗り込んだ私の隣に、ルークがゆっくりと腰を下ろした。
馬車寄せから王宮の東門までの長い道のりを、私たちはほとんどしゃべらずに過ごした。
窓の外を初夏の緑がゆっくりと流れていく。
ラベンダーやローズマリーの淡い香りが、馬車の中の絹のクッションの繊維の隙間にふんわりと染み込んできた。
ルークの長い指が、馬車の深紅のシートの上で私の指の輪郭の上にふっと重ねられた。
その指の温度が、絹の手袋越しにゆっくりと染み込んできた。
──、明朝までルークと会えない。たかだかひと晩。
──、けれどそのひと晩が、いつもよりずっと長く感じる。
◇◇◇
王宮の奥の奥の薬草園のいちばん奥に、白い大理石の小さな別棟がぽつりと佇んでいた。
別棟の白い低い屋根の下に、白い開き戸がひとつ。
その開き戸の前に、近衛の騎士が四人ぴたりと整然と控えていた。
ルークが私の手を、その白い開き戸のすぐ前までゆっくりとエスコートしてくれた。
そして私の絹の手袋の指先を、自分の指でふっと軽く握り直した。
「エリー」
「はい」
「ぼくは別棟のすぐ隣の東屋に、ひと晩控えてる」
「はい」
「窓の内側の絹のカーテンを、ほんの少し開けてくれると、ぼくの東屋の灯りが見える」
「見えるのですね」
「うん。ぼくも君の部屋の窓の灯りが見える」
ルークの空色の瞳が、私の目をまっすぐに捉えた。
「お互いの灯りの瞬きが、ひと晩中ぼくらの合図になる」
「ルーク」
私の目からぽろりとひと粒の涙が零れかけた。
ルークの長い指が、その涙の零れるぎりぎりの瞬間で、私の目尻の肌をふっと軽く押し戻してくれた。
◇◇◇
「エリー」
「はい」
「覚醒の儀式が明日終わって、君が本物の聖女として王国に公布される」
「はい」
「その瞬間から君は、ぼくの知ってたエリーゼ・ヴァルトハイムと、もう一段別の存在になる」
「ルーク」
「王国のぜんぶの希望の光になる、ということ」
ルークの声に、いつもの揺るぎなさの奥に、もう一段深い心配の響きが混じった。
「ぼくが君に言っておきたいことが、一つある」
「はい」
「君が聖女として変わっても、変わらなくても、ぼくの君への想いはひと欠片も変わらない」
ルークの長い指が、私の絹のマントの襟元のちょうど星の刺繍の上でぴたりと止まった。
「君が王国の光になっても、ぼくにとっての君はいつもの君のままだ」
「はい」
ルークの指が、襟元の星の刺繍をひと撫でふた撫で、ゆっくりとなぞった。
その指の動きはいつものルークの自信に満ちた動きとは別の、もう一段繊細な祈りのような動きだった。
私はそのひと撫でふた撫での温度を、絹のマントの襟元の奥の肌のいちばん深いところに刻んだ。
◇◇◇
白い開き戸がゆっくりと開いた。
中に宮廷の年配の侍女がふたり、ぴたりと控えていた。
ヴェラが私のすぐ後ろにぴたりと付いた。
私はルークに深く頭を下げた。
「ルーク、明朝お会いいたします」
「うん。エリー、無事で」
ルークの手のひらが、私の頬の輪郭をゆっくりと最後に撫でた。
その指の温度が、私の頬の上に淡いひとつの祈りを置いた。
私はその温度を自分の肌の奥にしっかりとしまって、白い開き戸の内側へゆっくりと歩き出した。
開き戸がぱたんと閉まったその音は、いつものお部屋の扉の閉まる音とまったく違って、私の世界の半分を向こうに置いていく音だった。
◇◇◇
白い別棟のいちばん奥のお部屋。
天蓋付きの白い絹のベッド。
枕元に白い長い儀式服。
化粧台の銀の鏡の表面が、夕日の淡い橙色をふっと反射していた。
四隅の白い長い蝋燭が、宮廷の侍女たちの指でひと本ひと本ゆっくりと灯されていく。
蝋燭の淡い橙色の光が、白い大理石の壁をふんわりと染め変えていく。
その光の揺らぎの中で、ヴェラの深い藍色の外套の輪郭が、いつもよりほんの半音深くシャープに見えた。
「お嬢様、お疲れでございましょう。湯浴みのご準備が整ってございます」
宮廷の侍女のおひとりが、しずしずとご案内くださった。
◇◇◇
湯殿の白い大理石の浴槽。
湯気の中にラベンダーと銀のミントの優しい香りが、ふっと立ちのぼっていた。
浴槽の淡い温かい湯に、私はゆっくりと肩まで沈んだ。
身体の緊張の輪郭が、湯の優しい温度にひと撫でふた撫でほどかれていく。
湯気の向こうに、ヴェラのぴたりと控えた輪郭がふっと見えた。
ヴェラは湯殿の入り口の白い大理石の柱に軽くもたれかかって、まっすぐに立っていた。
その立ち姿は、私の湯浴みを見守る侍女、というよりは、たぶん私の命のいちばん近くを守る騎士の姿勢だった。
「ヴェラ、お疲れになりませんか」
「いえ、お嬢様。わたくしの役目はこちらにございます」
ヴェラの声は簡潔だった。
その簡潔さに、私は自分の肩の輪郭がふっとほどけるのを感じた。
ヴェラがぴたりとここにいてくれる。
それだけで、ひと晩のお部屋の空気の密度が半音軽くなる。
◇◇◇
湯浴みを終えて、白い絹の寝間着に着替えた。
寝間着の襟元から袖口まで、白い絹の糸でごく細かい星の模様の刺繍がふんわりと走っていた。
聖樹の枝の先の星の形の花と、ぴったり同じ模様。
──、宮廷の準備はほんとうに細かい。
──、襟元の刺繍ひとつまで、聖女の儀礼に合わせて織られている。
化粧台の前で、宮廷の侍女のおひとりが、私の長い髪をゆっくりと銀の櫛で梳いてくださった。
その櫛の動きは優しく丁寧だった。
それでもルークの指の感触とは別の、ほんの少し距離のある優しさだった。
──、ルークの指は、たぶんもう私の髪のいちばん深い癖まで知ってしまっている。
──、宮廷の侍女のお方はまだ私の髪のその、いちばん奥の癖を知らない。
──、その知らない距離が、たぶん私の肩のわずかな寂しさになっている。
◇◇◇
儀式の前夜の食事は、白い陶器の小さな皿に、軽い温野菜と白いパンと淡い金色のスープ、ハーブティーが用意されていた。
侍女がハーブティーの白い陶器のカップを、私の前にしずしずと運んだ。
ふんわりと立ちのぼる湯気の中に、ローズヒップとカモミールとハニーブッシュの優しい混ざり合った香り。
私はその香りを深く嗅いだ。
──、おかしい。
──、何かがふっと混ざっている。
私の薬草学の十年が、肩のいちばん奥でぴたりと立ち上がった。
──、これはローズヒップの、ハニーブッシュの自然な香りではない。
──、その優しい香りの底に、もうひと層わずかな薬草の苦さが隠れている。
──、苦さというよりは、毒のわずかな輪郭。
私の指が、白い陶器のカップの取手の上でぴたりと止まった。
「ヴェラ」
私の声は、自分でも思った以上に低く抑えられていた。
ヴェラが湯殿の入り口の白い大理石の柱の脇から、ぴたりと私の横に移動した。
「お嬢様」
「このお茶、おかしい」
ヴェラの灰青色の目が、白い陶器のカップをゆっくりと見下ろした。
そして自分の白い指でカップの取手の脇の、お茶の表面の淡い淡いひと膜を軽くなぞった。
その指先を自分の唇の脇にふっと寄せて、すぐに戻した。
ヴェラの表情が、ふっと深く低くなった。
「お嬢様、お下がりください」
その声の低さに、私は無言で白い絹の寝間着の裾を両手でぎゅっと握りしめた。
◇◇◇
「フィン」
ヴェラの声がお部屋の扉の向こうに低く届いた。
その瞬間、扉がゆっくりと開いた。
廊下の影からフィンが、覆面のまましずしずと入ってきた。
ヴェラがフィンの耳元に、何かを低く囁いた。
フィンの深緑の目が、ふっと深くなった。
そしてフィンの長い指が、白い陶器のカップを両手で優しく持って、しずしずとお部屋を出ていった。
「お嬢様、申し訳ございません」
ヴェラが私の震える両手を、自分の白い指でふっと包み込んでくれた。
「ご儀式の前夜にこんな無礼が」
「ヴェラ、たぶんミラ嬢の」
「はい。軟禁では動きが止まらない、とわたくしどもが申し上げていた通りでございます」
ヴェラの声に、いつものヴェラの簡潔さの奥に、ひとつの深い怒りが湛えられていた。
「お嬢様のお命を狙う方は、軟禁では止まらない」
「ーー」
「お嬢様、本日はわたくしがお嬢様のお部屋の内側にぴたりと控えます」
「ヴェラ」
「わたくしの目の届く範囲に、お嬢様をぜんぶお置きください」
◇◇◇
扉の外で、低い複数の足音が走った。
近衛の騎士たちの剣の柄の、銀色のぴたりと整列する輪郭。
廊下のいちばん奥で、フィンの低い声が誰かを押さえつけている気配。
私の肩のいちばん奥が、ぎゅっと震えた。
「ヴェラ、誰か捕まったの」
「はい、お嬢様。宮廷のお茶の担当の侍女、ご本人かと」
「担当の方がいつもの顔の奥に、別の顔を持っていらした、ということでございます」
ヴェラの声がふっと深くなった。
「お嬢様、本日の担当は、公務公式すべて、宮廷のいちばん奥の方々がお選びになった、と伺っております」
「いちばん奥」
「その、いちばん奥に、ミラ嬢の縁の者が忍び込んでいた、ということ」
──、軟禁くらいで止まる人ではなかった。
──、私の肩のいちばん奥の警戒が、ぴたりと当たってしまった。
──、ヴェラの五日間の警戒の深さが、私の命をすっと救ってくれた。
◇◇◇
ヴェラが白い陶器の新しい湯気の立つカップを、自分の指で運んでくれた。
「お嬢様、こちらはわたくしが直接ご用意したハーブティーでございます」
「ヴェラ、お茶までーー」
「お嬢様のお手に触れるものぜんぶ、わたくしがご確認申し上げます」
私は震える指でその新しい白い陶器のカップを、両手で受け取った。
カップの取手の温かさが、震える指の輪郭をゆっくりと押し戻してくれた。
◇◇◇
お部屋の四隅の白い長い蝋燭の淡い橙色の光が、ふっとひと揺らぎした。
その揺らぎの中で、お部屋の東向きの窓の絹のカーテンがふっと軽く揺れた。
私は白い絹の寝間着の襟元を両手でぎゅっと押さえながら、窓辺にゆっくりと近づいた。
絹のカーテンをわずかにほんのひと筋分、ゆっくりと開ける。
そのひと筋の隙間の向こうに、宮廷の奥の奥の東屋の淡い橙色のひと粒の灯りが、ぽつりとぼんやり見えた。
──、ルーク。
──、ルークの灯り。
──、その灯りがひと晩中、私の窓の外でぼんやりと灯っている。
私の目からぽろりとひと粒の涙が零れた。
その涙が私の頬の上をゆっくりと伝って、絹の寝間着の襟元の星の刺繍の上にふっと落ちた。
◇◇◇
扉の外で、低い聞き慣れた足音が走った。
私の肩のいちばん奥がぱっとほどけた。
ルークがお部屋の扉をゆっくりと押し開けた。
「エリー」
ルークの声が、いつもよりほんの半音深く震えていた。
「ルーク」
ルークの空色の瞳が、私の姿をぱっと確認した。
そして私の震える両手と頬の涙の跡を見て、自分の長い指でぎゅっと両拳を握りしめた。
◇◇◇
「本当に無事でよかった」
ルークが私のすぐ前まで、しずしずと進んだ。
そして自分の両腕をふんわりと、私の肩の上に置いた。
抱きしめるというよりは、両腕で私の肩の輪郭をゆっくりと確かめるような動きだった。
「フィンが、宮廷侍女担当の者を捕縛してくれた」
「はい」
「お茶の底に致死量の薬草の毒が混ぜられていた、と」
「ヴェラが準備の五日間ぜんぶ、警戒してくれていました」
「うん。フィンとヴェラのふたりに、ぼくは命を預けてしまった」
ルークの声が低く震えた。
「儀礼でぼくは部屋の内側に入れないはずだった」
「はい」
「けれどフィンから低い合図が入ったその瞬間、ぼくは儀礼を破って駆け込んだ」
ルークの空色の瞳の奥が、深く深く震えていた。
「儀礼の罰は、明朝覚悟する」
「ルーク」
「君の命より大事な儀礼は、ぼくの中にないから」
◇◇◇
私はルークの夜会服の襟元に、ゆっくりと頭を預けた。
ルークの心臓の音が、いつもよりずっとずっと速く走っていた。
その速いひと拍ひと拍を、私は自分の頬の骨を通して、脳のいちばん奥に刻み込んだ。
──、ルーク。
──、儀礼を破ってまで、私を助けに来てくれた。
──、儀礼の罰、覚悟して。
──、私の命のいちばん奥の守りはルーク。
ルークの長い指が、私の絹の寝間着の襟元の星の刺繍の上でぴたりと止まった。
そしてその刺繍をゆっくりとひと撫でふた撫で、なぞった。
その指の動きはいつものルークの自信に満ちた動きとは別の、もう一段繊細な祈りのような動きだった。
◇◇◇
ルークが自分の額を、私の額にゆっくりと押し当てた。
額と額が、ぴたりと合わさった。
その温度のひとつひとつのぬくもりに、私の肩のいちばん奥の震えがゆっくりとほどけていった。
ルークの空色の瞳が、私の目のぎりぎり近くで深く深く揺れていた。
その瞳の揺らぎの中に、ぼくは君のすべてという祈りと、君を永遠に守るという決意がぴたりと湛えられていた。
私は目をゆっくりと閉じた。
ルークの額の温度。
私の額の温度。
二つの温度がゆっくりと混ざり合って、ひとつの温度になっていった。
◇◇◇
どれくらいの時間が流れたか。
たぶん白い長い蝋燭の淡い橙色の光が、白い大理石の壁をゆっくりとひと撫でふた撫で染め直すほどの長さ。
その時間ルークも私も、ひと言もしゃべらなかった。
ただ私たちの額の温度と、ルークの心臓の音だけが、しんとしたお部屋のぜんぶに響いていた。
◇◇◇
ルークがゆっくりと額を、私の額から離した。
そして自分の長い指で、私の頬の輪郭をもう一度優しく辿った。
「エリー」
「はい」
「ぼくは儀礼の罰を覚悟して、今夜部屋の扉の外側にひと晩控える」
「ルーク、それは疲れるでしょ」
「いえ、それでいい」
ルークの声に迷いはなかった。
「父上には、ぼくの祈りの責任で許しを願う」
「はい」
「君は白い天蓋の内側でゆっくり休んで」
「はい、ルーク」
◇◇◇
ルークが私を、白い天蓋の絹のベッドまでゆっくりとエスコートしてくれた。
絹のシーツの上に、私をそっと横たえた。
そしてシーツの襟元の絹の縁を自分の指でふんわりと、私の肩まで引き上げてくれた。
「ルーク」
「うん」
「おやすみなさい」
「おやすみ、エリー」
ルークの長い指が、私の額の上で最後のひと撫でを置いた。
その指の温度が私の肌の上に、いちばん深い祈りを置いた。
ルークがお部屋の扉の外側へ、ゆっくりと進んだ。
扉がぱたんと軽く閉まった。
その音はもう、私の世界の半分を向こうに置いていく音ではなかった。
代わりに私の世界の半分を、扉の外側でぴたりと守ってくれる音だった。
◇◇◇
お部屋の四隅の白い長い蝋燭の淡い橙色の光が、ふっと深くなった。
ヴェラが私のベッドのすぐ脇の白い大理石のベンチに、ぴたりと控えてくれていた。
そのヴェラの深い藍色の外套の輪郭が、私の目の奥のいちばん安全な場所になった。
私はゆっくりと目を閉じた。
絹のシーツの襟元の星の刺繍が、私の首筋の肌の上でふっと軽く瞬いた気がした。
その瞬きの向こうに、扉の外側のルークの心臓の音が、私の脳のいちばん奥にとくんとくんと優しく届いていた。
聖樹の淡い銀色の光は、まだ見えなかった。
けれど私の額の上のルークの最後の祈りの温度が、私の肌のいちばん深いところにふんわりと灯っていた。
その灯りが明朝の覚醒の儀式まで、私のひと晩をしっかりと守ってくれるはずだった。




