第3章
尾張名古屋は城で持つと昔から言われるように、名古屋の街は名古屋城を中心に形成されている。名古屋の西側には木曽川、長良川、揖斐川という大きな河川が流れ、この木曽三川が作り出した濃尾平野と呼ばれる地域に名古屋の街は広がっている。江戸と京都・大阪の中間に位置し、戦国時代は信長、秀吉、家康がこの名古屋の地を舞台に戦いを繰り広げた。
太平の世が訪れた江戸時代初期、名古屋の繁華街に香織の実家である「米野屋」が誕生した。もともと饅頭やどら焼き・羊羹を一般庶民向けに製造・販売をしていたのだが、その味が尾張徳川家に認められ藩主に献上する和菓子を製造することとなった。それ以来三百五十年という長い期間、米野屋は徳川家にも名古屋の庶民にも愛される和菓子屋として成長していった。そして米野家の長男が代々和菓子職人の仕事を受け継ぐということが暗黙のルールとなり、今日まで続いていた。今回、香織の代が娘二人だけなので、香織が婿養子をもらって家業を引き継ぐものと思われていた。ところが、香織はヨーロッパ旅行から帰ってくるなり「米野屋を継がない」と言い出した。突如、後継ぎ問題が湧き上がり、結局、香織の妹・舞が後継者に指名された。どこの家でも起きることかもしれないが、親の思惑通りに子はなかなか動いてくれない。昔も今も世の中は予定通りにいかないものである。それが人類の歴史そのものなのかもしれない。
そんな事情で米野屋の後継ぎとなった舞は、彼女なりに悪戦苦闘していた。
「お姉ちゃんのわがままのせいで、毎朝早起きしないといけなくなったんだから」
口癖のように香織に文句を言いつつ舞は早朝、米野屋の厨房に向かう。朝一番で小豆を火にかける。どら焼きも羊羹も饅頭もいい餡ができるかどうかにかかっている。代々の米野屋の社長かその後継ぎが小豆を毎朝焚く担当になっていた。その間に餅米を炊く準備もする。そうしているうちに、田端たち和菓子職人が出勤してくる。香織も舞も扱う商品が和菓子なのか、パンなのかという違いぐらいで、毎朝早くから同じ作業を繰り返す仕事であることに変わりはなかった。
社長である虎ノ介は和菓子職人としていつも黙々と仕事を続けていた。誰よりも和菓子の味、風味、見た目にはこだわりを持ち、厳しい目で米野屋の和菓子職人たちの仕事ぶりをみていた。
妻の千景は接客と経理を取り仕切っていた。接客については常にあらゆる配慮を心がけ、米野屋の伝統を支え続けてきた。香織がパン職人になってからは一層その厳しい目で仕事に取り組むようになった。だが、どこか寂しそうであり、いつも何かを考えているような印象を舞は母・千景に対して持っていた。
米野屋の和菓子は昔から人気があり、安定した売り上げがあった。だが、食べ物の業界は浮き沈みも激しく、いくら人気商品が登場したといっても、その人気がいつまでも続くとは限らなかった。いくら和菓子といっても昔ながらの商品ばかりでは客が減る一方なので新たな商品を作り出す努力も怠らなかった。舞はいつも仕事が終わるとテレビ・雑誌・インターネットを通してトレンドをチェックし新たな商品のヒントになるものはないだろうかと常日頃から考え続けていた。米野屋の長い伝統を守り続けるには人の目に触れない部分での努力と苦労があって、ここまで営業し続けているのである。ただ漫然と同じことを繰り返すだけでは時代の波に飲み込まれてしまい、いつかは姿を消してしまうことにもなりかねない。日々の努力と新たな挑戦がどの業界にも不可欠なのである。
一方、香織と亜美は帰国後、スターライトベーカリーでパン職人としての活動を再開した。二人がフランスでフィリップから教えてもらったバゲットとクロワッサンを店の看板商品にしようと店内で相談し、「フランス仕込みのバゲット」、「フランス仕込みのクロワッサン」というネーミングで大々的に販売することになった。するとすぐに地域の話題となり連日店の前には行列ができるほどの大人気商品となった。
「香織、さすがフィリップさんの教えてくれたパンは好評だね」
亜美は嬉しくてしかたがなかった。
「三ヶ月間の研修でいろんなことがあったけど、苦労した甲斐があったよね。ケントさんにも会えたし」
香織はパリでの出来事をしみじみと思い出し笑顔を浮かべていた。
「おやおや、香織はどっちが本命なのよ」
亜美が興味本位で香織の脇腹を肘でつついた。
「いやいや。ケントさんにルーブル美術館に連れていってもらっていい思い出になったなって意味だってば」
香織は亜美に言い返した。
「でも、あの苦労は間違いなかったんだよね」
香織も亜美もパリでの研修がパン職人としての大きな自信につながっていた。
もともと根強い人気のあるスターライトベーカリーだったが、新商品のおかげで売り上げが上昇し通常の一・五倍にまでなっていたのである。
それまで悩み続けていた香織だったが、今はパン職人として自信を持つことができるようになった。いよいよパン職人世界一にむけて、いいスタートができたと確信していた。
ところが、スターライトベーカリーの売り上げが上昇したことにより別の影響がおきてしまった。あまりにも店の人気が上がったことにより、香織たち従業員がほとんど休憩できなくなってしまったのである。店の前には常に行列ができ、ひたすらパンを焼き続けなければならなかった。レジを担当する星野姉妹も一日中、客の対応のため立ちっぱなしという日々が続いた。
ある日の閉店後、杏子は従業員全員に呼びかけた。
「明日は臨時で閉店します。みなさんゆっくり休んでください」
仕事には厳しい半田も香織たちがフランスに行く前に一度倒れているので、あまり無理もできなかった。一番若い塩村でさえ、顔には疲労の色がにじみ出ていた。それほど忙しい日々が続いていたのである。
「香織、目の下がクマになってるよ。大丈夫?」
亜美が心配して香織の顔をじっと見つめた。
「そうだね。こんな顔してあの人に会えないよね」
香織は冗談ぽく笑ったが、その顔は明らかに疲れていた。
「なんか冗談をいう元気もないよね」
営業後の厨房はみな疲れ果て、その場で倒れて眠りこんでしまいそうな状態がしばらく続いていた。
だが、そんな忙しい日々もいつまでも続くことはなく、スターライトベーカリーの売り上げが、徐々に下降線をたどるようになっていた。香織たちはその理由がつかめず、何度も会議をするけれども、その理由は誰もわからないままだった。
「そろそろバゲットとクロワッサンの人気も落ち着いちゃったのかしら」
売り上げを集計していた杏子が頭を捻っていた。
「何があったのだろう」
香織なりに状況を冷静に分析してみるのだが理由が全くつかめなかった。
「バゲットやクロワッサンのクオリティは下がっていないはずなんだよね。近くに新しいパン屋さんができたわけでもないし」
そんな売り上げ不振の状況がしばらく続き、最終的には香織と亜美が帰国する前の売り上げのレベルにまで戻ってしまったのである。
「パンの味は絶対に落ちてないんだけどね」
香織がどれだけ考えても売り上げが減った理由は不明のまま。材料を変えたわけでもなく、レシピも大きな変更点もなかった。それとなく常連客に声をかけて話を訊いても、スターライトベーカリーのパンはいつも美味しいし、パン自体に不満も何もない、という。その常連客は、スターライトベーカリーは店の雰囲気も明るくてさわやかで気持ちのいい店だと言ってくれている。
ではどうして店の売り上げが落ちてしまったのか。謎は深まるばかりだった。
半田もパン業界関係者に声をかけつつ、あれこれと調査を試みていたが一向にその理由は不明のまま。
半田が再度、店の周辺を調査してくるといって二時間ほど歩き回って帰ってきた。すると店に帰ってくるなり、半田が香織に声をかけた。
「米野。もしかするとお前さんところの実家が原因かもしれないぞ」
香織はそんな半田の言葉に、まるで水をかけられたネコのように飛び上がって驚いていた。
「でも実家の米野屋は和菓子屋ですし、パン屋の売り上げに影響するようなことはないと思うんですけど」
「では、これはどうなんだ」
半田が事務所のテレビのスイッチを入れた。すると地元テレビ局の情報番組で米野屋が紹介され、香織の妹・舞と田端が店頭で客の応対に大わらわになっている姿が映し出されていた。
「何をやってるんだろう。舞は」
香織はテレビの前まで近寄っていき、画面を穴があくほど見つめた。
「新しい和菓子の形を提案します」と書かれたのぼり旗が米野屋の店頭に翻り長い行列ができていた。米野屋は江戸時代から続く老舗の和菓子屋ではあるが、ここまで大勢の客が一気に訪れるようなことは全くといっていいほどなかった。営業的には定番商品の人気が安定し売り上げは大きな変化はない。その一方で爆発的なヒット商品というものもこれまでなかったのである。
その日の夜、香織は米野屋の情報を直接聞くため部屋の前で舞の帰りを待っていた。しばらくすると、舞が疲れた顔をして帰宅した。
「おかえりなさい。舞ちゃん」
珍しく香織がやさしい声で舞を出迎えた。
「びっくりした。お姉ちゃん、どうしたの?」
「どうしたも、こうしたもないわよ。テレビで見たわよ。米野屋のあの行列は何なの?」
「お姉ちゃん、ウチの新商品、知らなかった?」
舞はイタズラがばれたときのような不穏な笑顔を見せた。香織は不思議そうな顔をしながらゆっくりと頷いた。
「何それ。聞いてないけど」
「そうか、パン屋さんも忙しかったから何も新しい情報とか見ている時間もなかったんだね。疲れて帰ってきてすぐ寝てたみたいだしね」
「舞ちゃんはそう言うけど。私たちも大変だったんだからね」
「それじゃあ、仕方ないな。教えてあげましょう。これよ」
舞がカバンから一つ鮮やかなオレンジ色の商品を香織に手渡した。
「これって、ただの干し柿でしょ。どうしてこれが新商品なのよ。昔から日本中どこにでもあるよね」
「騙されたと思ってその商品を食べてみてよ」
香織が不思議そうに干し柿を一口かじった。
「何よ、これ。干し柿の中にお餅と餡が入ってるの?」
「そうなのです。名付けて『逆転フルーツ大福』よ。ふつうのフルーツ大福は大福の中にフルーツが入っているでしょ。これはその逆なの。干し柿みたいなドライフルーツの中にお餅と餡を入れてみたの。だから、外見はドライフルーツなんだけど、食べると中からお餅と餡が出てくるの。私が考えたのよ。画期的でしょ?」
「ふーん」
香織は素っ気のない返事をした。
舞は勝ち誇ったような顔をした。この新しい商品は干し柿が一番人気で、ほかにもイチゴ、イチジク、アンズ、マンゴーと種類も豊富。カラフルであり女性には大人気商品となっていた。
「私が本気を出してちょっと考えると、こうなるのよ。フフフ」
舞はそう言うと腕を組み勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「それにね、お母様が言ってたことをお姉ちゃんに教えてあげるね。『いくら看板商品があってもいつまでもその商品が売れ続けることはないの。そしてその看板商品にあぐらをかいた会社はいずれ消えて行くの。これは歴史的に見ても間違いないからね。だから新商品を出し続けないといけないのよ』だって。これは和菓子屋やパン屋に限ったことじゃないだろうけどね」
舞がそう説明すると香織は悔しさをかみしめながら、じっと聞いていた。
パン業界も厳しい競争社会である。人気商品だけではいつかはお客様に飽きられてしまう。そこから歯を食いしばって新商品を作っていけるか、どうか。ここが分岐点となる。米野屋もひと口に創業三百五十年といっても、のんびり仕事をしてきたわけではない。人気商品をマイナーチェンジしたり、新たな商品を発売し続けてきた。そうやって悩み、考え続けてこそ、江戸時代から続く長い期間商売を続けることができた。香織をヨーロッパ視察旅行に行かせた理由もそこにあった。ちなみに現在、お菓子業界も「ガム」の売り上げが落ち、入れ替わって「グミ」が人気商品となっている。以前は圧倒的な人気だった「ガム」があらゆる理由から敬遠されるようになっていた。食品業界も時代の流れを感じながら的確に判断し、どう乗り切るのかという経営上の重要な判断が迫られる。
香織の母・千景は食品業界の厳しさを伝えようとしていた。気がつけば米野屋の隣で営業する「パン工房みずほ」も新商品を出していた。いつもの人気商品が売れ続けるわけではない。今回の件については、百獣の王ライオンが、自らの子供を崖から突き落とすようなことをしてきたのである。「どん底から這い上がってこい」という意味だったのかもしれない。それに苦労の末に考案した新商品の人気もさほど続くことはない。いつかは売れなくなるときがくる。また、苦労して販売を始めた新商品がすべて売れるわけでもない。いまどんな商品が求められているのか、顧客のニーズにあわせた商品を開発し販売しなければならない。
今回は和菓子屋である米野屋の新商品の人気の余波でスターライトベーカリーの売り上げが落ちてしまった。香織はまったく予想もしなかったことが起きたことで、この業界の厳しさというものを痛感した。一時期、ブームのように新商品の人気が出ることはある。だがそのブームも長続きすることはない。これまでもブームになった新種のパンやデザートは数限りなくあるけれども、いつの間にか忘れ去られてしまった商品はいくらでもある。これが食品業界の悩みでもあり課題でもあった。
スターライトベーカリーとしても、売り上げ回復のため新商品開発の検討を始めた。香織は何日も悩み苦しみ抜いてある新商品を考えついた。
「半田さん。パン・オ・ショコラはどうでしょう。フランスでは人気商品なんですけど、日本人にはまだなじみがないと思うんです。これを売り出せば、またお客さんも来てくれるようになると思いますが」
「やってみるか」
フランスでは定番のパン・オ・ショコラが日本ではまだなじみが少ないことに香織は気がついた。パン・オ・ショコラは簡単にいえばクロワッサンの中にチョコを入れたもの。クロワッサンはすでに日本でも一般的になっているが、まだまだそのほかの種類のパンはなじみが少ない。半田と香織は、スターライトベーカリーオリジナルのパン・オ・ショコラを考案したのだが、これにはかなりの時間を要することになってしまった。だが売り出すと一気に店の大人気商品となった。
このような新商品を開発していくという作業が延々とどこまでも繰り返し続く。日本人にあまりなじみがないものを販売するとき、それが果たして受け入れられるものかどうかを見極めるという目も大事になってくる。
香織はパン職人世界一への挑戦をすると同時に、店の新商品の開発もしなければならないという責任をも負わなければならなくなっていた。
新商品の開発が一段落した頃、町中に朝から蝉の鳴き声が響き渡り、夏真っ盛りとなっていた。スターライトベーカリーの事務所のテレビはいつも高校野球のシーズンになるとずっとスイッチが入ったままになる。じっくりと見る時間はないのだが、甲子園の高校野球の試合が朝から夕方まで映っていた。香織はもともと高校野球が大好きで時間があればテレビで観戦をしていた。スターライトベーカリーの仕事中もじっくり見ている時間はないのだが通りがかりに試合経過をチラチラと気にして見ていた。
「やっぱり高校野球はいいよね。高校球児が白いボールを必死に追いかける姿がなんとも言えないんだよね」
「香織ってそんなに野球のこと詳しかったっけ?」
その横で亜美が不思議そうな顔をして香織に訊いた。
「いや。全然詳しくないよ。細かいルールもよく知らない。でもね、あの高校球児たちが真剣にプレーする姿が好きなんだ」
香織は腕を組みながら高校野球の映像を眺めていた。
すると厨房から半田の大きな声が聞こえてきた。
「おーい、ちょっと集まってくれ」
香織と亜美、塩村が半田のところに集合した。
「力だめしにお前たち三人で『パン職人グランプリ』に出場してみないか?」
半田が三人に尋ねた。
「年に一回開催されるパン職人の全国大会ですよね」
香織が目を輝かせながら答えた。
「そうだ。三人一組で日本一を争う大会で、日本中のパン職人が集まってくる。この大会で優勝しても、世界選手権に直接出場できるわけではないが、いまの自分たちのパン職人としてのレベルがわかる」
「挑戦してみたいですけど、経験の浅い私たちでも出場できるんですか?」
香織の目が一段と大きくなった。
「この大会には二十代、三十代の若手パン職人が多く出場する。それに大会の出場条件には経験年数は関係ない。後はお前たち三人が大会に出たいかどうか。それだけだ」
「出てみたいです」
香織たち三人はお互いに顔を見合わせて頷いた。亜美も塩村も香織の世界一への挑戦を一緒に戦う覚悟だった。
「パン職人グランプリ」は全国を八ブロックに分けて地方大会を開催し、勝ち上がった十六チームが東京で行われる決勝大会で優勝を争う。ここで優勝すると世界選手権の日本代表選考会に出場する権利が二年間与えられる。つまり世界選手権への登龍門的な大会でもあった。
パン業界においてベテランである半田の推薦もあって香織、亜美、塩村のスターライトベーカリーチームはパン職人グランプリの中部ブロック大会に出場することになった。会場は名古屋市内でも一番歴史のあるホテルで開催される。この中部ブロック大会には二十五チームが参加し、このうち二チームだけが決勝大会に進むことができる。
スターライトベーカリーチームは出場が決まるとすぐ大会の準備を始めた。毎日仕事を終えてから大会用の新たなパンを試作し、短時間で効率よくパンを焼く技術も研究した。香織たち三人は毎日、睡眠時間を削り新しいパンを研究開発していた。特に香織にとっては世界一のパン職人になるための最初の重要な大会。誰よりも力が入っていて帰宅は普段よりも遅くなっていた。
「お姉ちゃん、身体は大丈夫なの?」
家では舞が香織の体調を気にしていた。
「これで世界一になれるかどうかが決まるの。私はやるときはやるんだから」
気合いの入った香織の顔を見ると舞は何も言えなかった。
そして迎えた大会当日。会場のホテルには続々と出場チームが集ってきた。
「ここが、大会会場か」
香織は会場となっているホテルの建物を外からゆっくり見上げた。いよいよパン職人世界一へ向けての本格的な戦いがここから始まるのだと考えると香織は身体中の血液が勢いよく駆け巡っているのが自分でもわかるほど気持ちが高揚していた。隣にいた亜美は香織が平常心ではなくなるだろうと予想していたので自分は冷静になることだけを考えていた。案の定、香織は極度の緊張で顔がひきつっていた。心配した亜美が香織の心をほぐしてあげようと声をかけた。
「がんばろうね」
「う、うん」
香織は真っ青な顔をしていた。
「おーい、大丈夫?」
亜美が香織の背中をバチンと平手で叩いた。
「もう、痛いな」
香織が勢いで少し前につんのめりながら背中をさすった。
「香織らしくないよ。元気出してよ。勝てるかどうか心配なの?」
「大丈夫だって。私たちが負けるわけがないでしょ」
香織は、気合いの入った顔をしていて、日頃ののんびりムードはどこにもなかった。
「よしっ。絶対勝つよ」
香織が亜美と塩村に声をかけると、二人とも大きく頷いた。
そして三人が右手を重ね
「スターライト」
香織が叫ぶと
「ベーカリー」
三人で声をあわせて重ねた右手を上に上げた。
「勝てそうな気がしてきましたね」
塩村が小さく笑っていた。
「塩村君、勝てそうじゃなくて、絶対に勝つのよ」
香織はじっと塩村の目を見つめていた。
「朝から元気がいいですね。お手柔らかにお願いしますね」
塩村が首をすくめながらこたえていると、その横を浅黒い顔をした大柄な男がニヤニヤしながら香織たちの横を通り過ぎていった。
「なんかあの人感じ悪いよね」
香織がその男の背中をにらみながら小さくつぶやいた。
「あの人は、パン工房みずほの黒柳さんよ」
亜美が香織の耳元で囁くと、じっとその大きな背中を香織は睨むような目つきで追っていた。
これから普段の仕事とは違うパン職人の頂点を目指す米野香織の戦いが始まろうとしていた。大会は、運営本部から出されるテーマをもとに各チームでイメージしたパンを焼き上げるという形式で行われた。今回のテーマは「花」。材料は全チームすべて同じ小麦粉や水、イーストを使用し、すべて同じ条件で争う。制限時間が終了した時には各チームの力量の差がはっきりと現れる。当然といえば当然ではあるが、大会当日に自分達の実力を発揮しなければいけないという出場者にとっては厳しい一発勝負の戦いでもあった。
それに作業中も審査員はすべての作業ブースを回ってチェックをし、作業の手順や道具の片付け方まですべてが審査対象となっていた。できるだけ通常業務のようにしようと心がけるものの、緊張のためなかなか実力を発揮することができない。どれだけ実力があってもこの大会当日に敗れてしまうことも珍しくなかった。それほど日頃の実力を発揮することが難しい大会でもあった。
香織たちはおたがい声を掛け合い、いつものように作業を分担し手際よくパンを焼き上げていった。開始当初は緊張で思うように身体が動かなかったが、少しずつ自分達のペースを取り戻し、日常の実力を発揮し始めていた。
制限時間は五時間。絶妙な時間設定であり、時間内に完成できなかった一部のチームはその時点で即失格になるという、厳格なルールの下で大会は運営されていた。
そんな競技時間もあっという間に終了し、最終の審査に移った。
審査員が各ブースを回りパンの焼き上がり方や出来映えを丹念に確認し、香りや固さをチェックする。そして最後に試食をして、それぞれチェックシートに採点をしていた。出場者としては一番緊張する時間であり、祈るような想いで審査結果を待つだけだった。
香織たちスターライトベーカリーチームは仕上がりには自身を持っていた。だが、二十五チームの中から中部ブロックの代表に選ばれるのはたった二チームのみ。いくら自信があってもどんな評価になるかわからない。
そして結果発表の時間が訪れた。香織は亜美、塩村と三人で並んで目を閉じ発表を待った。会場は静まり返り咳払いの声さえ聞こえなかった。
「それでは、中部ブロック代表の二チームを発表します」
香織は両手をあわせて司会者の声に耳を傾けた。
「ここで絶対に負けられない」
心の中で香織は懸命に祈るような想いだった。
「中部ブロック代表は」
会場が一段と静まりかえった。
「スターライトベーカリーチームとパン工房みずほチームです」
司会の声が聞こえたとき、香織は緊張感から解放され、その場にペタリとしゃがみ込んでしまった。
「香織、代表になったよ」
笑顔の亜美と塩村が香織を両側から抱え上げた。
「よかった。本当のことを言うと、途中でちょっとだけ、もうダメなんじゃないかなって思っていたんだ」
「何をいってるのよ。とにかく勝ったよ。香織」
亜美は笑顔で香織と抱き合うと、香織の目には光るものがあった。
スターライトベーカリーは初出場ながら中部ブロック代表に選出されるという快挙を達成した。もう一チームはあの黒柳の率いるパン工房みずほだった。
表彰式の終了後、黒柳がすれ違いざまに、香織へ声をかけた。
「和菓子屋の娘さん、お疲れさまでした。決勝大会は、おたくのチームは意表を突いてどら焼き風のパンでも焼くんですかね。ハハハ」
黒柳は嫌みたっぷりのあいさつをして会場を去っていった。
香織は一瞬カチンときたものの、小さくお辞儀をして相手にしなかった。以前ならば食ってかかるところだったが、今の香織は周囲の雑音はもう気にしなくなっていた。どこまでも自分のやるべきことをひたすら追求するだけだった。
「香織、気にしなくてもいいよ」
「わかってる。次も勝てばいいんだから」
香織はすでに次の決勝大会のことを考えていた。
香織たちが店に帰ると星野姉妹も半田も大喜びで迎えてくれた。
「やっぱり香織ちゃんたちだわ。きっと常連のお客さんも喜んでくれるわ」
冷静な杏子が珍しくはしゃいでいた。
半田も笑顔だったが、一言だけ香織に忠告した。
「うちのチームなら中部ブロック大会は十分勝ち抜ける実力はすでにある。パリにいってフィリップの研修を受けているんだから間違いない。ただ、黒柳だけは甘くみたらいかんぞ。パン職人としての腕は素晴らしいものがある。それ以上に、嫌みや嫌がらせといったこちらを動揺させる作戦までしてくるだろう。決勝でも再び一緒になる。どこまでも自分のペースを崩さないことだ。それさえできれば十分勝てる」
三人は半田の話を真剣に受け止めていた。
その日はスターライトベーカリーの店はお祭り騒ぎのように笑顔の輪が広がっていた。
香織は意気揚々と帰宅すると、ちょうど仕事を終えた舞が香織の部屋にやってきた。
「お姉ちゃん、やるじゃん」
「当たり前よ。でも中部ブロック代表になっただけで喜んでいてもダメよ。決勝で勝って日本一にならなくちゃね」
「とりあえず、お祝いで、『祝』の焼き印押したどら焼きあげるね。お母様が『香織にあげなさい』って言ってくれたんだよ。もうあの件は許してくれたのかもね」
香織はどら焼きを受け取ると母親のやさしさを感じていた。
「嬉しいけど、中部ブロック大会代表だけじゃまだまだでしょ。お母様はそんなに甘くはないよ。絶対に」
「やっぱりそうなのかな。お母様は『日本一じゃないでしょ、世界一でしょ』とか言うのかな」
舞が母親の口マネをしていうので二人で笑いながらどら焼きを食べていた。
「ところで舞ちゃん。あなた、調子に乗ってお祝いのどら焼き何個食べてるの」
香織が舞に対して真剣に怒り始めた。
「いいでしょ。中部ブロック大会で勝ったんだし」
「あんたがパカパカ食べたらダメでしょ。私のお祝いなんだから」
相変らず仲の良い米野姉妹だった。
それから二ヶ月後。
パン職人グランプリ決勝大会の当日がやってきた。決勝大会は東京・お台場の有名ホテルで、会場周辺は観光客で賑わっていたが、香織たちにとってここは決戦の舞台であり、高校野球でいえばまさに甲子園のような場所だった。会場となっているホテルは景色も素晴らしく、結婚式の会場としても有名だった。だが、香織たちにとっては決戦の場であり浮ついたムードはどこにもない。香織、亜美、塩村の三人は神妙な面持ちで大会会場であるホテルのイベントホールへ入っていった。このイベントホールはこれまでみたこともないような大ホールであり、それぞれのチームがパンを焼くブースも広く、さすが全国大会と思わせるような立派な会場だった。すでに他の代表チームも会場入りしており、あちこちで談笑する姿が見受けられた。さすが各地の大会を勝ち抜いてきた強豪チームだけあって錚々たるメンバーが集い合っていた。全国大会は常連のチームも多く、テレビや雑誌で何度も紹介される有名店ばかり。初出場のスターライトベーカリーチームは会場の隅で小さくなって静かに大会が始まるのを待つしかなかった。
すると、パン工房みずほの黒柳が香織の姿を見つけるとすぐに近づいてきた。
「世界を目指すスターライトの皆さん。調子はいかがですか」
人を小馬鹿にしたような目つきでニヤリと微笑み声をかけてきた。
「絶好調です」
香織も黒柳のイヤな声かけにまったく動じずに言葉を返した。
「威勢が良いですね。お互いにベストを尽くしましょう。では後ほど」
黒柳は不気味な笑みを浮かべるとメンバーとともに控室へと消えていった。
香織は自分達が作業するブース内を確認しながら気持ちを高めていた。
本音を言えば、香織にはパン職人グランプリになれるという自信はなかった。だが、大会は始まってみなければ何が起きるかわからないし、中部ブロックを勝ち抜いた勢いを信じ、今、持っているものを出し切ろうと三人で話しあった。
会場に大きなファンファーレが流れ、日本中から集った代表十六チームのパン職人たちが整列した。
「香織、いよいよ決勝大会だね」
亜美の目が輝いていた。
「やっとここまで来たね」
香織の顔も上気している。
会場の中央にいる有名店のパン職人たちは余裕の表情を見せていた。
「香織、やっぱり中部ブロック大会とは雰囲気が全然違うね」
亜美も少し怖じ気づいていた。
「あんまり考え過ぎないほうがいいかもよ」
香織は冷静を装っていたものの、膝が小さく震えていた。実際、一番年下の塩村がチームの中で一番冷静だったかもしれない。
開会式が終了すると、それぞれのブースへと移動した。
スターライトベーカリーチームは各自の持ち場に分かれて試合開始の合図を待った。
大きなレゲエホーンの音とともに大会がスタートした。
どのチームも真剣な面持ちで生地を捏ね始めた。香織もいつになく真剣な面持ちで生地を捏ねた。地方大会と同様に同じ小麦粉、同じ水、同じイーストを使用する。各チームの技術力と応用力、焼き方やセンスが問われる。まったく同じ材料でどれだけクオリティの高いパンを焼くことができるのか。すべては各チームの考え方と技術力にかかっていた。
全国の代表が集う決勝大会は予想通りハイレベルな戦いが繰り広げられた。内容は中部ブロック大会と何も変わらないのだが、全国の常連チームの顔ぶれを見たことで、香織たちは心の余裕をいつの間にか無くしていた。自分たちの力を信じていつもどおりのパンを作ればいいのだが、それができなくなってしまうのが本番の難しさでもある。
香織たちは試合が開始してから、ミスが何回も続き、普段どおりの作業ができなくなってしまった。最終的に制限時間内にパンを焼き上げることはできたものの、香織の心の中でどこかすっきりとしないまま決勝は終了した。
すべての競技が終了し、優勝は東京代表のチームが選ばれた。中部ブロック代表の「パン工房みずほ」は優秀チームとして表彰されたが、スターライトベーカリーの名前は最後まで呼ばれることはなかった。
「やっぱり悔しいね」
亜美が残念そうな顔をした。
「確かにね。でもこの三人で全国大会に出場できて、いい経験になったと思うよ」
香織はどうすればレベルをあげることができるのかを考えていた。表彰式の途中、パン工房みずほの黒柳は香織と目が合うとニヤリと笑っていた。
「来年は絶対に優勝しようね」
香織が呼びかけると亜美も塩村も悔しさを滲ませながら静かに頷いていた。
香織はパン職人グランプリの決勝大会を終えて名古屋に戻ると、世界選手権への挑戦を日頃から頭の中で考えるようになった。まるで人が変わったかのように真剣な姿勢でパン作りに取り組むようになっていた。まずはパン職人グランプリの優勝を目指しつつ、日々の仕事に取り組んだ。一日の仕事が終了した後、半田と毎日のように真剣な打ち合わせを重ねた。どうすればパン職人グランプリで勝てるようになるのかを半田と熱く語り合うことが多くなった。結論としては特別な方法はなく、日々仕事の中で、パン作りの精度とスピードを上げることと、新商品の開発をしながら、短時間でアイデアを出して新しいパン作りにつなげるということしかないという結論になった。それにプラスして決勝大会で経験したような極度の緊張状態のなかでも、冷静に普段通りの作業ができるかどうかがポイントだった。レベルの高いライバル達の中でも、どこまでも平常心でいられるか。それはパン職人グランプリ決勝大会に限らず、最終目標である世界選手権でも同じことだった。世界大会ならば周囲は外国人ばかりになるし、全く考え方の違う人が集ってくる。パン職人の大会であるけれども、それ以外の対策も必要であることもわかった。決勝大会で勝ち抜くことはできなかったが、それ以上に香織にとっては非常にプラスになるいい経験をすることができた。黒柳のような嫌みや嫌がらせをしてくるチームが他にもあるかもしれない。ただパンを焼くことだけの勝負ではないということも注意点として学ぶことができた。
パン職人グランプリという大会を通して、香織、亜美、塩村の三人は一流のパン職人として少しずつ成長していった。これまではのんびり屋で大雑把な香織が、いよいよ世界一に向かって一歩ずつ歩み始めたことで、より真剣に仕事に臨むようになっていた。どこまでも究極のバゲットやクロワッサンを焼くことを追い求めていた。
そんな香織だったが、今まで以上に真剣にパン作りに取り組むようになったのだが、その頃から亜美との意見の食い違いが少しずつ起きるようになっていた。香織も亜美も胸の中にモヤモヤしたものを抱えて仕事をしていたのだが、ある時、大きな口論になってしまった。
「もう、香織のいうことは信じられない」
そう言い放つと亜美が厨房から出ていき、そのまま帰宅してしまうということがあった。
香織はあまりにもパンを極めようとするため、人の意見を素直に聞けなくなってしまっていたのだ。亜美がずっとそばにいてくれるのですべてを理解し、同じ意見でいるものと勝手に思い込んでいた。亜美とは仲がよかったこともあり、そのまま甘えてしまっていたのかもしれない。いくら親しい友人でも当然、別の人格である。お互いの意見を尊重してこそ、新しいものが生まれる。けれども、すべてを理解してもらうことは難しい。
いつの間にか香織の考えと亜美の考えに少しずつズレが生じてしまっていた。何年もの間、ほぼ毎日顔をあわせてパンを焼き続けていたこともあり、お互いなれ合いというか、同僚・友人以上の人間関係になっていたのだが、やはり他人は他人である。いくら親しくとも、生まれ育った環境も全く違う。当然、考え方や意見の相違はある。そんなときは話し合って解決するしかない。香織にとって亜美はかけがえのないパン職人として最高のパートナーでもある。亜美がいなくては今後の香織の世界一への挑戦も危うくなってしまう。
香織は自宅で悩み抜き、困り果てて舞に相談することにした。
「舞ちゃん。ちょっとだけ話を聞いてもらっていいかな」
「お姉ちゃん、珍しく元気ないね」
「うん。亜美ちゃんと揉めちゃってさ。どうしたらいいと思う?」
「亜美さんと何があったの?」
驚いた舞が香織をじっと見つめた。
「仕事の時に、おたがいに思い違いがあってさ。亜美ちゃんにきつくあたっちゃったんだよね。そうしたら亜美ちゃんが急に怒り出しちゃってさ」
「そうなんだ」
「あれはね、確かに私が悪かったんだよね。みんなパン職人グランプリ決勝大会で完敗しちゃってからイライラしていたのもあるしね」
「でも、そのままの状態が続くのはマズいよね」
「そうでしょ。もし、亜美ちゃんがスターライトベーカリーを辞めたりしたらどうしよう」
香織は両手で頭を抱え、大きな目から涙があふれそうになっていた。
「私から亜美さんに聞いてみるね。お姉ちゃん、元気出しなよ。元気が売りの米野香織らしくないよ」
舞が俯いていた香織の肩をポンポンとたたく。
「ここまできたら舞ちゃんしかいないよ。こんなことお願いできるのは」
「あんまり落ちこまないでよ。大丈夫だと思うよ。ちゃんと謝れば亜美さん、わかってくれると思うから」
「そうかな」
それから、舞は香織の話を夜遅くまで聞くことになった。
舞は亜美をいつもの和食レストラン「和食処・三河湾」に誘い出し、亜美の意見を聞いた。
「でも、私が香織にひどく言い過ぎちゃったと思ってるんだ。自分の個人的なことでイライラすることもあってね」
亜美には亜美なりの理由はあった。亜美も元気がなく、先日の香織との口論のことを反省しているようだった。
こういう揉め事は早めに解決するほうが後で揉める火種にもならない。そのままにしておくと、それぞれの怒りが増幅し取り返しのつかないことになってしまう。
舞が自分の部屋に香織を呼んだ。
「何よ。もう疲れているんだからさ」
ブツブツ言いながら香織が舞の部屋に入るとそこには亜美が座っていた。
「びっくりした。亜美ちゃんがいるなんて思わなかったよ」
亜美もそれを聞いて笑いを押し殺していた。
「じゃあ、私はお茶でも運んでくるね」
舞はそそくさと部屋を出て行った。舞の部屋には香織と亜美の二人だけが残った。
二人が微妙な雰囲気になり、どちらから話し始めるかを探っていた。
「亜美ちゃん。このフランス人形覚えている?」
香織がフランス土産の人形を指さした。
「なんか懐かしいね。『これを本当に舞ちゃんのお土産にするの?』って私は止めようとしたよね」
そういいながら亜美が口に手を当てて笑っている。
「でも、舞ちゃん喜んでくれたよ。うむ。私の目は正しいのであります」
香織が勝ち誇ったようにおどけて話した。
「そうね。でも、こうやって飾ると、なかなかいいわよね。フィリップさん夫婦のことも思い出すし」
「もう、ずっと昔みたいだね。あの時は大変だったけど、でも楽しかったよね」
「そうそう。香織が突然セーヌ川のほとりで泣き出すしね」
「あれは、いろいろあってさ」
「それで、舞ちゃんの電話の声を聞いたら急に元気になったよね」
すると部屋の扉が開いた。
「やっぱり、私がパリのお姉ちゃんに電話した時、泣いていたんだよね」
「あんた、人の話を盗み聞きするのは趣味悪いよ」
そんな話で三人はしばらく笑い転げていた。
しばらくして香織が真面目な顔になった。
「亜美、あの時は本当にごめん。私が悪かった」
香織は涙目で亜美に謝った。
「私も言い過ぎた。香織が真剣なこともよくわかったよ」
亜美も微笑みながら香織とがっちりと握手をした。
香織にとって亜美はかけがえのない友人であり理解者である。世界一を目指す香織にとって一番大切な相棒でもあった。塩村も二人が揃っていなければ世界一にはなれないと感じていたので、職場でずっと心配していたが、仲直りしてほっと胸をなでおろしていた。
翌年、香織たちは二度目のパン職人グランプリに出場した。仲直りしたスターライトベーカリーチームは昨年以上にチームワークがよくなり、中部ブロック大会を勝ち抜いて、再び東京の決勝大会へとやってきた。
「香織、今年こそ優勝しようね」
亜美も気合い十分だった。
「もちろんよ。この勢いで世界選手権の日本代表も狙おう」
香織の頭の中はもう次のステップの世界選手権まで見据えていた。
香織たち三人は昨年と同じホテルの大会会場へと足を踏み入れた。昨年は右も左もわからない状況だったが、今年はさほど緊張することもなく、落ち着いていた。昨年負けたことがいい経験になっていた。
香織たちがスターライトベーカリーチームのブースに着いたとき、となりのブースにはあの黒柳がいたのである。
「お、今年も懲りずにやってきましたね。せいぜいがんばってください」
黒柳は相変わらず嫌みたっぷりに話すので香織は無言でうなずいていた。
「お互いに、力を出し切りましょう」
香織は、言葉少なく返事をした。
「香織、冷静にいこうね」
亜美は香織と目を合わせ、静かに頷いていた。
いよいよ香織たちにとって二度目のパン職人グランプリ決勝大会が始まった。
当日の朝七時に審査員から発表されたテーマは「自然」だった。
全チームが一斉に作業を開始した。そのテーマについて香織は亜美と塩村でアイデアを話し合い、短時間で方針を決めるとすぐにそれぞれの担当に分かれ作業にとりかかった。
香織がメインのパンを焼く担当になり、生地を捏ねながら新たなアイデアを模索した。
オブジェ部門の担当になった亜美は自分の頭の中でアイデアを組み立てて大規模なオブジェのパンを制作していった。オブジェ部門とは、パン屋の店内に展示をするような作品のことで、大がかりなため時間も手間もかかる。塩村は香織と亜美のサポート役という形で手間がかかるときにどちらかのフォローに入るスタイルとなった。これも三人で考えた分担方式だった。それぞれ制限時間ギリギリでパンを焼き上げた。時間はかかってしまったが、三人とも今回の出来映えにはかなりの自信をもっていた。昨年の決勝大会を経験したことも心の余裕につながっていた。
香織が亜美と塩村に声をかけると二人とも満足そうに輝いた目をして頷いていた。香織たちは前年とは違い、自分たちの実力を出し切ったとの手応えがあり、笑顔で結果発表を待った。
そこで、再び、すべての出場チームと顔をあわせた。パン工房みずほとスターライトベーカリーは隣に並んで立つことになった。黒柳のチームは決勝大会を何度も経験していてどことなく慣れていて余裕さえ感じられる顔つきをしていた。
いよいよ、決勝大会の結果が発表される時間になったのだが、大会本部からの結果がなかなか発表されなかった。採点に時間がかかっているのだろうということは、場内にいるだれもが感じていた。ただ、あまりにも結果発表に時間がかかっていたので場内は、いらだたしい雰囲気が漂い始めていた。
「いま審査結果を集計していますが、もうしばらくお待ちください」
大会本部の審査が難航し香織たちはしばらく並んだまま待たされる形となり、隣に立つ黒柳が妙にニヤニヤしてイヤなムードが漂っていた。嫌な緊張感のまま、誰も口を開く者はいなかった。そして三十分ほど経過してから司会者が壇上に上がった。
「長らくお待たせいたしました。それでは審査結果を発表します」
司会者の声が場内に響き渡った。
「今年のパン職人グランプリの優勝者は」
数秒の間があり、それが香織には途方もなく長い時間のように感じられた。
「優勝は愛知県代表・スターライトベーカリーチームです」
その声を聞き、香織たち三人は一瞬動きが止まったが、ガッツポーズをして喜びを爆発させた。これまで悩み抜いて苦労した結果が出たのである。スターライトベーカリーの三人はいつまでも肩をたたき合い涙を流していた。
隣の黒柳は苦々しい顔をして立っていた。
「おめでとうございます」
パン工房みずほの代表は香織に祝福の声をかけると舞台から静かに消えていった。
香織たちの胸には優勝の金メダルが輝いていた。そのメダルは想像していたよりも重く
これまでの三人の苦労の証となった。
「香織、日本一だよ」
亜美も最高の笑顔をしていた。
「やっと勝てたね。ここまで来たんだ」
香織は自分でも笑顔なのか泣き顔なのかよくわからない状態だった。
「がんばってきたご褒美ですね」
塩村もさわやかな笑顔をしていた。
その日、三人だけで祝勝会を開き、夜遅くまではしゃいでいた。
香織たち三人は優勝メダルとトロフィーを持って意気揚々と名古屋に帰ってきた。星野姉妹も半田も笑顔で三人を迎えてくれた。
「みんな、おめでとう」
星野姉妹は一人一人にお祝いの花束を渡した。
「ありがとうございます。パン屋さんをさがして歩き回って倒れたとき、杏子さんと久留美さんに助けてもらわなかったらここまでなれませんせした」
香織は星野姉妹と喜びあっていた。
半田も店の若手三人が結果を出したことに満足していた。
「三人とも本当によくやった」
成長した三人の姿を見て一人喜びをかみしめていた。
その後、数日間はスターライトベーカリーには、地元のお客さんたちが喜んで駆けつけ店は大賑わいとなった。地域のテレビ局や新聞社も連日のように店に押しかけ、取材の対応で香織たちは仕事以上に忙しい日々を送らなければならなかった。
「名古屋市にある人気のパン屋さん・スターライトベーカリーが先日開催されたパン職人グランプリ大会で見事優勝しました」
テレビ局のアナウンサーの声が店内に響き渡り、香織と亜美、塩村も連日テレビ番組に登場した。
「米野香織さんは、なんと名古屋の有名和菓子屋の娘さんなんです。どうして和菓子ではなくパン職人になったのですか」
アナウンサーは香織にとって一番キツイ質問を投げかけてきた。
「クロワッサンが大好きだったということと、実家の仕事とは少し異なりますが、同じ食品業界で自分の力を試してみたかったのです」
アナウンサーは大きく頷くとマイクを亜美に向けた。
「そしてこの店にはもう一人・持田亜美さんというパン職人さんがいます。みなさんこのお顔、覚えていませんか。昔、一世風靡した『モチモチアイス』のCMに登場していた『あみちゃん』こと持田亜美さんなんですよ。有名女優の持田麗子さんの娘さんでもあります」
亜美にとっても一番痛い部分を紹介された。
「名古屋でパン職人をやっているのは何か理由があるのでしょうか?」
厳しい質問だった。
「私は親元から離れて自分で何かをしたかったことと、もともとパン作りが好きだったのでこの店に入りました」
亜美は少し真面目な顔をしながら、冷静に受け答えをした。
香織と亜美へのあまり触れて欲しくない部分へのマスコミの質問を連日受けることになってしまい、日本一になった喜びよりも、気分的に落ち込んでしまうこともあり、心の底から喜ぶことができなかった。
その反面、スターライトベーカリーの店としての広告効果は絶大で店の前には連日大行列ができ、昼すぎにはパンが売り切れになってしまうことも珍しくなかった。
人間とは怖いもので、チヤホヤされるとどうしてもどこかに慢心というものが出てしまう。香織は忙しさのあまり、日本代表選考会もなんとかなるだろうという甘い気持ちがどこからか湧いてきてしまった。
そんなある日のこと。香織の部屋を妹・舞が訪れた。
「おや、グランプリ受賞おめでとうございます」
舞がおどけた調子で入ってきた。
「何か御用ですか?」
香織も仕事で疲れてぐったりしていた。
「おやおや。ご機嫌斜めですね。お姉ちゃん、お給料もかなりアップしたんでしょ」
舞は容赦なく姉にたたみかける。
「うるさいな。給料は少し上がっただけです。何も買ってあげないからね。せっかくフランス人形買ってあげたんだから。文句言わないでよ」
「あらあら。どうしました。笑っていないとせっかくの綺麗なお顔が台無しですよ」
「だから。うるさいわね。今は世界選手権の代表選考会に向けて考えることもあるんだし」
「そうですか。今日はいい話とちょっとイヤな話があるんだけどな」
「いい話とイヤな話って何よ」
香織がムキになって舞に訊いた。
「まず、いい話は田端さんがお姉ちゃんと二人でグランプリの祝勝会をしようかなって言ってたんだけどな。お姉さまはお疲れですって言っておこうかな」
「そういう大事なことは早く言いなさいよ。ほんとに」
ベッドの上に寝ていた香織が急に起き上がり、正座をし底抜けに明るい笑顔になった。
「だからいい話は先にしましたよ」
「もう一つのイヤな話って気になるんだけど、なに?」
香織が舞に訊いた。
「お姉ちゃん、今年であの約束からもう五年になるの気がついてた?」
「えっ。そうだっけ」
香織は指折り数えていた。
「そうだ。今度の世界選手権は五月だから、それに出ないとその次の年の世界選手権は五年過ぎちゃうんだ」
「でしょ。だから、今度の日本代表選考会には絶対代表にならないと五年目に世界一になる約束を果たせなくなるのよ。細かい話しなんだけど」
香織はもう一年あると勘違いしていた。今回、世界選手権に出場しなければ母との五年目に世界一になるという約束を果たすことはできない。その事実を知り、香織はかなりショックを受けしばらく考えこんでしまった。今回、日本代表になって世界選手権で優勝して世界一になる。その方法しか母親との約束を果たすことはできない。
「それで、田端さんとどうするの?」
「もちろん、行くに決まってるでしょ」
香織にとっては田端と食事に行くことで、暗い気分を変えたかった。
その一週間後、香織と田端は二人きりで前回食事をした和食レストラン「和食処・三河湾」に来ていた。
「香織ちゃん、日本一おめでとう」
「ありがとう。でも来年は年明けに世界選手権の日本代表選考会があるから、もうそのことで頭がいっぱいなの。今回で世界一にならなくちゃいけないの」
香織が少し甘えたような口調で話した。
「大丈夫だよ。香織ちゃんなら、きっとなれるよ。自信持ってよ」
二人だけの世界でお互い見つめあっていた。
すると、通路を挟んだ反対側の席の女性客二人が何やらクスクスと笑っていた。
「あれ。あなたたち、どうしてここにいるのよ」
反対側の席の二人は舞と亜美だったのである。
「私はただ、亜美さんとお祝いをしようと思って来ただけよ。ねえ、亜美さん」
「そうよ。たまたまお店が一緒になっただけよ。以前、香織とケンカしたときの続きの話もあるしね。それに田端さんがどんな素敵な人かちょうどお会いしてみたかったから。ちょうどよかったわ」
「どうせ、私が出かける時から二人でつけてきたんでしょ」
「そんなストーカーみたいなことはしないわよ。それはともかく、優勝のお祝いなんだから楽しみましょうよ」
舞はどこまでも明るく振る舞っていた。その後は四人で楽しく食事をして盛り上がった。
香織としては、嬉しいような、どうして田端と二人きりにしてくれないのかという不満もちょっぴりありつつの祝勝会だった。
香織たちはグランプリ大会優勝ということがどこまでもついてまわってきた。来店する客の数は一気に増えたが、それに対応するパンを連日焼かなければならなかったこともあり、思うように日本代表選考会へ向けて準備をする時間が減ってしまった。香織も亜美も塩村も普段とは全く違う状況に戸惑い、どうすべきか頭を悩ませていた。
こうして慌ただしく毎日を過ごしているとあっという間に年が明け、世界選手権の日本代表選考会の日が訪れた。今回は、東京・大手町にあるホテルが選考会の会場だった。全国から選ばれた五チームが出場していたのだが、どういうわけか黒柳がリーダーをつとめるパン工房みずほが参加していたのである。日本代表選考会には、全国パン協会の推薦枠というものがあり、大手のミズホパンの直営店ということで推薦されて出場していたのである。
「どうして毎回、毎回、あんな面倒くさい奴と一緒なんだろうね」
香織が頭を捻った。
「もしかしたら、香織の運命の人は黒柳さんだったりして」
亜美がいたずらっ子のような顔で香織をじっと見つめた。
「そんな冗談やめてよ」
香織はむっとしながら亜美の肩のあたりをポンと叩いた。
「黒柳さんが来ましたよ」
通路を見ていた塩村が香織たちに声をかけた。黒柳を先頭に「パン工房みずほ」のメンバーがぞろぞろと歩いてきた。
「おやおや、グランプリ大会優勝チームのみなさんじゃありませんか。余裕ですね」
今回も嫌みたっぷりな口調である。
「こんにちは」
香織は挨拶だけするとそれ以上は話さないことにしていた。
「あら。ご機嫌斜めですね。まあ、今日もお手柔らかにお願いしますね。ハハハ」
不気味に笑いつつ、そのまま通り過ぎていった。
いよいよ、香織にとって「あの約束」から五年目。世界選手権の切符がついに手に届くところまでやってきた。香織の頭の中でこれまでの出来事が次々とよみがえり、胸が熱くなってきた。香織にとって負けられない戦いが始まろうとしていた。
日本代表選考会は世界選手権の本番と同じ日程が組まれ、初日は全チーム同じ材料で生地を捏ね翌日の準備をし、二日目はその生地を使ってパンを焼くというスケジュールになっていた。
審査されるパンは「バゲット・クロワッサン部門」と「アート部門」に分かれていた。「バゲット・クロワッサン部門」は、普段店頭に並ぶようなパンを中心に焼く。この部門では独創性のあるパンを何種類も焼かなければならなかった。もう一つの「アート部門」は、大会本部から発表されるテーマから連想してオブジェ的な作品を作成するというものだった。
香織にとって今回なんとしても日本代表にならなければならなかった。まさに一戦必勝の大会。思っていたような準備はできなかったけれども、そんな言い訳は通用しない。勝つか負けるか。それしかなかった。
開始の合図であるレゲエホーンが鳴り響き、いよいよ選考会が始まった。
代表を争うパン職人たちの手際よくパンを作る音だけが場内に響いていた。
初日は、全チームとも同じ材料で生地を捏ねることで大きな問題もなく無事に終了した。
「香織、どうだった?」
一日目が終了した後、亜美が手を洗いながら香織に声をかけた。
「うん。順調といえば順調かな。でも、やっぱり日本代表選考会はレベルが高いよね。他のチームの人たちをチラリと見るとやっぱり今までとは全然違うね」
香織は他のチームのレベルの高さをひしひしと感じとっていた。スターライトベーカリーチームにとって代表選考会は初めての参加だったが、他のチームはベテランパン職人がずらりと揃っていて若手パン職人が多いパン職人グランプリとは全く違う空気が流れていた。他のチームは手慣れていて代表選考会には何度も参加しているのだろうと推察できた。
香織には他のチームのパン職人たちが大きな壁のように見えた。
そしていよいよ香織にとって運命の二日目が始まろうとしていた。その日は朝から曇り空で昼頃から雨が降る予報となっていた。
「なんかイヤな感じがするね」
亜美が空を見上げながら不安そうな顔をした。
「まあ、選考会には特に関係ないでしょ。平常心が大事だよ」
亜美は香織の横顔を見ながら二人が出会った頃のことをふと思い出していた。老舗の和菓子屋の娘と有名女優の娘。自分自身、一緒に世界一を目指そうと言ってみたものの、本当にこんなハイレベルのところで戦うことができるとは想像もしていなかった。それは香織がきっと「幸運の女神」、いや「パンの神様」に守られているのではないだろうかと思っていた。そんなことを感じる場面は何度もあった。一緒にいて楽しいし、少しおっちょこちょいのところがあるけれど、香織は必ず結果を出してきた。スターライトベーカリーで新発売するパンは必ずといっていいほど人気商品となるし、パン職人グランプリにもなった。二人でパン職人の道を歩き始めてまだ五年である。それで日本代表を争うまでのレベルになったのだ。香織にはパン職人としての才能があるということを認めざるを得なかった。逆に自分は子どものころからパンを作ることが好きで東京から名古屋のスターライトベーカリーにやってきた。半田さんや香織と一緒に楽しくパンを焼いてきた。それが今日は日本代表を争う舞台の上に立っている。もうそれだけで亜美は十分満足していた。もちろん香織との夢の世界一のパン職人になるため、ここで負けるわけにはいけないが、亜美としては自分の中で満足していた。ここで勝てばスターライトベーカリーも有名になるし、一緒に戦っている塩村の将来も開けてくるのだ。亜美は香織の思いとは少し違った角度から代表選考会に臨んでいた。
「亜美、どうかした」
じっと見つめられていた香織が亜美の視線に気づいた。
「今日、全力でがんばろうね、香織」
「もちろんだよ。塩村君も大丈夫?」
「まかしてください」
塩村が笑顔で小さくガッツポーズをした。
選考会二日目が始まる直前。
香織はいつものように明るく振る舞っていたけれども、亜美は香織が極度に緊張していることに気がついていた。それは塩村も薄々感じていた。
香織は目を閉じて一人集中していた。
今日、ついに日本代表選考会の結果が出る。どんな結果になるのか誰もわからないけれど、全力を出し切ろう。勝っても負けてもそれは審査員が決めることだ。自分たちのベストを尽くせばそれでいい。
「いつものアレやろうか」
香織が亜美と塩村に呼びかけた。
「スターライト」
香織が叫んで三人が右手を重ねた。
「ベーカリー」
三人で右手を高く上にあげ天井を見上げた。
香織も亜美も塩村もそれぞれの持ち場に立った。
そしてしばらくすると選考会二日目の始まるレゲエホーンが鳴り響いた。
各チームが一斉に作業を開始した。昨日準備した生地を成形し手際よく鉄板に並べていく。それぞれの工夫した方法で段取りよく作業を進めていた。次々にパンが焼き上がる香ばしい香りが会場に流れ始めていた。しばらくすると審査員たちがそれぞれ審査用紙を片手に各チームのブースをまわって丹念にチェックを始めた。ここも緊張する瞬間だ。効率のよさ、丁寧さ、それにボウルなどの作業道具を洗って片付ける動作という細かな部分までが審査の対象となっていた。
香織たちスターライトベーカリーチームも順調に作業を開始した、ように見えていた。だが、時間の経過とともに「日本代表にならなければ」という熱い想いばかりが先行してしまい、普段ではしないような細かなミスが連続してしまった。香織は自分の身体がふわふわして自分ではないような感覚になってしまっていた。それでも作業時間は刻々と進んでしまう。香織はいつもどおりのパン作りができなくなってしまった。亜美も塩村も香織の様子がおかしいことにすぐに気がついてはいたが自分の担当の仕事で精一杯で、どうすることもできなかった。
「香織、慌てなくてもいいよ」
見かねた亜美が声をかけた。
「う、うん」
少し香織の緊張が解けたように見えたが、狂い始めてしまったギアはなかなか正常に戻ってくれなかった。すべてが悪循環に陥ってしまっていた。
香織は残り時間を気にしながらただ焦るばかり。グランプリの時と同じようにそれぞれの分担もはっきりさせていた。だが、思うように作業が進まない。すると余計に焦りミスが続く。香織の思いとは裏腹な状況が続き、三人とも焦りとイライラ感が募ってしまった。そして無情にも時間は過ぎていくばかり。実は前日の夜、香織は緊張のためほとんど眠れなかった。それにこれまでの疲れがたまっていて微熱まであった。あえてそのことを亜美にも塩村にも告げずなんとか選考会を乗り切ろうと香織は心に決めていた。
選考会のタイムリミットは夕方の五時。気がつけば残された時間はあと一時間しかなかった。香織が少し汗をかいたことで少し体調が回復した。いつもの香織の冷静さを取り戻し、普段どおりの作業ができるようになったときには制限時間がまもなく終わろうとしていた。それでも三人はあきらめることなく最後の仕上げをギリギリまで続けた。
そして、選考会終了のレゲエホーンが会場に鳴り響いた。
スターライトベーカリーチームは、すべてのパンをなんとか焼き上げるところまではこぎつけた。香織が一番自信のあるバゲットやクロワッサンも最高の焼き上がりになった。
しかし、それが代表選考会を勝ち抜くレベルのものかどうか。結果は審査員に委ねるしかなかった。香織たち三人は選考会を終えるとすぐに控室に戻り、ドミノ倒しのようにばたりと倒れ込んでしまった。スターライトベ―カリーチームが、他のチームの状況もあるため代表に選ばれるかどうかはなんとも言えない状況だった。
競技が終了するとすぐ審査が始まった。控え室で疲れ果てた香織たちはいい結果になることをただ祈るしかなかった。香織にとっては母親との約束の五年目。どうしてもここで負けるわけにはいかなかった。代表に選ばれなければ、その時点で香織の世界一への挑戦は絶たれることになる。香織は神にも祈るような気持ちで結果発表を待った。
厳正な審査が終わり、いよいよ運命の結果が発表される時間となった。舞台には選考会に参加した全五チームが整列した。チラリと他のチームを見ると黒柳は勝ち誇ったような自信に満ちた顔で香織たちをチラチラと見ていたが、香織は目を閉じて心を落ち着かせようとしていた。
そしてゆっくりと司会者が壇上に現れた。
「それでは結果を発表いたします」
舞台の上の五チームが緊張した面持ちで次の言葉を待った。
ほんの少し間があったが香織にはそれが何時間にも感じた。
「日本代表は」
香織は目を閉じたまま耳に全神経を傾けた。
「東京のブーランジュリー・ヨシノチームです」
会場の一部で歓声が沸きあがった。
香織はその光景をただ呆然と見つめていた。まるで人ごとのように代表決定を喜び合う人たちを眺めていた。スターライトベーカリーの名前が表彰式で呼ばれることは一度もなく、代表選考会は幕を閉じた。
これで米野香織のパン職人としての五年目は、世界選手権に出場できないまま終了した。
舞台の上では代表に選ばれたチームがいつまでも大騒ぎをしていたが、それとは対照的に他のチームのメンバーは静かに舞台を去っていった。
だが、香織は電池が切れたロボットのようにその場から動くことができなかった。
「これでおしまいかな」
香織は小さくつぶやくと膝から舞台の上に崩れ落ち、両手両膝を舞台上についたままの状態でうつむき、しばらく動くことができなかった。
米野香織のパン職人世界一を目指した長い挑戦の旅が今、終わりを告げようとしていた。香織はしばらくその場で肩を振るわせ、大粒の涙を流していた。半田との毎日の特訓、フランスでのフィリップ夫妻との研修、スターライトベーカリーのメンバーたちとの忙しくとも楽しい思い出いっぱいの日々。次々とその光景が思い出されては消えていった。自分の挑戦はこれでもう終わりになってしまうのだろうか。両親にどう説明すればいいのか。香織は頭の中がずっと混乱したままだった。香織の気持ちがわかるだけに亜美も塩村もどうすればいいのかわからないまま、そばで見守るしかなかった。
すると舞台に向かって歩いてくる一人の女性がいた。
「おつかれさまでしたー」
その女性は突然、舞台上に現れ、香織の肩をポンと叩いた。
「お姉ちゃん、さあ胸張って名古屋に帰るよ」
妹の舞が選考会の会場に来ていたのである。
「舞ちゃん。どうして。どうしてここに?」
香織が驚いて舞を見上げた。
「自分でもよくわからないけど、気がついたら朝、新幹線に乗ってたんだ」
舞は無邪気な子供のようにやさしく微笑んでいた。
「どうしよう。私、もう名古屋に帰れないよ」
香織が舞に抱きついた。
「ドンマイ、ドンマイ。私が審査員だったら、お姉ちゃんのパンが一番なんだけどな」
米野姉妹は、舞台の上で抱き合ったまま、しばらく動こうとはしなかった。
名古屋市内の高級住宅街にある米野家の庭には樹齢百年を越える立派な松が何本も並んでいた。松は寒い冬に耐えつつ常に緑の葉があることから長寿の象徴とされ、神がその木に降りてくるのを「待つ」というところから「マツ」という呼び名になったとも言われている。そんな大きな松は長年に渡り米野家の人々を静かに見守ってきた。米野屋が順調なときもあればそうでないときもあった。それらをすべて見届けながら米野家の人々と共に生きてきた。
その立派な庭を見渡せる米野家の和室には、香織の父・虎ノ介、母・千景と香織、舞の四人が正座をして静かに向かいあっていた。執事の畑山はすでに定年のため退職していなかったが、それ以外は五年前の「あの約束」をしたときと同じメンバーが揃っていた。だが、誰も口を開くことはなく重苦しい雰囲気の中、時間だけが静かに流れていた。そしてこの何とも言えない沈黙を破ったのは妹の舞だった。
「五年前の『約束』をしてから、お姉ちゃんはパン職人として必死に努力し続けてきました。その証拠に去年はパン職人グランプリ大会で優勝しました。日本一です。それもたった五年間でやり遂げたのです。これは十分評価に値するものだと私は思います」
舞は香織がパン職人として五年間懸命に努力してきたことを懸命に両親に伝えようとした。
「もちろん知ってます。でも私が香織と約束したのは日本一じゃなくて世界一です。あの時に約束をしてから、ちょうど五年になります。あの約束はどうなったの?」
母の千景はどこまでも冷静であり、香織に対しては誰よりも厳しかった。ふたたび静寂な時間が訪れたが、悩み抜いた香織が意を決して両親に向かって口を開いた。
「キチンと私からご報告します。パン職人として五年間、私は努力し続けてきました。その間、フランスにも研修に行き、去年は日本のパン職人グランプリ大会で優勝しました。しかし……」
そこで香織の口からは次の言葉が言い出せなくなり、うつむいたまま動きが止まってしまった。そして全身が小さく震え出し目に涙をためながら再び話しはじめた。
「今回、世界選手権の日本代表に選ばれませんでした」
震える声で言い放つと香織の目から流れ星のように一筋の涙がこぼれ落ちた。
父・虎ノ介、母・千景は何も言わず香織をじっと見つめていた。しばらく香織は声を押し殺して身体を小さく震わせていた。
「それで、香織。これからどうするつもりなの?」
しばらくして母の千景が口を開いた。
父の虎ノ介は腕組みをしたまま目を閉じ、まったく動こうとはしなかった。
「私は、その……」
泣き顔のまま香織は父と母の顔をゆっくりと見つめた。
このままパン職人としてパンをつくり続けたい。スターライトベーカリーでいつまでもパンを焼いていたい。そして最高のクロワッサンをつくりパンの道を究めたい。これが香織の本心だった。だが、香織の思いとは裏腹に約束の五年目までに世界一のパン職人になるという夢は叶わなかった。香織は自分の今の想いを両親にどう伝えればいいのかがわからなかった。それともパン職人を辞めて米野屋に戻るしかないのだろうか。香織は重大な犯罪を犯し裁判にかけられている被告のような心境だった。
千景がゆっくりと話しをはじめた。
「香織。ここまでパン職人としてあなたが誰よりも苦労し精進してきたことは、舞からよく聞いていました」
千景は香織をじっと見つめながら話しを続けた。
「ここまで努力してきて、のこのことパン職人を辞めるつもりなの?」
その言葉を聞いて香織は、母の顔を見上げた。悔し涙を流していた香織の顔が少しだけ緩んだ。
「香織。どうなの?」
何が起きているのか、香織には理解できず、すぐに返事をすることができなかった。
しばらく沈黙が続いた。
「ここまで五年間努力し続けて世界一になれなかったことは本当に悔しいです。もし許してもらえるなら、再びパン職人として世界一を目指したいです」
香織は母の顔を見ながら、身体じゅうの力を込めて声を絞り出した。
虎ノ介も千景もその言葉を聞き、じっと何かを考えていた。
千景は少し間をおいてから、再び話し始めた。
「だったら、やってみなさいよ。もう少しなんでしょ。世界一は」
母・千景は静かに香織を見つめていた。
「私は香織がここまでやるとは思っていなかったわ」
千景は夫・虎ノ介の顔をチラリと見ると、静かに姿勢を正し、意を決したかのように話しを続けた。
「ここまでやったのなら、また世界一のパン職人に挑戦しなさい」
母は厳しい顔をしたまま、香織に伝えた。
香織が驚きのあまり動きが止まってしまい声にならなかった。
「いいんですか。パン職人を続けても」
灰色をした雲のすき間から太陽の光が一筋差し込むように香織の顔に笑顔が戻った。
「やってみなさい。ただしあと一年間だけよ。もしそれでもだめだったら、米野屋に戻りなさい」
「本当ですか、お母様。ありがとうございます」
香織は舞と抱き合って喜んだ。
「今度こそ、世界一になります」
「テレビで何度も米野屋の長女がパン職人になって、グランプリ大会で優勝したって報道されたのよ。とことんやりなさい。私たちだってもう簡単にはパン職人を辞めさせられませんよ」
「ありがとうございます」
久々に米野家に笑顔が戻った瞬間だった。
東の空にゆっくりと太陽が昇り始め、名古屋の町が新しい朝を迎えていた。まだ白んでいた空を見上げながらコックコート姿の香織は大きく両腕を伸ばすと「よしっ」と一言小さく叫びスターライトベーカリーの厨房の中へと入っていった。
たった一年ではあるが香織は世界一への再挑戦を許された。ここからが本当のラストチャンスとなる。次の代表選考会で日本代表となり世界選手権で優勝する。もうそれしか世界一になる方法はなかった。香織は今度こそ絶対に世界一になると決意し、新たな戦いが始まった。
両親との話し合いの後、香織はこれまでのマイペースだった日々の生活を一つ一つ見直し、すべてを変えていこうと決めた。まず、今までよりも起きる時間を三十分早めることから始めた。そしてパンを作る工程一つ一つを疎かにすることなく、徹底的に考え抜き無駄なものをすべて無くそうと考えた。
あまりの香織の真剣な姿に亜美も塩村も驚き、香織の指示どおりに動くように心がけた。
仕事の中で迷ったことがあれば半田に相談しすぐに問題点を解決するようにした。妹の舞も香織の世界選手権に立ち向かうあまりにも真摯な姿を見て感心していた。
ただ香織には大きな問題があった。パン職人として世界選手権に立ち向かう心構えや世界レベルの競争となった時、技術的な部分がこのままで本当にいいのかどうかという疑問が残っていた。そこは半田でもわからない部分もあったので自分なりに研究して手探りで一つずつ行動していくしかなかった。
ある日、香織が厨房で新しいクロワッサンを開発していると店の入口からにぎやかな声が聞こえてきた。
「どうかしましたか?」
香織が気になって杏子に声をかけようとレジに顔を出した。すると見覚えのある大柄の外国人と日本人女性が人懐っこい笑みをたたえて立っていた。フィリップと妻のクミコがフランスから日本にやってきたのである。
「カオリサン、ゲンキソウデスネ」
「香織ちゃん、がんばってるわね」
懐かしい二人が嬉しそうに声をかけてくれた。
「フィリップさん、クミコさん。日本に来てくれたんですね。ありがとうございます」
香織が一気に笑顔になり、フィリップとクミコの胸に思い切り飛び込んでハグをした。
「香織ちゃんと亜美ちゃんがどうしているか心配だったのよ」
クミコがフランス研修の時と同じようにやさしい言葉をかけてくれた。
フィリップとクミコは香織が日本代表に選ばれなかったことで落ち込んでいるのではないかと心配して急遽日本にやってきてくれたのだ。順調に物事が進んでいるときは人に頼ろうともしないし、相談もしない。しかし、苦境に立たされている時ほど激励の声が何よりも力になる。
実はフィリップ夫妻は香織がパン職人世界一になれなかったことで両親との約束である五年を過ぎてしまうことから、香織がパン職人を辞めなくてはならなくなってしまうのではないかと心配していた。もし、そんな状況であれば香織の両親と会って香織をもう一度チャレンジさせて欲しいと説得することまで考えた上での来日だった。
「ありがとうございます」
香織は笑顔でお礼を伝えたが、なぜか大きな瞳には光るものがあった。フィリップ夫妻のやさしさを香織はひしひしと感じていた。
「カオリサン、アミサン、オイシイパンヲヤイテイマスカ」
フィリップは研修に行っていた頃と変わらぬやさしい笑顔だった。
「里帰りも兼ねて二人で日本に来たのよ。香織ちゃんと亜美ちゃんにも会いたかったし。本当に元気そうでよかったわ」
クミコも笑っていた。
「香織が日本代表になれなくて落ち込んでいたから、本当にありがたいです」
亜美も嬉しくて笑っていた。
「亜美、いちいち余計なこと言わなくていいから」
香織が亜美に詰め寄った。
「二人とも相変わらず仲良しでよかったわ」
クミコが口に手をあてて笑いながら頷いていた。しばらく談笑した後、半田とフィリップが何やら真剣な話し合いをしていた。
「おーい、三人とも聞いてくれ」
半田が香織たちに向かって話し始めた。
「今日から三日間、フィリップが三人の臨時コーチをしてくれるそうだ。聞きたいことがあれば何でも聞くんだぞ」
半田の隣で微笑んでいたフィリップの指導がすぐに始まり香織に元気が戻ってきた。悩んでいた技術的なことと世界選手権に立ち向かう心構えを訊くチャンスができたのである。
フィリップは実はパン職人の世界選手権の初代チャンピオンでもあった。香織にとっては絶好のチャンスが訪れたのである。フィリップは、香織たちにもう一度、基本から徹底的に見つめなおすことから教え始めた。案外、わかりきっているようなことにも再度注意して見直すと、無駄な作業や動きがあったことがいくつも見つかり、効率もよくなり重要なポイントもはっきりわかるようになった。バゲットやクロワッサンを焼くときの基本作業も見つめなおした。それは亜美も塩村も同じだった。どんなことでも悩んだらまず基本に立ち返ることである。小手先だけの裏技のような技術の事で頭がいっぱいになってしまい、大事な基礎を疎かにしていることが往々にしてある。フィリップはそこに目を向けた。一流の人は決して基本を疎かにはしない。そこに物事の本質が隠されている。中途半端な人ほど、目先のことを気にしてしまい、迷路に迷いこんでしまう。
フィリップは日本とフランスとの違いについても丁寧に指導してくれた。その国それぞれのやり方はある。だが、それが必ずしも正解ということでもない。日本とフランスの違いを比較し、良いものを取り入れ、あまりよくないものは辞めるということもした。
フィリップの指導は短期間ではあったけれども、香織たちには目からウロコが落ちるような指導をしてくれた。フランス研修でフィリップの店にいたときはまだパン職人として一年目だったこともあり、深い部分のことがはっきりと理解できていないことも多かった。香織は何年もパン職人として働き続けたことにより、フィリップの仕事に対する深い部分の説明もはっきり理解できるようになっていた。香織の成長した姿を見てフィリップは誰よりも目を細くして喜んでいた。三日間という短期間ではあったが内容の濃い充実した指導をしてくれた。そして何よりもボロボロになりかけていた香織の心を和ませ、新しい力を送り込んでくれた。まさにフィリップ夫妻の来日は香織にとって天からの贈り物のようだった。
「ガンバッテクダサイ」
「今度はパリで会いましょうね」
フィリップとクミコは笑顔でフランスへと帰っていった。
その後、香織はこれまで以上に真摯な姿勢でパン作りに取り組んだ。
この頃の香織は、作業に没頭するあまり、厨房に泊まり込むことさえあった。いま夏なのか冬なのか季節さえわからなくなるほど打ち込んでいた。そこまでして香織は日本代表になるための準備を続けた。パン職人グランプリに優勝しているので二年間は日本代表選考会に出場できる権利があった。今回はその二年目。香織はこの日本代表選考会に全力を
注ごうとしていた。
こうして香織はパン作りに徹した日々を過ごし、二回目の代表選考会の日を迎えた。この二日間で代表が決まる。東京の会場に着いた香織はこれまでとは違い、驚くほど冷静に選考会に臨めていた。前日ほとんど眠れず体調も万全ではなかった昨年のことを考えると、全くと言っていいほど違っていた。香織にはそれだけ選考会に向けて準備をしてきた自信があった。
「さあ、今年こそ勝つよ」
香織が亜美と塩村に声をかけた。
「そうね」
亜美も笑顔でこたえる。
「がんばりましょう」
塩村も目に力がこもっていた。
こうしてスターライトベーカリーチームは二度目の代表選考会に臨んだ。昨年と同じ東京・大手町のホテルが会場だった。今回参加したチームは今回のパン職人グランプリを優勝した大阪代表のチームが新たに加わった以外は昨年と同じ顔ぶれ。毎度おなじみのパン工房みずほの黒柳はニヤつきながら開始前に香織に近づいてきた。
「おや。米野さんは和菓子屋さんに戻ったのかと思っていました。まだパン屋さんを続けるんですね。そうですか。でも貴方は和菓子屋さんが向いているのかもしれませんね。ハハハ」
いつものようなイヤミを言ってきた。
「私の妹が和菓子屋を継いでいますからご心配は要りませんよ。私はパン職人でがんばりますから」
香織は言葉少なく反論した。
「なるほどね。まあせいぜいがんばってください。ほほ」
笑いながら黒柳は歩いていってしまった。
「香織、気にしなくていいからね」
亜美も心配して声をかけた。
「うん、大丈夫だから」
香織には黒柳の言葉でもう動揺することはなかった。目指すはまず日本代表になることだった。
選考会が始まるとスターライトベーカリーチームは昨年のような悪循環に陥るようなこともなく、三人とも担当に分かれて順調にパンを焼いていった。昨年の失敗した経験を元に三人で何度も選考会の模擬練習を繰り返してきたのだ。二日間とも落ち着いて作業を進め制限時間に余裕を持ってすべての作品を完成することができた。「バゲット・クロワッサン部門」と「アート部門」が審査対象となるのだが、どちらの部門も、香織の発想をもとにした作品を作りあげた。スターライトベーカリーチームは、これまで選考会にむけて充分な準備をしてきたこともあり、これまでの中でも最高の自信作を焼き上げていた。
あとは結果発表を待つだけとなったが、香織は自分の力を最大限に発揮できたという自負があり、落ち着いていた。結果を待つ間、香織は祈るというより悟り切ったような心境だった。亜美も塩村も香織と同じ思いだった。昨年の選考会後の疲れ果ててしまったような状況とは全く違い、三人とも満足した表情で結果発表を待っていた。
そしていよいよ結果が発表される時間となった。
司会がマイクの前に立った。
「世界選手権への代表の切符を掴んだのは」
香織は目を閉じ冷静に発表を待った。
「愛知県・スターライトベーカリーチームです」
名前が呼ばれた瞬間、香織は天を見上げ、目に涙をためて両手の拳に力をこめてガッツポーズをしていた。そして三人で手をたたき喜びあっていた。
「香織、やったよ」
「うん」
嬉しさのあまり、香織は何も声にならずじっと喜びを噛みしめていた。香織としては日本代表になるためにできる限りの努力をしてきたので、勝つ自信は十分あった。
そして、これまで散々イヤミを言ってきた黒柳が香織に近づいてきた。
「おめでとうございます。私どもの完敗です。ぜひ、いいパンを焼いて世界選手権でもがんばってください」
そう告げると黒柳は静かに大会会場から姿を消した。
ついに、香織が世界選手権への切符を手にしたのである。
翌日、名古屋に帰ると、香織はすぐ両親に報告した。父の虎ノ介は黙って頷いていた。
「おめでとう。世界選手権もがんばりなさい」
母の千景はクールではあったが、たった一言だけ激励してくれた。
スターライトベーカリーに戻ると星野姉妹と半田が大歓迎してくれた。
「よかったわね。次はいよいよパリね。あなたたち三人ならきっと勝てると思うわ。だって、チームワークが最高だもの」
杏子も久留美も最高の笑顔だった。
半田も愛弟子たちがついに日本代表になり、手放しで喜んでいた。スターライトベーカリーは開店以来最高に幸せな瞬間を迎えていた。
その日、スターライトベーカリーとしてお祝いの食事会をいつもの和食レストラン「和食処・三河湾」で行った。
香織の妹の舞も田端も参加してにぎやかな会となっていた。
「それでは、米野さん、持田さん、塩村さんが日本代表に選ばれました。パリでもがんばって世界一を目指してください。かんぱーい」
半田が音頭を取り乾杯をした。誰もが最高の笑顔で食事をし、談笑していた。
「あら。半田さん、お酒飲んでも大丈夫ですか?」
亜美が体調のすぐれない半田を気遣って声をかけた。
「いや、今日はせっかくの祝いの席だからな。日本代表の三人にとっても嬉しいことだが、私も星野店長たちにとっても記念すべき日なんだよ」
半田がしみじみと日本酒を飲みながら語った。
杏子も久留美も涙を滲ませていた。
「香織ちゃん、亜美ちゃん、塩村君。本当にありがとう。私の主人・一輝の夢は自分のお店を作ることとパン職人世界選手権に出場することでした。お店の夢は半田さんが叶えてくれ、世界選手権は香織ちゃんたちが叶えてくれました。もうこれ以上の幸せはないです」
杏子が涙を流してあいさつし久留美も隣で一緒に頭を下げた。
「ありがとうございます。絶対に世界一になりますから見ていてください。負けたら米野屋に戻らないといけなくなるので絶対に負けませんから」
香織が笑いながら星野姉妹に言い返した。
「でも、米野屋さんのどら焼きも美味しいですよ」
塩村が舞も同席しているので必死にフォローした。
「いや。絶対に勝つんだから。負けることなんか考えてないし」
香織は変なところで意地になっていた。
「お姉ちゃん、塩村君が可愛そうだよ。せっかく米野屋のことをフォローしてくれたのに」
舞が急に怒り出した。
「あら。舞ちゃん、どうして塩村君をそんなにかばうのかな?」
香織がふざけた調子で舞に言い返した。
「別に、そんなんじゃないってば。もう」
舞が珍しく真っ赤になって怒っていた。
誰もが笑顔で喜びあっていたのだが、亜美だけが、一人あまり浮かない表情をしていた。香織は、そのことがずっと気になっていた。
スターライトベーカリーチームが日本代表となり、パリで行われる世界選手権が三ヶ月後に迫っていた。香織は代表に選ばれるとすぐに世界選手権への準備を始めていた。世界選手権には十二カ国が集い、優勝はフランスやイタリアといったヨーロッパ勢との争いになるだろうと予想されていた。香織たちはこれまで以上の入念な準備をしていた。
「塩村君、バゲット・クロワッサン部門の対策はどう」
「もうしっかりとできています。早くパリに行きたいです。行ったことないですし」
「そうだよね。まあ、なんでも聞いてよね。私慣れてるからさ」
「本当に大丈夫ですか」
「塩村君も亜美ちゃんみたいなこと言わないでよ」
そんな会話を香織と塩村が話している横で亜美の様子がどことなくおかしく、冴えない表情をしていた。
「亜美ちゃん、体調悪いの?」
香織もそんな亜美のことがずっと気がかりだった。近頃、亜美は体調不良で店を休むことが多くなり、ここ数日は顔色もあまりよくなかった。
それに、香織は自分の世界一のパン職人になるという夢に亜美を何年もつきあわせてしまっていたことをずっと気にしていた。亜美は他にやりたいことがあり、そのことを香織に言えず悩んでいるのではないだろうかと、香織は考えていた。
数日仕事を休んでいた亜美が久々に出勤した。その日は普段どおりに仕事を終えると、亜美が香織に声をかけた。
「香織、ちょっと大事な相談があるんだけど」
「いいよ。聞くよ」
「こみ入った話で大切なことだから、香織の部屋で話してもいいかな?」
「もちろん」
笑顔で香織は返事をすると、二人で歩いて香織の部屋へ向かった。香織は歩きながら
頭の中では、二つのことを考えていた。一つは亜美がどんなことを話すのかということ。もう一つは散らかった自分の部屋をどう掃除するのかということだった。
香織は家の前に到着すると
「少しだけここで待ってて。ちょっとだけ部屋を片付けてくるから」
香織は苦笑いをして自分の部屋に慌てて駆け込んでいった。
亜美が玄関のところで待っていると、仕事を終えた舞が帰ってきた。
「あれ、亜美さん。今日はどうかしましたか?」
舞が心配して亜美に訊いた。
「今日は香織の部屋で大事な話をするの。そうしたら、香織から少し外で待ってるように言われてね」
亜美はうつむき気味に答えた。
「お姉ちゃんの様子見てきますね」
舞も慌てて香織の部屋にむかった。
案の定、香織の部屋は相当散らかっていて、まだまだ時間がかかりそうだった。
「お姉ちゃん、亜美さん待ってるよ。あら。やっぱり汚いね」
香織は舞にも手伝ってもらい、大急ぎで片付けをした。
「お姉ちゃん、部屋が汚すぎだよ」
「だって亜美が私の部屋で話したいっていうからさ」
「でも、何かあったのかな」
「うん、最近、元気ないし。ずっと心配していたんだけどね」
舞の応援もあり、やっと亜美を呼べるような状態になり、香織の部屋で二人だけの話し合いが始まった。
「このフランス人形って舞ちゃんのおみやげに買ったんじゃなかったの?」
「いや。実は自分用にも同じものを買ってあって記念に飾っているのでアル。ハハ」
香織は照れながら頭を掻いていた。
そんな世間話をした後で、亜美が急に正座をした。
「それでね」
亜美は神妙な顔で香織に話しはじめた。
「あのね、もしかして気がついているかもしれないけど、私、赤ちゃんができたの」
亜美が涙ぐみながら話し始めた。香織は小さくうなずくとじっと亜美の顔をみつめた。
「こんな大事なときに本当にごめんね」
香織も少し驚きながら亜美の手を握っていた。
「そうだったんだ。亜美、おめでとう。それで体調が悪かったんだね」
香織は涙ぐみながらも大きくうなずいていた。
「私、高校を卒業してからアメリカに行っていたでしょ。その時にクリスというボーイフレンドができて、ずっとつきあっていたの。日本に戻ってからもずっとメールとか連絡をとっていたの。それでときどき、クリスが日本に遊びに来たときに会ったりしていたの。そうしているうちにどうやら赤ちゃんができちゃったみたい。ママにも少し前に報告したばかりなんだけど」
亜美は申し訳なさそうに俯いた。
「だから、私はこんな体調だから世界選手権に出場するのは無理だと思うの。無理して出てもチームの足を引っ張るだけになるから。本当は最後まで香織と一緒に世界一を目指したかったんだけど」
亜美が涙ながらに状況を伝えた。亜美の声には悔しさがにじみ出ていた。
「私もね、もしかしたらって思っていたの。だって私たちもここで働いて六年目だもんね。みんな自分の人生があるんだし。私の夢にずっと亜美がつきあってくれていたんだから。私がお礼を言わなくちゃ」
香織も涙を流しながら亜美に話した。
「亜美、今まで本当にありがとう」
香織はそう伝えるとがっちりと亜美の手を握った。
「一番大事なときに、いなくなって本当にごめん」
「気にしないで。亜美の人生なんだから」
しばらく香織と亜美は二人で抱き合って泣いていた。
その日は遅くまで二人でとことん話し合い、笑顔で亜美は帰っていった。
そして亜美はしばらくスターライトベーカリーの仕事を休むことになった。世界選手権に向かって一番信頼していた香織の相棒がいなくなってしまった。いつも亜美がそばにいてくれるのが当たり前で、亜美の存在が香織を和ませていた。香織は亜美と一緒に世界一になるものだとずっと思っていた。二人で優勝カップを掲げるシーンまでイメージしていた。だが、もうそれもできなくなってしまった。塩村がいるけれども、チームは三人一組で出場する規定になっている。亜美のいない状態でどうすればいいのか。やっと苦しみ抜いて掴んだ日本代表の座だっただけに、香織はただ呆然とするだけだった。もう世界選手権に出場できないかもしれない。亜美の妊娠の話を聞いてから香織は一人で何日も悩んでいた。世界選手権へ向けての準備にも力が入らなくなってしまった。
亜美との話し合いから一週間後。香織の部屋を誰かがノックした。
「お姉ちゃん、世界選手権はどうするの?」
舞が落ち込んでいる香織を心配して顔を見にきたのだ。
「うーん」
香織は力なく返事をした。
しばらく無言だったがやっと口を開いた。
「今度こそ、本当に終わりかもね。世界一への挑戦」
普段の香織とは違い、かなり落ち込んでいて元気がなかった。
「亜美にも自分の人生があるんだし。こんなに長い間、私の夢のために一緒につきあってくれたし」
半ば諦めたような、香織のため息まじりで投げやりな口調だった。
「本当にこのまま終わっていいの?」
舞が香織の顔を覗き込みながら問いかけた。
「だって大切な相棒の亜美がもういないんだよ。今更、どうしろっていうのよ。塩村君と二人だけじゃ絶対に無理だし」
香織が舞に向かってイライラしながら大きな声をあげた。
舞もそれを聞きしばらく黙っていたが、少し間をおいて口を開いた。
「私、一人だけ腕のいいパン職人さんを知ってるんだけど。紹介してもいいかな」
舞が恐る恐る口を開いた。
「だって、日本代表チームは私と亜美と塩村君なんだよ。亜美がいなかったらもう終わりじゃない」
「お姉ちゃん、大会規定知ってる?」
舞が世界選手権の大会資料を持ち出した。
「もう何度も読んだって」
「最後のページまでちゃんと見たの?」
「えっ」
「最後のページの補足規定のところに『各国の代表が決まってから世界選手権開催日までの間にチームに欠員が生じた場合は代表メンバーを一名まで変更することができる』ってあるんだよ」
「えっ。ほんと」
「お姉ちゃん、大事なところ読まなきゃダメだよ」
「でも、亜美の代わりなんていないよ。まさか半田さんにあんな過酷な大会に出てもらったら倒れちゃうかもしれないし」
「もっと若い人だって」
「え、誰よ」
「お姉ちゃん、喜ぶよ。きっと」
「誰よ。もったいぶらなくていいから」
「では、発表します。その人は」
「早く教えてよ」
香織がじっと舞の顔を見つめていた。
「その人は、田端大地さんでーす」
舞が両手を挙げて大声で発表した。
「えっ、いいの、田端君」
香織の顔が一気に笑顔にかわった。
「でも、嬉しいけど田端君って米野屋の人だよ。それに和菓子職人だし」
「もうお母様に相談してOKもらってあるから」
舞が嬉しそうに説明する。
「でも、和菓子職人さんがそんな簡単にパンを作るのは難しいよ」
「もう、お姉ちゃん、田端さんといままで何の話をしてたのよ。田端さんは米野屋に来る前はパン職人だったんだよ。だから即戦力でしょ」
「あんた、それ早く言いなさいよ」
「へへ。いい妹を持つと助かるでしょ」
「そうね。舞ちゃん、世界一の妹だわ」
二人は喜びあい、その日は夜遅くまで話し込んでいた。
香織と舞との話し合いの翌週から田端はスターライトベーカリーに仕事に来るようになった。立場は米野屋からの出向という扱いにしてもらった。田端は高校を卒業した後、四年間、名古屋市内のパン屋で働いていたので、パン屋の仕事の基本は十分理解していた。田端はスターライトベーカリーで働き始めると、数日で仕事にも慣れ、すぐに通常の店の仕事をこなしてくれるようになった。スターライトベーカリーとしても亜美の仕事を田端に任せることができるので助かっていた。店にとっても世界選手権に挑戦するチームにとっても心強い存在だった。
香織にとって亜美がいなくなってしまったことは大きな痛手ではあったが、田端という心強い人材が加わってくれたことで、また世界一に向けての準備に力が入った。
舞は、田端がスターライトベーカリーチームに入ってくれ、これで世界選手権に挑戦できるとほっと胸をなで下ろしていたのだが、一つだけ大きな疑問があった。なぜ、田端がもともと働いていたパン屋を辞めて米野屋に来てくれたのか。ずっと不思議に思っていた。田端に亜美の件を説明してスターライトベーカリーチームに入ってもらうことをお願いしたときに、田端にこのことを思い切って聞いていた。
「田端さん、どうしてパン屋さんを辞めて、米野屋に来てくれたんですか?」
「え。ああ、和菓子にも興味があったからね。せっかくの老舗の米野屋さんが近くにあるんだからここで勉強しなくちゃって思ったんですよ」
「本当にそれだけ?」
舞は田端に真相を聞こうとした。
「和菓子にも、香織ちゃんにも興味があったからかな。でも、絶対に香織ちゃんには秘密ですよ。舞さん、全部、言っちゃいそうだからな」
田端は、少し照れながら白状した。
「わかりました。それなら納得しました。とにかく世界選手権お願いします。それでその件は世界選手権が終わるまでは黙っておきます。その後は知らないけどね」
舞は嬉しそうな顔をして家路についた。
そんなこともあり、舞は早く世界選手権が終了することを楽しみに待っていた。
パリに向かう前日の夜、香織は梅の湯でゆったりと湯船に入っていると真っ白な頭のお婆さんが入ってきた。あのウメさんだった。相変わらず歯がなかったけれども香織の顔を見ると嬉しそうに声をかけてきた。
「おや。香織ちゃん、久しぶりだね」
「あら。ウメさん。お元気でしたか」
「私、入院していたんだよ。でも香織ちゃん、あんた、いい顔つきになったね」
「そうですか。明日からフランスに行くんです。大事な用事があって」
「フランスか。若い人は楽しいことがたくさんあるね。がんばってね」
ウメさんは嬉しそうに笑っていた。
「やっぱり若いってのは本当にいいね。私もね、香織ちゃんぐらいの若い時にはいろいろとあったんだよ」
ウメさんがしみじみと語り始めた。
「若い頃、実はね、お金持ちのおじいさんの愛人だったんだよ。いまだったら不倫だ、とかなんとか、言われるけどね。ヒャヒャヒャ」
「まあ」
香織は、湯船から飛び上がりそうになって驚いていた。
「そのおじいさんは名古屋の大きな和菓子屋さんの社長さんだって言ってたかな。その人がいつも息子さんのことを愚痴って言っていてね」
香織は目を大きくして驚き、グッとつばを飲み込んだ。
「和菓子屋のじいさんはバカな息子のことでずっと悩んでいたのよ。名前をなんだって言ったかな。虎なんとかっていうバカ息子って言っていたわ」
それを聞いて香織は再び驚いた。
「そのバカ息子がね、何百年と続いている和菓子屋を継ぐことをイヤがっていて、ロックバンドがやりたいって何度も家出をしてたんだって。それに賭け事が好きでね。借金ばかりしていたらしいわ。それにつきあっていた彼女が派手な人で困ってたらしいのよ」
香織はあまりの驚きに声が出なかった。
「最終的には、そのバカ息子は和菓子屋を継いでその派手な彼女と結婚したらしいんだよ。それからまもなく私はおじいさんの愛人はやめて別れてね。別れる時にびっくりするほど大金をもらったのよ。今じゃ、そんな大金なんか要らないんだけどね。半分ぐらい香織ちゃんにあげようか。ヒャヒャヒャ。冗談だよ」
「ウメさんも苦労されたんですね」
「もう、何十年も前の話だよ。ヒャヒャヒャ」
ウメさんの声が銭湯中に響き渡っていた。香織は赤の他人の話を聞くように冷静なふりをしてうなずいていた。
お風呂から出るとウメさんが香織を呼び止めた。
「香織ちゃんのフランス行きをお祝いしようよ」
そういうとウメさんはいつものコーヒー牛乳、香織はフルーツ牛乳を買って乾杯し、二人並んで腰に手を当てて一気に飲み干した。
「香織ちゃん、がんばってね」
「ありがとうございます」
銭湯にはいつまでのウメさんの独特の笑い声が響いていた。
その翌日、新たに田端を加えたスターライトベーカリーチームはパリへと向かった。
春のパリはまだ肌寒く、街を歩く人々は鼻を赤くしながら、足早に過ぎ去っていった。香織、田端、塩村の日本代表チームはパン職人世界選手権の会場であるホテルの大催事場へと到着した。
「すごく広いですね。空港かと思いましたよ」
田端が会場を見上げた。
香織は田端がメンバーに加わってから終始にやけた顔をしていた。
「どうしたんですか。香織さんらしくないですよ」
塩村が香織のことを心配して声をかけた。
「そうかな。私は普通なんだけどね」
そう話す香織の顔は幸せそのものだった。
「香織さん、新婚旅行に来たんじゃないですからね」
塩村がさすがに香織に釘を刺した。
「もう、わかってるってば。塩村君も亜美ちゃんみたいにうるさいんだね」
「だって亜美さんから『香織は絶対デレデレするから塩村君がしっかりしてね』って何度も言われていますから」
そう聞くと香織は苦笑していた。
いよいよ明日、決戦が行われるというとき、香織の携帯電話が鳴った。
「お姉ちゃん、どう勝てそう?」
いつもとんでもないタイミングで電話してくるのが妹の舞だった。
「当たり前よ。ここで勝つために準備して来たんだから。もう勝つしかないわよ」
「相変わらずカラ元気よね。それでさ、お姉ちゃんに話すかどうか迷ったんだけどね」
「何よ。あんた、結婚するとか」
「いや。それはない。相手もいないし。そうじゃなくて米野屋のことなの」
「米野屋がどうしたのよ。また、新しいお饅頭を考えたとか」
「いや、違う。ちょっと真剣な話なの」
急に舞の声のトーンが低くなった。
「何かあったの」
「うん。あのね。お父様がね、なんとかお店の利益を出さないといけないってずっと考えていたときに、たまたま新しい証券会社の若い営業マンがウチの店にきたのよ。それもネットの証券会社なんだけどね」
「もうその時点で怪しいよね。大きな会社の社長にセールスする若い証券マン。いかにも何かありそうなパターンだよ」
「そう、思うでしょ。それでお父様が、証券マンの上手い話に乗っちゃってね。いまなら絶対に儲かるからって。会社のお金をつぎ込んだのよ」
「まさか、かなりの大金とかじゃないよね」
「実はそうなの。本当に馬鹿でしょ」
「いくらなの」
「えっとね。片手だって」
「五百万円とか?」
「いや、桁が違う」
「五千万円?」
「まだまだ」
「まさか」
「そう。五億円なの」
「バカじゃないの。本当に。それでどうなったの」
「最初は順調だったらしいんだけど、あっちもこっちも株価が怪しくなってね。大損したのよ」
「あのバカ親父が」
「それで、会社の経営も危うくなってね。なんとか今までのつきあいでいくつもの銀行が融資してくれたんだけどね」
「まさか、まだ足りないとか」
「そう。あとちょっと足りないのよ」
「いくら」
「三千万円だって」
「ちょっととかいう金額じゃないでしょ。どうするのよ」
「でしょ。でね、あと二、三日で銀行に振り込まないと会社が破産するかもしれないのよ」
「冗談でしょ」
「こんなこと、冗談で言わないよ。お姉ちゃんの大事な時だから黙っていようかと思ったけれど、言わないのもおかしいかなと思って」
「こんなときにどうすんのよ」
「だって言わなかったら、『なんで教えてくれなかったんだ』って怒るでしょ」
「まあ、そうね」
「とにかく最後までいろいろがんばってみるわ。お姉ちゃんもがんばってね。パリに応援に行けなくてごめんね」
「絶対に勝つから」
香織はそう言って電話を静かに切った。香織は世界選手権のことで頭がいっぱいだったが、急に発覚した米野屋の借金問題で悩むことになってしまった。
香織は米野屋の和菓子職人になるのがイヤで飛び出してパン職人になった。そして母との約束の世界一にあと少しで届くところまできた。やっと苦労して世界一が見えてきたところで、実家の問題が急に起きてしまった。
香織は米野屋の借金問題を自分としてどうするべきか、悩みに悩んだ。かといってすぐに三千万円というお金が用意できるはずもなかった。借りるアテもない。父の借金の件は日本にいる舞たちに任せるしかない。自分はパリで、世界一をとることに集中しようと頭を切り替えることにした。
翌日、ついに決戦の日が訪れた。パリは少し肌寒かったけれど、気持ちのいい青空が広がっていた。香織は自分が世界一になることと、米野屋の借金問題を舞たちが無事に解決してくれることを祈っていた。
世界選手権はヨーロッパ、アジアの各国を中心に十二ヶ国が参加し、二日間にわたって開催される。一般のお店で販売するような商品の「バゲット・クロワッサン部門」とオブジェの要素の強い「アート部門」とで争われる。三人で検討し、田端は「アート部門」をメインで担当し、「バゲット・クロワッサン部門」を香織と塩村が担当することになった。
初日は、各チームとも同じ小麦粉と水、イーストを用意され、スタートの合図と同時に一斉に生地を捏ね始めた。まさに競争であるし、隣のチームの様子も見えていた。かなり多くの報道陣も来ていて普段の厨房のようにはいかなかった。
各チームが丁寧に生地を作り、下準備のみで初日は終了となった。勝負は二日目である。
翌日二日目は朝四時半から競技が始まった。パン職人としてはスタート時間としては通常の時間帯である。香織たちも朝早いのはいつものことなので苦にすることもなかった。「バゲット・クロワッサン部門」は各チームが独特のパンを作り出していた。「アート部門」は展示品としてパーティー会場に飾られるような大型の作品。そこにパン職人でもあり、和菓子職人である田端の技が光っていた。細かい作業を得意とする田端にとっては独壇場ともいえる作業だった。あとは香織と塩村で日頃の業務の力を出せば十分に勝てるチャンスがあった。ただ、実力が思うように発揮できないのが世界選手権であるとも言われている。想定外の機械トラブルが起きることもある。実力プラス運が味方してくれるかどうか、というのも大事な要素だった。
香織はパンを作りながらこれまでのことを思い出していた。
子供のころから母の指示で米野屋の仕事を手伝わされた。大学の卒業旅行でヨーロッパを回り各国のスイーツを食べ尽くし、パリでクロワッサンと運命的な出会いをして、パン職人になることを決めた。両親にパン職人になりたいと話した時に世界一になるのならやりなさいといわれ、そこから世界一のパン職人を目指した。スターライトベーカリーに入り星野姉妹や半田、亜美、塩村と出会った。パン職人として修行の日々を送り、フィリップのもとで亜美と一緒にパリでのパン職人としての研修をした。どれも懐かしく思い出された。やっとつかんだ世界選手権。絶対に優勝してみせる。三百五十年続いた米野屋が破産するかもしれないが、今は自分の力をすべて出し尽くすしかない。自分がこれからスターライトベーカリーも米野屋も救うような仕事をしていこう。絶対に勝つしかない。
心中は複雑な思いが入り交じっていたが、香織は懸命にパンを作っていた。本来であればフランスや他の強豪国のことが気になる場面かもしれないが、香織は全く気にならなかった。これまで自分達が作ってきたバゲットやクロワッサンを作れば絶対に負けるはずがないという確信を持っていた。日本から来た女性のパン職人は、悟りのような境地にまで達していた。香織たちが全力を注いでパンを作り終えた時、ちょうど作業時間は終了した。
香織はこれまでで最高のパンが焼けたと自負していた。
「香織ちゃん、お疲れさま」
田端が香織に声をかけた。
「やりきったね。きっと勝てるよ」
香織も笑顔で応えた。
「香織さん、いろんな意味で嬉しそうですね」
塩村が香織を茶化した。
「本当に最高の出来映えだって。もう、塩村君まで亜美ちゃんみたいなことを言うのね」
香織は選手権を終えた満足感でほっとしていた。
審査の時間に移り、審査員たちが焼きあがったパンを鋭い視線でじっと見つめて試食を始めた。見た目と香り、味、すべてに合格点が求められる。
そして審査も終わり、ついに結果発表の時間になった。各チームとも自分たちが作業をしたブースの前で審査結果の発表を待った。
香織はその場でじっと結果発表を待った。
司会者が壇上に現れた。
「それでは、審査結果を発表いたします」
司会者の声が場内に響き渡り、会場内は静まり返った。
「第三位」
司会者が叫ぶ。しばし沈黙の時間が流れた。
「イタリアチーム」
イタリアチームから歓声が沸き上がった。香織は小さく息を吐いた。
応援団が大喜びしている中をイタリア人チームが会場の中央で大会会長から銅メダルをかけてもらっていた。
「続いて第二位の発表です」
また場内は水を打ったように静まり返り発表を待った。
「フランスチーム」
地元フランスの大応援団が一気に大騒ぎとなりしばらく止むことはなかった。香織たちは三人で目を合わせ小さく頷いていた。フランスチームが会長から銀メダルをかけてもらうと歓声が最高潮に達していた。
場内が静かになるまでしばらく司会は待つしかなかった。
「そして優勝は」
じっと、香織は両手を額の前で組んでひたすら祈っていた。香織の長かった世界一への挑戦の結果が出るのだ。
長く静寂な時間が過ぎ去っていった。
「日本チームです」
スターライトベーカリーチームが優勝した。米野香織がついに世界の頂点を極め、両親との約束を果たした。香織たちは手を取り合って喜び、肩をたたきあった。会場には日本から来ていた星野姉妹や半田が大喜びしていた。フィリップ夫妻もケントも来ていた。みな香織たちに駆け寄り大騒ぎとなった。香織の夢もスターライトベーカリーとしての夢も叶えたのである。誰もが笑顔で涙を流して喜びを爆発させていた。香織ももみくちゃの中で歓喜の涙を流していた。香織は自分一人の力ではなく、これまで協力してくれたみんなの力で世界一になれたのだとすべての人に感謝していた。
表彰式の後、金メダルを胸に香織は日本にいる舞へすぐ電話をした。例の借金問題の結果を聞くことが少し怖かったが、どうしても世界一になった報告がしたかった。
舞がすぐ電話に出た。
「お姉ちゃん、世界選手権、どうだった」
「もちろん、勝ったよ。優勝、優勝。ついに世界一のパン職人になったよ」
「やったね。おめでとう。本当に世界一になったんだね」
「もちろん。世界一だよ。有言実行の米野香織ですから」
優勝した勢いで、香織は延々と話し続けた。
「もう、これで私は和菓子職人にはなりませんからね。日本に帰ったらお父様とお母様に金メダルを見せつけてやるんだから」
「とにかくお姉ちゃん、おめでとう。私もパリに行きたかったな」
舞も素直に喜んでくれた。
「それで例の借金の話は、どうなったの?」
香織はおそるおそる舞に訊いた。
「あれからね、不思議なことがあったの」
「不思議なこと?」
「お姉ちゃんにこの前、電話した後に、とにかくあちこちに電話かけまくって借金をお願いしたんだけれど、やっぱりどこも貸してくれなくて。もうダメかもしれないって半分あきらめかけていたの。いよいよ借金を返済しないといけないという日のお昼ごろ、一人のおばあさんがお店にやって来たの。どこかでみたことがあるようなおばあさんだったけど。買い物用カートを引きながらお店に来たの。『この米野屋さんには昔から美味しい羊羹やどら焼きを食べさせてもらってね。いつも幸せな気持ちにさせてもらったんだ。心から感謝しなくちゃ。私はもう先が長くないし、お金をたくさん持っていても仕方ないから、米野屋さんに寄付するよ。私から、これまでのお礼だと思って受け取ってちょうだい』って、一通の白い封筒を渡してくれたの。最後にどら焼きを三個だけ買ってくれ、『この店の亡くなったおじいさんにも世話になったんだよ』そう言うとニッコリ笑って歩いて帰っていったの。その封筒の中を見たら、三千万円と書かれた小切手が入っていて。慌てておばあさんに声をかけようとしたんだけど、もう姿がなくて。結局はその小切手のおかげで、借金の返済になんとか間に合ったのよ。まったくウソみたいな話でしょ」
舞の明るい声が響きわたった。
「そのおばあさんって、もしかして白髪で前歯がほとんど無かった?」
香織はまさかと思ったが聞いてみた。
「そう。頭は真っ白だったし、前歯が無かったよ。お姉ちゃんの知ってる人?」
「どうかな」
香織は首をひねりながら微笑んだ。
「とにかくお姉ちゃん、おめでとう」
「ありがとう。やっと世界一になったよ」
「じゃあ、お姉ちゃん、電話代わるね」
舞が嬉しそうに話した。
「えっ」
しばらく待っていると
「香織、おめでとう」
香織の母・千景の声だった。
「本当に世界一になったのね。よくやったわ」
香織は泣いていた。母も電話口で涙声だった。
「これからもパン職人としてがんばりなさい。今まであなたに辛くあたって悪かったね。私もあんな厳しいことは言いたくなかったのよ。あなたはお嬢さま育ちだったし、一人で生きていけるのかどうかをずっと心配していたの。本当は米野屋を継ぐかどうかなんてどっちでもよかったのよ。ただ強くなって欲しかっただけなの。それがパン職人でも和菓子職人でも普通の会社員でも。なんでもよかったの。本音を言うと、まさか本当に世界一になるとは思っていなかったけどね。これからはあなたの思うとおりに好きなことをやりなさい」
その声を携帯電話で聞きながら、香織の顔は涙でぐしょぐしょに濡れていた。




