第2章
パリの空はどこまでも青く高く透き通っていた。
セーヌ川のほとりに吹くさわやかな風が日本からやってきたばかりの若い二人のパン職人をやさしく包み込んでくれているかのようだった。パリの観光名所・凱旋門は、フランスの皇帝ナポレオンがアウステルリッツの戦いに勝利したことを記念して建てられ、ここから道が東西南北に向かって放射線状に伸びていた。その歴史的な建造物の屋上に香織と亜美は心地よい風を受けながら立っていた。
「ついにパリに来ちゃったね」
亜美が鮮やかな景色を見渡しながら叫んだ。
「やっぱり素敵な街だよね」
香織にとっては一年ぶりのパリだった。
「それにしても素晴らしい景色ね。でも香織、よく知ってたね。凱旋門に登れることを」
「まあ、パリのことはなんでも私に訊いてよ。うむ」
香織は腕を組み自信にあふれた顔をした。
「まるで旅行会社の人みたいな口ぶりね。でも一回、パリに来たことがあるだけでしょ。それも両親の指令で嫌々お菓子ばっかり食べさせられた視察旅行で」
亜美が嫌味たっぷりに言い返した。
「その暗い過去のことはもう言わないでよ。でもその旅行のおかげで最高のクロワッサンに出会えたんだから。それにしても人生って何がきっかけになるのか、わからないよね」
香織はあの時のことをしみじみと思い出していた。
「香織、ここからパリの景色を眺めていると、もう世界一になったような気分だよね」
「そうね。あと四年で世界一になるんだから。『前祝い』みたいだね」
二人は希望にあふれ、パリの街全部を自分のものにしたような心持ちになっていた。
香織と亜美は凱旋門を出発してシャンゼリゼ大通りをゆっくりと歩き始めた。すると通りの両側には有名ブランドのお店がずらりと並び、どこからかシャンソンまで聞こえてきた。二人はセレブになったような気分でキョロキョロしながらパリの街をゆったりと散策していた。
信号が青に変わったのを確認して横断歩道を渡り始めたときだった。二人の目の前を自転車がものすごいスピードで走り抜けていった。
「もう、危ないな」
日頃は穏やかな亜美が走り去る自転車の背中に向かって怒鳴りつけた。
「ゴメン、ゴメン。大事なこと言ってなかったね。フランスの街は自転車で移動することが多いんだけど信号を守らない人が結構いるのよ。歩いていて自転車と激突したって話をよく聞くから注意してね。私も自転車と何度もぶつかりそうになったことあるの。ある意味、車より自転車が怖いから気をつけてね」
香織が昨年の経験から亜美に忠告した。
「こんなところでケガなんかしたくないよ」
そう言いながら亜美がキョロキョロしながら横断歩道を渡り始めた。
「現地に来てみると思い描いていたイメージと違うことって、案外あるんだね」
二人はそんなおしゃべりをしながら歩いていた。
「香織、日本と違って空気がキリッっとしてるね」
亜美が空を見上げながらつぶやく。
「日本よりも湿度が低いからじゃないかな。うむ」
「凱旋門を見て、シャンゼリゼ通りを歩くって私、夢だったの。でも日本でいったら、東京タワーに登って銀座を散歩するようなものじゃない?」
パリの街を歩く亜美の目が輝いていた。
「だったら、大阪の通天閣に登って御堂筋を歩くのも一緒かな」
二人とも急に無言になり見つめあった。そして再び大声で笑い合っていた。
香織にとっては、あのスイーツ視察旅行からちょうど一年が経っていた。
「あれから一年か。でも今回、私はパン職人の修行でやってきたんだ」
香織はひとりごちるとほんの少し引き締まった顔になった。今回はお嬢様の観光旅行ではなく、一人のパン職人として一流のパン屋で学ぶためにやってきた。スターライトベーカリーの人達からも応援されている。普段はお気楽な香織もパン職人としての自覚が芽生え始めていた。
「でも、パンを学ぶために異国を訪れるってまるで遣唐使みたいな気分よね」
亜美がパリの町並みを見上げながら冗談めかして香織に話した。
「あの当時は国の命運を背負って行ったのだろうけど、私たちはスターライトベーカリーの命運を背負っているのである」
香織がそうこたえると二人で大笑いしていた。
「まず、どこかの店で食事しない?」
亜美が建ち並ぶ店をキョロキョロ見ながら香織に呼びかけた。
「そうだね。あそこのお店はどうかな」
二人はお洒落なオープンカフェに入り、外のテラス席に座って料理が運ばれてくるのをそわそわしながら待っていた。素晴らしいパリの風景を眺めながら食事ができると二人とも笑顔で待っていたのだが、すぐに笑顔が消えていった。
「香織、なんかこの席、煙たいし、タバコ臭いよね」
「あっ。ゴメン、ゴメン。カフェのテラス席ってオシャレに見えるけど、じつは喫煙席のことが多いんだよね」
「だったら、日本と一緒じゃない」
亜美が少しだけムッとした表情になった。
「日本でテレビや雑誌で見るイメージと、現地はやっぱり違うんだね」
二人はいそいそと店内の席に移るとしばらくして料理が運ばれてきた。カフェオレを飲みながらクロック・ムッシュー、クロック・マダム、マカロンを堪能した。
「やっぱり、どれも美味しいね」
少しだけご機嫌斜めだった亜美も笑顔になっていた。
一つ一つ食べながら驚いたり頷いたり、二人は終始笑顔で料理を楽しんだ。食事を終えると、アーティスト達が多く住んでいるというモンマルトルの丘へと向かった。この地域は小高い丘になっていてパリ市街を一望でき、足元は石畳で覆われ独特の雰囲気が漂っていた。画家や詩人、ミュージシャンといったクリエイティブな仕事の人達が集まる場所でもあった。二人がモンマルトルの中心部にある公園にやってくると、多くの画家があちこちで絵を描いていた。ゆったり散策していると日本人らしき若い男性画家が風景画を描いているところに遭遇した。すらりと背が高く色白な人で何かを考えつつ、ひたすら絵を描いていた。その男性はどことなく不思議な雰囲気を醸し出していた。香織が少し離れたところから絵を眺めているとその男性画家が香織のことに気づきニヤリと笑った。
「日本の方ですか?」
男性画家が笑顔で香織に向かって質問を投げかけた。
「はい。私たち、今日名古屋からやってきました。これから三ヶ月間パンの作り方を勉強するためにパリにきたんです」
香織は少し驚きながらも返事をした。
「いいですね。いつかそのお店を訪ねてパンを食べにいきますね。ぼくの名前は藤崎ケントといいます」
さわやかに男性画家は名前を教えてくれた。
「私は、米野香織といいます」
香織は何だか照れくさくなり、名前を名乗るとペコリと小さくお辞儀をした。
「香織さんですか。素敵なお名前ですね。僕はいつもこの辺りで絵を描いていますから、よかったらいつでも見にきてくださいね」
その男性は気さくに話してくれた。ケントはパリにやってきてもう五年になるという。
何とも言えない不思議な魅力のある男性だった。
「また、休みの日に来ますね」
香織は少しだけ赤くなりながらそう告げて男性画家と別れた。
「香織、どうしたのよ。なんか顔が赤いですぞ」
亜美が香織を肘でつつきながら冷やかした。
「べ、別に。ただ、日本人の画家さんと少しお話ししただけよ」
香織は懸命に顔が火照っているのをごまかそうとして少し早足で歩き始めた。
「ちょっと、香織、どこに行くのよ」
亜美が小走りで追いかけていった。
少し歩いたところに「ジュテームの壁」と呼ばれる観光スポットがあった。高さ五メートルほどの大きな青い壁に世界中の「愛しています」という言葉が書かれてあり、新たなパリの観光名所になっていた。その大きな青い壁を見上げながら、何やら香織は物思いに耽っていた。
「誰のことを考えているんですか?」
亜美がおどけた調子で香織の耳元で囁いた。
「あの人のことかな。それともさっきの人かな」
「誰だっていいでしょ。そういう亜美はどうなのよ」
「そうだね。どうなんだろう」
亜美も、青い壁を見上げながら誰かを思い浮かべているようだった。
「あら。亜美だって一緒じゃないの。誰よ、誰よ?」
今度は香織が亜美を肩でつついた。
「また、いつか話すよ。まだ今は秘密にしておこうかな」
亜美らしくもなく少し照れくさそうな顔をした。
「ふーん。そうなんだ」
香織は少し驚きつつもニヤニヤしていた。
そのまま二人はシャンゼリゼ通りに戻ってきた。
「モンマルトルの丘も景色よかったね」
亜美の顔がほころんでいた。
「とにかくパリのことはなんでも訊いてって言ってるでしょ」
香織がポンと右手で自分の胸をたたく。
「さすが。一度来たことのある人は違うね。そういえば、香織、フランス語は話せるの?」
「ボンジュールとかメルシーとかかな。去年は執事の畑山がいたから何にも考えてなかったけどね」
香織は昨年パリには旅行で来ていたが、米野屋のお嬢様として訪れただけで何から何まで執事の畑山に任せていたのだ。
「えっ。これからフランス語の会話、困るよ。どうするの?」
亜美が心配顔になり頭を抱えた。
「大丈夫だってば。身振り手振りで通じるよ。それに、お世話になるフィリップさんは半田さんの知り合いだから日本語もわかるみたいだし。それに店長のフィリップさんの奥さんは日本人なんだって」
香織は余裕の話しぶりだった。
「じゃあ、なんとかなりそうね。香織だけだったら、不安だったわ」
亜美は少しだけ安心しつつ苦笑していた。
「そんなに心配しなくていいって。なんとかなるからさ。宇宙人と生活するわけじゃないしね。フランス人はもの静かで、やさしくて、いい人ばっかりなんだから」
香織の妙に自信にあふれる言葉を聞いて、二人は見つめあい笑っていた。
しばらく二人はそのままパリの町を楽しく散策していた。
「亜美、そろそろ、お世話になるフィリップさんのところにあいさつに行こうか」
「そうね。そもそも私たちは観光旅行じゃないんだから」
半田の知人であるフィリップの店に向かって歩き始めた。
「この辺りのはずなんだけど」
香織は住所のメモと地図を見比べながらキョロキョロと看板を見上げていた。
するとその時。
香織と亜美の歩く後ろから猛スピードで走ってくる車のエンジン音が聞こえ、どんどん香織たちに向かって近づいてきた。
「どうしたんだろう」
二人は慌てて車をよけるように壁側に動いた。香織が振り返った瞬間。
パン、パン、パンという乾いた音が町に響き渡り、ビルの窓が大きな音をたてて割れていった。
「え、なに、どうしたの」
香織と亜美はとっさにその場にしゃがみ込んだ。
二人の横を大型自動車が猛スピードで走り抜け、人通りの多い繁華街をブレーキも踏まずに突き進んでいった。カフェのテーブルやパラソルを次々となぎ倒しながらも車は止まる気配はなかった。大きな悲鳴があちこちから聞こえてきた。そして暴走車はビルの壁に激突し、やっと停止した。すると車に乗っていた男四人が慌てて車から降りると、今度はあちこちに向かって拳銃や機関銃を乱射しながら何かを大声で叫びはじめていた。
「何が起こったの?」
香織が叫ぶと、亜美は顔面蒼白で今にも泣き出しそうになっていた。二人は身を寄せ合ってしゃがみガタガタと震えていた。すると、数台のパトカーが大きなサイレン音とともにさきほどの車を追ってきた。暴走車のそばにパトカーが停車すると、何人もの警察官が降り、暴走車に乗っていた男たちとの銃撃戦が始まった。静かだった町に拳銃や機関銃の音と罵声が響き渡り、一瞬にして戦場に来たかのような雰囲気になっていた。付近一帯は火薬のイヤな臭いで充満していた。香織と亜美は近くのビルの入口に小さくなって身を潜めていた。
「香織。パリってこんな町だったの?」
亜美は全身が小刻みに震えていた。
「知らないよ。私だってこんなこと起きるなんてこれっぽっちも想像もしてなかったし」
香織も目に涙をためながら叫んだ。
「フランス人ってもの静かでやさしい人ばっかりなんでしょ」
亜美が香織を怒鳴りつける。
「フランス人の中にもいろんな人がいるわよ」
香織も少し怒気を込めて反論した。二人ともこのままじっとしているべきなのか、どこかに逃げた方がいいのかもわからず、ビルの陰で小さくなっているしかなかった。
すると、どこからか女性の叫ぶ声が聞こえてきた。
「こっちよ、こっち」
その声は日本語だった。香織はその声に気がつきビルの陰から声の方角を覗き込んだ。
日本語で呼んでいる女性はどうやら香織たちが身を潜めているビルの反対側にある一本隣の通りから叫んでいた。
「こっちにいらっしゃい」
年輩の女性が大きく手を振って二人を呼んでいる。
「どうする?」
亜美は心配顔をしていた。
「どうしていいのかわからないけど、とにかくあの人のところに逃げようよ」
香織と亜美は見つめあって頷き、辺りの様子を見ながらイチ、ニの、サン、で手招きしている女性のところへ一目散に走りだした。ビルの合間を抜けその女性の足元に転がり込んだ。ほんの数秒のことだったが二人には、何時間もかかって走り続けたような感覚だった。
「ここなら大丈夫よ。ケガはしてない?」
女性がへたり込む二人の上からやさしく言葉を投げかけてくれた。
「はい、ありがとうございます」
香織が息を切らせながら返事をする。
「私たち助かったんですよね」
亜美はガタガタと小さく震えていた。
「ここなら、安全よ。落ち着いて」
その女性はしゃがんで、二人の背中をさすってくれた。香織も亜美もほっとしたのか、いつのまにか大粒の涙を流していた。
「よく、私たちのことがわかりましたね」
「今日、うちの店にパンの研修で日本人の女の子が二人来ることになっていたの。そろそろ来るころだから迷っていないかと心配して、店の前でさがしていたのよ。すると、大きなカバンを持った日本人らしき女の子が二人チラリと通りがかるところが見えたから、もしかしてと思ってね。そしたらこんなことになっちゃって」
ふくよかな女性も驚いた表情を見せたがすぐに優しい笑顔に戻った。
「もしかして、ここがフィリップさんのお店ですか?」
「そうよ。あなたたちが米野さんと持田さんかしら?」
その女性はやさしく微笑んだ。
香織と亜美は涙ぐみながら無言で何度も頷いた。
「私はフィリップの妻のクミコです。よろしくね」
助けてくれた女性はやさしく笑っていた。するとその女性の後ろに、白いコックコートを着た大柄でちょっと太めの男性が立っていた。
「ボンジュール。ワタシノナマエハ、フィリップデス」
フランス語と片言の日本語が入り交じった挨拶で出迎えてくれた。香織と亜美はまるで地獄から天国に逃げ込んだかのように安心した表情になり二人で抱き合って再び涙を流した。その二人をフィリップ夫妻は温かく見守っていた。
大きなガラス窓がまぶしい太陽の光を浴びて光り輝いていた。店内は明るく、焼き立てのパンの香りで満たされ、店の棚には美味しそうなパンがずらりと並んでいた。ここが半田の知人・フィリップの店「フィリップ・ベーカリー」だった。
香織と亜美は店の左手奥にあるイートインスペースに座り、カフェオレを飲んでいた。
「あー。助かった」
香織はカフェオレを一口飲むとお腹の底から声をしぼり出した。
「本当に、どうなるかと思ったよね」
亜美はまだ手が小刻みに震えていた。
「昔も今も遣唐使は危険が伴うんだね」
香織はしみじみとつぶやくと再びカフェオレを口にした。
「いろんな意味で遣唐使の大変さを実感したわ」
亜美もまだ震えつつ小さく頷いていた。
「二人とも、少しは落ち着いたかしら。さあ、よかったらこれも召し上がれ」
クミコは焼きたてのクロワッサンをのせたカゴを二人のテーブルの上にゆっくりと置いた。
「え、いいんですか?」
香織が嬉しそうな声をあげた。
「どうぞ。びっくりしただろうからお腹も空いたでしょ。それに、可愛い日本のパン職人さんにうちの店の味見をしてもらわなくちゃね」
クミコはいたずらっぽく笑みを浮かべながらウインクをした。
「さっそく、いただきます」
香織はすぐにクロワッサンを手に取ると一口かぶりついた。そして噛み締めながら目を閉じ、ゆっくり頭を前に傾けた。
「さすが。最高に美味しいです。サクサクした食感とバターがたっぷりと使ってあるこの味。これが私のずっと追い求めていたクロワッサンです」
香織は恍惚の表情を浮かべていた。
「この美味しいパンのつくり方を教えてください」
香織は目を潤ませながらクミコに告げた。
「あなたたち、世界一になりたいんでしょ。うちのパンの製法でよければいくらでも教えてあげるわよ」
やさしく微笑みながらクミコは頷いていた。
「あんな事件があったばかりなのに、よく食べられるわね」
亜美は香織を見ながらあきれ返っている。
「でも、それぐらいの度胸がないと世界一は大変かもしれないわよ」
クミコは笑いながら小さく頷いていた。
「これからのことを簡単に説明しておくわね。米野さんと持田さんの住む部屋は私たちのアパートの隣の部屋ね。ちょうど空いていたのよ。朝と夜の食事は私が作るから我が家で一緒に食べてね。とりあえず今日はあんなことがあったから、ゆっくりして仕事のことは明日にしましょうか」
クミコは手短に要件を伝えると、やさしく微笑みかけた。香織と亜美はクロワッサンをじっくり味わいながら店の外を歩いている人の姿を眺めていた。白人も黒人もアジア系の人もいた。様々なルーツを持つ人たちが店の前を忙しそうに通りすぎていく。
「私たちの作るパンを食べてフランスの人たちがどう感じるのかな」
香織はポツリと呟いた。
「世界一といっても日本とフランスだけじゃないよ。アメリカ人もヨーロッパの国も、アジアからもオーストラリアからも、アフリカからも来るかもしれないし。その中で一番になるんだよね」
亜美も日本から出てきて世界と戦うという意味を現実のものとして体感していた。
実はフランスは移民の国でもある。特にアフリカからの移民が多かった。日本国内にいると外国人の顔を見ることは少ない。だが、世界は広い。何十億の人がこの地球上で生活している。その中で一番になるのだ。仮に日本代表になったとしてもたった一億人ちょっとの代表でしかない。その何十倍もの人々が地球上には暮らしている。少しぐらいパンが上手に焼けたところでライバルは世界中に山ほどいるのだ。簡単に世界一になれるものではない。香織も亜美も店の窓から外を眺めているだけで、「世界一」ということの重大さを実感していた。半田がパン職人としてはまだ駆け出しの二人をフランスの研修に送り出したという意味もここにあるのかもしれない。
しばらくすると、クミコが香織と亜美をこれから暮すアパートに案内した。そこは店から歩いて五分ほどのところにある陽当たりのいい上品な建物だった。
「結構、古い建物ですね」
香織がこれから三ヶ月間暮らす家の第一印象をポロリと口にすると、慌てて亜美がヒジで香織をつついた。
「それを言ったら失礼だよ」
香織の耳元でささやいた。
「パリの街はみんなこんな感じなの。日本みたいに頻繁に建物を立て直したりしないの。だから築百年のビルだって珍しくないのよ。このアパートは築五十年だったかしら。でもこの辺りの建物の中では新しい方なのよ」
クミコの話を聞いて二人とも不思議そうな顔をしていた。
「文化の違いを感じますね」
香織がしきりに感心していた。
「文化の違いでいうと大事なことを一つ教えておくわ。フランス人って個人主義の人が多いの。自分のことは自分で決めるって感じ。だから他人の意見を受け入れようとか、遠慮するとか、考えないの。日本人は周囲の人の様子をいつも気にしているでしょ。そんなことフランス人は絶対にしないわよ。そのうちに少しずつ慣れてくると思うけどね」
クミコも説明しながら両肩を少し上げて小さく笑っていた。
その夜はフィリップの部屋で二人のためのささやかな歓迎会をしてくれた。香織と亜美はフランス語を心配していたのだが、フィリップも二人に対しては、ゆっくり日本語で話してくれた。
「ヨウコソ。カオリサン、アミサン」
ワインを開けて四人で乾杯した。クミコの作ったブイヤベースにガレットは特に美味しく香織も亜美も手が止まらなかった。テーブルに並んでいた生ハムやチーズも日本では味わったことのない絶品で、二人はずっと笑顔のまま食べ続けていた。
「二人ともたくさん食べてね。そのうちに日本料理の煮物とか玉子焼きも作るから」
クミコは母親のようなやさしいまなざしで二人をみつめる。
「ありがとうございます」
香織も亜美も美味しそうに食事を楽しんでいた。
「そういえば、亜美ちゃんは、どこか横顔が日本の女優さんに似てるわ。すごく綺麗な人だったけど」
それを聞いて亜美はニヤニヤしていた。
「たしか、持田麗子さんだったかしら」
「はい。正解です。私、女優の持田麗子の娘なんです」
亜美は微笑みながら、大きな目でクミコをじっと見つめた。
「あら、ホント。びっくりね」
クミコは亜美を何度も見返し驚きを隠せなかった。
「どおりで似ていると思ったわ。当然よね」
フィリップを除く三人は大笑いしていた。フィリップはきょとんとしながらクミコを見つめた。
「ナニカオモシロイコト アリマシタカ?」
「いいの、いいの。日本人しかわからないから」
クミコがそうフィリップに伝えるとまた三人で大笑いした。
「フランスジンヲ ナカマハズレニ シテハイケマセン」
フィリップは、戯けて一人だけムッとした表情をみせたが、すぐに笑顔になった。
「でも、ママよりパン作りは私が絶対に上手いですから」
亜美も強気の顔を見せ右の拳で胸をトントンと軽く叩いた。
「フフフ。頼もしいわね」
クミコは嬉しそうに小さく頷いていた。
「クミコさん、お料理はどれも完璧です。すごく美味しいです」
香織は目を丸くしてクミコに声をかけた。
「そういってもらえると作りがいがあるわ」
クミコも笑顔で応えた。
「香織ったら。お店でクロワッサンを出してもらった時もそうだったけど、あんな事件があったのによく食べるわね」
亜美は呆れた顔をして香織を見つめた。
「あんまり経験したことがない事件でびっくりしたけど、それはそれでちょっぴり面白かったしね」
それを聞いて亜美が笑っている。
「あなた、やっぱり大物だわ。ホントに世界一になるかもね」
「ええ、なりますとも。そのためにフランスまでやってきたんですよ。だめだったら、和菓子屋に戻らないといけないしね」
香織は口いっぱいに料理を頬張りながら意地になっていた。
「香織ちゃんは和菓子屋さんの娘さんだったわね。でもね、いまフランスは日本食ブームなの。和菓子も人気あるのよ。とにかく、アニメブームということもあってフランス人は日本の文化が大好きなの」
クミコがそういうと、香織は驚いていた。
「パンも和菓子もどっちもいいところあるんだから、味で融合できるといいわよね」
クミコがしみじみと語った。
「いや。私にはパンで世界一にならなければいけない使命があるのです」
香織がフィリップ夫婦にむかって胸を張って宣言した。
「ハンダサンカラ、キキマシタ。アナタタチ フタリナラ チャンピオンニキットナレルトキイテマス」
フィリップが大きな身振り手振りをしながら教えてくれた。
「センスがいいんですって。半田さん、あなたたち二人のこと、すごく褒めていたわ。フランスの雰囲気と空気、水だけ慣らせてくれってフィリップは頼まれているの」
クミコから、半田の話を聞くと二人は顔を見合わせて驚きの表情をした。
「半田さん、いつも私たちのことを絶対に褒めてくれないんですよ。だから、いまの話を聞いてびっくりです」
亜美が嬉しそうに話した。
「甘やかしたくないからじゃないかな。とにかく期待されているんだから、がんばってね」
「ワタシタチモ オウエンシマス」
フィリップも笑顔で頷いていた。
「私も、フィリップもあなたたち二人を見ていると何だか嬉しくなってくるの。うちの子も女の子だったらよかったのにって」
その時、クミコがほんの少し寂しそうな表情を見せた。その様子を見たフィリップがクミコの背中をさすっていた。香織は何かそれ以上聞いてはいけないような何かを感じ、ただ静かに頷いていた。
翌朝、フィリップの店に香織と亜美はフィリップ夫婦と共に出勤した。だが今はフィリップがどうしても手が離せない大事な仕事があるので、信頼するパン職人に二人の講師をしてもらうことになっていた。
広い厨房の奥から背の高い色白の男性が登場した。
「カレガ、レオンサン。フランスジンノパンショクニンデス。キョウカラ、アナタタチノセンセイニナリマス」
フィリップがレオンを紹介した。
「マ・イ・ドー。ホナ、ガンバリマショカ」
背が高いレオンが右手を挙げながら陽気にあいさつした。大きな目で香織と亜美をじっと見つめていた。
「どうして関西弁なのよ」
「知らないよ」
香織と亜美が小声でささやきあっている。
「ワタシノナマエハ レオンデス。ヨ・ロ・シ・クー」
レオンは厨房の中に声が響きわたるような大声で叫んだ。身振り手振りも大きかった。香織と亜美が唖然としていると、それぞれレオンにがっちりとハグされ、きょとんとしていた。まさにキツネにつままれたような心境だった。
「レオンさんは昔、大阪でパン修行をしたことがあるの。だから彼は関西弁で話すのよ。面白いでしょ」
クミコは嬉しそうに教えてくれた。
二人はどう反応していいのかわからず、ただ困り果てていた。
「ソレデハ パンヲツクリマショカ。ホナ フランスジンダイスキナバゲットカラ ヤリマッセー」
レオンはガッツポーズまでしてノリノリだった。
こうして香織と亜美に対するパン作りの研修がスタートした。レオンの研修について香織と亜美は不安なイメージを持っていたが、パン職人としてのレオンの指導は分かりやすくまさに的確だった。不自然な関西弁を除いては。日本からやってきた二人のパン職人はほっと胸をなで下ろしつつ、生地を捏ねながら水や小麦粉の違いを自分自身の肌で感じとろうと脇目も振らず取り組んだ。
真剣に研修をしているとあっという間に店がオープンする時間となり、続々とお客さんが店内に入ってきた。香織たちが厨房から店内の様子を観察しているとバゲットだけを何本も購入していく人がいて、日本との違いを実感していた。もちろん頭の中では理解していたつもりだったが、実際に自分の目で確認することができ貴重な経験になった。日本のパン屋は、あんパンやメロンパンなどバリエーションも多く、客によって買い求める商品の内容が大きく異なる。それに対しフランスではバゲットを買うためにパン屋に行くという感覚が基本。その他に気になるパンがあれば一緒に買う。日本とフランスの食文化の大きな違いを香織は実感していた。
「ホナ。キュウケイシマショカ」
どこまでもレオンは底抜けに明るく陽気だった。香織も亜美もレオンの明るさと関西弁に当初は驚いていたが、毎日講義を受けていく中で違和感もなくなり、反対に彼の確かな技術力について信頼し始めていた。
レオンは日本人とフランス人のバゲットに対する考え方の違いも丁寧に教えてくれた。バゲットについてフランス人は、ワインを選ぶのと同じくらいの厳しさで見極めているという。そしてそれぞれが自分の好きなパン屋さんを決めていて、なかなか他のパン屋には移ろうとしない。そして、歴史と伝統の国らしくパンにも誇りを持っている。それだけパンが庶民の心に根付いている、ということを教えてくれた。
香織が店内の様子を見ていると、主婦らしきお客さんがバゲットを見ながらじっくり焼け具合を吟味していた。このようなお客さんは日本でもいるのだが、真剣さの度合いが違っていた。
「トニカク ウマイパンヲツクレバ コウテクレマスワ」
レオンは底抜けに明るい笑顔で教えてくれた。
そんな関西弁を話す陽気なレオンの指導ももうすぐ一ヶ月になろうとしたときだった。いつも朝早くからレオンが二人を待っているのに、その日はいくら待っていても姿を現さなかった。
「半田さんのときみたいに、レオンさんも体調が悪いのかな」
香織が腕を組んで考えていた。
「そうかもね。でも昨日まではめちゃくちゃ元気だったけどね」
亜美も首をひねっていた。フィリップ夫妻も心配していたのだが、しばらくしてフィリップの携帯電話にレオンから一通のメールが届いた。メールを読み終えるとフィリップの顔が急に曇り、妻のクミコとしばらくフランス語で打ち合わせをしていた。そして、フィリップが香織と亜美に向かって状況を説明してくれた。
「レオンカラ メールガキマシタ。『ガールフレンドト シバラク タビニイキタイ。ダカラ ミセヲヤメマス。アリガトウゴザイマシタ』トイウ メールデス」
フィリップがレオンからのメールを読み上げると日本人のパン職人は二人とも呆然としてしまった。
関西弁を話すフランス人・レオンが突然いなくなってしまった。恋人とどこかへ旅に出たという。事前に何も言わずメール一つだけを残し、行方がわからなくなってしまった。おかしな関西弁にもやっと慣れてきた香織と亜美は今後、どうなってしまうのか、となんとも言えない不安で頭の中がいっぱいになっていた。
「香織ちゃんも亜美ちゃんもごめんね。これがフランス人の個人主義みたいな部分なんだけど」
クミコも困った顔をしながらも懸命に説明してくれた。
「そこで今日は二人お休みにしましょう。たまにはパリの街でも観光してきたらどうかな。ずっと忙しかったからそんな時間もなかったでしょ。たまには気分転換も大事よ。その間に明日からのことを決めておくから。フィリップがそういっていたわ」
クミコが申し訳なさそうに話してくれた。
「ホントウニ ゴメンナサイ」
フィリップも二人に向かって手をあわせ頭を下げた。
「わかりました」
二人は気持ちを切り替えて、パリ観光に繰り出すことにした。
「香織、ほんとにビックリだよね。恋人のために突然仕事を辞めちゃうなんて。好きな人がいるとそんなものかな」
更衣室で亜美が香織に話かけた。
「恋人がいるとどんなことでもできちゃうんだね」
香織はこれから先のことを考えるとなんともいえない不安に襲われていた。
香織と亜美の二人はパリにやってきてからは、ずっと仕事に追われる日々だったので、パリ市内の観光は全くといっていいほど何もしていなかった。唯一、観光らしいことといえばパリに到着してからフィリップの店にたどり着くまで市内を散策した程度。フィリップの店で研修が始まってからは、休日は部屋で一日中寝ているか、アパートの周辺をほんの少し散歩するぐらいのことだった。
といっても、どこに行けばいいのか二人にはさっぱり見当がつかない。そんな時、香織が日本人画家・藤崎ケントのことを思い出した。彼に相談すればきっといい観光スポットを教えてくれるだろう、と香織と亜美は考え、ケントに出会った公園を訪れた。すると香織は先日と同じように絵を描いているケントの姿を見つけた。彼はじっと風景を見ながら絵筆を走らせていた。香織は日本人画家の後ろから気付かれないようにそっと近づいていった。
「ケントさん、こんにちは」
香織は囁くように声をかけた。
だが、ケントはまったく反応しなかった。
「ボンジュール」
たどたどしいフランス語で声をかけてみた。
「おや。あのときの女の子じゃないか。パン職人さんだったよね」
ケントが振り返り、うれしそうに右手をあげた。
「やっぱり、集中して描いているときは、聞こえないんですね」
香織がにっこりと微笑んだ。
「もうすっかり日本語を忘れてしまって。ごめんなさい」
ケントの顔がほころんだ。
「ケントさん、上手に日本語を話していますけど」
二人は見つめあい、大声で笑いあった。
それから亜美も一緒に三人でしばらく談笑した。
「今日、急に仕事がお休みになってしまって。それでケントさんにパリの観光スポットどこか教えてもらえないかなと思って訪ねてきたんです」
「そうだな」
ケントが少し空を見上げながらあれこれと考えてくれた。
「ルーブルにはもう行きましたか?」
「いや、まだです。まだ私たち、パリに来てから凱旋門とシャンゼリゼ通りぐらいしか行ってなくて」
「せっかくパリに来たのだからルーブルは絶対行ったほうがいいよ」
「やっぱりそうですよね」
香織がうんうんと頷き、亜美が懸命にメモをとっていた。
「だったら僕が案内しようか」
「ホントですか。でも、絵の方は?」
「大丈夫。実は思うように描けなくて少し悩んでいたところなんです。だから、たまにはルーブルで素晴らしい作品に触れてみたいなと思っていたんですよ」
「本当ですか。ぜひ、お願いします。パリのこと、よくわからないんです」
香織はうれしそうに飛び上がって喜んでいた。
「パリのことなら任せてって言ったのは誰よ?」
亜美が香織に小声で囁いた。
「もう、うるさいな。黙っててよ」
香織はケントには見えないように亜美をひじで小さく突いた。
それはともかく、思ってもみなかった日本人ガイドが登場し、三人はルーブル美術館へ向かって歩き出した。ケントは、歩きながらパリの歴史や美味しい食べ物のことなどパリについて知っていることを事細かく教えてくれた。
フランスの長い歴史の中でも大きな出来事としては何といってもフランス革命。これで政治も文化も大きく変わった。そしてナポレオン皇帝の時代があり、ちょうど日本の明治維新の頃にパリ万博が開催された。このときにエッフェル塔が誕生し、暮らしが急速に近代化した。第二次世界大戦ではパリの街も大混乱を経験している。歴史と文化の国だけにケントの話は延々と続き、香織と亜美はただただ感心しながら聞いていた。
ルーブル美術館に歩いて向かう途中でとてつもなく大きな広場にさしかかった。豪華な噴水が二つもあり、大きな塔がそびえ立っていた。
「ここがコンコルド広場。すごく広いでしょ」
「こんな素敵な広場、日本にはないですよ」
「パリにはこんな広場や公園がたくさんあるんだよ。それに今では信じられないけれど、ここはフランス革命のときに、マリーアントワネットがギロチンで処刑された場所でもあるんだよね」
香織はすぐにその名前を聞いてあることを思い出していた。
「でも、マリーアントワネットがクロワッサンをフランスに紹介したんですよね」
「おっ。そうそう。よく知ってるね」
「パンに関することだけなら」
香織は応えながら頭を搔き、三人で大笑いをした。
香織はじっと公園を見つめた。
「彼女がクロワッサンをフランスに紹介してくれたおかげで現在、フランス人をはじめ世界中の人が普通に食べるようになったんだ。彼女に感謝しなくちゃ」
香織は心の中でマリーアントワネットのことを思い浮かべ公園に向かって手をあわせていた。
コンコルド広場を出て少し歩くと壮大な規模のルーブル美術館の姿が目に飛び込んできた。
「まるで宮殿ですね」
香織も亜美もその立派な建物に唖然とし、しばらく立ち尽くしていた。
「もともとはお城だったらしいんだけど、途中から宮殿として改修工事をされたりしているんだ。ルーブルの建物それ自体にも長い歴史があって、建物としては十二世紀ごろに建てられたらしいんだ。美術館としては一七九三年に開館しているんだって」
香織も亜美もただ感心して建物を見上げ驚きの声を上げていた。
「これだけ広いと一日で見るのは無理ですね」
香織は建物をじっと見上げていた。
「そうだね。約三万五千点が展示してあるらしいよ。教科書に載っていたような有名な作品がズラリと並んでいるからとにかく面白いし楽しいよ。実際、大急ぎで歩けば一日で見学はできるかもしれないけれど、じっくり鑑賞するのならやっぱり一日では厳しいよね。だから何日もかけて見学に来る人もいる。それとも、見学する展示物を事前に決めておいて集中的に見学するとか。そうするしかないんだよね。あまりにも見るところが多すぎるからね」
キラキラ輝くガラスのピラミッドの真下が中央広場で美術館の入口。そこから三方向に向けて展示スペースが広がっていた。入口にはすでに多くの人が並び、まるで朝の通勤時間帯のターミナル駅のような混雑ぶりだった。
三人は人込みの中を歩いて絵画「モナリザの微笑み」や彫刻「ミロのヴィーナス」、絵画「ナポレオンの戴冠式」をやや駆け足ではあったが鑑賞して回った。
「教科書で見るよりも実物はやっぱり迫力が違いますね」
亜美の目も輝いていた。
「画家の僕からすると、最高のものに触ないとダメだろうね。自分の絵を見ているだけで満足していたらなかなか成長できないと思う。最高のものを目標にすることで、いま自分がどうすればいいのかがわかるような気がするんだ」
ケントがしみじみと語った言葉が香織の心に刺さった。
「パンの修行も同じかもしれないね」
その時、香織の足がピタリと止まった。彼女は最高級の美術作品を見学しながら、自分にとってのパン修行のことを考えていた。何を目標にして自分のパン作りの腕を磨くのか。いまの自分にはそれがなかったことに気がついた。これまでは漠然と「世界一になる」と繰り返し言っていただけ。どんなパンが作りたいのか。美術館の中を歩きながら自分にとっての明確な目標は何なのだろうと考えていた。だが、いくら考えても答えはわからない。香織の頭の中ではあらゆることが飛び交い、答えの見つからないままルーブル美術館を後にした。
どうすれば世界一のパン職人になれるのか。きっかけは自分の母親とのケンカという些細なことが発端でスタートした。だが、今はそんなことよりも真剣に世界一になりたいと思い、願うようになっていた。
自分たちは現在どれぐらいのレベルにいるのか。
それさえはっきりとわからない。
自分はこれから何をどうすればいいのか。
時々とてつもない不安に襲われることがある。
振り返ってルーブル美術館の建物をもう一度少し離れたところから眺めてみた。
すると、いつのまにか風景がぼやけてしまう。
香織の目に涙があふれていた。
半田とフィリップのおかげでここまでやってきた。
二人の技術を自分のものにして世界一を目指そう。
きっとできる。
香織は自分の信念を固めつつあった。
心配した亜美が香織に話しかけた。
「香織、大丈夫?」
亜美が心配して香織の肩を両手で揺すった。
「うん、大丈夫だよ。パンの世界一が見えてきたような気がして。ハハ」
「そうなんだ。ふーん」
亜美も香織と同じようにルーブル美術館を眺めていた。
「あ、ケントさんがどんどん先に行っちゃったよ」
亜美が香織に声をかけ、二人は慌ててケントを追いかけていった。
パリ市内の観光を終えると途中でケントと別れ、香織と亜美は自分たちのアパートに向かった。夜景が綺麗な街並みの向こう側に光り輝くエッフェル塔が見えてきた。夜になると一時間に一回、エッフェル塔が輝くシャンパンフラッシュという時間があった。
香織は、鮮やかに光るエッフェル塔を眺めていたが、なぜか涙が頬を流れ落ちていった。自分の目標をフィリップの焼くクロワッサンにしようと決めた。ただ漠然と世界一になるといっても、それだけではなれない。その目標にどこまで近づけるのか。自分の計画をもう一度考え直すことにした。フランスでの研修が終わると再び日本で、仕事と修行の日々が始まる。いままではただ、半田の指示どおりにパンを焼いているだけだった。
だが、世界一を目指すには、このまま続けていても到底世界一にはなれないだろう。それには自分なりの目標と計画を作ろう。残された時間はあと四年しかない。もう半田に頼ってばかりもいられない。自分自身の目標を立てなければ、いつまで経っても世界一にはなれない。ルーブル美術館を見学したことがこれからの計画を見つめ直すいいきっかけになった。半田が香織をパリに研修に行かせてくれた本当の理由は、最高のものに触れることで、何かを感じとって欲しかったのかもしれない。
香織と亜美は美しい光に包まれたエッフェル塔をいつまでも眺め続けていた。
ルーブル美術館を訪れた翌日、香織たちが出勤すると少し浅黒い顔をした男性が厨房で二人を待っていた。
「アナタタチノ アタラシイ センセイデス」
フィリップがその男性を紹介してくれた。
「ダニエルデス ヨロシク」
ダニエルと名乗る男性は軽く右手を上げ、小さくお辞儀をした。
彼女たちにとっては二人目の講師だった。
するとクミコが新しい講師について教えてくれた。
「ダニエルはイタリアの出身よ。無口でちょっぴり怖そうだけど、パン職人としては抜群の才能を持っているの。安心してね。人は見た目じゃないからね」
彫りの深い顔は映画俳優のようでもあり、どちらかといえば一人で黙々と仕事をするタイプ。彼は孤高の職人といった風格を備えていた。
フィリップもクミコも微笑みながら厨房を出ていってしまった。
「とりあえず、関西弁ではなさそうだね」
香織と亜美はクスクス笑っていた。
「でも、なんとなくあっちの人みたいな凄みがあるよね」
香織も少し腰が引けていた。
「クミコさんがいうように、悪い人じゃないかもしれないよ。パン職人としてはすごいみたいだし」
亜美が香織を元気づけようとしていた。
「イタリアの男性っていつも陽気で気軽に女性に声をかけてきそうなイメージじゃない?」
香織が不思議そうにつぶやいた。
「いろんなフランス人がいるみたいにイタリア人だって無口な人もいるんだよ。それとも香織は、前のレオンみたいな陽気なタイプがお気に入りだったの?」
「別にそういうわけじゃないけどね。私の考え過ぎかな」
香織はそういいながら小さく笑うと仕事を始めた。
ダニエルは、口数が少なく黙々と作業しているところを見て仕事を盗めという感じの教え方だった。ダニエルも最初はバゲットの作り方から教えてくれた。静かに生地を捏ねて成形し、オーブンに入れていった。焼き上がったパンは素晴らしく、味も香りも文句のつけようのない一級品だった。
ダニエルは自分のやり方を見せると、さあ、どうぞ、という仕草をして香織と亜美に同じようにやらせた。二人はダニエルの動きをマネして必死にやってみるのだが、思うようにできなかった。何度も何度も繰り返し、夕方になるころ、ようやく思っていたものが焼けるようになった。こうしてダニエルは香織たちに自分の動きを覚えさせるという指導方法をとった。事細かく指示するよりも、トライアンドエラーを繰り返して、生徒自身で考え自分なりのコツや方法を身につけさせようとしていた。
一見、強面のダニエルだったが、時折気のいい部分を見せてくれることもあった。
時間に余裕のあるときは、ダニエルはピザやパニーニも焼いて香織たちに振る舞ってくれ、どれを口にしても絶品だった。美味しそうに食べる香織たちを見ながらダニエルはうれしそうに微笑んでいた。こんなやり方でパン作りのアレンジ方法も教えてくれた。口数は少なかったが、ダニエルらしい方法で接してくれた。
そんなダニエル独特のやり方にも慣れ、香織も亜美も楽しくなっていた。ただ、香織はダニエルがふと見せる凄みのある目つきだけがどうしても気になっていた。
彼が二人の講師として教え始め数週間が経った頃。その日はどういうわけか早朝から店の外が騒がしかった。亜美が仕事をしながら店の外をふと見た。
「香織、もうこんな朝早くからお客さんが店の外にたくさんいるよ。ほら」
亜美は店の大きな窓を指さした。
「どうやら日本から美味しいパンをつくる美人二人が研修に来ていることがウワサになっていて私たちのファンが待っているんじゃないの?」
香織が冗談っぽくいいながら店の外をチラリと見た。
「どう考えても私たちのファンっていう雰囲気じゃないよね。絶対に」
亜美は店の外をチラリと見て首をひねり、香織は何か胸騒ぎがしていた。
開店前のフィリップベーカリーの外には多くのスーツ姿の男性が何やら小声で話しながら店の中の様子を伺っているようだった。十人ほどの強面の男性たちは何をしようとしているのか店の中から見ていても、その目的が全くわからなかった。開店の十分ほど前になりそのスーツ姿の男性たちがゾロゾロと店内に入ってきた。特にパン好きという様子ではない。フィリップとクミコが店の入り口あたりで男たちのリーダーらしき人と険しい表情で話し込んでいた。普段とは全く異なる不穏な空気が漂っていた。
すると、厨房にいたダニエルが急に落ち着かなくなり、無言で店の裏口から外に出ていった。スーツ姿の男の一人がそのダニエルの動きに気付き、厨房の中を走り抜けてダニエルを追っていった。しばらくすると店の周囲でパトカーのサイレン音が鳴り響き出した。
香織も亜美も何事が起きたのか理由がわからず、ただ唖然とするしかなかった。
「何があったの」
亜美が香織に小声で訊いた。
「ダニエルの様子が変だったよね」
香織も首を傾げるしかなかった。
しばらくすると店に電話がかかってきてフィリップが真剣な様子で長時間話していた。
どうやらダニエルはイタリアンマフィアに所属していたという。現役のマフィアだったのだ。そして香織たちがパリにやって来た日の暴走車のテロ事件に関連する人物だということもわかった。まさかのことで、二人は呆然としていた。フィリップもクミコもまったく知らないことであり、まさに青天の霹靂だった。
後日わかったことだが、ダニエルはイタリアンマフィア内部で、勢力争いがあり、どうやらパリに逃げ延びてきていたらしい。そして自分の身を隠すためにもともとパン職人だった腕を生かしてフィリップの店の店員になりすましていたという。パン職人としてのダニエルの腕は素晴らしく、相当高いレベルだったので、彼のことを疑うものは誰もいなかった。フィリップベーカリーの従業員たちもみなただ驚くばかりだった。
それから数日後、フィリップは警察に逮捕された。香織たちも驚いていたが一番ショックを受けていたのはフィリップだった。
「ホントニゴメンナサイ」
フィリップは、香織と亜美に何度も何度も頭を下げていた。
「香織ちゃんも亜美ちゃんも本当にごめんね。まさかダニエルがそんな人だとは思ってもみなかったの」
クミコも心から謝ってくれた。
ダニエルが逮捕されたという連絡があった日、香織と亜美は午後から休暇をもらったので、二人でセーヌ川のほとりを散歩することにした。二人で歩いていると香織が急に不安そうな顔つきになった。
「こんなことやってて、本当に世界一になれるのかな」
川面を見つめながら香織がポツリと呟いた。
「大丈夫だって。日本にいる時も、毎回何か事件は起きていたじゃない。それでもすべてクリアして私たち進んできているんだよ。大丈夫よ。悩むなんて香織らしくないよ」
「そうだよね」
香織はつぶやきながら、川面に浮かんでいる鳥の姿を見つめていた。
「私は和菓子屋の娘として生まれて苦労もせずにここまで生きてきた。それにヨーロッパに卒業旅行まで行かせてもらった。日本にいる星野姉妹も半田さんも塩村君も大変な苦労をしている。亜美ちゃんも芸能界で辛い思いを経験してきた。私だけお嬢さまとして生きてきて好きなことやってきた。そんな人間が世界一なんかになれるんだろうか。パン職人としてもやっと一年経っただけ。そんな人間が世界一を取るなんて話が良すぎるんだよね。漫画じゃないんだからさ。まだまだ全然苦労なんかしてないし」
香織が自分の悩みを亜美に向かって吐き出すかのように言い放った。
亜美も返す言葉が見つからなかった。香織をそっとしておこうと思い、亜美は静かに香織の背中を撫でるだけだった。すると香織の目から涙が自然にあふれ出ししばらく止まることはなかった。今は世界一になる自信などまったくなかった。とにかく自分の弱い心を毎日奮い立たせて仕事をしてきた。フランスにまで亜美は一緒に来てくれた。もう負けるわけにはいかないし投げ出すこともできなかった。ケントに案内してもらってルーブル美術館を見学し、一流の凄さを実感し、改めて世界一への挑戦の決意をした。研修を提案してくれた半田の思いも充分に伝わってきた。
だが、香織たちがフランスにきてもトラブルの連続。どうしていいのかわからない。不安だけが日に日に増していた。香織の頭はもう爆発しそうだった。これからどうすればいいのか。本当に世界一になれるのか。香織は今までにない不安と苦悩の渦の中でもがき苦しんでいた。
そんなとき香織の携帯電話が鳴った。香織は今、電話で誰かと話す気分でもなかったので、でようとはしなかった。だが、かなり長時間鳴り続けるので仕方なく電話をとった。
「はい」
香織は泣いていることを悟られぬよう精一杯元気な声で電話にでた。
「やっと電話にでてくれた。お姉ちゃん。元気?」
声の主は妹の舞だった。
「なんか、元気ないよね。もしかして今泣いてたんじゃないの?」
どこまでも舞の勘は鋭かった。
「いま綺麗なセーヌ川を見ていて感動していただけだってば。私がいちいち泣くわけがないでしょ」
亜美が隣でクスクス笑っていた。
「ホントに? そろそろ寂しくなっていたでしょ。それにフランスのパン職人さんたちのあまりのレベルの高さにショックを受けて、『もう私なんかダメだわ』とか言って、涙流しているのかなと思ってたよ」
「そんなことで世界一を目指す女は泣きませんよ。あんたこそぼちぼち和菓子がイヤになった頃じゃないの?」
「私はなんとかやってるよ。そういえば、お母さまが『香織、最近見かけないけどどうしてるの?』って心配してたよ」
「フランスで研修中だって」
「『どうせそのうち、レベルが高すぎて諦めて帰ってくるわよ。やっぱり和菓子やります、とか言うんじゃないの』って言ってたよ」
すると一瞬で香織の顔つきがガラリと変わり、携帯電話を持つ手が小さく震えていた。
「そんな簡単に諦めないわよ。絶対に世界一になってやるんだから。もう少しだけ待ってろ。そうやって言っておいて」
香織は舞の声を聞いて安心したのか、急に元気を取り戻していた。その隣で、いつもの調子に戻った香織を見ながら亜美は一人で笑っていた。
セーヌ川沿いの散歩を終え香織たちは夕方、フィリップの家を訪れた。玄関のドアを開けると台所からは懐かしい香りが漂ってきた。
「すごくいい匂い」
思わず香織の顔がほころんだ。クミコが香織と亜美を元気づけようと食卓には肉ジャガとだし巻き玉子を用意してくれていた。その横にはワカメの味噌汁まで並んでいて、美味しそうな白いご飯からは湯気がふんわりと立っていた。
「やっぱり日本人はご飯を食べないと元気が出ないよね」
香織の目が輝いていた。
クミコがトラブル続きの二人を心配して和食を用意してくれたのだ。
「懐かしいでしょ。おかわりしてね。ご飯もお味噌汁もたくさんあるから」
まるで母親のようなやさしい目で二人を見つめ微笑んでいた。
大喜びした二人は懐かしい和食を食べ始めると、フィリップも慣れた手つきで箸を扱ってご飯を頬張っていた。
「フィリップさんも日本食が好きなんですか?」
香織がクミコに問いかけた。
「そうね。私の作るご飯を食べて結婚を決めたのよ。でも、フィリップは納豆だけは全然ダメなの」
クミコが笑って答える。
「ナットウハ、ノーサンキューデスネ」
フィリップがご飯を食べながら教えてくれた。
「豆が腐っているものを食べるなんてと言って、絶対に食べないのよ。でもね、フィリップはゴルゴンゾーラチーズは大好きなの。チーズに青カビが生えてるのにね」
クミコも笑いながら食べている。
「ゴルゴンゾーラハ、トクベツデス」
フィリップも反論した。
「仲がいいね」
亜美がフィリップ夫婦をみて微笑んでいた。
「二人のパリでの研修も残りあと一ヶ月になったわね。最後はフィリップが教えるから今度こそ安心してちょうだい」
クミコが二人に向かって話すと香織も亜美も食べていた箸が止まった。
「もうあと一ヶ月しかないんだね」
香織はフランスに来てからのことを思い返していた。いきなり初日にパリ市内の発砲事件に巻き込まれ、フィリップとクミコに助けてもらった。関西弁のレオンも強面のダニエルも真剣に教えてくれた。どちらもいなくなってしまったけれど。ケントと出会いルーブル美術館の見学にもいった。
山あり谷ありの慌ただしい二ヶ月だった。だが残された時間はあとひと月。最後はフィリップが二人に教えてくれるという。もともとフィリップが講師をすればよかったのだが、フィリップ自身が忙しかったので二人の講師から講義を受けることになった。結果的に二人ともいなくなってしまったが貴重な体験もできた。香織と亜美は残されたひと月で最後のフィリップの研修をしっかり受けようと決めていた。
フィリップはフランスでは基本中の基本であるバゲット作りから始めた。レオンもダニエルも教えてくれたのだが、フィリップの手つきは誰よりも鮮やかで手際よかった。実はフィリップはフランス国内でも一位二位を争うほどの腕前のパン職人だった。一般市民からの人気も高く、パン職人の間でも目標とされるような存在だった。そんなフィリップの鮮やかな手つきを間近で見学した香織はうっとりと見とれていた。生地の捏ね方、成形の手際よさ、焼く前のクープという切れ目の入れ方。どれをとっても名人の技だった。
香織も亜美も必死で最高の技術を目に焼き付けていた。そしてついに三日目には待ちに待ったクロワッサンの作業に移った。
「クロワッサンハ イチバンテマガ カカリマス。ソレダケ タイヘンデス。デモ テマヲ カケタダケ オイシイ クロワッサンニ ナリマス」
フィリップはパンを捏ねるような手つきをしながら笑顔で説明してくれるが鋭い目つきは真剣そのものだった。
「モウヒトツ ダイジナ コトガ アリマス」
右手の人差し指を上に向け、力を込めて説明を始めた。
「クロワッサンヲ ツクルトキ タベルヒトノコトヲ カンガエテ オイシクナレ オイシクナレ ト ココロノナカデ イノリマス」
左胸を拳骨でトントンと叩きながら一段と力強い口調でフィリップが教えてくれた。フィリップは全身をつかって身振り手振りで伝えてくれた。その言葉はシンプルだったがパンを作る人間としての誇りや想いがすべて凝縮されていた。この時、香織も亜美もフィリップの精神をすべて受け止めようと心に決めた。
だが、クロワッサン作りは奥が深く、なかなか思うようには焼けなかった。香織は何度も繰り返しチャレンジした。やっと満足できるものが焼けたと思いフィリップに試食してもらうけれども、簡単に首を縦に振ってくれることはなかった。やっと納得できるものが焼けてフィリップがOKを出してくれるのだが「モウ イッカイ ヤリマショウ」と言って香織たちに成功したやり方を繰り返し覚え込ませようとした。
とにかくフィリップはバゲット、クロワッサンには他の何よりも真剣であり情熱を注いでいた。毎日早朝から夕方まで、ほぼ休憩時間もなく徹底的に香織と亜美に指導をしてくれた。フィリップも全力で教え、香織も亜美も必死にすべてを受け止めた。夕方になるころには、三人とも立っていることさえ辛くなるほど疲れ果てていた。
そんなフィリップの指導する期間も終わりを告げようとしていた時だった。店の大きなガラス越しに懸命に手を振っている男性がいた。それは藤崎ケントだった。香織たちに向かって手を振りながらにっこりと笑っていた。香織もケントに向かって小さく手を振り返した。
「おや、ボーイフレンドですか?」
フィリップも気がついた。
「いやいや。フランスに来てから知り合った日本人の絵描きさんなんです」
香織が少し照れながら返事をした。
「スコシキュウケイニシマショウ」
フィリップは微笑みながら事務所へと入っていった。
香織はイートインのコーナーにいたフィリップのもとへと小走りで向かった。
「ケントさん。ありがとうございます。本当に来てくれたんですね」
「もちろんだよ。ここは昔から美味しい店で有名なんだ。これまでに何度もパンを買いにきたことがあるよ」
「そうなんですね」
「香織ちゃんも亜美ちゃんも真剣にがんばっているんだね」
「もうすぐ日本に帰らないといけなくて。だから必死なんです」
そう言いながら微笑む香織の頬は小麦粉で白くなっていた。
「でも、真剣な顔の香織さんも亜美さんも素敵ですよ」
ケントにそう告げられると香織は少し赤くなり俯いた。
「こんな私でも世界に挑戦しようとしてるので」
香織は頭をかいた。
「最後に日本へ帰る前にモンマルトルの丘にまた来てね。いつもの公園で絵を描いているから」
ケントは香織にやさしく告げると、たくさんのパンを買って帰っていった。
「そういえば亜美はどこに行ったんだろう」
香織がキョロキョロしていると亜美が裏口から厨房に戻ってきた。
「どうかしたの?」
「いや別に。ちょっと友達にメールをしてたんだ。香織もケントさんと二人きりのほうがいいかなと思って」
亜美は何か考え事をしているようだった。
「別にケントさんとはそんなんじゃないから。私は日本に……」
そういうと香織は言葉を飲み込んだ。
「ん。誰よ、誰よ。どこかの和菓子職人さんかな?」
「いいでしょ。誰でも。さあ、仕事、仕事」
香織が珍しくごまかそうとしていたので亜美は笑っていた。
香織と亜美がフィリップベーカリーでの研修を終え、いよいよ日本に帰る前日。香織と亜美は最後にモンマルトルの丘に来ていた。
「この丘にくるのも何度目かな」
「どこかの絵描きさんにどうしても会いたいって誰かが言うから仕方ないよね」
「だから、そんなんじゃないってば」
香織は亜美に食ってかかった。
「はいはい。ここは景色がいいからね」
亜美も首をすくめながら笑っていた。
画家の人たちが集まる公園にやってくると、いつもの場所でケントは絵を描いていた。相変わらず物静かな雰囲気のなかにも真剣に絵に取り組んでいる姿は美しかった。
「ケントさん。来ました」
香織は話かけるとケントはそれまでとは打って変わってやさしい笑顔になった。
「じゃあカフェにでもいって食事しましょう」
少し散歩をしながらおしゃべりをして近くの店に入った。
「いよいよ日本に帰るんだね。がんばってね」
「ありがとうございます。でもうれしいような、ちょっぴり寂しいような、複雑な感覚なんですよ。ケントさんは日本には帰らないんですか?」
「ぼくは、絵で結果を出すまでは日本には帰らないって決めているんだ。まだまだなんだけどね。それにこのモンマルトルの丘が気に入ったんだ。ゴッホもダリもピカソもここにいたからね。彼らのオーラがまだいまも残っていると思うんだ」
香織も亜美もただ頷くだけだった。芸術についてはよくわからなかったが、パリの独特の雰囲気は好きだった。自由な空気にあふれ、世界に開かれている感覚がした。このパリだからこそ素晴らしい絵が描かれるのだろうし、美味しいパンが焼けるのかもしれなかった。
「私はフィリップさんに教えてもらったことを日本で極めて世界一を目指します。世界選手権は毎年パリで開かれているから、世界選手権に来たらまたお会いしましょう」
香織は力のこもった目をしながらきっぱり言い切った。
「ここで絵を描きながら二人が戻ってくることを楽しみにして待ってるよ」
ケントは香織と亜美とそれぞれ力強く握手を交わした。
「それとフィリップさんについてのこと、一つだけ話してもいいかな」
「私たちが知らないことを何かご存知なんですか?」
香織と亜美は顔を見合わせ怪訝そうな顔をした。
「この前、お店にいった時、フィリップさんを見て思いだしたんだ」
ケントは静かに語りはじめた。
「何年か前にちょっとだけニュースになったことがあってね」
香織も亜美も真剣に聞いていた。
「フィリップさんのところには息子さんが一人いたんだ。優秀な人だったみたいなんだけど。年齢は香織ちゃんや亜美ちゃんと同じぐらいだったと思う。数年前、将来のことで話しをしていて息子さんとフィリップ夫妻が口論になったらしくて、その息子さんはバイクに乗って家を飛び出してしまった。数日間、連絡が取れなくなって、みんな心配し、フィリップ夫婦も懸命にさがした。そしてパリの北側にある少し離れた山岳地帯で息子さんは発見された。山道の急なカーブを曲がり切れなくてガードレールを突き破り崖から転落していたんだ。発見されたときには即死の状態だった」
香織も亜美もその話を聞いて何も言えなくなってしまった。
「それからフィリップ夫妻はしばらく元気がなくて店にもほとんど出ることはなく従業員さんだけで店を運営していた。やっと去年ぐらいからフィリップ夫妻はいままでのように仕事ができるようになったんだ」
ケントも辛そうに話を続けた。
「少しショッキングな話だったかもしれないけれど、二人は知っておいたほうがいいかなと思って。だから、フィリップ夫妻は君たちにいろんな思いで接してくれたんだと思うよ。息子さんと同じぐらいの年齢だったからより親切に二人を迎えてくれたんだろうね」
それを聞いて二人とも胸がいっぱいになっていた。
「だから、パンの世界一に必ずなってね。フィリップ夫妻のためにも」
香織は涙ぐみながら何度もうなずき、亜美も天井を見上げて肩を振るわせていた。
「亜美ちゃん、絶対なろうね。世界一に」
「うん。負けられないね」
モンマルトルの丘から見る風景がいままでとは違ってより美しく見えた。
第二次世界大戦のフランスの英雄はその名を空港に残していた。パリ郊外にあるシャルル・ド・ゴール空港には香織と亜美、そしてフィリップ夫妻が来ていた。
「二人が日本に帰ってしまうかと思うともう寂しいわ」
クミコが二人に向かっていまにも泣きそうな顔で声をかけた。
「本当に何から何までお世話になりました」
香織が深々と頭をさげた。
「本音をいうとフランスに来ることが不安で仕方なかったんです。でもお二人に支えていただき楽しくパンの勉強をすることができました」
亜美も胸がいっぱいになりながら笑顔であいさつした。
「香織がフランスのことは私に任せてっていうから信用していたら全然ダメだったので。本当に助かりました」
笑顔で亜美がフィリップ夫妻に話した。
「亜美。いま、いい場面なんだから、そんなこと言わなくてもいいじゃない。ねえ」
少しだけムッとした表情の香織が亜美の顔の横までいって猛烈に抗議し人差し指で亜美の肩を軽くつついた。
「まあまあ。本当に二人はいいコンビね。あなたたちのチームワークならきっと世界一になれるわよ。次は世界選手権でパリにくる時を待ってるわ。ハイ、これ私たちからのお土産よ」
クミコが涙ぐみながら紙袋を二人に手渡した。
「ありがとうございます。絶対に世界選手権で帰ってきます」
香織も力のこもった返事をした。
「アナタタチナラ キット ワールドチャンピオン ナレマス。ガンバッテ」
フィリップがガッツポーズをしながらやさしく微笑んでいた。
パリでの三ヶ月は思いもよらぬ事件に巻き込まれたものの、フィリップ夫妻に助けられ無事に研修を終えることができた。様々な思いを抱えながら二人は飛行機に乗り込み日本へと帰国した。
名古屋市内のスターライトベーカリーでは星野姉妹や半田、塩村がそわそわしながら二人の帰りを待っていた。
店長の杏子が店の外を気にして見ていると、サングラスをかけ首には派手なトリコロールカラーのスカーフをした二人の女性が大きなキャリーバッグを引きずって入ってきた。「ハーイ、ボンジュール。ただいま帰りました」
香織が右手を上げながら大きな声で店に入ると、並んで待ち構えていたスターライトベーカリーのメンバーが二人の派手な格好に少し引いてしまった。
「ほら、やっぱり香織、この格好はやり過ぎだっていったじゃない」
「だって、インパクトのある帰り方を考えたらこうなったんだけどな」
香織が一人しょげていた。
「おかえりなさい」
星野姉妹が大きな声で叫ぶと塩村が勢いよくクラッカーを鳴らした。
「待ってましたよ。香織さん、亜美さん」
塩村が笑顔で迎えてくれ、その横で半田は静かに微笑んでいた。
「フィリップの指導はどうだったかい?」
半田は二人にやさしく訊いた。
「とっても親切にしていただいて。パンの作り方についてもたくさん教えていただきました。それにクミコさんの肉ジャガが最高に美味しかったです」
「ん。そうか。とにかく無事に研修ができたようだな」
店の中は陽気な二人が戻ってきたこともあり一気に明るくなり、フランスでのお土産話で盛り上がっていた。
「今日はゆっくり休んで明日からお願いね」
「これから、またお世話になります」
トリコロールカラーのスカーフをした二人は元気よく店を後にした。
そのまま香織は三ヶ月ぶりに帰宅した。
「お姉ちゃん、お帰り」
妹の舞が香織の部屋の前で微笑みながら待っていた。
「あら。舞ちゃん。仕事はいいの?」
「お姉ちゃん、今日フランスから帰ってくるのなら出迎えてあげなさいって、お母様が休ませてくれたんだ。二人で美味しいご飯でも食べてきなさいってお金もくれたんだよ」
「ふーん」
香織はあまり気にしていないふりをみせたが、母のやさしさをじんわり感じていた。
「とりあえず、荷物を置いてさ、ご飯でも食べにいこうよ」
「その前に舞ちゃんにお土産があるよ」
大きな包みを香織は舞に手渡した。
「えっ。さすがは妹思いのお姉様ですわ。ありがとう。なんだろう」
舞の顔がパッと明るくなり、うれしそうに大きな包みを開けた。すると舞はゆっくりと首を傾げた。
「これって、フランス人形だよね」
「そう、なかなか可愛いでしょ」
「うーん。でも今どき、フランスのお土産にフランス人形買ってくる人って、あんまり聞いたことないんだけど」
「そうなの?」
「普通は、ブランドのカバンとか、おしゃれなスイーツとかじゃないの」
「ふーん。そうなんだ。じゃあ、もう一つあるんだけどな」
「あら、やっぱり素敵なお姉様。よくわかっていらっしゃる」
舞の顔が再び笑顔になった。
「はい、これ」
小さな紙袋をポンと手渡した。
「ん。なに。ソルトって。塩なんかどうするのよ」
「これすごく人気があるらしいよ。かなり有名な塩なんだって。和菓子にも使えるかなって思ってさ。まあ、私から敵に塩を送るみたいな感じかな。へへ」
「そうなの。じゃあ和菓子に使えるかどうか、考えてみるね」
「ということで、舞ちゃんへのお土産は以上です」
「えー。期待ハズレだよ」
そんなことを米野姉妹はぶつくさ言い合いながら近所の和食レストラン「和食処・三河湾」へと歩いていった。
二人で席についたところで舞が一度、大きく咳ばらいをすると改まって話し始めた。
「では今日は特別ゲストを招待しています。どうぞ」
舞が合図をすると一人の男性が香織の後ろから突然現れた。
香織が小学校のときの同級生だった田端大地だった。香織の初恋の人である。田端はスラリと背が高く、サラサラヘアーでまるで人気アイドルのようなイケメンになっていた。
香織は何が起きたのかすぐに理解できなかった。
「えっ。田端君だよね」
香織は田端を見上げると目が一段と大きくなり顔が真っ赤になった。
「ちょっと、舞。田端君が来るんだったらそう言ってよ。普通のトレーナーで来ちゃったじゃないの。もう恥ずかしいな。きちんと化粧もしていないのに」
香織は舞の耳元で囁いた。香織の着ていたトレーナーには「アイ・ラブ・クロワッサン」と英語で書かれ可愛らしいクロワッサンのイラストがプリントされていた。
「いいと思うよ。一番お姉ちゃんらしい服装だし。可愛い妹がお姉ちゃんの喜ぶことをしてあげようとしたんですよ。感謝してよね」
「でもさ、あんたは女心ってものわかるの? 久々の再会にこのトレーナーはマズイよ」
香織は悲しそうな顔をしてうなだれた。
「香織ちゃん、久しぶりだね。十年以上会ってないよね」
「そ、そうですな」
香織は緊張して何を話しているのかも、わからなくなってしまった。
「香織ちゃんに会えると思って米野屋さんに入ったのに、パン屋さんに就職したって聞いた時はショックだったよ」
「あっ。そうですね。残念でした。ハハ」
香織はまだ自分が自分でないような気持ちだった。
「でも、舞さんが毎日丁寧に教えてくれてやっと仕事にも慣れてきたよ」
香織は隣の舞を睨みつけた。
「あんた。田端君に変なことしていないでしょうね」
「するわけないじゃん。お姉ちゃんの大事な人なんでしょ」
舞は首をすくめながら言い返した。
三人であれこれと話しをしているうちに、香織も田端と自然に会話ができるような雰囲気となり、フランスの話で盛り上がっていた。
「ルーブル美術館がすごく広くて迷子になりそうで」
香織がフランスでの研修中の思い出話をしていた時だった。
「あっ。そうだ。今日は栄のデパートの全国和菓子フェアに行くのを忘れてた。バカだな。私ったら。じゃあ、後はお二人でごゆっくりどうぞ」
「ちょっと舞。もう夕方だよ。デパートの営業、終わっちゃうよ」
「いいから、いいから」
舞は嬉しそうな顔をして和食レストランをそそくさと出ていった。
残されたのは香織と田端の二人。どうしていいのかわからず固まっていると、目の前にある舟盛りで活け造りになっているアジだけがヒクヒクと小さく動いていた。
「でも、こうして香織ちゃんに会えてよかったよ」
「そ、そうだね。ハハ」
まだ香織は再び緊張していた。
「少し前に米野屋の隣に開店したパン屋さんの前で、香織ちゃんが素敵なドレスを着ているところはチラッと見かけたけどね」
「あっ。あのときね。まあ、あれが普段着かな」
香織は冷や汗を流して笑いながらも、ライバル店を偵察にいった時のことを思い出し、心の中でガッツポーズをしていた。
「ところで田端君は米野屋ではどうなの?」
「社長も奥様も、ああ、香織ちゃんのご両親だね、すごく丁寧に教えてくださって、やさしいんだよ」
香織はどうして自分にだけ両親が厳しいのか疑問に思いながらも笑って頷いていた。
「香織ちゃんはパン職人としてどうなの?」
「まあ、通常の仕事はなんとか覚えたんだけど、世界一のパン職人になるというミッションが大変なの。かなりハードルが高くて。もう毎日必死で」
香織は少し甘えるような仕草で田端を見つめた。
「がんばってね。影ながら応援しているからね」
「うん。がんばる」
香織にとっては何よりも嬉しいエールだった。
それから二人はうち解け、閉店になるまで語り合いしばらく席を立つことはなかった。




