第17話 ミラ嬢の偽聖女の力が、消えた件
聖樹の前で葉が淡い銀色に瞬いたあの日から、三日が過ぎた。
その三日間、ルークはいつもよりわずかに口数が少なかった。
朝食の席で便箋をしずしずと広げるその動作。午後、温室で銀のミントを剪定するその手つき。夕方、暖炉の前で革表紙の本の頁をゆっくり繰るその指先。
どの瞬間にもルークの動きには、いつもの揺るぎなさが保たれていた。それでも私にはわかった。
──、ルーク、何か考えてる。
──、いえ、考えているというよりは、何かを注意深く待っている感じ。
聖樹の淡い銀色の光は、確かに王宮の深いところにひとつの波紋を落とした。その波紋がどこまで広がるのか。どんな形になって私の元に戻ってくるのか。
ルークはその見えない流れのひと滴ひと滴を、空色の瞳で丁寧に追いかけているのだと思った。
◇◇◇
その三日間、私の絹のドレスの胸元には、聖樹からお預かりした銀の星の花が、ふんわりと留まり続けていた。
朝、着替えのために絹のドレスを脱ぐと、花はふっと私の手のひらに移った。ハンナが新しいドレスを着付けてくれると、花は自然にそのドレスの胸元の刺繍の上に、ぴたりと収まる。
しおれない。色も落ちない。ただ朝の光の中では薄い銀色、夕方の光の中では淡い薔薇色に、ふっと色合いが変わるだけ。
その三日間、ハンナもヴェラもこの花のことは、ひと言も口にしなかった。ただ、ハンナのドレスを選ぶ手は、花の輪郭をいつも自然に、いちばん引き立てる位置に納める動きで動いていた。
──、私の胸元の花は、もう、私の身体のひと部分のようなもの。
──、聖樹からお預かりして、私が守るという約束のひと欠片。
◇◇◇
三日目の朝。
ハンナがいつものように、自室の絹のカーテンをふんわりと開けてくれた。
朝の光が淡い金色の帯になって、白い大理石の床の上にゆっくりとこぼれ落ちる。その光の帯の縁を、ハンナが銀のトレイを両手に持って、しずしずと横切ってきた。
「お嬢様、おはようございます」
「おはよう、ハンナ」
「王宮よりお早馬のお手紙が届いてございます」
トレイの上には一通の封書が、深紅の絹のリボンで軽く結ばれていた。封蝋の双頭の鷲。深い赤の力強い押し型。
──、また国王陛下、ご自身のお筆。
私は絹のシーツを肩まで引き上げながら、慎重にその封書を受け取った。ルークはすでに寝室を出ていた。たぶん朝食の前の剣の稽古に出ているのだ、と思う。
「ハンナ、これルークと一緒に開けた方がいいかしら」
「いえ、お嬢様。陛下よりご当人様に直接お開けいただくよう、と書状の使者から伝言を預かってございます」
「私に直接」
私の指先がわずかにこわばった。ハンナが私の指の動きをちらりと見て、けれど何も言わずに銀のティーポットを傾けた。
カップの底に淡い金色の紅茶が、ふんわりと注がれていく。その湯気の優しい温度に、私の肩の力がほんの少しほどけた。
◇◇◇
便箋を広げる。
走っていたのは流麗な、けれどいつもよりわずかに急いだ筆致の文字。
『エリーゼ嬢、
明日午後、王宮の謁見の間にて、
聖女覚醒の儀式の予行を執り行う。
ミラ嬢を含む聖女候補二名のお立ち合いを求めた。
お前にも参列をお願い申し上げる。
そのお身柄、ぼくの責にて必ずお守り申し上げる。
アルベルト』
私の指が便箋の縁を、ぎゅっと握りしめた。
──、ミラ嬢を含む聖女候補二名。
──、その一人はおそらく私。私とミラ嬢を並べる、ということ。
──、王宮の謁見の間で、貴族の見守る前で。
私の頬の温度が、ふっと引いた。
ミラ嬢、と書かれたその三文字に、私の頭の中でいくつもの記憶がぱらぱらとめくられていく。
──、夜会のシャンデリアの下で、ピンクのドレスを震わせながら涙を流していたあの姿。
──、私を断罪する王太子殿下のお腕にすがって、もう一度涙を零したあの清純な顔。
──、半月前から、ロイス男爵家と宰相のご後援で、聖女としてお名乗りを上げていたあの栗色の髪。
──、そして私の知らないところで、私の命を取りに来ていたあの方。
私の喉の奥に冷たい風が走った。紅茶のカップを、ハンナが私の手の中に優しく戻してくれた。
「お嬢様、まずはひと口お召し上がりくださいませ」
「ありがとう、ハンナ」
紅茶の淡い金色の液体が、喉の深いところをゆっくりと温めた。その温度が震えかけた指の輪郭を、ふんわりと押し戻してくれた。
◇◇◇
朝食の席で、私はその便箋をルークに渡した。
ルークが便箋を指でふんわりと広げて、文字の上を空色の瞳がゆっくりと辿る。その瞳の色がひと頁の半ばで、わずかに深い暗い藍に変わった。
「父上、思い切ったことをなさる」
「ルーク、これどういう意味なのでしょう」
「うん」
ルークが便箋をテーブルの上にしずしずと戻した。そして長い指を組み合わせて、その指の輪郭の上に額を軽く預けた。
「聖樹の件、父上はもう決心を固めていらっしゃる」
「ご決心」
「ミラ嬢の聖女覚醒が本物か偽物か。それを王宮のぜんぶの目の前で決着しようとなさってる」
「ーー」
「君をその舞台の中央に立てる、ということ」
ルークの指が額の下でゆっくりと組み直された。
「父上のご意図は、二つある」
「二つ」
「ひとつ。聖樹の件を王国の貴族たちの前で確かにする。これで君が聖女の血を引いていることが、もう否定できなくなる」
「もうひとつ」
ルークがふっと顔を上げた。その空色の瞳が、まっすぐに私の目を捉えた。
「君を王家の正式な保護下に置く。これでミラ嬢がもう君に手を出せなくなる」
「ルーク」
「父上は、君を守るためにこの舞台を整えていらっしゃる」
ルークの声に、長い長い息が混じった。
「けれど舞台の上に立つのは、君だ」
「はい」
「ぼくができることは、その舞台のいちばん近い場所で、君のすぐ隣に立つことだけ」
ルークの長い指が、テーブルの上の私の指の関節の輪郭をそっとなぞった。その指の温度の優しさに、震えかけた肩の輪郭がふっとほどけた。
「はい、ルーク。参ります」
「ありがとう、エリー」
◇◇◇
その日の午後と翌日の午前は、いつもよりゆっくりと時間が流れた。
ハンナが宮廷用の絹のドレスを何着か、私の前にふんわりと並べてくれた。
「お嬢様、明日のご参列は、淡い白に近い薄い銀色のドレスをお選びになるのがよろしいかと」
「白に近い銀色」
「はい。聖女覚醒の儀式の予行でございます。色味の過剰なドレスはお場違いにお見えになります」
ハンナの選んだのは、襟元から袖口まで流れるような、白に近い薄い銀色の絹のドレス。胸元には控えめに星の形の銀の刺繍が走っていた。
──、星の形の銀の刺繍。聖樹の枝の先に咲いていたあの花と、同じ模様。
──、ハンナ、もしかして、わざと。
──、たぶん、私の胸元の花を、いちばん自然に匿う、ハンナの長年の侍女としての勘。
ハンナが私の長い髪をゆっくりとひと束に結い上げてくれた。
結われた髪の付け根の肌に、ふっと夕日の淡い橙色の記憶がこんと響いた。
──、聖樹の前でルークが私の髪を編んでくれたあの夕方。
──、その記憶の温度を、私は首筋の肌の奥にずっとしまっている。
それが明日の王宮の舞台で、私の足元をほんの少しだけしっかりと支えてくれそうな気がした。
◇◇◇
翌日の午後。
王宮の東門の玉砂利が、馬車の車輪の下でこつん、こつんと控えめに鳴った。その音はいつもよりも、ほんの半音低い気がした。
馬車を降りた私の絹の靴底が、白い大理石の階段のいちばん下にことりと触れた。ルークの長い指が、絹の手袋越しの手を優しく引いてくれた。
馬車寄せから謁見の間まで、長い長い回廊が続いていた。その回廊の両側にいつもよりも多くの警備の騎士たちが、整然と並んでいた。剣の柄の銀色の輪郭が、午後の光に揃って瞬く。
──、警備、いつもの倍以上。王宮も本気で何かに備えている。
私の隣でヴェラの足音が、いつもよりほんの僅かに軽くなっていた。軽い、というのは緊張を解いているということではなかった。逆だった。
ヴェラの身体は、走り出せる、跳び上がれる、剣を抜ける、その、すべての可能性に、いつでも対応できる姿勢に入っていた。
私はヴェラのその軽さの意味を、自分の背筋にしっかりと刻みつけた。
回廊の途中で、ふっと胸元の銀の星の花が、ほんの僅かに揺れた気がした。絹のドレスの上に留まっているはずの花が、まるで何かの気配に応じるように、ひと震えしたような感覚。
私の指が無意識のうちに、胸元の花の上に触れに行った。花は、いつもの場所に、いつもの温度で、ふんわりと留まっていた。
──、気のせい。
──、いいえ、花は、これから始まる何かを、もう感じている。
◇◇◇
謁見の間の大きな両開きの扉が、ゆっくりと開いた。
天井から巨大なシャンデリアが、無数の蝋燭の光を絨毯の上にこぼしている。絨毯の深紅の長い帯が、玉座までまっすぐに伸びていた。
その帯の両側に、王国のぜんぶの名前のある貴族の方々が、整然と並んでいた。絹のドレスの裾、男性の燕尾服の銀の徽章、扇の軽い動き。
それらの無数の視線が、開いた扉の私のひとりの姿に、いっせいに向けられた。
──、息ができない。
私の指先が、絹のドレスの裾の上で無意識にぎゅっとこわばった。その指の動きを、ルークの長い指がすぐに横からふんわりと包んでくれた。
「エリー、息を吐いて」
ルークの低い囁きが、私の耳のいちばん奥に優しく染み込んだ。
私は深く息を吐いた。吐いた瞬間、肩のこわばりがふっと半分だけほどけた。その半分のゆとりを、私は自分のいちばん大事な根っこにしまった。
絨毯の深紅の帯の上を、私たちはゆっくりと進んだ。そして玉座のすぐ手前で、深く頭を下げた。
国王陛下が玉座の上から、私たちを見下ろした。そのお顔にはいつもの深い揺るぎなさと、もう一段奥のひとりの父親としての心配が、わずかに滲んでいた。
「ルーカス、エリーゼ嬢、面を上げよ」
私たちはゆっくりと顔を上げた。
国王陛下が玉座の脇に控えていた方に、軽く頷かれた。そのお方は白い長いローブをお召しになっていた。胸元に王家の魔術師団の紋章、深い藍色の月と銀色の星。
宮廷の首席魔術師、と夜会で何度かお見かけしたことがあるご老人。
「宮廷魔術師、ご説明を」
「かしこまりました、陛下」
ご老人が長い白い杖を、自分の指で軽く握り直した。杖の先端の銀色の宝玉が、シャンデリアの光にふっと瞬いた。
「本日執り行いますのは、聖女覚醒の儀式の予行でございます」
ご老人の声が深い、けれどよく通る響きで、謁見の間の隅まで届いた。
「正式な覚醒の儀式に先立ち、聖女候補のお方のお力を確かめさせていただくご儀礼でございます」
「本日の聖女候補は、お二方」
ご老人の長い指が、ゆっくりと絨毯の左右を指した。
「ひとりは半月前から、聖女としてのお名乗りを上げていらしたミラ・ロイス男爵令嬢」
絨毯の左の側から、栗色の髪の清純な令嬢が、ゆっくりと進み出てきた。
◇◇◇
ミラ嬢だった。
夜会のあの夜の彼女と、ほぼ同じ装い。ピンクの絹のドレス。栗色の巻き上げた髪。大きな茶色の瞳。
けれど近づいてくるそのピンクのドレスの襟元に、私はふっとわずかな違和感を感じた。絹の生地の上に、淡い薄い何かの影のようなものが、走っていた。
光によって隠れたり現れたりする、まるで絹の上にもう一枚透明な薄い膜が被さっているような感覚。
──、何、これ。私の目の錯覚?
──、それとも聖樹の銀色の光に触れた私の肌の奥の何かが、これを感じ取っている?
私の胸元の銀の星の花が、ひと震えした。それは三日前の朝、初めて私の胸に降ろされた時のような、優しい震えではなかった。
──、警戒している。花が、ミラ嬢の襟元の影に、警戒している。
ミラ嬢が私のすぐ近くで、絨毯の上にゆっくりと立ち止まった。そして栗色の髪の下から、私をちらりと見上げた。
その大きな茶色の瞳の奥に、夜会で震えながら涙を流していた清純な女性の影は、もうひと欠片もなかった。代わりにひとつの、刃物のような冷たさが走った。
──、この人。私の命を本気で取りに来ていた人。私がここに立っていることそのものが、許せないこと。
ミラ嬢の唇の左の端が、コンマ何秒、ぴくりと引き攣った。夜会では絶対に見せなかった、その女性のいちばん奥の暗いところの顔。
私はそのひと瞬きを、自分の目の奥にしっかりと刻みつけた。
そしてその瞬間、ミラ嬢の視線が、私の胸元の銀の星の花に、ふっと止まった。ミラ嬢の頬の色がふっと、ひと刷毛、引いた気がした。
──、ミラ嬢、この花を、知ってる。
──、知ってるというよりは、花の正体を、わかってる。
◇◇◇
「もうひとり」
宮廷魔術師のご老人の声が続いた。
「先日、王家の聖樹をご覧になったエリーゼ・ヴァルトハイム侯爵令嬢」
絨毯の右の側に立つように合図された私は、ルークの腕からゆっくりと自分の手を離した。絹の手袋のひとひらの薄さを、私の指先が初めて知った気がした。
絨毯の深紅の上を、私の絹の靴底がことりことりと控えめに運んでいく。その音だけが、しんと静まり返った謁見の間の空気をゆっくりと揺らした。
ミラ嬢のすぐ向かい側に、私は立ち止まった。私たち二人の間に、約三歩分の距離。その三歩分の絨毯の上に、王国のこれからのぜんぶの運命が置かれている。
◇◇◇
「では聖女候補、お二方。まずミラ嬢、聖女のお力をお見せください」
宮廷魔術師のご老人が、長い杖の先端を絨毯の中央にゆっくりと向けた。杖の先の銀色の宝玉がふっと明るく光った。
その光の中心に、ひとつの薄い葉のような影が現れた。聖樹の葉。ご老人が聖樹からひと枚採られた葉らしかった。
ご老人の長い指が、その葉を絨毯の中央の白い陶器の皿の上にそっと置いた。
「ミラ嬢、聖女のお力でこの葉を輝かせていただきたい」
ミラ嬢が深く息を吸った。そして栗色の長い髪をわずかに揺らしながら、両手をその葉の上にふんわりとかざした。
ピンクの絹のドレスの襟元のあの薄い影が、ふっともう一段はっきりと走った。
「母なる光よ。聖女の血の輝きでこの葉に命の光をお与えください」
ミラ嬢の声が謁見の間に響いた。その響きは、夜会で震えていた清純な声とぴったり同じ。
ピンクのドレスの襟元の薄い影がふっと深くなった。そして白い陶器の皿の上の聖樹の葉が、ふんわりと淡い銀色に光り始めた。
謁見の間にひそやかな、けれど確かな感嘆の声が走った。
「聖女様」「光が」「やはり本物の聖女様」
ミラ嬢の唇の端がこっそりと上がった。その勝ち誇ったような微笑みを、私は自分の目の奥にしっかりと刻みつけた。
宮廷魔術師のご老人の目元がふっと細められた。そのお顔にはいつもの年配のご老人らしい優しさはなかった。代わりに職人としての深い深い観察の目だけが湛えられていた。
「エリーゼ嬢」
ご老人の声が私の名をゆっくりと呼んだ。
「同じ葉、もうひと枚ご用意してございます。お力をお見せください」
「はい」
私はゆっくりとミラ嬢の向かい側の絨毯から、三歩絨毯の中央に進み出た。ミラ嬢のピンクのドレスと、私の薄い銀色のドレスが、約一歩半の距離まで近づいた。
◇◇◇
その瞬間。
私の胸元の銀の星の花が、ふっと、淡い銀色に光り始めた。
光は強くもなく弱くもなかった。ただ三日前の夕方、聖樹の枝が私に差し出してくれたあの光と、ぴったり同じ深さ、ぴったり同じ温度。
私自身の意思で光らせたわけではなかった。花が、自分の意思で、ふっと、光り始めた、というのが、いちばん近い感覚だった。
謁見の間に、わっとざわめきが走った。
「花が」「胸元の花が」「光って」
ミラ嬢のピンクのドレスの襟元の薄い影が、ふっと激しく揺れた。
そして、私の胸元の花の光が、シャンデリアの光に反射しながら、ミラ嬢の襟元の薄い影に、ふっと届いた。
ミラ嬢の襟元の薄い影が、すっと、剥がれた。剥がれた、というよりは、煙が、風に吹かれて散るように、ふっと、消えていった。
その瞬間。
ミラ嬢の白い陶器の皿の上で、淡い銀色に光っていた聖樹の葉が、すっとその光を失った。しんとした謁見の間に、ぱちんという薄いガラスの割れるような音が走った気がした。
それはたぶん誰の耳にも聞こえていない音だった。けれど私にははっきりと聞こえた。それとたぶんミラ嬢にも。
そして、もうひとつ、音が走った。
ミラ嬢の胸元、ピンクの絹のドレスの襟ぐりの奥から。
ぱちん。
銀の細い鎖が、限界の張力に耐えきれずに、ぴたりと、切れた音。
ミラ嬢の絹のドレスの胸元の絹の生地の上に、ころりと、ひとつ、黒い小さな宝玉のペンダントが、転がり出てきた。
ピンクの絹の上で、漆黒の宝玉が、私の胸元の銀の星の花の光を、ぴたりと、跳ね返していた。
ミラ嬢の顔から、ふっと、血の気が、引いた。
◇◇◇
「な、なぜ」
ミラ嬢の声が震えた。その震えは、夜会で涙を流したあの時の震えとは、まったく違う種類の震えだった。
ミラ嬢の細い指が、ふっと、自分の胸元のその黒い宝玉に伸びかけた。その指の動きを、宮廷魔術師のご老人の長い杖が、ぴたりと、押し留めた。
「お控えくださいませ、ミラ嬢」
ご老人の声に、いつもの年配のご老人の優しさは、もうひと欠片もなかった。
「そのお胸元のお品、お預かりさせていただきたい」
「ーー、これは、わたくしの、お母様の、お形見で」
「失礼ながら」
ご老人の長い指が、白いローブの内側から、清潔な薄い絹の袱紗を、ふっと、取り出した。
「お形見の品でしたら、なおさら、丁寧にお預かり申し上げます」
ご老人が袱紗を絨毯の上にしずしずと広げて、長い杖の先で、ミラ嬢の胸元の黒い宝玉を、袱紗の上に、ことりと、載せた。
そして、長い指で、その黒い宝玉を、ゆっくりと、ひっくり返した。
宝玉の裏には、銀の細い鎖の繋ぎ目の脇に、小さな、けれどはっきりと、刻まれていた。
──、紋章。王国の宰相、ゴットフリート侯爵家の、双頭の蛇の紋章。
◇◇◇
謁見の間の空気が、ぴたりと、止まった。
シャンデリアの蝋燭の灯りひとつの揺れも、貴族たちの絹のドレスのひとひだの動きも、ぜんぶ、止まった。
国王陛下のお顔色が、ふっと、深い藍色に、変わった。ルークの空色の瞳が、王国でいちばん深い、暗い藍色に、変わった。
「ーー、ゴットフリート」
国王陛下のお声が、低く、深く、震えた。そのお声に、三十年のご即位のご統治の中で、たぶん、いちばん深い、お怒りが、滲んでいた。
「宰相は、王家のいちばん深い場所で、ぼくの信頼を、裏切っていた、ということか」
ご老人が袱紗をふっと、両手で慎重に包み直した。
「陛下、ご報告申し上げます。この漆黒の宝玉は、禁術の触媒にございます」
「禁術」
「正規の聖女の血をお持ちでない方が、聖女のお力を、一時的に、お借りすることのできる、五百年前、王国で禁制と定められたお品」
「ーー」
「ミラ嬢の聖女のお覚醒は、この禁術の品によって、引き起こされていた、ということになります」
宮廷魔術師のご老人の声が、しんとした謁見の間に、深く深く、響いた。
そのお声に、貴族たちの息を呑むひとつのざわめきが、わっと、走った。
「禁術」「五百年前の」「宰相が、ミラ嬢に」
◇◇◇
「な、なぜ」
ミラ嬢の栗色の髪の首筋がふっと震えた。
「な、なぜわたくしのお力が消えるの。お、おかしいわ、わたくしは聖女」
ミラ嬢が後ろによろよろと二歩下がった。
ピンクのドレスの襟元の薄い影は、もうひと欠片も残っていなかった。ミラ嬢の大きな茶色の瞳の奥に、夜会で見せた清純な顔と、私の命を取りに来ていた刃物のような冷たさが、同時にぐるぐると回っていた。
ミラ嬢の唇がゆっくりと開いた。
「貴女、何かなさったのね、エリーゼ嬢」
ミラ嬢の声が低く抑えられた。その響きに、夜会で震えていた清純さはもうひと欠片もなかった。
「貴女、わたくしの力を盗んだのね」
謁見の間の貴族のざわめきがふっと静まった。
ルークの長い指が、私の絹のドレスの後ろの裾を、ぎゅっと握った。その指の力に、私はふっと息を吐いた。そしてミラ嬢の目をまっすぐに見つめ返した。
「ミラ様」
「ーー」
「私、何もいたしておりません」
「嘘」
「ただ聖樹にお会いしたら、聖樹が私に応えてくださった、それだけです」
「ーー、貴女ーー、貴女ーー」
◇◇◇
「宣告いたします」
宮廷魔術師のご老人の声が、ゆっくりと深く響いた。
「ミラ嬢の聖女のお力は、ゴットフリート侯爵家由来の、禁術の品によるものと、判断いたします」
謁見の間がしんとした。
「エリーゼ嬢のお力は、聖樹に直接応じる、本物の聖女のお力でございます」
「こちらこそ五百年、王家がお待ち申し上げていたお方」
謁見の間の貴族たちの間から、これまでのすべてを上回る深い深いざわめきが起こった。
◇◇◇
国王陛下が玉座から、ゆっくりとお立ちになった。
「ミラ・ロイス男爵令嬢」
国王陛下のお声が、謁見の間の空気をぴたりと抑えた。
「お前の聖女のお力に関して、禁術所持の疑い、ぼくの王太子妃ご候補者への暗殺計画の疑い、それから、宰相ゴットフリート侯爵との、共謀の疑いに関して、徹底した取調べを命じる」
「陛下」
「それまで王宮の東棟のお部屋にお控えいただく」
ミラ嬢のお顔から、ふっと血の気が引いた。
「陛下、それは軟禁と」
「保護と呼んでいただきたい」
国王陛下のお声に迷いはなかった。
「お前の身柄は、王家が預かる。お部屋からの外出はご許可を得てほしい」
ミラ嬢の両手がピンクのドレスの上でぎゅっと握りしめられた。その指の白くなる輪郭を、私は自分の目の奥に刻みつけた。
──、ミラ嬢、王家に押さえ込まれた。これでもう私を狙う自由はない。
──、いえ。
──、私の肩のいちばん奥に、もう一段深い警戒が走った。
──、このお方はたぶん、軟禁くらいで止まる人ではない。
◇◇◇
衛兵たちがミラ嬢の両側にぴたりと付いた。
ミラ嬢が栗色の髪をふっと振って、衛兵に導かれて、私のすぐ脇を、通った。
その瞬間、ミラ嬢の唇が、私の耳のすぐ近くで、ふっと、開いた。その声は、ほんの、コンマ何秒の、囁き。シャンデリアの灯りの下のぜんぶの貴族たちには、絶対に、聞こえない、囁き。
「ーー、五百年前と、同じことを、もう一度、繰り返している、だけよ」
私の喉の奥が、ぴたりと、止まった。
「ーー、銀の王子は、二度、死ぬわ」
「ーー、貴女が救った命は、貴女の手で、もう一度、失うことになる」
ミラ嬢の唇の端が、ふっと、勝ち誇ったように、上がった。
「ーー、楽しみに、お待ちあそばせ」
私の喉の奥のいちばん深いところが、ふっと、凍りついた。
ミラ嬢が衛兵に導かれて、私の脇から、離れた。ピンクのドレスの裾の最後のひと振りが、扉の向こうにすっと消えた。
◇◇◇
──、五百年前と、同じこと。銀の王子は、二度、死ぬ。
──、ミラ嬢、何を、知ってる。
──、聖樹の幻視の中で、五百年前の聖女様が告げた、「銀の王子」。
──、ミラ嬢も、その言葉を、知ってる。ということは、宰相も、知ってる。
──、王家のいちばん深い場所の秘密が、宰相の手の中にも、握られている。
私の肩のいちばん奥が、ひと振り、震えた。
胸元の銀の星の花が、私の震えに、応じるように、もう一度、淡い銀色に、瞬いた。
──、花、おまえ、聞いてたのね。ミラ嬢の、あの、囁きを。
◇◇◇
国王陛下がゆっくりと玉座にお戻りになった。
そして貴族たちのいちばん奥まで届くお声で、続けられた。
「諸卿。本日のご参列、感謝申し上げる」
「エリーゼ・ヴァルトハイム侯爵令嬢が、五百年王家がお待ち申し上げていた本物の聖女の血をお引きであることが、本日明らかになった」
「正式な覚醒の儀式は、追って知らせる」
「それまでお嬢様の身柄は、ぼくの息子、第二王子ルーカスの責にて預かる」
「諸卿、エリーゼ・ヴァルトハイム侯爵令嬢を、王家の一員として迎えてくれ」
国王陛下のお言葉に、貴族たちがぴたりと整然と頭を下げた。そのいっせいのお辞儀の絹の衣擦れの音が、しんとした謁見の間に深く深く響いた。
◇◇◇
儀式の予行が終わった後。
ルークが私を、王宮の奥の奥の薬草園の小さな東屋にエスコートしてくれた。
東屋の四方は白い細い柱に囲まれていて、屋根はガラス張り。そのガラスの天井から、午後の傾きかけた光が淡い薄い橙色を、東屋の中の白い大理石の床の上にふんわりと落としていた。
東屋のいちばん奥の白い大理石のベンチに、私たちは並んで腰を下ろした。ベンチの表面は午後の光に温められていて、絹のドレス越しにもその優しい温度が、私の太腿の裏に伝わってきた。
私は深く深く息を吐いた。吐ききってもまだ肺の中に、足りない空気が残っているような感覚。
ルークが私の肩を優しく、自分の方へ引き寄せた。私の頭がルークの夜会服の襟元に、ふんわりと預けられた。
◇◇◇
「エリー」
「はい」
「無事でよかった」
「はい」
「ぼくは君が絨毯の中央に立った瞬間、心臓が止まりそうだった」
「ーー」
「ミラ嬢が君に最後に向けたあの目」
ルークの長い指が、私の頬の輪郭をゆっくりと辿った。
「あの目、ぼくは絶対に忘れない」
「ルーク」
私の指が無意識に、ルークの夜会服の襟元を、ぎゅっと、握りしめた。
「ーー、ミラ嬢、最後に、私に、囁いていった」
ルークの空色の瞳が、ぴたりと、私の目を捉えた。
「何と」
私は声を低く抑えた。
「『五百年前と、同じことを、もう一度、繰り返している、だけ』、と」
「ーー」
「『銀の王子は、二度、死ぬ』、と」
ルークの声がふっと止まった。その止まり方に、私は自分の身体の温度がもう一段下がるのを感じた。
「『貴女が救った命は、貴女の手で、もう一度、失う』、と」
ルークの長い指が、私の肩の上で、ぎゅっと、強張った。
「ルーク、聖樹の前で、私、五百年前の聖女様の幻視を受けてた」
「うん」
「あの方は言った。『銀の王子の運命を、その指で書き換えなさい』、と」
「ーー」
「私、あの時、銀の王子って、ルークのことかもしれない、と思った」
「うん」
「ミラ嬢の今の言葉。ミラ嬢も、宰相も、五百年前の話を、知ってる、ということになる」
「うん」
「私たち王家のいちばん深い、いちばん古い秘密の場所に、宰相の手が、届いてる、ということ」
ルークの空色の瞳が、王国でいちばん深い暗い藍色に、もう一段、染まった。そして長い指で、自分の口元を、ふっと、覆った。
「ーー、エリー」
「はい」
「ぼくは、君を、もう絶対に、一人で歩かせない」
「ルーク」
「ぼくの命の続きの、ぜんぶを、君のすぐ隣に置く」
「ーー」
「ミラ嬢のあの囁きを、ぼくは命を懸けて、嘘にする」
◇◇◇
ルークが私の肩をふっと後ろから、両腕で包み込んだ。
私の背中の絹のドレスの輪郭の上に、ルークの夜会服の胸の輪郭がぴたりと重なった。ルークの心臓の音が、私の背中越しにとくんとくんと届いた。そのリズムはいつもよりほんの少し速かった。
──、ルーク、本当に心配してくれていた。
──、私のために自分の心臓を、こんなに速く走らせてる。
ルークの長い指が、私の肩の輪郭をふんわりと辿った。そして絹のドレスの襟元の、ちょうど銀の星の花のすぐ脇でぴたりと止まった。
ルークの指は、花には触れなかった。ただその脇の絹の生地のひとひだを、優しく整えた。
──、ルーク、花に敬意を払ってる。
──、王家が五百年待っていた聖樹の贈り物に、第二王子として、頭を下げてる。
◇◇◇
「エリー」
「はい」
「君が聖女だと世界中に知られる前に」
ルークの口調がふっと低くなった。
「ぼくのものになって」
その声に、いつものルークの声にはない、もう一段奥の独占の響きが混じっていた。
私の肩のいちばん奥がふっと熱を持った。
「ルーク」
◇◇◇
ルークの長い指が、私の絹の手袋のボタンをひとつゆっくりと外した。そして手袋をふんわりと滑り下ろして、素肌の左の手のひらを宙に解放した。
ルークの長い指が、私の左の手のひらをゆっくりと両手で包み込んだ。そしてその私の手のひらを、自分の額にそっと押し当てた。
「ルーク」
「君のこの手は、二年前ぼくの命を救った手だ」
ルークの額の温度が、私の手のひらにゆっくりと染み込んできた。その温度はいつものルークの頬や唇よりも、もう一段深く、もう一段神聖な温度だった。
「そして今、王国のぜんぶの命を救う手だ」
「ーー」
「ぼくの額が、君のその手のひらに永遠に祈る形を、刻ませてほしい」
ルークの声が、私の手のひら越しに震えた。
私の目からぽろりとひと粒の涙が零れた。
「はい、ルーク」
◇◇◇
ルークの額が私の手のひらに押し当てられた時間は、ガラスの天井越しの淡い橙色の光が白い大理石の床の上をゆっくりとひと撫でふた撫で通り過ぎるほどの長さだった。
その時間、ルークも私もひと言もしゃべらなかった。
ただルークの額の温度。私の手のひらの温度。二つの温度がゆっくりと混ざり合って、ひとつの温度になっていった。
その混ざったひとつの温度の中で、私の肩のいちばん奥の強張りがようやくぜんぶほどけた。
◇◇◇
ルークがゆっくりと額を、私の手のひらから離した。そして長い指で、私の頬の上の涙の跡をそっと拭ってくれた。
「エリー」
「はい」
「ぼくのもの、という言い方がふさわしくなかったかもしれない」
「ーー」
「ぼくのものじゃなくて、ぼくが君を守る、君だけの守りでありたい」
ルークの空色の瞳が、午後の傾いた光の中で深く深く揺れた。
「君は誰のものでもない」
「君は君だ」
「その君を守る、ぼくの役目を、ぼくにくれ」
ルークの声にいつもの自信の響きは、ひと欠片もなかった。代わりにひとりの男性のいちばん奥の、祈りのような響きだけが湛えられていた。
「はい、ルーク」
私の声も震えていた。
「私を守ってください」
「ーー、私も、貴方様を、お守りいたします」
ルークの空色の瞳がふっと、揺れた。
「ーー、五百年前の聖女様の言葉どおりに、貴方様の運命を、私のこの指で、書き換えます」
私の声が低く、けれど揺るぎなく、東屋の白い大理石の床の上に置かれた。
ルークがふっと、長い息を吐いた。
その息の中に、十二年、ずっと一人で抱えてきた、何かの重みが、ふっと、解けていった。
◇◇◇
ガラスの天井越しの午後の光が、ゆっくりと夕日の橙色に変わっていった。
その橙色が東屋の白い大理石の床の上で、ふっと深い薔薇色に染まりかけた時。
私たちの頭上で聖樹の葉の擦れる軽い音が、さわさわと優しい風に乗って届いた。
その音は、聖樹の葉がもう一度ふっと瞬いたことの合図のような気がした。
私はその葉擦れの音を、目を閉じたまま自分の耳のいちばん奥にしまった。
ルークの長い指が、私の左の素肌の手をもう一度優しく、両手で包み込んだ。
そしてひと言もしゃべらずに、その手を自分の夜会服の左胸の、ちょうど心臓の上にぴたりと押し当てた。
ルークの心臓の音が、私の手のひらに直接とくんとくんと届いた。
そのひと拍ひと拍を、私は自分の肌に深く深く刻み込んだ。
──、ルークの心臓は、私の手のひらの下で生きている。
──、二年前私が救ったその命が、今私の手の下で生きている。
──、これがたぶん、私が守るもの。これからの、五百年分の、私の役目。
夕日の最後の淡い橙色がガラスの天井の向こうに、ゆっくりと沈んでいった。
東屋の中の薄闇の中で、私の手のひらの下のルークの心臓の音と、私の胸元の銀の星の花の淡い瞬きだけが、しんとした世界のぜんぶに静かに灯っていた。




