第13話 不審な影
カーテン越しに射し込む朝の光が、いつもより冷たく感じられたその日の朝。
ハンナが私のお部屋に入ってきた、その足取りには、ふだんの軽やかさがなかった。代わりに、紅茶のポットを持つ手がほんの少し強張っている。
「お嬢様、お目覚めでございますか」
「は、はい。ハンナ、どうかしましたの?」
ハンナはすぐには答えなかった。ポットをテーブルに置く音が、いつもよりやけに大きく響いた。
「本日はお部屋からお出にならないよう、殿下よりご指示がございました」
──!
指先が勝手にドレスの裾を、ぎゅっと握りしめた。お部屋から出るな、というのは軟禁ではなく、警護のためのもの。それくらい、私にもすぐにわかった。
「何かありましたの?」
「詳細は殿下より、直接お聞きくださいませ」
ハンナは目を伏せたまま、それ以上は何も言わなかった。けれどその睫毛の奥には、いつもの落ち着きとは違う、深い心配の色が確かに滲んでいた。
◇◇◇
殿下がお部屋に入ってこられたのは、それから半刻ほど経った頃。
扉が開いた瞬間、私ははっと息を呑んだ。
ルークの目元には、隠しきれない疲労が刷かれていた。きっと夜通し、何かを調べていらしたのだろう。それでも私を見つけた途端、その口元には優しい弧が浮かんだ。
「エリー、おはよう」
「ルーク、何がありましたの?」
ルークは答える代わりに、私の隣に腰を下ろした。そして私の手を、ご自分の長い指でぎゅっと握った。
冷えた指先にルークの体温が、ゆっくり染み込んでくる。
「昨夜のことだ。離宮の外の森で、不審な人影が目撃された」
「ーー、!」
「フィンがすぐに警備を強化した。それからぼくの密偵団にも、緊急の召集をかけてある」
「誰ですの?」
「まだ確証はない。けれど十中八九、宰相の手下だろう」
私の身体が、知らないうちに震えていた。
宰相の手下。それはつい先日まで、紙の上の話だったはずのもの。報告書の中の活字の存在。
それが今、この離宮のすぐ外まで近づいている。
「ルーク、私、ーー」
声が続かなかった。
「エリー、心配ない」
ルークの手が、私の頬を包んだ。低く穏やかな声に、私の唇の震えが少しだけ止まった。
「フィンとヴェラ、それからぼくの密偵団。離宮の周囲は隅々まで、目が届いている」
「はい」
「君はお部屋の中で、ゆっくり過ごしていなさい。ぼくが必ず守る」
頷くしかできなかった。
◇◇◇
その日、私はお部屋から一歩も出なかった。
時折、窓辺に立って外を覗いた。
森の緑の中に、フィンの長身とヴェラのほっそりした影がちらりと見えては、また木陰に溶けるように消えていく。
──本当に来ているのね。
──私を狙って。
ドレスの裾を握りしめた指が、白くなっていた。指の関節が、軋むように痛む。
──私のせいで皆を、危険に晒している。
その思いが胸の底で、じくじくと燻った。
お昼を少し過ぎた頃、ハンナが紅茶を運んできた。
「お嬢様、お茶をお持ちいたしました」
「ありがとう、ハンナ」
紅茶からたちのぼる、温かい蒸気。湯気の中にほのかなベルガモットの香りが、ふっと混じった。
私はティーカップに手を伸ばした。けれどその手がわずかに震えた。
「ハンナ、私、怖いの」
声に出した瞬間、自分の本心に初めて気づいたような気がした。
ハンナはティーポットを置くと、何も言わずに私の隣に腰を下ろした。それから私の手を、両手でふんわりと包み込んだ。
ハンナの手はいつも、少し冷たい。けれどその冷たさが今は、不思議に心地よかった。
「お嬢様、私は命に代えてもお嬢様をお守りいたします」
「ハンナ」
「フィンもヴェラも、皆同じ気持ちでございます」
ハンナの真っ直ぐな声が、私の指先の震えを少しずつほどいていった。
◇◇◇
その夜。
夕食を終え、私がお部屋で本を開こうとした時。
ルークがいらした。
「エリー、今夜はぼくの続き部屋で寝てほしい」
「えっ、ルークのお寝室ですか?」
「うん。今夜だけはぼくの隣で寝てほしい」
ルークの目がいつもより、わずかに揺れている。私にはそれが、はっきりと読み取れた。
──ご自分の腕の届く範囲に、私を置いておきたい、と。
──それくらい本気で心配なさっているのね。
ルークが私の手を、優しく取った。そして奥の白い扉を、ゆっくりと押し開けた。
その向こうには、私が初めて見る景色が広がっていた。
深紅の絹のシーツが敷かれた大きなベッド。壁に並ぶ銀の燭台。そしてベッドの脇には、几帳面に積まれた薬草の本の山。
──いつもルークがお休みになっている場所。
積まれた本の背表紙の中に、見覚えのある一冊が混じっていた。私が自費出版で出した薬草の本。
胸の奥がじわりと熱を持った。──やっぱりここにあったのね。
「エリー、今夜はぼくの腕の中で寝てほしい」
「はい」
◇◇◇
私は夜着に着替えると、ルークの寝室の大きなベッドにおそるおそる足を踏み入れた。
シーツの絹の冷たさが、足の裏からすっと伝わる。
ルークが夜着のローブを軽く羽織って、私の隣に横になった。それから後ろから、私をぎゅっと抱きしめた。
肩甲骨のあたりにルークの胸の鼓動が伝わってくる。とくん、とくん、と思っていたよりも少し速い。
──ルーク、緊張なさっているの?
「エリー、こっちにおいで」
「はい」
ルークの長い指が、私の髪を何度もゆっくりと撫でた。
「明日には宰相の手下、捕縛できるはずだ」
「はい」
「明日になれば君の危険は、ぐっと減る」
──ルーク。
私を本気で守ろうとしてくださっている。それが息遣いから指の動きから、ぜんぶ伝わってくる。
胸の奥のずっと固く閉じていた、ある小さな扉が、ことりと音を立てて、わずかに開いた。そんな気がした。
私はルークの腕の中で、ゆっくり目を閉じた。
ルークの心臓の音が、私の背中越しにゆっくり、ゆっくり響いていた。
──温かい。
これほど安心して眠れたのは、いったいいつ以来だろう。思い出せないくらいずっと昔のような気がした。
◇◇◇
その夜の深い闇の中で。
離宮の遠くの森で、何かが密かに動いた。
葉擦れの音がひとつ。木の枝がしなる音がひとつ。
けれど私はルークの腕の中で、もう何も知らずに深い深い眠りに落ちていた。
窓の向こうでは、フィンとヴェラ、それから名を知らぬ密偵たちの気配が、離宮の周囲を静かに、けれど確かに覆っていた。




