第4章
香織たちがパン職人世界一になってからすでに五年の歳月が流れていた。
「お姉ちゃん。元気?」
舞が香織に電話をかけていた。
「もうこっちは忙しくて仕方ないのよ。なんか用だった?」
香織が小麦粉で顔を白くしながら仕事を続けていた。
「ニューヨークでもちゃんと和菓子も売ってよ。ベーグルばっかり作ってないで」
舞が香織に釘を刺した。
「わかってるわよ。もう子供も全然言うこと聞かないし、店は忙しいし。あっ、田端君、お客さん待ってるからレジも手伝ってよ」
「はい、はい」
世界一になってから香織は田端と結婚し、ニューヨークでベーグル店を開いていた。店名は「スターライト・コメノ」。
基本はベーグル店なのだが、クロワッサンも和菓子も販売する。田端が和菓子を作り、香織がベーグルとクロワッサンを作っている。
「でも、お姉ちゃん。どうしてパリでパン屋さん始めなかったの?」
「だって、私は名古屋とパリばっかりだったでしょ。何か全く違う場所で新しいこともしてみたくなってさ」
スターライト・コメノでは、パンと和菓子のほかになぜか瓶のコーヒー牛乳も販売していた。「ウメさんのコーヒー牛乳」という商品名。絶対に欠かすことはなかった。
「お姉ちゃん、ウメさんって誰なの?」
舞が不思議そうに訊いた。
「よく知らない人だけど、でも私にとっても米野屋にとっても大恩人なの」
香織はそう言いながら窓から空を見上げた。香織は帰国したとき、何度も銭湯に行き、ウメさんを探したのだが結局、誰もその消息を知るものはいなかった。それでもウメさんへの感謝の思いから「ウメさんのコーヒー牛乳」を店で販売することにしていた。
「ふーん。そうなんだ」
「こらっ。ルナ、そっちに行ったら危ないって言ってるでしょ」
「ルナちゃん、相変わらず元気そうね」
香織と田端には「月」という名前の一人娘が生まれていた。
「でもお姉ちゃんも本当にクロワッサンが大好きだよね。田端という苗字の音が『バター』みたいで自分が『かおり』だからって、その間に誕生した女の子に『ルナ』って名前つけて。クロワッサンは三日月の意味だからルナって。娘は食べ物じゃないんだよ」
クロワッサンは三日月という意味を持つ。田端と香織で娘がルナ。
「お姉ちゃんと一緒で、全然、親の言うこと聞かない子かもよ」
「本当にうるさいわね。それで、舞は、ちゃんとネズミランド行ってるの?」
亜美の母親・持田麗子の紹介もあり、米野屋はネズミランドに支店を出していた。舞自身も月に一回だけネズミランドでダンサーとして踊っていたのである。
「もちろんです。私は日本初の踊れる和菓子屋さんなんだからね」
「それで塩村君とはうまくいってるの?」
今度は香織が舞へ質問した。香織たちが世界一になってから舞と塩村はつきあい始めていた。
「うん。ときどきデートに行ってるよ。いつもパンを食べるか、和菓子にするかでケンカになるんだけどね」
「舞ちゃん。塩村君、大事にしなきゃだめだよ。塩村君。真面目なんだから」
「もう、わかってるって。その前にスターライトベーカリーも忙しくてなかなかゆっくり遊びにいけないのよね」
スターライトベーカリーは、「世界一のパン屋さん」となり、星野姉妹と塩村が中心となって運営していた。半田はときどき様子を見にくる程度で、新たにパン職人も入って相変わらずの忙しさだった。
「お姉ちゃん、亜美さんがお店に来たから電話かわるね」
結婚した亜美は息子・マイケルと手をつないで米野屋に入ってきた。舞はクリスと結婚し、長男のマイケルと三人で名古屋に住んでいた。
舞から携帯電話を渡された亜美が嬉しそうに話し始めた。
「香織、元気。いつ日本に帰ってくるの」
「しばらく帰れないかも。お店が忙しいし。ルナも全然言うこと聞かなくてね。また電話するね。忙しくて、ごめんね」
ニューヨークの空に香織と田端とルナの笑い声が響いていた。
(了)




