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第1章

  それはまるでひとすじの青い光が深い森の中を一気に突き抜けていくかのようだった。

 透き通るような青い空の下、米野香織を乗せたナイトブルーのオリエント急行が、まばゆいばかりの太陽の光を浴びてローマから一路、パリへと向かっていた。

「香織お嬢様、あと一時間ほどでパリに到着いたします」

 最上級の客室の中で濃紺のタキシードを着た白髪の紳士が、目の前にゆったりと座る香織に向かって手短に報告をした。

「ありがとう。畑山」

 真っ赤なワンピースに身を包んだ香織は車窓から外の風景を眺めたまま、振り返ることもなく一言だけ言葉を返すと急に首をうなだれた。列車は深緑の森を抜けると広々とした田園地帯に入っていく。目を転じると遠くには雄大な山々が聳えていた。香織は大きな瞳で美しい風景をぼんやり眺めつつ深いため息をついた。

「仕方ないわね。紅茶でも飲もうかな」

 香織が畑山の淹れた紅茶を口に運ぶ。

「アチッ。畑山、ちょっと紅茶が熱すぎるってば。ヤケドしちゃうわよ」

 香織はちょっぴりおっちょこちょいなところがあった。

「畑山、パリに着いても、やっぱりスイーツを食べ続けるのよね」

 香織は自慢の長い黒髪を揺らして空を見上げつつ畑山に念押しをするように問いかけた。

「もちろんでございます。むしろこれからが本番と言ったほうがいいかもしれません。美味しいお菓子、珍しいスイーツをお召し上がりいただき、米野屋の新たな商品開発の参考にしていただかなくてはいけませんので」

 畑山は微笑みながら返事をすると慌てて手帳を開き今後のスケジュールを確認した。

「モンブランにガレット・デ・ロワ、ガトーバスク、それから・・・・・・。とにかく、まだまだたくさん数えきれないほどございます。フランスは別名スイーツ大国とも言われております。こう呼ばれるようになった理由は、フランス王室が近隣諸国との交流のために・・・・・・」

 畑山は嬉しそうに度の強そうな眼鏡に手をかけながら説明を始めた。

「スイーツの話はもう結構です」

 香織は、白髪の執事の話を途中で遮ると静かに首を傾けた。

「もうお菓子は要らないわ。ヨーロッパに来てから毎日散々食べ続けてきたんだし。そんなことより一日でも早く日本に帰って白いご飯に生玉子をポンと割ってお醤油かけて。それに、お味噌汁も食べたいな」

 溜息まじりに話すこの若い女性は米野香織、二十二歳。大学の卒業旅行と称してヨーロッパにやってきたのだが、彼女は両親に旅行費用を全額出してもらう代わりに、大きな任務を任されていた。

 その任務とは、第一にヨーロッパ各地を旅しながら伝統的なお菓子を食べること。第二にその味を実家である米野屋の和菓子に反映させる、というものだった。

 香織は名古屋市内に本店を構える有名な和菓子店「米野屋」の長女。この店は創業三百五十年という歴史と伝統を持つ老舗中の老舗で、尾張徳川家に和菓子を献上し続けてきた。その米野屋の跡継ぎとして香織は期待され、次世代の米野屋を背負っていくものと両親も従業員も当然のように考えていた。数年のうちに香織は婿養子を取り、店を引き継ぐものと誰もが信じて疑わなかった。 

 また、米野屋は現在のままの経営スタイルではいけないという危機感を持っていた。新しい時代に対応するため、伝統ある和菓子商品を柔軟に変えていこうという会社の方針があった。そこで、注目していたのが海外の伝統的なお菓子だった。特にヨーロッパスイーツの文化を取り入れ、米野屋の看板商品である羊羹やどら焼き、饅頭に新しいテイストを加えることはできないだろうかと模索していた。

 そんなときに、たまたま香織がヨーロッパへ卒業旅行にいくといい始めた。米野屋としては、まさに「飛んで火にいる夏の虫」というか、「鴨が葱を背負って来る」というか、まさに「渡りに船」だった。香織がヨーロッパに行くのならば、各国のお菓子の視察をしてもらおうというのが香織の両親の狙いだった。米野屋としても、これまで魅力ある新商品を目指して試作を繰り返していたが、どれも納得できるものはなく何かが足りなかった。そんな状況がしばらく続き店として大きな壁に直面していた。

 ただ、当の本人である香織自身は海外のお菓子の視察については全く納得していなかった。名だたる観光地を巡り、雄大な大自然を堪能し、優雅に最高峰の美術館を訪れるといった普通の女子大学生がするような卒業旅行を楽しみたかった。だが、費用をすべて出してくれるという両親の甘い言葉に首をブンブンと縦に振ってしまったがために、スペイン、ポルトガル、ドイツ、イタリアと旅行し、各地の伝統菓子を香織はひたすら食べ続けることになってしまう。スペインのポルボロン、ポルトガルのパン・デー・ロー、ドイツのシュトーレン、イタリアのティラミスやパネットーネ。とにかく本場のスイーツを毎日のように堪能し続けた。女性の読者や甘党の方にとっては幸せな旅行ではないかという反論もあるだろう。だが、自分の意に反してここまで立て続けにスイーツを食べ続けなければならないというのは一種の拷問のようなもの。また日本国内で同じものは探せば食べることは可能ではないかというご意見もあるだろうが、現地の味や風味を確認しておくこともプロの和菓子屋としては重要なポイントだったのである。

 そしてヨーロッパスイーツ視察旅行の最終目的地はフランス・パリ。言わずと知れた歴史と伝統の街であり、そこに暮らす人々が口にするお菓子にも威厳があり深みも奥ゆかしさも兼ね備えていた。

 ところが、香織自身はお菓子三昧のヨーロッパ視察旅行に飽き飽きし、日本に一分一秒でも早く帰ることしか頭になかった。そもそも米野屋を受け継ぐということ自体、香織本人は大きな疑問を持っていた。香織の本心は伝統ある和菓子屋を引き継ぐことではなく、全く違う何か新しいことを自分でやってみたかった。だが、家の伝統が彼女を許さなかったし、香織自身「これをやりたい」という明確な目標もなかった。仕方なく彼女は米野屋を受け継ぐべくヨーロッパの国々を両親の「指令どおりに」視察旅行を続けていたのである。そして香織のお目付け役として執事の畑山が同行をしていた。


 パリに到着した香織はセーヌ川のほとりを執事の畑山を引き連れ歩いていた。すると、どこからかシャンソンを演奏するアコーディオンの音色が聞こえてきた。

「もう、お菓子はいらないけど、パリの雰囲気はやっぱり最高よね」

 日傘を差し優雅に散歩をする香織はシャンゼリゼ通りの雰囲気を満喫し、足取りも軽やかだった。

「お嬢様、左様です。やはり名古屋市内の山崎川のような小さな川のほとりを散歩するのとは全く訳がちがいます」

 畑山も建ち並ぶ歴史ある建物を眺めながら顔がほころんでいた。

「それじゃあ、これでパリの視察は終わりにして日本に帰りましょうよ」

 とにかく香織の頭の中は帰国することしかなかった。

「お嬢様、それは出来ません。私がご主人様と奥様からお叱りを受けます。まず、今日はカヌレとクイニーアマンをお召し上がりいただく予定でございます」

「はいはい。わかりました。畑山のいう通りにしますよ」

 大きな溜息をついた香織はスイーツの専門店へと肩を落としながら入っていった。


 香織はパリで五日間を過ごし、ノルマどおりにスイーツを食べ続けた。そして、いよいよ日本へ帰国する当日の朝。大きなあくびをしながら香織はホテルのビュッフェ会場にあらわれた。まだほかの客の姿はまばらな時間帯。香織は眠い目を擦り、自慢の長い黒髪には少し寝ぐせがついたままだったが、執事の畑山は早朝からキチンとタキシードを着こなしていた。

「まだ眠いし、食欲もあんまりないの。畑山、カフェオレとパンだけでもいいわよね?」

「パリで召し上がっていただくお菓子の予定もすべて終了しております。お好きなものを思う存分お召し上がりくださいませ」

「わかったわ。それじゃあ、ご飯にお味噌汁と味付け海苔と」

 香織はキョロキョロとずらり並んだ朝食料理の前で頭を傾けていた。

「ところで、畑山。やっぱりホテルには白いご飯や生玉子はヨーロッパのどの国にいってもないのね」

 香織はビュッフェの料理を眺めながらつぶやいた。

「そうです。ヨーロッパでは生で玉子を食べるという習慣がそもそもありません。そこは日本に帰ってからのお楽しみということで」

 畑山は諭すように香織に説明した。

「なるほどね。せっかくパリにきたのだから、カフェオレを飲もうかな。それに本場のクロワッサンをまだ食べてなかったわ」

 香織はカフェオレをカップに注ぎ、クロワッサンを二つとって自分の席へと戻った。

「本場のクロワッサンとやらをいただきましょうかね。ウン、いい匂い」

 香織はゆっくりとクロワッサンを両手で持つと、バターの香りを楽しんだ後、ゆっくりと口に運んだ。サクサクとした食感と歯切れのいい音が彼女の頭の中に響き渡り、しばらく無言のまま動けなくなってしまった。

「なんだろう。この味と食感。こんなに美味しいもの、今まで食べたことないわ」

 香織は目を閉じたまま背中を少し丸めると、小刻みに震え出し、喜びを全身で受け止めようとしていた。そして、しばらく何かを考えたかと思うと香織の目から光るものが一筋流れ落ちた。

「お嬢さま、体調でも悪いですか?」

 畑山は心配そうに横から香織の顔を覗き込んだ。

「いえ。私、やっと出会えた気がするの」

 目を閉じたまま小さく首を横に振ると香織はゆっくりと声を絞りだした。

「はぁ」

 畑山も香織の身に何が起きているのかがまったくわからなかった。

「やっと出会えたのよ」

「パリで素敵な男性でも見つけられましたか?」

「違うわ。このクロワッサンよ。この何ともいえない美味しさに衝撃を受けたの。私、こんな美味しいクロワッサンを自分で作ってみたいの。いいでしょ。畑山」

「休日のご趣味でパン作りを楽しむということならばいいでしょう。なにしろ、お嬢さまには米野屋がありますから」

「いや。私、本気でこんな美味しいクロワッサンを焼いてみたいの。どこかの古臭い和菓子屋さんのことなんか、もう知らないわ」

「いや。お嬢様。それは、ご冗談がすぎます」

「冗談でこんなこと言わないわよ。私は本気よ」

 香織はクロワッサンを作る自分の姿を思い思い浮かべると、両手をぐっと力いっぱい握りしめた。

「私、大学を卒業したらパン屋さんになって最高に美味しいクロワッサンを作るわ」

「あの、お嬢様。米野屋のほうは?」

 畑山も慌てて香織に尋ねた。

「知らないわよ。私は、これからパンを焼きます。一流のパン職人になって美味しいクロワッサンを作ります」

「そ、それは、ご主人様も奥様も困ってしまいます」

「いいの。私の本当にやりたいことがやっと見つかったんだから」

「しかし、それは……」

 畑山の目は虚ろになりうつむいてしまった。

「両親の言うことを私が必ず聞かなければならないなんて、そんな法律はないはずよ」

「そうですけれども」

 目を輝かせて話す香織を前に、畑山はただ困り果ててしまった。


 名古屋市昭和区内にある閑静な住宅街。この周辺には会社社長や大学教授、医師といったセレブな人たちの大邸宅が並んでいる。広々とした庭には鮮やかな花が咲き乱れ、そこだけ特別な時間が流れているかのようだった。

 そんな町の一角に米野香織の自宅はあった。老舗和菓子屋の社長宅は古風な瓦葺きの屋敷で、庭には立派な松が枝を伸ばし、大きな池には豪華な錦鯉が気持ちよさそうに泳いでいた。

 静まりかえった大きな建物に鹿威しの音だけが響き渡り、一種独特の張りつめた空気が漂っていた。庭を一望できる和室には、香織と両親、妹の舞、そして執事の畑山が茶会のような面持ちで正座をして並んでいた。和菓子職人らしい白い作業着姿の父・虎之介は和菓子一筋四十年、とにかく生真面目に働き続け、威厳のある顔つきをしていた。この虎ノ介の姿そのものが米野屋の長い歴史と伝統を物語っていた。

 静寂を打ち破るように虎之介が口を開いた。

「香織、ヨーロッパ視察旅行はどうだったんだ」

 虎之介は鋭い視線で香織をじっと見つめた。その隣には淡い薄紫色の着物を着た母・千景が座りじっと香織を見守っていた。創業三百五十年の米野屋の歴史と伝統を感じさせる重々しい空気が両親と香織の間に横たわっていた。

「はい。お父様。ヨーロッパ各国のお菓子は大変に美味しゅうございました」

 鮮やかな赤い着物を着た香織はさらりと「視察旅行」のお菓子の感想を伝えた。

「それで、何か米野屋の新しい商品のヒントになりそうなお菓子やスイーツはあったのかしら?」  

 母・千景が心配そうな口調で香織に言葉を投げかけた。

「はい。そうですね。あったような、なかったような。まあ、どのお菓子もそれなりに美味しかったです」

 香織はなんとかこの場を乗り切ろうと俯き気味にあいまいな言葉で答え、両親とできるだけ目を合わさないようにしていた。

「伝統ある和菓子屋の娘がわざわざ時間とお金をかけてヨーロッパまで出掛けて行って、その辺を歩いている普通の女子大生みたいな感想では、何のための旅行だったのか意味がないじゃないか。そうだろ、香織」

 虎之介の口調が一段と厳しくなっても、香織は俯いたままだった。

「確かに、そうだとは思いますけど」

 ここまで言うと、香織は次の言葉を発するのを躊躇した。これ以上、この場で自分がパリで思ったことをそのまま言ってしまっては両親の期待を裏切ることになってしまう。ここは堪えて、あらためて別の機会に自分の決意を伝えようと頭をフル回転させたのだが、どうしても抑えきれない感情が勝ってしまい、数秒間沈黙した後、香織は口を開いた。

「でも毎日、どの国にいっても甘いものばかりを朝から晩まで食べ続けていたら感動もしなくなってしまいます。私は普通の人間ですし。感覚そのものが麻痺してしまいます」

 香織は本音をポロリと漏らした。

「香織、米野屋の跡継ぎとして、そんな甘えたことを言っているようではいけません。お父様をごらんなさい。小さいときから四十年以上もずっと甘いアンコや和菓子を毎日食べ続けているのですよ。一ヶ月ヨーロッパでお菓子を毎日食べ続けたぐらいで弱音をあげているようでは将来が思いやられます。もっとしっかりなさい。香織」

 千景はぴしゃりと厳しい言葉を香織にぶつけた。

「お父様もお母様も、そこまで言わなくてもいいじゃないですか。これではお姉ちゃんが可哀そうだって。お菓子のことぐらいでケンカするのはやめてください」

 青い着物姿の妹・舞が心配そうに両親と香織を交互に見ながら仲介に入った。

「お菓子のことぐらいとは何ですか。ここは歴史ある米野屋ですよ。お菓子のおかげでここまでの大きなお店になったのです。あなたたち姉妹もいままでいい思いをしてきたのも米野屋の伝統ある和菓子のおかげなんですよ。もっとお菓子に対して真剣に向き合いなさい」

 千景は姉妹に向かって一段と大きな声をあげた。しばらく和室には沈黙の時間が流れ不穏な空気が満ちていった。

 ここで香織が大きく息を吐くと今度は意を決したかのように口を開いた。

「もう私も成人だし、自分のやりたいことをやらせて欲しいの」

 香織がずっと胸の奥にため込んでいたものをぶちまけるかのように話し始めた。

「だいたいお父様もお母様も、あれをしなさい、これはこうしなさいとか、小さい時からそんなことばっかり。私も舞も、お父様とお母様の言うことにはどんなことでも文句を言わずに従ってきました。でも私はお父様とお母様のオモチャじゃないんです。勝手に決められたお嬢様ばかりの学校に中学、高校、それに大学まで行かされて。おまけにクラブ活動はするな。授業が終わったらすぐ帰ってこいと言われ、家に帰れば、米野屋の店番や厨房のお手伝い。これも嫌というほどやってきました。でも、私はもうすぐ大学を卒業するんです。だから、もうこれからは私の好きなことをやらせてもらいます」

 香織は自分の前にある畳を両手でバンと叩いて、今までの不満を一気に吐露した。虎之介も千景もこんな強い口調で話す香織の姿は初めてで、あまりの驚きでしばらく言葉を失っていた。

「だったら、香織は何がしたいの。ハッキリ言ってごらんなさい」

 千景も売り言葉に買い言葉で香織に詰めよった。

「ええ、今日は言わせてもらいます。お金を出してもらって行ったヨーロッパの視察旅行で毎日お菓子をイヤというほど食べ続け最後にパリに行きました。そこでクロワッサンを食べたのですが最高に美味しかったです。味も香りも食感もこれまで口にしたものの中で一番美味しくて感激しました。そしてこんな美味しいクロワッサンを自分の手で作ってみたいと思ったんです」

 香織は虎之介と千景をじっと睨みつつ勢いよく立ち上がった。

「これから私はパン職人になります。美味しいパンを作りたいんです」

 香織は真顔で千景にむかって力強く言い放った。

「私はこの手で美味しいクロワッサンを焼いてみたい。美味しいパンを作りたい。明日から私、米野香織は本当にやりたいことをやらせてもらいます」

 香織は怒りに震えつつ、その場で両手の拳を握り締めていた。

「どうして和菓子屋の娘がパン屋さんになるのよ。香織は簡単に言うけれど、パン屋は朝が早いし厳しいですよ。すぐに弱音をあげて辞めることになるわよ」

 千景は香織に対して反論した。

「誰がどんな仕事を選んだって自由だと思うの。もうお父様とお母様の言いなりにはなりません」

 香織は小さく震えながらも、両目から熱い涙を流していた。

 千景はショックを受けつつ必死で言葉を探していた。

「あなたは、そこまでしてパン職人になりたいのね」

「はい」

 香織は千景の顔を睨むような眼差しで言葉を返した。

「クロワッサンを焼きたいのね」  

「はい、そうです」

 涙と鼻水で香織の顔は化粧もほどんど落ちてしまっていたが、決意のこもった目で母・千景を見つめたまま視線をそらそうとはしなかった。

 千景も香織から目を放さず、じっと何かを考えていた。

「わかりました。そんなにパン職人になりたいのなら勝手になさい。クロワッサンを焼きたいのなら好きなだけ焼けばいいわ」

 千景の怒りは誰も停めることは出来なかった。

「その代わり、条件があるわ。家を出て行けとまでは言わないけれど、今日からご飯は自分でなんとかしなさい。お風呂も家で入ったらダメ。銭湯にでもいきなさい。この家で寝ることだけ許します。それ以外はすべて自分でなんとかしなさい。いいわね」

「わかりました。それでパン職人になることを認めてくれるというのならばその通りにします」

「もう一つ大事な条件があるわ」

「何ですか」

「そこまで美味しいクロワッサンが作りたいというのなら、世界一になりなさい。タイムリミットは五年。必ず世界一のクロワッサンを五年以内に作ってみなさい。それができたら、その時、初めてあなたをパン職人として認めるから」

 香織は一瞬、たじろいだが、もう逃げたくなかった。

「わかりました。クロワッサンで世界一でしょ。やりますよ。世界一のパン職人になってみせますよ」

「じゃあ、約束よ。言ったからにはやってもらいますからね」

 千景は思いもしなかった香織の発言から混乱してしまい、物事を冷静に考えることができなくなっていた。

「もし五年以内に世界一が取れなかったら、米野屋を継いで和菓子を作りなさい。それが私からの条件。いいわね」

「わかりました」

 すると、千景は視線を静かに横に動かした。

「舞、ちょっとこちらに来なさい」

「はい。何か御用ですか」

 不安な顔をした舞が千景に近づいていった。

「舞、あなたが今日から、米野屋を継ぐのよ。わかったわね」

 千景は恐ろしい形相で舞に告げた。

「どうして。お姉ちゃんがやらないから私なの。私にも夢があるのに」

 舞が涙目になって千景に訴えた。

「でも誰かが継ぐしかないでしょ。米野屋を。香織があんなことを言い出したのだから舞がやるしかないじゃない」

 千景が諭すように静かに話す。

「それは、とばっちりだよ。もう、お姉ちゃん、私の夢までどうしてくれるのよ。私は子どものころから、ネズミランドのダンサーになることが夢だったのに」

 舞が涙ながらに叫び出した。

「舞、本当にごめん。お姉ちゃんの美味しいクロワッサンをいつか食べさせてあげるから許して」

 香織は目を伏せながら舞に向かって静かに言った。

「イヤだよ。どうして私が和菓子屋さんを継がないといけないのよ」

 納得できない舞は千景と香織を交互に見ながら、いつまでも不満を叫び続けていた。

 米野家の女性三人の言い争いを腕組みしながら黙って聞いていた虎之介は遠い目をしたかと思うと、何かに耐えるようにじっと目を閉じた。

 日頃はもの静かな米野家であったが、この日ばかりは女性三人がそれぞれの主張を繰り返し、深夜まで静かになることはなかった。


 米野家の跡継ぎ騒動からすでに一週間が経過しようとしていた。

 あの騒動の中心人物・香織はうつろな目をしながら自宅近くの道をまるで酔っ払いが歩いているかのように右へ左へとフラフラしていた。そして消え入りそうな声で何かをつぶやいていた。

「お腹は空くし、いいパン屋さんは見つからないし、もうどうすればいいの」

 もう辺りは薄暗くなっていた。母親と揉めてからというもの、香織はまともな食事をしていなかった。特に貯金もしていなかったので、所持金は自分の財布の中に入っていた数万円のみ。母親から自宅で寝ること以外はすべて自分でしなさいと言われてしまったため、まず出費を抑えようと食事を切り詰めていた。この一週間、香織は黄色い箱の栄養補助食品を一日一個ずつしか食べていなかった。

 香織は両親との話し合いの後、自分の夢を実現させるため、パン屋で働くために名古屋市内の店を尋ね歩いた。だが、どこも香織のイメージしていたパン屋とはほど遠かった。名古屋市内には大きなパン工場がいくつもあるのだが、仕事のほとんどは機械が行っていた。人間がする仕事は機械の操作ばかり。パンを捏ねて焼くという作業はほとんど機械が行い、香織の目指すものとは全く違っていた。一方、町中にあるパン屋は小規模の店舗が多く従業員は数人といったお店ばかり。どこも新たな採用予定がなかった。香織は自分の手でパンを作るという理想の職場が見つからないまま時間だけが経過していて困り果てていた。電車代も節約するため、名古屋市内を自らの足で歩き回り、採用してくれそうなパン屋をひたすら探す日々が続いていた。

「どうしよう。お腹はペコペコなのに、肝心なパン屋が見つからない」

 香織は意識朦朧となり、フラフラとさまようように歩いていた。そして自宅までもう少しというところで、路上にバタリと倒れ込んでしまった。彼女には自分で起き上がる力も残されていなかった。   


 それから、どれくらい時間が経ったのだろう。香織がぼんやりと意識を戻し、ゆっくり目を開けると、白い服を着た二人の美しい女性が上からのぞき込みながら香織を心配そうに見つめていた。

「よかった。気がついたみたいね」

 一人の女性が歓声をあげると、もう一人の女性は無言でニッコリと微笑み、二人で手を取り合って喜んでいた。意識が戻った香織は今の状態がまったく理解できなかった。

「もしかして私、死んじゃったの。念のために訊きますけど、あなたたちはまさか天使じゃないですよね?」

 香織は恐る恐る尋ねた。

 白い服を着た女性二人は見つめ合って、フフフと笑った。

「私たちの背中には天使の羽根なんか生えていませんよ。残念でした」

 髪の長い女性が微笑みながら小首を傾けた。

 状況が理解できていない香織は目の前にいる二人の女性を頭の上から爪先までジロジロと何度も見返した。

「どうやら看護師さんでもないみたいだし」

 香織はどこに来てしまったのかもわからず、これから何が起きるのだろうか、と極度の不安に襲われ、ぼんやりとした頭のまま妄想を繰り返していた。まさかこれから手術台に運ばれ勝手に臓器を売り飛ばされてしまうのか、それとも謎の新薬の実験台にされてしまうのか。とにかくネガティブなことしか思い浮かばなかった。だが、目の前にいる二人の女性を見る限りそんなことをするような悪人にはとても見えなかった。どう見ても二人とも親切で優しそうな女性なのである。二人は同じデザインの白いコックコートに白いキャップを被っていた。

「ウチはパン屋ですよ。スターライトベーカリーというお店です。もう暗くなってきたから、お店を閉めようとした時に、お店の前をあなたがよろよろ歩いていたから心配でずっと見ていたの。そうしたら、そのまま倒れちゃったからビックリして慌ててみんなでお店の事務所に運んだのよ。いま、あなたはウチの事務所のソファーで眠っていたんだけど、全然覚えていないの?」

 さきほどの髪の長い女性が親切に教えてくれた。

「私、まったく覚えていないんです。家の近くまで戻ってきたのは、なんとなく思い出せるのですが、それからはまったく」

「そうなのね」

 髪の長い女性は微笑みながら頷いていた。

「ということは、ご近所さんだったのね。お名前は」

「米野香織といいます」

「米野って。もしかして和菓子で有名なあの米野屋さんの人?」

「ええ、そうです」

「昔、ウチのおばあちゃんが米野屋さんのお菓子が大好きだったの。どら焼きも羊羹も」

「ありがとうございます」 

 こんな場面で実家の名前を聞き香織は困惑したが、そこまで褒めてもらえると米野屋の和菓子も地元の人に愛されていたことがわかり、悪い気はしなかった。

 すると、ギュルギュル、という香織のお腹が恐ろしいほどの大きな音で鳴った、

「米野さん、お腹すいているの?」

「ええ、何日もほとんど食べてなくて」

「まあ、無理なダイエットでもしていたのかな?」

「いや、そんないいものじゃないです」

「それとも、恋人とひどい別れ方をしたとか?」

「そんなロマンチックなことでもないです」

「とにかくお腹が空いているんでしょ。ウチのパンでよければ食べる?」

「本当ですか。食べます。何でも食べます」

 それを聞くと、隣にいたもう一人のショートヘアの女性が店の奥から山のように食パンやサンドイッチ、菓子パンを笑顔で運んできた。

「ありがとうございます。こんなにたくさん、いいんですか?」

「ウチも毎日、パンが売れ残って困ってるの。最後は廃棄物で出すだけだから。食べてもらえると助かるわ。食品ロスも問題になっているでしょ」

 香織は出されたパンを無我夢中で食べ始めた。

「こんなに美味しそうに食べてもらえると私たちも嬉しいわ」

 パンを運んできた女性は香織の姿を見てクスクスと笑いながら奥へ入っていった。

「いままでこんなに美味しいパンを食べたことないですよ」

「ありがとう。お腹が空いているからじゃない?」

「そんなことないですよ。香りもいいし、ふわふわだし。作る人が上手いんですね」

「そう言ってもらえると私たちも作り甲斐があるわ。慌てなくていいから、たくさん食べてね。はい、カフェオレもどうぞ」

 奥に行った女性が大きなマグカップに入ったカフェオレを持ってきて香織に手渡した。香織は胸を叩きながらカフェオレの入ったマグカップを受け取った。

「何から何まですいません。至れり尽くせり、ありがとうございます。もう涙が出そうです。まるでお二人は神様か、仏様か、それともマリア様みたいです」

「そんないいもんじゃないですよ」

 髪の長い女性は首を傾けながら、にっこりと微笑んだ。その後も香織はパンをしばらく食べ続けた。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

「この食パンは特に美味しいですね」

 香織は口いっぱいに頬張りつつ、まじまじと食パンを眺めていた。

「ウチのお店は『スターライトベーカリー』っていうの。聞いたことないかしら。この店で一番人気の食パンなの。ちょっとだけ値段が高いんだけど評判はすごくいいのよ」

「そうなんですね。家ではパンをほとんど食べないので、本当に美味しいです」

「パンはあまり好きじゃなかったかな?」

「そうじゃないんですよ。母親の教育方針が独特なんです。和菓子にお世話になっているのだから、日本人の魂であるご飯を食べなさいって。いつも口癖のように言うんです。母が言うこともわかるんですけどね。だけど、どんなことにも極端なんですよ」

 香織は食パンを味わいながら困った顔をした。

「母の体調が悪いときとか、旅行で家にいないときに妹と二人でコンビニに走っていって美味しそうな菓子パンを何個か買って食べていました。そんな時にしかパンが食べることができなくて」

「そうなのね」

 髪の長い女性は頷きつつ、やさしい眼差しで香織をみつめていた。

「あなたの名前は『コメノカオリ』なのね。まるで新しいお米のブランド名みたいね」

「そうなんですよ。妹も舞っていう名前で。『コメノカオリ』と『コメノマイ』だから、新しいブランド米みたいな名前だって小学校のころから言われ続けてきました」

「フフフ、そうなんだ」

 髪の長い女性は微笑んでいた。もう一人のもの静かな女性も香織の話を聞いて小さく頷いていた。

「それで、米野さん、何かあったの?倒れるほど食べていないなんて」

 髪の長い女性が香織に心配そうな顔で訊いた。

「実はですね」

 香織は家の中のことを他人の前でべらべらと話すこともどうかと一瞬口をつぐんだが、この二人の女性ならきっと親身になって聞いてくれそうな気がしたので思い切って話してみることにした。

「少し前に米野屋を継ぐかどうかで両親と揉めてしまって。私、パリへ卒業旅行に行ったとき、ものすごく美味しいクロワッサンを食べたんです。もうそれが感動的な味で。それでパン職人になりたいって決意したんです。そのことを両親に言ったら、母が怒ってしまって。家で寝ること以外は食事も含めて自分でしなさいって突き放されてしまったんです」

 香織は苦しい現在の状況を打ち明けた。

「そうなのね」

「最終的には家を追い出されることはなかったんですけど、ほぼ勘当みたいな感じで。だったら、パン屋さんで修行しながら働けば、なんとかなるだろうと考えたんです。でも想像していたようなパン屋さんがなかなか見つからなくて」

 すると、目の前の女性二人は顔を見合わせ嬉しそうな顔をした。

「もしよかったら、米野さん。ウチの店で働きませんか」

 髪の長い女性は、にっこりと笑いながら香織を誘った。

「そんな。まるで求人誌の見出しみたいなセリフ。ホントですか。ぜひ、お願いします」

 香織は目を大きく見開いて立ち上がった。

「ちょうど働いていた人が先日辞めちゃったの。これからどうしようかって困っていたところなのよ」

「ぜひ、お願いします。どんなことでもします」

「それに、あなたがソファーで眠っているとき、寝顔を見ながら『このかわいい人がウチで働いてくれたらいいよね』って二人で話をしていたの」

 もう一人の女性も香織を見つめながら微笑んでいた。

「いいんですか。本当に。パンまで食べさせていただいて、おまけにここで働かせてもらえるなんて夢みたいです。イテっ。やっぱり痛い。では明日からでも早速お願いします」

 香織は自分で頬をつねってみせ、小躍りしながら喜びをあらわしていた。

「じゃあ、米野さんよろしくね。私が姉の星野杏子です。この店の店長をしています。それで、隣にいるのが妹の久留美。副店長です」

 姉の杏子は長い黒髪が特徴的で利発そうな顔つきをしていた。その横にはショートヘアで物静かな久留美が立っていてちょこんと頭を下げた。

「米野さん。少し疲れているみたいだから、明日は一日ゆっくり休んで、明後日からお店に来てくれればいいわ。パンもみんな持って帰っていいわよ。売れ残りで申し訳ないけど」

「いえいえ、本当に美味しいパンです。明日一日かけて全部食べます」

 香織と美人姉妹は大きな声で笑い合った。

「今日はお世話になりました。これからよろしくお願いします」

 香織は星野姉妹にあいさつしソファーから立ち上がろうとした。だが、疲れがまだ残っていたのか香織はまっすぐ立ち上がることができず、ぐらりと大きくよろめいてしまった。

「米野さん、大丈夫?」

 杏子が心配して香織に寄り添った。

「米野さん、まだかなり疲れが残っているようね」

「寝かせていただいたし、パンもたくさん食べさせてもらったので元気になったつもりだったんですけど」

 香織が申し訳なさそうに返事をすると俯いてしまった。

 それを見た杏子と久留美が目と目で何かやりとりをした。

「今夜はもう遅いし、無理に家まで歩いていって途中でまた倒れてもいけないから、よかったらこのままソファーで寝て明日の朝、帰ってもいいわよ」

 杏子が香織の両肩に手をかけた。

「それに今夜は私たちがずっとそばにいるから安心してね」

 久留美もやさしく微笑みながら香織に話しかけた。

「本当にいいんですか」

 香織の目には二人がコックコートを着た天使のように映った。

「もちろんよ。米野さんはうちの大事な新入社員さんなんだしね」

 杏子はいたずらっぽく香織に向かって小さくウインクした。

「じゃあ、お言葉に甘えて今夜一晩だけ泊まらせていただきます」

 その日、香織は星野姉妹のやさしさと小麦の香りにつつまれながら眠りについた。


 香織は、翌日の早朝、スターライトベーカリーを出て家に帰った。手には売れ残りのパンが入った大きなビニール袋を大事そうに持っていた。そろりそろりと音をたてないように階段を上がっていくと誰かが香織の部屋の前に腕組みをして立っていた。それは鬼のような顔をした妹の舞だった。

「おはようございます」

 香織は舞にむかって少しおどけた調子でお辞儀をした。

「お姉ちゃん、ご機嫌ですね。昨夜はいったい、どこに行ってたのよ」

 舞はまさに怒り心頭といった様子で香織の部屋の前から動こうとはしなかった。

「ちょっと、どいてよ。お姉さまのお帰りですよ」

 香織は少しふざけた言い回しで舞をかわし自分の部屋に入ろうとした。

「お姉ちゃん。昨日の夜、どこにいたのかって、訊いているでしょ」

 舞の気持ちは収まらない。

「ねえ、なんか言ったらどうなのよ」

「どこでもいいでしょ。もう寝るんだから」

「私の質問に答えなさいよ。男の人の家にでも行ってたんじゃないの。どうせ食べるものもないし、お風呂も入れないから、私どうしたらいいの、とかいって、そこらにいた男の人を居酒屋かどこかでつかまえて、その人の家にでも転がりこんだんじゃないの?」

「あんたね。言っていいことと、悪いことがあるわよ。私がそんなことすると思うの。失礼ね。いくら困っているからって、男の人に助けてもらおうなんて、これっぽっちも考えませんよ」

 香織は妹にとんでもない方向に誤解され、顔を真っ赤にして反論した。

「これから働くパン屋さんを見つけて、そこの店長さん姉妹とお話しをしてたの。その打ち合わせで夜遅くなったからお店にそのまま泊まらせてもらった。ただそれだけよ」

 昨夜の出来事を自分の思っていた以上に上手くまとめて説明できたことに香織は少し驚きつつも、自分の正当性をあくまでも強調した。

「それで、サンタクロースみたいなビニール袋の中身は全部パンだっていうの?」

「そう。正解。さすが舞ちゃんは昔から勘が鋭いわよね。その店長さんが売れ残りのパンを全部食べていいからって貰ってきたのよ」

「ふーん。そうなんだ」

「あんたね、お姉ちゃんの言うことを少しは信じなさいよ。このカレーパンあげるから。美味しいよ」

「要らないって」

「あら。メロンパンの方がよかった?」

「そういうことじゃなくて。お父様もお母様もずっと心配して、夜中もずっと廊下をウロウロしていたんだから。もしかしてお姉ちゃんが家出でもしたんじゃないかって」

「ふーん。あんな親でも心配してくれたんだ」

 そう言いつつも、香織は親の愛情をじんわりと感じていた。

「とりあえず、お父様とお母様にはそうやって話しておくわ」

 舞も朝帰りの理由を聞いてほっとしていた。

「そういえば、お姉ちゃん。来週から米野屋に新人さんが入るんだって」

「私にはもう関係のないことだし」

「お姉ちゃんの小学校の同級生らしいよ」

「へえ。誰だろう。もしかしたら由美ちゃんかな」

「違うよ。男の人。和菓子職人目指すんだって。面接したお母様は、結構イケメンだって言ってたよ。名前はね。何だったかな。たしかね、田端さんだって」

「ふーん、田端君か」

 香織はその名前を聞いて目が少し泳いでいた。

「そういえば、お姉ちゃん、田端君がカッコいいって昔ずっと言っていたよね。私、覚えてるよ。確かお姉ちゃん、小学6年生の時にバレンタインデーにチョコを渡すんだっていってすごく綺麗なラッピングをして学校に持っていったよね。学校の帰りに田端さんに渡そうとしたら、別の女の子がチョコを渡しているところを見てしまってそのまま渡せずに帰ってきて落ち込んでいたよね。あの後、チョコはどうしたの?」

 舞は妙に記憶力がよく、いつも香織の一番痛いところをついてきた。

「そんなこともあったかな。へへへ。小学校の時の話でしょ。もうそんな昔のことは忘れましたよ。私はいつまでもそんな過去のことなんか引きずっていません。私はこれから世界一を目指すんだから。次、次と考えないとね。相手は世界なのよ。わかるかな。舞ちゃんにこの気持ちが」

 香織はフンっと、斜め上をみつめた。

「でもね、田端さん、アイドルみたいにカッコいいらしいよ。私、好きになっちゃったらどうしようかな。もうお姉ちゃんは関係ないんだよね。だったら、私が田端さんと一緒になって米野屋を継ぐのも悪くないよね。ねえ、お姉ちゃん、どうしたの?」

 香織の様子が急に落ち着かなくなり、パンの入った袋を胸に抱きしめて部屋に入ろうとした。

「私、少し寝るから」

 香織は自分の部屋に入りドアをバタンと勢いよく閉めた。さっきまでの元気はどこかへいってしまった香織はベッドに潜り込むと頭から布団をかぶってしまった。

「ねえ、お姉ちゃん、どうしたのよ」

 部屋の外ではドンドンと扉を叩く舞の声が響いていた。

 香織は小学生のとき、田端のことが大好きだった。いわゆる初恋の人だった。田端は成績がいいわけでもなく、足が特別速いというわけでもなかったが、優しくてユーモアがありいつもニコニコしていた。そんな田端のことを少し離れたところから見ていて、香織はずっとあこがれていた。そして小学6年生の時、バレンタインデーに決死の覚悟でチョコを渡そうとしたのだが、結局、渡せないまま帰ってきた。実はその箱は香織の机の引き出しの奥にずっと大切に残してあった。

 香織は、布団を頭からかぶったまま、あれこれと思いを巡らせていた。大人しく米野屋にいれば田端と再会できたかもしれない、と考えると割り切れなくて、心が引き裂かれそうだった。

 香織はそのまま布団の中で眠ってしまったが、枕は涙で濡れていた。

 田端のことを思うと心の中が揺れ動くけれども、もらったパンをかじると明日からパン職人として歩き出す自分にほんの少しだけ力が湧いてきた。

 少し眠ったあと、香織は自分自身の体臭が気になった。数日間、お風呂に入っていなかったのだ。パン屋さんに勤めるのだから清潔にしなくてはと思い、銭湯にいくことにした。数日前、隣町にある銭湯のことを舞に教えてもらっていた。その銭湯に向かいながら洗面器や石鹸、シャンプーを買いそろえた。お嬢様育ちの香織にとって生まれて初めての銭湯だった。ドラマや映画で銭湯のシーンは見たことはあったが、他人と一緒に大きなお風呂に入ることは、香織は生まれてから一度も経験がなかった。だがそれはそれで一つの冒険のような気がしてウキウキしていた。

 最近では珍しくなった大きな煙突が見えてきた。古い建物の看板には「松の湯」と大きく書かれていた。

「これが銭湯か」

 ドキドキしながら香織はガラリと扉を開けて中に入っていった。お金を払って脱衣所へいくと独特の湯気の香りがした。何人かの常連客らしき人たちが楽しそうにおしゃべりしていたり、ワイン色のマッサージチェアに座ってくつろいでいる人がいる。これまで香織が体験したことのない世界がひろがっていた。

 しばらく香織がキョロキョロとしていると後ろからポンと肩をたたかれた。

「お姉ちゃん。銭湯は初めてかい。まず適当なロッカーをさがして、自分の荷物を置く。そしたらパパパっと服を脱ぐんだよ」

 ネズミ色の服を着た威勢のいいおばあさんが銭湯での振る舞い方を教えてくれた。そのお婆さんは白髪で前歯がほとんどなかった。

「しょうがないね。それじゃ、あんたここのロッカーを使いなさいよ。荷物を置いてさ」

 そのお婆さんがテキパキと指示してくれた。香織は訳もわからずに服を脱ぎタオル一枚の姿になった。

「やっぱり若い娘はいいね。肌がきれいでピチピチしていて。昔の私、そっくりだよ。ハハハ」

 何が可笑しいのか、よくわからなかったが、香織は愛想笑いをしておいた。そもそも女性ばかりとはいえ他人の前で一糸まとわぬ姿になることが、なんとなく気恥ずかしかった。

「いいね。それじゃいくよ」

「は、はい」

 香織はただお婆さんについていくだけだった。壁に描かれた大きな富士山の絵が目に飛び込んできた。

「まず、マナーとして掛け湯をするんだよ。最近はこれもしないで湯船にポンと入ろうとする若い子が多くてね。そうそう。じゃ、湯舟に入るよ」

「は、はい」

 香織はかけ湯をすると、大きな湯船のところに早足で向かった。

「お湯はちょっとだけ熱いけど、すぐに慣れるから」

 サッとおばあちゃんは湯船に入っていった。

 香織がもじもじしていると

「お姉ちゃん、みんなの邪魔になるからさ、サッサと入りなさいよ」

「は、い」

 思い切って入ると予想以上にお湯は熱かった。顔をしかめながらゆっくりとお湯の中にしゃがんでいった。

「アチッ」

 香織は執事の畑山を叱りつけようと思ったが、そもそも女湯でもあるし、もう以前のような付き人も香織のそばにはいるはずもなかった。

「大丈夫、大丈夫。すぐ慣れるよ」

 香織はしばらくじっとしていたら慣れてきて徐々に気持ちよくなっていた。

「どうよ。いいだろ、銭湯って。あ、それからタオルは絶対に湯船に入れちゃだめだよ。たたんで頭の上に乗っけるとかね」

「なるほど」

 少し頬がピンク色になった香織はだんだんとリラックスしていった。

「それで、お姉ちゃんは、見ない顔だね。名前は?」

「香織です」

「わたしはウメ。よろしくね。それで、どうしてこの銭湯に来たのさ。家のお風呂でも壊れたのかい?」

 ウメさんは顔を両手でゴシゴシと洗いながら訊いてきた。

「いや、その。家でいろいろとあって」

 香織は言葉を濁して答えた。

「どうせ親とケンカでもしたんだろ。びっくりしなくてもいいよ。アンタの顔にそう書いてあるよ。ま、せっかくだからさ、今のうちにいろんなこと経験しておくんだよ。苦労するかもしれないけど、ただのお嬢様だったら弱い女になっちまうからね。男に振り回されるだけの人生で最後に泣くのは自分だからさ。若い今のうちにさ、さんざん苦労して汗と涙を流して強くなるんだよ」

「はい。そうなんですね」

「そもそも、私が男で失敗して泣いてるんだからさ。人様に偉そうにいえる身分じゃないけどね。でもネ、経験者の話はちゃんと聞いておくもんだよ。あとになればわかるよ。きっと。ハハハ」

 ウメさんの大きな声が銭湯全体に響き渡っていた。

 その日はユズ湯の日だった。大きな湯船には黄色いユズがぷかぷかと気持ちよさそうに浮かんでいた。

「銭湯はこういうのもいいんだよ。今日はユズ湯だけど、ショウブ湯のときもあるし、ヨモギ湯やらサクラ湯、ミカン湯なんてのもある。家のお風呂じゃ、こんな粋なことはサ、なかなか出来ないんだよね」

 そういいながら、ウメさんは浮かんでいた大きなユズを手に取った。

「ほら、こうすればビタミンまで取れるしね」

 ウメさんはそのユズをムシャムシャと食べ始めた。

 さすがにこれは見習わなくてもいいと香織は確信した。その後、洗い場では隣に泡を飛ばさないとか、お湯を他人様に掛けないとか、あれこれと教えてくれた。

 帰るころには香織は顔も真っ赤になりのぼせそうになっていた。

「お姉ちゃん、倒れるといけないから今日はアタシがおごってやるよ。好きなものを選びな」

 そういうと、ウメさんは飲み物の入っているガラスのケースの前に立っていた。

 香織が迷っていると

「あたしゃ、いつもコーヒー牛乳なんだよ」

 ウメさんはうすい茶色のビンを一本取り出した。

「じゃあ、これを」

 香織は黄色とオレンジ色の中間のような色のビンを取り出した。ウメさんが巨大な針のようなものでビンのふたを手際よく取ってくれた。

「いただきます」

 香織がフルーツ牛乳を一口飲むとさわやかでやさしい果物の味が口の中いっぱいに広がった。

「お姉ちゃん、まだ若いんだから、がんばるんだよ」

「はい。ありがとうございます」

 香織は、ウメさんの話とフルーツ牛乳がいままでのイヤな出来事を綺麗に洗い流してくれたような気がした。


 まだ太陽が顔を見せる少し前。真っ暗な部屋の中に、けたたましい目覚まし時計の音が鳴り響いていた。

「ん。まだ四時だよ。誰よ、こんな時間に目覚まし時計をセットしたのは。あっ、起きなきゃ」

 今日から香織はスターライトベーカリーに出勤する。早起きに慣れていない香織はベッドの上でしばらく座ったままボンヤリとしていた。

「準備しないと遅刻しちゃう」

 香織は慌てて着替えながらお店でもらった食パンを囓っていた。

「このパンはやっぱり美味しい」

 香織は簡単に化粧を済ませて部屋を出ると、ちょうど妹の舞と鉢合わせした。

「あら、舞ちゃん。どうしたの、こんな朝早くに。今日はどこかにお出かけ?」

 香織は驚いて尋ねた。

「お姉ちゃん、寝ぼけたことを言ってたらダメだよ。米野屋も朝早いんだから。パン屋さんだけが早起きじゃないんだよ。小豆を煮たり、あれこれと準備に時間がかかるんだから」

「ふーん、そうなんだ」

「お姉ちゃんだけだよ。そんなのんびりしたこと言ってるの。食品業界はどこも朝は戦争みたいに忙しいの」

「そっか。まあ、お互いがんばろうね」

 二人は一緒に家を出た。米野屋の店舗は自宅を出るとすぐ南側の大通りに面した一等地にある。家から歩いて一、二分の場所だ。一方、香織の勤めるスターライトベーカリーは反対の北側に五分ほど歩いたところに店を構えていた。米野屋のある大通りほどではないが、比較的交通量の多い道路沿いだった。どちらも家からは近かったけれども、今日から米野姉妹はまったく別の道を歩んでいくことになる。

 香織が眠い目を擦りながら歩いていくと真っ暗な夜の街にポツンと光り輝く二つの流れ星の看板「スターライトベーカリー」が見えてきた。香織はその看板を見上げながら、先日のことを思い出していた。パン屋をさがし続けて倒れてしまった時、ここで星野姉妹に助けてもらった。香織にとって恩もあり、不思議な縁もある。そして、この店には何か強烈なパワーのようなものがあることを香織は実感していた。

「これから、よろしくね」

 香織は建物に向かって小さくお辞儀をすると店の中へと入っていった。

「今日からお世話になります。米野香織です。よろしくお願いします」

 香織は少し緊張しながら大きな声であいさつし、ペコリとお辞儀をした。ところが、店には誰の姿もなく、シーンと静まりかえっていた。

「あれ、今日休みだった?」

 しばらくすると、店の奥から声が聞こえてきた。

「米野さーん。ごめんなさいね、忙しくて。更衣室に米野さん用の新しいコックコートとキャップを用意してあるから着替えて厨房にきてくれますかー」

 声の主は店長の星野杏子だった。

「わかりました」

 香織はそう答えるとロッカールームに入り、着替えを済ませた。

「なかなか似合うじゃん。私。やっぱり世界一を狙う女は違うね」

 鏡に映った自分の姿を見ながら右を向いたり、左を向いたりとポーズをとっていた。

「よし。今日から世界への挑戦が始まるのだ。うむ」

 香織は自分の頬を両手でパンパンと軽く叩いて気合を入れると、勢いよく更衣室の扉を開けた。するとバンと鈍い音が響いた。

「痛ーい」

 扉の反対側に誰かが立っていた。

 恐る恐る扉を動かすと、香織と同年代の若い女性がおでこを押さえて立っていた。

「あ、ゴメンナサイ」

 香織はすぐに謝ると、相手の女性は痛そうな表情をしつつ、小さく頷いていた。

「う、うん、いいよ。ダイジョウブ、ダイジョウブ」

 その女性はチラリと香織の顔を見た。

「あなたが新人さんね。私、持田。持田亜美。よろしくね」

 亜美はおでこを摩りながら無理やり笑顔をつくってあいさつをした。

「ホントにゴメンナサイ。私、米野香織です。よろしくお願いします」

「忘れ物を取りにきただけなんだけどね。そういえば店長から少し聞いたけど、私たち同い年なんだって。何か楽しくなりそうだね」

 亜美は嬉しそうに香織に声をかけた。

「じゃあ、一緒に厨房に行こうか」

 前を歩く亜美の後ろで香織は頭を掻きながら厨房へ入っていった。

 厨房は、さほど広くはなかったが、星野姉妹と男性二人が動き回っていた。

「とにかくパン屋はさ、朝が一番忙しいんだ。どうしてもパンが焼き上がるまでに時間がかかるからね。捏ねて、発酵させて、焼いて、店に並べて。手間がかかるんだよね。ひたすらその繰り返し。でも楽しいよ。あたしはパンが焼き上がったときの香りが好きなんだ」

 亜美もパンが大好きなようだった。

「そうですね。パンの焼き上がるときの香りは私も大好きです」

 香織は厨房で作業する人たちの姿を見ながらやる気がジワジワと沸き上がっていた。

「おーい。そこのお嬢さんたち、仕事、仕事。どんどん運んでくれよ」

「はーい」

 亜美が大きな声で返事をした。

「あのおじさんが半田さんよ。ウチの厨房をすべて取り仕切っているんだ。見た目はちょっと怖そうだけどね。でも腕は確かだよ」

 白髪で細身の年輩の男性が焼き上がったパンの状態を見ながら次々と指示を出していた。

「今、忙しいから、また後でゆっくり話そうね」

 そういって亜美は自分の持ち場へと向かっていった。

 香織が数分間、厨房の中にいただけだったが、誰もじっとしている人はなく、右へ左へと動きまわっていた。

「米野さん。今日はみんながどんな仕事をしているのかを見てるだけでいいから。一人一人の動きを覚えてね」

 店長の星野杏子が香織の近くに来て声をかけた。

「はい。わかりました」

 香織は厨房の隅でじっとパン職人たちの動きを見つめていたが、ぼんやり立っているのが申し訳なくなってきた。そこで香織は目の前に置いてあった鉄板を片付けようと手袋をしないまま手をのばした。

「アチッ」

 すぐに手を引っ込めて口元に指をはこんだ。やはりおっちょこちょいである。

「米野さん、鉄板は熱いから絶対に素手でさわったらダメだよ。ヤケドしちゃうから。すぐ水で冷やしたほうがいいよ」

 亜美がパンを運びながら香織に声をかけた。香織は蛇口のところへ行き、慌てて指先を水で冷やし、ふうっ、と小さく息を吐いた。パン屋の厨房では鉄板を頻繁に出し入れするため、ヤケドをすることが多い。半田の腕をみるとヤケドの痕が無数にあった。

 スターライトベーカリーの開店は朝九時。それまでにパンを焼き上げて店に並べなければならない。毎日来店する客もいるので、その人たちをがっかりさせることはできないし、スターライトベーカリーとしてもパンを決まった時間に焼き続けることで信頼を得ていた。

 この店の一番人気はなんと言っても食パン。香りが良くやわらかくてふんわりとしている。きめ細やかな生地は口当たりもいい。他の店よりも少しだけ値段は高いが、自慢のパンだった。ほとんどの客がまず食パンを手に取り、それから、クリームパン、カレーパン、メロンパンといった他の人気商品を買っていく。この店は、他の店よりも品数も多いため毎朝戦争のような忙しさだった。すべてのパンを焼きながら開店時間までにパンを店頭に並べる。この時間管理も重要ポイントだった。

 香織は早朝からテキパキと動きまわるパン職人たちの姿を見ていて、自分につとまるのだろうかと大きな不安に襲われはじめていた。誰もおしゃべりをしている人はなく、黙々と動き続けていた。

 あっという間に開店五分前になり、店頭には焼きたてのパンが整然と並び、店長の姉・星野杏子と副店長の妹・久留美がレジの横で接客の準備をしていた。

 朝九時に開店すると外で待ち構えていた常連客が次々と入ってきた。ほぼ全員が食パンの棚に向かい、それから他のパンをさがし始めていた。

 そんな店内の様子を厨房からガラス越しに香織はじっと見ていた。

「焼きたてのパンをこんなに多くのお客様が買いに来てくれるとやりがいがありますね」

 香織は嬉しそうにつぶやいた。

「毎朝この様子を見ると、どれだけ忙しくてもがんばろうと思えるんだ。この光景をしっかりと目に焼き付けておくんだな」

 香織と亜美の後ろに立っていた半田が二人に向かって静かに語った。

 その時、厨房では一人の若い男性のパン職人が黙々と次のパンを焼く準備をしていた。

「今作業している男の子が、塩村くんね。私たちより少し年下だけど真面目に働くんだよ」

 亜美が紹介すると、塩村が香織に向かってちょこんとお辞儀をした。

 まだほんの数時間しか店の様子を見学していない香織だったが、このスターライトベーカリーという店でどんなことが起きるのだろうかと何ともいえない期待と希望で胸がいっぱいになり、うっすらと目に涙まで浮かべていた。


 店内の様子を見ながら香織と亜美が小声でおしゃべりをしていると二人の背後から半田の大きな声が聞こえてきた。

「おーい、お嬢さんたち。店も開店したから休憩にいっていいぞ」

 香織と亜美は顔を見合わせて

「はーい、休憩いただきまーす」

 二人は弾んだ声で返事をして奥の扉から小走りで店の外に出た。

 焼き上がったパンを一つずつ持って裏口の外に置いてあるイスに並んで腰を下した。

「お店のパンを食べてもいいんですね」

 香織が嬉しそうにパンを口に運ぶ。

「どんな焼き上がりなのかは、やっぱり食べてみないとわからないからね。味見も兼ねているんだけど。今日はいつもどおりに焼けてるみたいだよ」

 亜美が説明しながらパンにかぶりつく。

「やっぱり焼きたては最高に美味しいですね」

 香織は、はち切れんばかりの笑顔をみせた。

「半田さんの焼くパンは日本一だよね」

 パンをかみしめながら亜実も小さく頷いている。

「亜美さんは、もうこのお店で働いて長いんですか」

「いや。やっと一ヶ月かな。だからほぼ新人さんだよ。香織ちゃんと一緒。私のことは、亜美とか亜美ちゃんと呼んでね」

「はい。でも一ヶ月なのにすごく慣れてますね」

「いやいや。まだわかんないことばっかり。もともと名古屋の出身でもないから、街のことも全然知らなくて」

「どこから引っ越してきたんですか」

「もともと東京生まれなんだけど。いろいろあってね。名古屋メシもまだあんまり食べてないんだよね」

 亜美はキャップを取ると金色でボーイッシュな髪型をしていた。両手で髪を少しかき上げたが、その何気ない亜実の仕草がどことなく都会の人を感じさせた。

「でも、亜美さんって、どこかで見たことあるような気がするんですよ。なんとなく」

「やっぱり。そう思うよね。それじゃあ、クイズです。持田という名前でピンとくる人物は誰でしょう?」

「えっ。持田で。すぐイメージするのは、女優で歌手の持田麗子さんとか」

「ハイ。正解。持田麗子は、アタシのママ。私は持田麗子の娘・持田亜美です」

「ホントですか」

 香織は驚きのあまりすっと立ち上がった。

「びっくりすることないって。別に普通の女の子なんだから」

 亜美は香織を見上げながら笑っている。

「子役のときによくテレビに出ていましたよね。家で、亜美ちゃんと私、同じ年なんだって話していました」

「CMの『もちもちアイス美味しいよ』って覚えてる?」

「あっ、それそれ。やっぱり亜美ちゃんだ。私、そのCM見てから大好きになりました」

「アタシって『もちもちアイス』の亜美ちゃんだって言われるか、持田麗子の娘さんって言われるんだよね」

「もうテレビには出ないんですか?」

「それ、何百回も言われた。自分の親なんだけど持田麗子って何十年も前から大スターでしょ。もともとアイドル歌手でデビューして、それから女優になって」

 亜美は俯きながら話しを続けた。

「だから、小さいころからよくテレビ局の人や雑誌の記者が家に来ていたの」

「テレビ番組で持田麗子さんが亜美ちゃんと家の中で遊んでいるシーンをよく見ましたよ」

「そうなの。小さい時からテレビ番組に出るようになってね。そうしていると、あのCMにも起用されて。CMの撮影の時、何個食べたかな、もちもちアイス。最後の方は食べるものイヤになってきちゃって」

 亜実は空を見上げながら冷めた目で苦笑した。

「実際は、やらされていた感覚だったんだ。よくそんな気持ちでCMに出ていたと思うよ」

 亜美の表情がどんどん暗くなっていった。

「そんなアタシの気持ちとは裏腹に『もちもちアイス』は大ヒットするし。持田麗子の娘だから、ドラマや映画にも少しだけ出たの。『さすが麗子さんの子ですね』とか、『ママはすごいんだけど……』とかあれこれと比較されてサ。上手く言えないんだけど、苦しかった。それが一番芸能界にいてイヤだったんだ」

 亜実は右手で口を押さえながら涙声で話し続けた。

 香織は、無言で小さく頷くしかなかった。

「『ママはすごかったのにね』、とか毎日のように言われて。その言葉はアタシにとってすごくプレッシャーだった。歌っても演技しても、ママはこうだったとか。もう辛くて。アタシはアタシなんだけど、誰もそんなふうには思ってくれない。それからは、テレビの仕事がますます嫌いになって。マスコミに顔を出すことも苦痛で。それ以降は、ほとんど家の中にいた。ひきこもりだったのかな。でも、ママは仕事で忙しくてまったく家にいないし、パパもIT企業の社長で夜遅く帰宅するか、どこかに出張で家にいつもいなかったんだ。だから家の中で私はいつも一人ぼっち。それで、あまりにも寂しいから一人で料理をするようになったんだ。それが思ったよりも楽しくて。料理が大好きになったの。その中でもパンが一番上手く焼けたんだ。香りもよくて美味しかった。それで、私はパン屋さんになりたいと思うようになったの。ママにパン焼き機も買ってもらって毎日のようにパンを焼いていたんだ」

「そうだったんですね。亜美ちゃんがいつからかテレビに出なくなったから、どうしたんだろうって心配していたんですよ。亜美ちゃんのこと、大好きだったから」

「ありがとう。それでね」

 亜実はハンカチで涙を拭くと話しを続けた。

「アタシは東京にいるとずっとママのことを言われるから高校を卒業したら、家を出てロサンゼルスで一人暮らしを始めたの。ママの友達が住んでいたから。その人を頼りに、あれこれと教えてもらいながらロスで四年間生活してた。ロスも面白かったんだけど、やっぱり日本でご飯が普通に食べたくなって帰ってきたんだ。玉子かけご飯とかが思いっきり食べたくて」

「私もそうでした」

 香織と亜実は手をとりあい足をバタバタさせて大笑いした。

「でも、東京にいたら以前と変わらないから、思い切って名古屋に住んでみることにしたの。何となくだけど。でも、名古屋の街のこと、何も知らなくて」

「そうだったんですね。でも気持ちわかります。日本が恋しくなるんですよね。海外にいると。それに自分のやりたいことをやってみたくなるし」

 香織もパリで経験した想いを亜美に話した。

「やっぱり、そうだよね」

 香織と亜美はすぐに意気投合した。

「それで、香織ちゃんは、どうしてこの店に来たの?」

「家でいろいろとあって」

 亜美が小さくうなずいた。

「親とケンカをしたんです。実家は和菓子屋の米野屋なんですよ」

「あ、知ってるよ。東京でも有名だよ。かなり古いお店でしょ。羊羹とかどら焼きとか有名で。アタシも食べたことあるよ」

 東京の人にも知られていることに香織は驚いた。

「ありがとうございます。でも私、将来どうしようか悩んでいて。本来なら米野屋を継ぐべきなのかもしれないけど、あんまり和菓子作りに興味がなくて。それで、ヨーロッパへ卒業旅行に行ったとき、パリで食べたクロワッサンがすごく美味しくて感動しちゃったんです。それでパン職人になりたいっていったら、両親にすごく怒られて」

「そうなんだ。でも偉大な親の後を継ぐのもつらいよね」

「それで母がパン職人として認めてくれる条件を一つだけ言われて」

「なに、なに」

 亜美がパンを片手に持ちながら香織に向かって乗り出してきた。

「世界一のパン職人になったら正式に認めてあげるって。もし五年以内になれなかったら米野屋に戻りなさい、という条件。ハードルが高すぎて。その時は勢いでやってみるって言っちゃったんだけど。冷静に考えれば現実はそんなに甘くないし。だから、どうしようかなって考えているんですよ」

「そうか。面白そうだよね。でもね、目標は大きいほうがいいと思うよ」

 亜美は香織の話をまるで自分のことのように真剣に聞いていた。

「でも世界一って、とんでもない目標だと思うんですけど」

 香織が思案顔になる。

「確かに」

 じっと考えて亜美の目が輝いた。

「でもウチには半田さんがいるよ。半田さんはああ見えて昔、フランスの一流のお店でパンを作っていたことがあるらしいんだ」

「ホントですか」

「うん。だから、半田さんにみっちりと教えてもらえば可能性はあるかもよ。ただし、かなり厳しいだろうけどね」

「なんか、いけそうな気がしてきました」

 雲の合間から太陽の光が差すように香織の顔が一気に明るくなった。

「ひょっとしたら、ひょっとするかもね」

 亜美の瞳も輝いた。

「よし。アタシも一緒にやるよ。世界一。香織ちゃん、一緒に目指そうよ」

「ホントですか。実は、自分一人で挑戦するのは心細かったんです」

「だったら、二人で世界一のパン職人になろうよ」

 亜美が香織の肩をポンと軽く叩く。

「やりましょう。亜美ちゃんと会えてよかった」

 二人はハグしながらお互いの背中をバンバン叩き合い、小さな頃からの大親友と再会したかのような喜びを感じていた。

 すると裏口の扉が開き、半田が顔を出した。

「そろそろ、休憩交代してくれ」

 香織と亜美が二人で見つめあって微笑んだ。

「はい。すぐ戻ります」

 二人同時に返事をすると店の中へ元気に入っていった。


 その日、香織は半田や亜美の動きを少し離れたところからじっと見続けて懸命にメモを取っていた。

「今日はそろそろ上がっていいぞ」

 半田が香織と亜美に向かって声をかけた。

「米野、ちょっとだけいいか」

 半田が香織に声をかけた。

 香織は、少し驚きながら半田のそばへ進んでいった。

「お前さん、和菓子の米野屋さんの娘さんだってな」

「はい」

「いいのか。実家の店は」

「はい、親と話し合いをして、パン職人になると伝えました」

「それはいいけど、ご両親は心配してるだろ、きっと」

「そうかもしれませんけれど。でも話しはしてあります」

「そうか」

 半田は天井を見上げた。

「パン職人も忙しいし、厳しいぞ」

「はい。覚悟しています。それに、親からパン職人として五年以内に世界一になるなら、認めてあげると言われました」

「そうか、五年以内に世界一か」

 香織の話を聞くと半田は腕を組み、目を閉じて考え始めた。

「米野、本気で世界一を目指すんだな」

 半田が香織の目を見て念を押した。

「はい。やります」

 香織は直立不動のまま、半田の目をまっすぐに見て答えた。

「米野が本気でやるというなら、教えてやる。だが、甘くはないぞ。そんな簡単なものじゃない。世界一のパン職人になりたいというのなら、厨房に住み込むぐらいの覚悟と努力がないとなれないからな」

「はい。五年間で世界一になります」

「本気でやるんだな」

「はい」

「五年か」

 半田は目を閉じて考えこんでいる。

「まず基本からだ。三カ月でパン作りの基本をしっかり覚えろ。まずそこからだ」

「よろしくお願いします」

 香織は帽子をとって深々とお辞儀をした。

「それで、持田もいっしょにやるんだな」

「はい」

 亜美も横に立って話を聞いていた。

「どんなに苦しくても逃げるなよ。絶対に世界一とるからな」

「はい、お願いします」

 ここから半田を師匠として香織と亜美のパン職人世界一への挑戦が始まった。


 香織の目がキラリと輝いた 。

「では、問題です。人類が世界で初めてパンを焼いて食べたのはいつでしょう?」

 舞はパジャマ姿のまま、香織の部屋の中にポツンと座らされていた。

「知らないよ。どうせ、お姉ちゃんだってネットで調べただけのことなんでしょ」

 舞がふてくされながら話した。

「違うよ。この本を読んで研究したのよ。それで答えは何でしょうか?」

 香織は「パンのすべて」というタイトルの分厚い本をヒラヒラと見せながら舞に回答を迫った。

「じゃあ、米野屋と同じぐらい前かな。今から三百五十年ぐらい前」

 舞は嫌々答えた。

「ブッ、ブー。正解は、古代メソポタミア文明の頃です。だから今から八千年から六千年

 ほど前のことになります。パンはチグリス川やユーフラテス川近くの古代メソポタミア文明の地で食べ始められたと言われています。舞ちゃんは間違えましたので、米野屋のどら焼きを一個私にください」

 香織は誇らしげな笑いを浮かべていた。

「知らないわよ。勝手にクイズやろうやろうって部屋に連れてきて、どら焼き頂戴でもないでしょ。でも、その頃のパンって美味しかったのかな」

「おやおや。舞ちゃんものってきましたね。その当時のパンは小麦粉を水で捏ねて焼いただけだったらしいです。だから、固かっただろうし、今から思えばあまり美味しくなかったよね。きっと」

 香織が本をパラリとめくりながらパンの歴史を延々と語り始めた。

 パンはその後、古代エジプト、古代ギリシャに伝わり、そして古代ローマへとたどりついた。そしてアジアやアフリカにまでパンの文化は伝わったと言われ、今日のように世界中で食べられるようになったという。

 日本には戦国時代にポルトガルから種子島に鉄砲が伝来したときにパンも同時に伝わったと言われている。だから『パン』という言葉はポルトガル語の表現となった。だが、日本ではどうしても米食中心の文化のため、この時、パンはあまり普及しなかった。日本でパンが普及したきっかけは江戸時代の終わり頃のアヘン戦争だと言われている。アヘン戦争で中国に勝利したイギリスが次は日本に攻めてくるかもしれないと当時の徳川幕府は考え、警備体制をとることにし、江戸湾で外国船を監視し始めた。この時、お台場が大砲を撃つために造られた。その際、幕府はパン作りを始めるように命じた。兵士のために大量に米を炊く必要が出てきたのだが、火を起こさなければならなかった。その煙で相手に居場所がばれてしまうので、あらかじめパンをまったく違う別の場所で焼いて兵士に持たせようと考えた。そのためにパン作りを奨励した。パンなら軽くて邪魔にならないし、日持ちもする、という発想だった。

「こんなきっかけで、日本でもパンが多くの人に食べられるようになりました」

 香織は説明を終えて自慢げな顔をした。

「なるほど。戦争がきっかけだったんだね」

 舞が顎に手を当てて頷いた。

「それでまったく話題が変わるけど、一つ訊いていい?」

 今度は舞が香織に質問した。

「うん。何?」

「お姉ちゃんのお店の店長さんって、星野杏子さんって名前でしょ」

「そうだよ。それが、どうかしたの?」

「何か、その名前になんとなく聞き覚えがあるんだよね。なんだったかな」

 舞がクリームパンをかじりながら首を捻っている。

「あっ。それは私が明日の朝、食べようと思ってとっておいたのに」

「いつもパンあげる、あげるっていうじゃない。一個ぐらいいいでしょ。でも、このクリームパンは、かなり美味しいね」

「スターライトベーカリーのクリームパンはカスタードクリームが美味しいと評判がいいの。私、大好きだからとっておいたのに」

 夜遅くまで、米野姉妹の口論は収まることはなかった。


 その翌朝、スターライトベーカリーの厨房ではいよいよ世界一のパン職人を目指して半田の特訓が始まろうとしていた。あまりにも朝早いので香織も亜美も眠そうな顔をしている。

「パン作りの基本は小麦粉選びから始まる。小麦粉には大きく分けて三種類ある。強力粉、中力粉、薄力粉。ロールパンや食パンは強力粉。フランスパン、クロワッサンは中力粉。そして薄力粉はお菓子作りの時に使う」

 半田はとにかく基本をしっかりと教えようとしていた。最初は一般的なロールパンを作ることにした。材料は強力粉に砂糖、ドライイースト、塩。そして水を入れていく。

 作業は簡単にまとめると、混ぜて、捏ねて、一次発酵、成形、二次発酵、焼成となる。

 まずは、材料を混ぜていく。イーストと塩は離して入れないと、うまく発酵しないことがある。そこに水を少しづつ加えていく。生地がまとまってきたら「捏ねる」作業に移る。

「普通、パン職人は捏ねる作業は機械を使う。だが、君たちが慣れるまで手で捏ねて生地の状態を身体で覚えろ」

 半田の言葉にも力がこもっていた。

 香織と亜美は早速生地を捏ね始めたが、かなり力が必要だった。逆に力がないと手が赤くなってしまう。端から見ていると、なんでもない工程だが、ここでパンの味の八割が決まってしまう。半田は生地作りについては特に時間を割いて指導をした。

 ここでボウルから生地を取り出し、まな板に取り出す。そこから何度もまな板に叩きつけ生地のガス抜きをし、そのあとで業務用マーガリンを入れる。

「バターを入れますとかテキストには書いてあるが、実際のプロは業務用マーガリンを使うことが多い。このほうが仕上がりが良くなる」

 常識のように思われていることも実際の現場では違うことがある。より美味しいパンを作り上げるため、現場では最新のデータをもとに刻々と変化しつづけている。

 半田はしばらく捏ねると生地を少しだけ切り取り薄く広げる「グルテンチェック」をした。生地が薄く綺麗な幕になるかどうかを確認する作業なのだが、この段階で、まだ粉っぽかったり、幕にすぐ穴が開いてしまってはダメなので、OKになるまで捏ねつづけることになる。

 半田が二人の捏ねた生地を手早くチェックする。

「二人ともまだまだ捏ね方が足りないな。生地と会話をしながら自分の中で『これだ』という感覚を掴むんだ」

 香織たちは指導を聞きながら半田の並々ならぬ思いを感じていた。

 やっと生地が完成すると、一次発酵をさせ成形に移った。成形とは、一個ずつの分量に生地を切り分けること。ここからはスピード勝負になる。

「一個分の生地をすばやくカードで切り分け、スケールで重さを計る。慣れてくると、手に取っただけでそれぞれのグラム数がわかってくる。手早く行うことがポイントだ」

 半田の説明はわかりやすく、初心者の香織にはありがたかった。

「生地を成形して鉄板に並べるとベンチタイムといってしっかり生地を休ませる」

 半田はその間の時間を無駄にせず、ほかのパンの成形やオーブンでの焼け具合も見ている。一人で何役もこなしているかのようだった。

「生地を休ませたらオーブンで焼き、焼き上がったら店頭に並べる。これがざっと一連の流れだ」

 香織も亜美も半田の言葉を聞き漏らさぬように聞き取ることだけで頭がいっぱいだった。

 半田が日々の仕事の中で何度も繰り返して言う言葉がある。

 まず、パンは見た目、味わい、斬新さ、が大事。そしてもう一つはパン作りには温度管理、正確な計量、時間管理が重要だということ。

 パン職人としては、当然の知識だったが、香織はこの言葉を暗記するかのように常に繰り返し口にしていた。   


 香織と亜美はパン作りについて基本的な仕事の流れを徐々に身につけていった。

 あっという間に香織がスターライトベーカリーに入社して一ヶ月が経とうとしていた。香織と亜美は半田の元で世界一のパン職人という目標に向けて着実に一歩ずつ前進しているという実感があった。

 ある日、仕事を終え、二人並んで帰宅するときのことだった。

「今日も忙しかったね」

「そうだね。でも仕事にも慣れてきたし、少しだけ世界一がチラリと見えてきたような気がするんだよね」

「ホントに。どこ、どこ」

「ほら、あそこに」

 香織が遠くを指した。

「どこ、どこ」

 亜美がその指先をじっと見つめる。

「あーっ。そうだね。あれね。ハイ、ハイ」

 二人は顔を見合わせて笑っていた。

「そういえば、亜美ちゃん。一つ訊いてもいいかな」

「なに?」

「ウチのお店の看板に流れ星が二個ついているよね。あのマークの意味は店長が星野姉妹だから星が二個ついているんだよね?」

「それもあるんだけどね。香織はあの二つの星の意味を知らなかったんだね」

 そう答えると亜美は何度もまばたきをすると少しだけうつむいてしまった。

「ほかにも何か意味あるの?」

 香織の問いかけに亜実は小さく頷くだけだった。

「店長も自分から香織には話さないよね」

 そう言いつつ亜美は何か頭の中で思いを巡らせ、そのまま少し口を閉ざした。

「二つの星のことは、またいつか話すよ」

 亜美は足元の小石を一つ蹴りながらつぶやくように答えた。

「うん」

 二つの星についての疑問が残った香織は少し小首を傾げるしかなかった。


 香織は、休日に小学校時代の友人である浅丘涼子と久しぶりにファミレスで会って一緒に食事をしていた。

「ここのパンはもうちょっとだけ発酵時間を置くともっとおいしくなると思うんだよね」

 香織はパンについて詳しくなり、他の店で出されるパンも気になって仕方がなかった。

「香織はもう立派なパン職人さんだね。いつか美味しいクロワッサンを食べさせてね」

 涼子は香織を見ながらクスクス笑っている。

「うん。まかせて。ちょっとだけ時間かかるかもしれないけど。いつか食べに来てね」

 頷きながら香織はまだファミレスのパンとにらめっこをしている。

「涼子に一つ訊いてもいいかな」

「いいよ。なんだった?」

「いま働いているパン屋さんは、看板に二つ流れ星が描かれていているんだけど、その意味を誰も教えてくれないの。何か秘密がありそうなんだけど。涼子は何だと思う?」

 香織はファミレスのパンの味を確認しながら腕組みをして首を傾ける。

「難しいこと訊くね。そうだな。二つの流れ星でしょ。星野さんだからじゃないの。美人姉妹なんでしょ」

「それは、私もすぐに思った。だけど、それだけじゃないらしいの」

「だったら、本格的で美味しいレストランで星一つとか三つとかいうアレじゃないのかな。星二つを目指そうっていうお店の目標だとか」

「そうだよね。星のマークっていうとやっぱりそこになるよね。だったら、わざわざ秘密にすることもないだろうし。それに二個って目標として中途半端じゃないかな」

「確かに。店長さんの名前は『星野杏子』さんよね。その名前って、どこかで聞いたことがあるような無いような」

「ホントに。涼子、店長のこと知ってるの?」

 香織は前に乗り出して涼子の顔をじっと見つめた。

「いや、なんとなく聞き覚えがある名前なのよ」

 話が途切れたところで急に涼子が嬉しそうな顔になり話し始めた。

「全然話が変わるけどサ、昔、香織が大好きだった田端君が米野屋で今働いているんでしょ。香織、いよいよチャンスが巡ってきたんじゃないの?」

 涼子は香織の腕を嬉しそうにポンポンと叩く。

「そうみたいだね。でも私は、もう米野屋を出たの。今はクロワッサンで世界を目指しているのよ。それに、昔のことで左右されるような状況ではないのだ。うむ」

 香織は小さくうなずくと涼子の目をしっかりと見つめながら話しを続けた。

「今はパンを作るのがとにかく面白いんだ。フランスパンも、なかなか奥が深いのよ。ハード系のパンっていうのはね」

 香織はパンの話を始めると止まらなかった。涼子は微笑みながら延々と続く香織の話の聞き役に徹していた。


 自宅に戻った香織は自分の部屋でパン業界の雑誌を読みながら研究をしていた。

「ここは自然酵母のパンか。ハード系専門のパン屋さんっていうのも面白いよね」

 すると香織の部屋に妹の舞が入ってきた。

「なんだ、舞か」

「お姉ちゃん、パン屋さんは大丈夫なの? 誰よりも朝弱いのに」

「大丈夫。目覚まし時計を五個セットしているし、夜十時には布団に入ってるから」

 香織は胸をポンと叩いた。

「昔はさ、いつも夜中までゲームばっかりやっていたよね。それに私に全然ゲームやらせてくれなかったしね」

 舞はすこし拗ねた顔をした。

「それは過去の私。もうその頃の私とは違うの。そのうち、お姉様の美味しいパンを食べさせてあげるから。まあ、ゆっくり待っててね。私の焼いたパンを食べて感動して泣いても知らないからね」

 香織は自慢げな顔をした。

「あー、そうですか。ゆっくりお待ちします」

 舞もあきれた顔をした。

「ここで、頭のいい舞さんに問題です。可愛いお姉様が働いているパン屋さんの名前はスターライトベーカリーといいます。そのお店の看板には流れ星のマークが二つ入っているのですが、ではその流れ星の意味とは一体なんでしょう?」

「知らないよ。お姉ちゃん、自分で店長さんに聞けばいいでしょ」

「そうなんだけど、何か事情がありそうなんだよね」

「そうだな。じゃ、お姉ちゃんともう一人の女性の亜美さんだっけ。将来、二人のスターが店に現れるという意味があるとかじゃないの」

「店長は予言者か」

「お姉ちゃん、突然、自分から難しいこと私に聞いたって知らないよ。もう」

 舞も相変わらずの香織のマイペースな話に呆れていた。そんな口喧嘩をしながらも仲のいい米野姉妹だった。だが、香織は看板の二個の流れ星のマークの疑問が余計に深まっていくばかりで、この謎はなかなか解けなかった。


 その翌日。仕事の帰り道、香織と亜美は楽しくおしゃべりをしながら歩いていた。

「今日の半田さん。めちゃくちゃ怖かったよね」

 香織は笑いながら亜実に話しかけた。

「あれは香織が悪いよ。焼き終わったパンをオーブンに入れたままにしておくから。もうちょっとであのバターロール焦げちゃって売り物にならなくなるところだったよ」

「うん。塩村君まで慌てて手伝ってくれたからさ。さすがにヤバイって思ったけど」

 香織も頭を掻きながら照れ笑いしている。

「亜美。この前のスターライトベーカリーの看板の話なんだけどね。同級生の友達にも、私の妹にも聞いたんだけどやっぱりわからないんだ。あの二つの流れ星の意味」

「そうだよね。じゃあ、図書館に行こうか」

 亜美はそう告げると少し早足になり近くの図書館へ向かって歩き始めた。

「うん。えっ、図書館?」

 香織は不思議そうな顔をしながら亜美についていく。駅のそばにあった昭和図書館・駅

 前学習センターに入っていった。

「少し前の話になるんだけど。まだ置いてあると思うんだ」

 亜美はつぶやきながら階段を登ると、受付に向かっていった。そこで亜美は図書館の職員に六年前の新聞をみせてほしいと説明しメモを渡した。

「新聞と何か関係あるの?」

 香織は不思議そうに亜美に訊ねる。

「うん。新聞を見ながら説明するね」

 亜美は真剣な顔で答えた。しばらく待つと図書館職員が書庫から六年前の新聞を探し出し亜美に手渡した。亜美は新聞をパラリ、パラリとめくりはじめた。香織は、これからどんな話が始まるのかさっぱり見当がつかなかった。

「あった、あった。この記事だよ」

 亜美は六年前の写真付きの記事を指さした。香織がその記事の見出しを読み上げる。

「『名古屋市中区栄で交通事故。男性二名が死亡』っていうこの記事のこと?」

 香織が亜実に問いかける。

「そう、その記事をゆっくり読んでみてよ」

 亜実は神妙な顔つきをしていた。

「えーっと、『名古屋市中区栄で、昨日、午後三時ごろ、暴走した乗用車が歩道に乗り上げ、歩道を歩いていた男性二名をはねてそのまま逃走した。三時間後、犯人は名古屋市中川区内で逮捕された。犠牲となったのは、名古屋市内の会社員、星野一輝さんと甥の山田太陽君』」

 香織はゆっくりと読み上げると、動きが止まってしまった。

「星野さんって。まさか……」

 香織は何かを察し、それ以上言葉が続かなかった。

「亡くなったのは、杏子さんのご主人・一輝さんと久留美さんの息子・太陽君。たまたま一緒におもちゃを買いにお出かけしていてその帰り道で事故にあったんだ」

 亜美は俯き気味に香織に説明した。

「以前、半田さんから教えてもらったんだ。大事なことだから知っておいたほうがいいだろうって」

 亜美の目は少し涙ぐんでいた。

「杏子さんと一輝さんは事故当時、まだ結婚したばかり。一輝さんは腕のいいパン職人だった。当時、一輝さんは働いていたブランジェリー藤ヶ丘というパン屋さんから独立して『スターベーカリー』という名前のお店を出す準備を進めていた。すでに設計図も完成し、いよいよ工事が始まるという時にその事故は起きたんだ」

 亜美は窓際にゆっくりと歩きながら。大きく息を吐くと、再び話し始めた。

「一輝さんと久留美さんの息子・太陽君はまるで本当の親子のようにとても仲が良く、一輝さんが休みの日には一緒に遊ぶことが多かったんだって。その日は太陽君の三歳の誕生日だったので二人でお祝いのおもちゃを買いに出かけた帰り道で事故に遭ってしまった。二人のそばには買ったばかりのロボットのおもちゃが落ちていたんだって」

 香織は亜美の話を大きな目に涙を浮かべながらじっと聞いていた。

 杏子も久留美も一瞬にして大切な家族を亡くしていた。

 亜美は香織の方に向きを変えながら話を続けた。

「事故の後、杏子さんも久留美さんもしばらく誰とも会いたくないと言い、外出もほとんどしなくなってしまった」

 星野姉妹の心情を思うと亜美も話すのが辛かった。

「ところで亜美、久留美さんの旦那さんは?」

「実は、久留美さんは未婚のシングルマザーだったんだ。この事故の半年ほど前に太陽君のお父さんとは別れたらしい。太陽君のお父さんには奥さんも子供もいた。いわゆる不倫だったんだ。久留美さんはその男の人と別れて、杏子さん夫婦と太陽君と四人で一緒に新しい生活をパン屋さんのオープンと同時に始めようとしていた矢先だった」

 説明する亜美自身も少し涙声だった。

「事故にあった二人はすぐに救急車で病院に運ばれたけれど即死状態だった。犯人は飲酒運転だったらしくて事故の後、怖くなって逃げたんだって。いわゆるひき逃げ。だから毎月事故のあった十五日にはその事故を起こした人からお店にお詫びのお花が届くんだ」

 話を終えると、亜美は静かに天井を見上げていた。

「お花もらっても二人は帰ってこないけどね」

「でも、杏子さんと久留美さんはそんな辛い状況から立ち直ったんだね」

「そこからが大変だったみたい。事故の後、二人はショックでしばらく家から出ようとせず、人ともほとんど会うことがなくなってしまった。当然、準備していたお店の話も無理だろうと誰もが思っていた」

 ここで亜美が一旦、大きく深呼吸して話しを続けた。

「その時、半田さんが星野姉妹の家を訪ねたんだって。半田さんは一輝さんが勤めていたパン屋さん「ブランジェリー藤ヶ丘」で一輝さんの同僚だった。その頃、半田さんは家庭の事情で店をしばらく休んでいたんだけど、一輝さんが亡くなったことを知った半田さんが星野姉妹の家に何度も通い、杏子さんと久留美さんを激励し続けたんだって。『俺がパンを焼くから心配するな』って。その言葉を聞いて星野姉妹は一輝さんの夢だったパン屋をオープンさせることを決意したんだって。そして一年後に念願のパン屋がオープンしたの。

 店長・杏子さん、副店長・久留美さん、そしてパン作りの責任者を半田さんが担当することになったの」

 亜美は、座って聞いていた香織の隣に座ると彼女の肩を抱きながら話を再開した。

「一輝さんと太陽君の写真がお店のレジの後ろに飾ってあるんだ。気がついた?」

 香織は小さくうなずいた。

「小さな写真なんだけどね。それと厨房の入口にかけてあるコックコートは一輝さんが着ていたもので、お店の入口には、あの時に買った太陽君のロボットが置いてあるの」

 亜美も話ながら涙が止まらない。かばんからティッシュを出して鼻をかんでいる。

「それで、お店をオープンするときに、一輝さんと太陽君のことをいつまでも忘れないように店名を元々の『スターベーカリー』から『スターライトベーカリー』にしたんだ。「ライト」という言葉を加えたのは二人の名前のイメージからライト(光)という言葉を加えることで、新しいお店と一輝さんと太陽君の二人に光が当たりますようにという意味を込めて星野姉妹で考えたんだって。そこでお店の看板にも二つの流れ星をプラスした。星野姉妹という意味と一輝さん、太陽君という意味も込められているんだ」

 亜美は目を瞑ってうつむいてしまった。

「亜美ちゃん、教えてくれてありがとう」

 香織も涙ながらに亜美にそう伝えるのが精一杯だった。

 スターライトベーカリーの「二つの流れ星の意味」を知った香織はしばらく考え込んだまま立ち上がることができなった。日々やさしく接してくれる杏子さん、久留美さん。並々ならぬ思いでパン作りを指導してくれる半田さん。そして一輝さん、太陽君。一人一人の思いの詰まった「スターライトベーカリー」で仕事ができる幸せを香織が実感するとともに、絶対に世界一になって恩返しをしようと決意を新たにしていた。

 少しだけ気持ちが落ち着いた香織が亜美と共に図書館から出ようとした時、オレンジ色の夕日がいつも以上に眩しく感じた。


 その翌日。香織はいつものように朝四時に出勤した。もともと早起きは苦手な香織だったが、もうこの早起きのリズムにも慣れていた。ロッカーで着替えをしていると厨房に人影を見つけた。店長の杏子だった。厨房入口に掲げてある白いコックコートの右手の部分をギュッと掴んで何秒間か目を閉じていた。そして杏子が小さく「よしっ」というとコックコートの胸のあたりをポンポンと軽くたたいて仕事の準備に移っていった。ホールを見ると久留美が店の入口に置いてある小さなロボットを掃除しながら小声で何か声をかけている。そんな杏子と久留美の姿をみていると何か胸に熱いものがこみ上げてくるのを香織は感じていた。香織は着替えの済んだ亜美とハイタッチをしながら「がんばろうね」と声をかけあって厨房へと入っていった。


 スターライトベーカリーは地元では人気が高く、朝九時に店を開けてから閉店するまで絶えることなく来客がある。売り上げも順調で忙しいながらも充実した日々が続いていた。

 香織は厨房からホールにパンを運びつつ、常連客の顔を少しずつ覚えようと努力していた。毎日のように店にやってくる客の中には個性的な人も多い。一番目立っていたのは、緑色の服を着た中年の男性だった。帽子は茶色だが、シャツもタイツもすべてが緑色。スタイルもいいのでまるでピーターパンのように見えた。足どりも軽やかで、その「ピーターパン」さんはいつも笑顔でご機嫌だった。ホールで焼き立てのパンを並べている香織や亜美を見つけるといつも声をかけていた。

「あらー、新人さんね。がんばって」

 少し甲高くて優しい声だった。最後にはウインクをしてクルリとその場で一回転していくのでバレエダンサーではないだろうかという噂もあった。香織も亜美もその様子を見ながらいつも苦笑いをしていた。

 その他、特徴的な客としては、いつも夕方になると店にやって来る巨体の親子二人連れがいた。二人ともまん丸の顔をしていていかにもたくさん食べそうな雰囲気を醸し出している。とにかく、そのとき並んでいるパンをほとんどといっていいほど買ってくれ、店にとっては有り難い存在だった。お気に入りは総菜パン。カツサンド、ホットドッグにハンバーガー、カレーパンにベーコンを挟んだパン。コロッケやチキンナゲットが入ったパンも。いかにもカロリーが高そうな商品ばかりを一度に何千円分も購入してくれた。

「この店のパンが親子で大好きなのよ。ホホホ」

 母親らしき女性がいつもはちきれんばかりの笑顔でレジにやってきた。杏子がある日、店を出てすぐ近くの場所で、その親子がホットドッグを二人並んで食べている姿を見つけたことがある。口の周りにケチャップをたっぷりつけながら、いかにも美味しそうに頬張る姿はある意味お店のPRにもなっていた。

「あのお二人が美味しそうに食べている姿を見ているとやりがいを感じるわよね」

 香織も嬉しそうにその親子の様子を眺めていた。


 そんな個性的な客もたくさん店を訪れたが、最近になってあまり見たことのない女性が店の前をウロウロとしていた。そのことを最初に気づいた杏子は不安げな顔をした。

「どこかのパン屋さんがうちの店を偵察しているのかしら」

 その女性を見かけるたびに杏子はよく小首を傾げていた。

 その女性は上品そうな着物を着て、どういうわけか真っ黒なサングラスをかけ頭にスカーフまで被っている。本人は変装をしているつもりなのだろうが、逆にものすごく目立っていた。その女性は頬に手をあて何度も店の前を通りつつチラチラと覗くような仕草をしていたのだ。そんな女性のことを杏子から聞いた香織はピンとくるものがあったので、今度見つけたらその女性に声をかけようとチャンスを伺っていた。

 ある日、香織が、例の着物姿の女性を見かけたので、裏口から回り思い切って女性に背中越しに声をかけた。

「お母様ですよね。私のことがそんなに心配なら、もっと、堂々と入口から店の中に入ってくればいいのに」

 その女性はギクリとして立ち止まり、ゆっくりと香織の方を振り返った。香織はじっと女性を見つめていたが、何やら様子がおかしかった。すると、その女性はゆっくりとサングラスとスカーフを外して頭を下げた。

「すいません。元気に働いているのかどうかが心配で。少しだけでいいから働いている様子を見たかっただけなんです」

 すると、よくテレビで見たことのある人がそこに立っていたのである。

「えっ。持田麗子だぁ」

 香織は目の前に大スターがいることに驚いてしまい大声で叫んでしまった。

「ちょっと、声が大きすぎますよ」

 持田麗子が香織の耳元で囁いた。道を歩いている人が皆こちらを振り返るので、二人は慌てて店の中へと駆け込んだ。

「あの女性って、ママだったんだ。てっきり、香織のお母さんだとばかり思ってたよ」

 亜美が厨房から慌てて出てきた。

「亜美ちゃん、元気だった?」

 照れくさそうに麗子は亜美に声をかけた。

「別にママと喧嘩しているわけでもないんだから。一言連絡してくれればみんなで大歓迎したのに。もうびっくりさせないでよ」

 亜美も突然の出来事にかなり驚いていたが、その亜美の頭を香織が軽く叩くような仕草をした。

「亜美、どういう意味。いまの発言は」

 少し香織はイラついた顔をした。

「別に香織の家のことをどうこう言うつもりじゃないんだけど」

 亜美は苦笑いしながら必死に取り繕っていた。

「亜美ちゃんがどんなお仕事しているのか、どうしても見てみたくなってね。ちょうど、仕事のお休みの期間があったから名古屋に来たのよ」

 麗子は今、大スターではなく、どこにでもいる普通の母親の顔になっていた。

「今はね、この米野さんと一緒に世界一のパン職人を目指して毎日パン作りの修行をしているんだ」

 亜美は誇らしげに母親に香織のことを紹介した。

「まあ。有名な和菓子屋さんの両親と大喧嘩して家を飛び出したお嬢様って、あなただったのね」

 麗子が香織をじっと見つめながら嬉しそうに頷いていた。

「はい」

 香織は引きつった笑いを浮かべながら、ちらりと亜美の顔を見た。

「亜美ちゃん、持田麗子さんに私のことをどんな風に説明したのよ」

 亜美は照れ臭そうに頭を掻いている。その隣では麗子と杏子がお互いに何度もペコペコといつまでもお辞儀ばかりを繰り返していた。店の中は持田麗子が入ってきて一気に華やいだ雰囲気となり、笑い声が店の外まで響き渡っていた。

 その微笑ましい光景を店の外から白いワンピースに大きな帽子をかぶった一人の年配女性がじっと見つめていた。


 その翌日。食パン作りの基本を香織と亜美は半田から教えてもらっていた。

「いいか。今日から食パンを作る。基本はロールパンと同じだが、食パン用の型にいれて焼く。型には最後にふたをする。ふたをしないで焼くと山型パンになるんだ。ちなみに食パンという呼び方をしているのは日本だけ。海外で言っても通じないぞ。フランスでは『パン・ド・ミー』と呼ばれている」

 食パンはスターライトベーカリーの看板商品であり、このパンが欲しくて客が店を訪れるといってもいい。それだけに基本をしっかりと覚えないといけないし、もし味が落ちるようなことになってしまえば店の人気や信用の問題になってしまう。三人とも真剣に食パン作りに取り組んでいた。

「食パンは特にデリケートだ。だから十分に手間をかけて焼いていく。きめが細かくてしっとりとやわらかいパン。それがこの店の売りなんだ」

「はい」

 香織も亜美も生地を捏ねるところから真剣勝負だった。温度や湿度の微妙な変化に気を配ることも重要であるし、発酵具合も大切だ。グルテンマークをきちんとチェックして焼きに入る。実際、初めてのときは焼けすぎてしまい失敗。二回目は焼きが甘くてこれも失敗。やっと三度目でお客様に出せる食パンが焼けた。

「食パンは一番簡単そうに見えるけれども実は一番難しい。パン作りの基本だ。まずこれをきっちりマスターし、うまく焼けるようになれば、これ以外のパンにも応用がきくようになってくる」

 香織がほんの少しだけニヤリとする。

「米野。そんなことで世界一に近づいたなんて思うなよ。こんな基本的なこと、あんたのライバルたちはとっくにクリアしているんだ。その基本の仕事ができる力を持ち、その上で初めて自分たちのオリジナルのパンを作り出すことができる。まず、基本を身につけることだけ考えろ」

「はいっ」

 半田に心の中を見透かされ、香織は照れ笑いをしていた。


 香織と亜美が食パン作りにやっと慣れたころ、スターライトベーカリーにある異変が起きていた。

 ある日の夕方、杏子と久留美が店の棚を眺めながらため息をついていたのである。

「食パンの売れ行きが少し落ちてきたわね」

 杏子が売れ残った食パンをみながら残念そうな顔をした。

「いままでは、食パンが売れ残ることなんて滅多になかったんだけど」

 久留美は不思議そうな顔をしながら腕を組んだ。

 あの一輝と太陽が犠牲となった事故から店をオープンするまで、杏子と久留美は苦労の連続だったが、スターライトベーカリーとして営業が始まって以降は、順調に売り上げを伸ばし続けていた。

 ところが、今月に入ってから売上げがピタリと伸びなくなってしまい、パンの売れ残りが目立つようになってしまった。

 営業終了後、星野姉妹と半田が真剣な顔つきで話し合っている姿をよく見かけるようになった。これまで売上げで悩むことはなかっただけに、より深刻さが伝わってきた。香織と亜美も、三人の話し合いをしているところを少し離れたところから見て心配をしていた。

「亜美ちゃん、何があったんだろうね」

 香織も首を捻っていた。

「かなり重大な話なんだろうね」

 亜美の顔も暗くなっていた。

「もしかして、私たちが食パンを焼き始めたから味が落ちちゃったのかな」

 香織が今にも泣きだしそうな顔になっている。

「実は、私もそれを考えていたのよ。食パンが売れ残るようになった時期と私たちが食パンを焼き始めるようになった時期と同じだよね。微妙に味が変わったのかな」

 亜美もテーブルに両手をついて俯いてしまった。

「半田さんからは、『お前たちは気にするな。何も関係ないし、食パンの味そのものは落ちていないから』と言われてるけどね」

 香織は珍しく大きなため息をつくと、無言で肩を落としたまま帰路についた。


 香織は家に帰ると、すぐに着替えていつもの銭湯「松の湯」にやってきた。こんな日はゆっくりお風呂にでも入って気分を変えたかった。香織が湯船にじっと浸かり目を閉じていると少し離れたところから聞き覚えのある声がしてきた。

「あら、香織ちゃんじゃないか。元気だったかい」

 あのウメさんが相変わらず銭湯中に響きわたる大きな声で叫んでいた。

「あ、ハイ」

「なんか浮かない顔してるね。どうかしたのかい」

 ウメさんはザブンとお湯につかると香織のすぐ隣にやってきた。

「ええ、ちょっと仕事で」

「何かい。なにか失敗でもしたのかい?」」

「ええ。お店の売上げが落ちてきているんです。その原因が自分かもしれなくて」

 香織は、胸の内をそのままウメさんにぶつけてみた。

「なるほどね。でもさ、人間、生きていれば、上手くいくことばっかりじゃないよ。むしろ転んだり、失敗したりすることのほうが多いよ。みんな同じだよ。言ってる私自身が失敗ばっかりなんだから。ハハハ」

 またもや大きなウメさんの声が響きわたる。

「香織ちゃんが原因なのかどうかも、わかんないんだろ。だったらそんなに自分を責めなくていいよ。もし、香織ちゃんの失敗のせいだったとしてもさ、人間なんだから失敗することなんていくらでもあるよ。気にしなくていいさ」

 ウメさんは湯船の中で顔をバシャバシャと洗う。

「あんまりね、悩まないようにしてさ、ぐっすり寝て、また明日がんばればいいさ。くよくよしても、何もいいことないよ」

 ウメさんは、香織の顔を覗きこむ。

「いつでも笑顔でいくんだよ。案外なんとかなるもんさ。心配ないよ。ヒャヒャヒャ」

 ウメさんの笑い声に香織は救われた思いがした。


 香織が部屋に戻ろうとしたとき、ちょうど妹の舞と廊下で出会った。

「舞ちゃん、ちょっとだけ話ししたいんだけどさ」

「またパンのクイズじゃないでしょうね」

「違う、違う。たまにはお姉様の話をきいてくださいな」

「いつも聞いてますけどね」

 二人は香織の部屋に入った。舞はさっそくクリームパンを見つけた。

「お姉ちゃんの話につき合うから、このクリームパン食べてもいい?」

「ん。いいよ。どうぞ」

 少し元気のない香織に違和感を感じつつも舞はクリームパンを手に取った。

「お姉ちゃん、それで話って何?」

「少し前からスターライトベーカリーの売上げが落ちてきたの。人気の食パンが売れ残るようになってきてさ。一番の看板商品なのよ」

「食パンが美味しい店で有名だもんね」

「そうでしょ。でもね、その食パンを私が焼くようになってから売れなくなったの。まさにタイミングがぴったりなの。やっぱり私が食パンを焼いたから味が落ちちゃったのかな」

 珍しく暗い顔をした香織は俯き気味に舞に悩みを打ち明けた。

「スターライトベーカリーの売り上げが落ちた理由は、私なんとなくわかるよ」

「さすが舞ちゃん。すごいね。ダンスは諦めて占い師にでもなったほうがいいよ。よかったら、あんぱんも食べる?」

 香織の目が輝き、舞に向かって乗り出しながらパンを差し出していた。

「それで、舞ちゃん、売り上げが下がった理由って何だと思う?」

「米野屋の隣に、新しいパン屋さんができたんだよ。それだからじゃない。その店、結構人気あるみたいだよ。毎日、開店する前から何人もお客さんが並んでるみたいだし」

 乗り出して舞の話を聞いていた香織の大きな目がより一層大きくなった。

「あんた、そんな大事な情報、なんでもっと早く言わないのよ。まったく。クリームパンもあんぱんも返してよ」

「お姉ちゃん、ひどいよ。悩んでいるみたいだから可哀想だなって思って教えてあげたんじゃない。もう、勝手すぎるよ」

 そこからいつもの米野姉妹の夜中の喧嘩が始まったのである。


 翌週、香織と亜美は、米野屋の隣に開店したパン屋の近くで待ちあわせをしていた。もちろん偵察をするためである。ただし、先日の持田麗子のような目立ちすぎる変装だけは絶対にしないようにと相談し、普段着で訪れようと約束していた。

 新しくオープンした「パン工房みずほ」は、建物は鮮やかな白で統一され、斬新な看板が印象的で目を引いていた。隣に何十年も前から建っている米野屋の店舗がかなり古かったため、より新鮮に人々の目には映っていた。店の前を通ると奥から焼き立てパンの香ばしい匂いが漂ってきた。一般客ならば一度は立ち寄ってみたくなるような見事な演出と緻密に計算され抜かれた美しさを全面に押し出していた。

 亜美は普段通りのTシャツにジーパンという姿で待ち合わせ場所にやって来た。「パン工房みずほ」の開店十分前を集合時間にしていたのだが、香織がなかなか現れない。あれだけ意気込んでいたのにと、亜美が不思議に思っていると、遠くから香織の声が聞こえてきた。

「亜美。ごめんね」

 振り返ると、まるで友人の披露宴にでも出席するかのような鮮やかな青いドレス姿にバッチリとメイクをした香織が息を切らせて小走りでやってきた。

「どうしたの。香織」

 亜美は香織の服装に驚いてしまい言葉を失っていた。

「まあね。いろいろと事情があるのよ。私も」

「事情って。ああ、あれね」

「パン工房みずほ」の隣は米野屋である。その米野屋には香織が昔からあこがれていた田端が働いていた。

「乙女心ですなぁ」

 少しだけはにかんでいる香織の様子を眺めつつ、亜美は腕組みをしながら妙に納得しニヤリと笑っていた。

「パン工房みずほ」はオープンしてから毎日のように開店を待ちわびる客が二十人から三十人も店頭に並んでいた。

「そんなに美味しいのかな」

 香織も亜美も疑問に思っていた。店内はとにかく明るくさわやかな印象だ。パンを見やすく陳列し、お客さんが選びやすいように上手く配置されていた。いかにも人気の出そうな雰囲気がして、計算しつくされた美しさがあった。二人は店内をキョロキョロと見まわし、いくつも気になるパンを山のように取るとそのままレジに並んだ。会計を担当する女性店員は薄いピンク色の可愛らしい制服を着ていた。この店は何もかもがオシャレにデザインされていたのである。すると香織の買ったパンの会計を担当した店員がレジの向こう側でニコニコしていた。

「今日は平日なのに、披露宴にでも出席するんですか?」

 香織はさわやかな笑顔の店員に質問されてしまった。

「今日、ピアノの発表会があるんですよ。でも、その前にこの店のパンを食べたくて買いにきました」

 引きつった笑顔で苦し紛れの言い訳をした香織は背中に大量の冷や汗をかいていた。

「ありがとうございました」

 さわやかな女性店員が印象的だったが、その後ろに浅黒い強面の男性が鋭い目つきで立っていた。

 二人は店を出ると買ったパンの試食をするため、近くの公園に急ぎ足でやってきた。香織が食パンを一口ちぎり、香りを確認してから味わってみた。

「まあまあかな。美味しいといえば美味しいけど、うちのパンのほうが上だよ」

 亜美もゆっくりと噛み締めながら空を見上げて考えていた。

「そうね、まあ合格点だと思うんだけど、特別に驚くほどの味でもないよね」

 二人の感想としては、「パン工房みずほ」のパンは何か取り立てて美味しいわけでもなく普通の味だった。では、なぜこれほど人気があるのか。二人で出した結論は、まず、新規の店舗でイメージがいいということと、値段が他店よりも少しだけ安く設定されているということだった。どんな人でも普通の食パンを買うのなら、安い店に行く。

 つまり、「パン工房みずほ」のパンは新鮮なイメージと安さで客が集まる、ということらしい。だが、店舗の素晴らしさといい、価格設定といい、非常に店舗の運営に慣れている感がある。

 香織と亜美は急いでスターライトベーカリ―に戻り、杏子や半田にライバル店の商品を見せながら報告した。

「どうしてこのレベルの食パンをこれだけ安い値段で売れるのかな」

 香織が頭を捻る。

 すると半田がパン工房みずほのパンを見ながら、

「あそこはパン業界で日本第三位の売上げがある大企業「ミズホパン」の小売専門店だ。街のパン屋さんスタイルとして「手作り風」を売りにオープンした。この店が全国初の小規模店舗だ。歴史あるパン会社だからパン作りのノウハウも流通ルートも持っている。当然、店舗作りにも慣れている。価格も本社のパンのルートで仕入れをするから材料費も安く抑えられる。だから店頭で販売する価格も、スターライトベーカリーのパンよりもぐっと抑えることが可能だ」

 香織と亜美は半田の説明を神妙な顔で聞いていた。

「これからどう対応していこうかと考えていたが、ミズホパンの小売店舗がライバル店ということなら、そこまで恐れることはない」

 半田は強い言葉で言い切った。

「味だけならうちの店は十分に勝負できる。そもそも、あそこの店では生地を捏ねていないだろう」

 香織も亜美も驚いた表情を見せた。

「え、でも『手作り風』って看板にありますよ」

「『ベイクオフ製法』といって、本社工場で生地を捏ねて成形し、焼く直前の状態のものを冷凍したまま店舗に運び、店舗ではその冷凍された生地をただ焼くだけだ。日本のパン屋のチェーン店の多くはこの方式をとっている。お客さんに安くて大量にパンを提供しようとするとどうしてもこの方式になる。だから店の看板には『手作り風』と名乗るしかない。今の時代は、誇大な宣伝をするとクレームにもなりかねない。大企業は、あらゆることに気を遣う必要もある。大企業がバックなら一般的には良さそうに思えるけれども、意外と身動きが取りにくいという弱点もある」

 半田はライバル店を冷静に分析していた。

「ただし、うちは価格競争となると厳しい。大企業は大量に仕入れをして大量販売するのには向いている。大きな通販会社が商品の価格をびっくりするような低価格で販売することがあるだろう。あれと同じだ。小さな店舗ではなかなか真似ができない」

 半田はそこまで一気に話すと、黙り込んでしまった。

「そこで、うちとしてこのライバル店にどう立ち向かっていくかだ」

 腕組みをしながら半田がスターライトベーカリーのメンバーを見つめた。

「ウチの店としても何か新しいことはできないかしら」

 杏子がみんなに向かって提案する。

「新しい味の食パンを作りましょうよ。たとえば、チョコ味の食パンとか」

 口数の少ない久留美が誰よりも先にアイデアを出した。

 すると、香織や亜美から、食パンにあんこを入れてみるとかミルク風味をプラスするというアイデアが次々飛び出した。

「さっそく明日にでも試作品を作りませんか。それがうまくいけばすぐに販売することも可能ですよね」

 亜美も目を輝かせながら話す。

「そこがウチの売りよ。小さな店だからこそ、すぐに新しいことを実行できるし、販売することもできる。向こうは大企業だから試食やら会議やら重役の了解やら、あれこれ手間がかかる。つまり新しいパンをすぐに商品化できないという弱みがある。ウチは、小さいけれど、このスピード感で勝負するのよ」

 杏子が店のメンバーに声をかけると、重苦しかった店の雰囲気ががらりと明るくなっていった。香織や亜美もいつもの笑顔が戻ってきた。

「パンの味なら胸を張って勝負できるし、もともとウチの店に来てくれていたお客さんはきっと戻ってきてくれる。それに新商品を出せば、新規のお客さんも来てくれる可能性だって十分ある」

 半田が拳を握りながら笑顔で力説した。

 香織と亜美はこの後も次々と新商品のアイデアを出し続け、いつまでも話が尽きることがなかった。

 半田は店内の空気が変わったことを感じ取ると、香織と亜美を店内の事務所へ呼んだ。

「どうかしましたか」

 香織も亜美も不思議そうな顔で半田に近づいていく。

「少し大事な話がある。そこに座って話そう」

 半田と香織、亜美の三人は事務所のイスにゆっくりと腰をおろした。

「店の売り上げを回復することも重要なんだが、今後のことについて、どうしても今、話しておきたいことがある」

 ここまで言うと、半田が少しだけ間をおいた。

 口を真一文字に結び、じっと考えてから再び話始めた。

「今回、『パン工房みずほ』の調査をしていて昔の仲間から聞いた情報なんだが、あの店は黒柳という男が店長をやっているらしいんだ」

 半田は目を閉じたまま、じっと何かを考えていた。

「黒柳はまだ若いが、相当、腕のいいパン職人だ。これは間違いない」

 スターライトベーカリーの店内も静まり返っている。

「ところが、少し腹黒いところがあって、昔、私もさんざんアイツには苦労した」

 半田が黒柳について語り始めた。

 この黒柳というパン職人は、以前、ブランジェリー藤ヶ丘で働いていた。つまり半田と杏子の夫・一輝と黒柳の三人は、一時期同じ店で働いていたのである。半田から見て、一輝も黒柳も優秀なパン職人だった。ただし、一輝は仕事への取り組み方がまさに誠実そのものだったのに対し、黒柳はどこまでも効率重視、利益重視で、クールで計算高いという側面があり、悪い表現を使えば腹黒いとも言えた。

「どうすれば儲かるのか。利益が出るのか」

 そんなことばかりをいつも黒柳は考えていた。もちろん、それは会社を経営するには当然必要なことではあるのだが、彼は「儲けること」をどこまでも追求し続けていた。そもそも、あまり利益率の高くないパン業界では、その点を追及し続けることも重要なテーマである。ただそれがあまりにも行き過ぎると、効率重視だけの味気のない仕事になってしまう。

 地元の住民、近隣の人々に喜んでもらう親しみのあるパン屋。誰からも好かれるパン屋。スターライトベーカリーはそこも重要視していた。もちろん仕事としては利益を出さなければいけない。だがそこだけに執着していては客の心がいつか離れていってしまう。地元に密着し喜ばれるパン屋。それは一輝のもともと考えていたコンセプトでもあり、半田と星野姉妹の思いでもあった。

「今後は黒柳がライバルになるだろう。絶対にアイツを甘く見たらダメだぞ」

 これまで見たこともない真剣な表情で半田が香織たちに忠告した。

「私たちが」

「そうだ。もう私は若くない。お前さんたちがこれから世界一を目指していくのなら、黒柳がかなりの強敵になる可能性は高い。覚悟して挑戦するんだぞ」

 いつもとはまったく違う表情の半田だった。

 今回の件以降、香織と亜美は「パン工房みずほ」というライバル店と黒柳の存在を強く意識するようになった。


 香織がオーブンの前で腕組みをしたまま仁王立ちをしていた。新商品として開発していたチョコ風味の食パンがやっと焼き上がるという時、オーブンから普段とは少し違う匂いが漂い始めていた。他の作業をしていた亜美が気づき、慌ててオーブンのところへと駆け寄った。

「香織、焦げてるよ」

 亜美が香織の肩を平手でパンパンと何度も叩く。だが、香織は微動だにしない。

「香織、香織」

 亜美が懸命に香織の身体を揺さぶった。

「あっ。臭いね」

 寝ぼけていた香織もやっと気がつき二人で慌ててオーブンを止め、焼いていた食パンを取り出した。中からは真っ黒になったチョコ風味の食パンが焦げ臭い匂いとともに現れた。

 香織と亜美は顔を見合わせ、がっくりと肩を落とし、しばらく動けなかった。

「香織、どうしたのよ。オーブンのすぐ前にいたのに」

 気落ちした亜美が香織に詰め寄った。

「立ったまま居眠りしてた。ゴメン」

 香織が頭をポリポリと掻きながら謝った。

 スターライトベーカリーでは売り上げを回復するため、新風味の食パンを焼いて一日でも早く売り出したかった。そのためにみんなで毎晩、遅くまで試作を繰り返し、睡眠時間を削って作業をしていた。そんな事情で香織は立ったまま眠ってしまっていた。それは香織一人だけでなく誰もが同じ状況だった。

「ただ、単純にチョコを加えればチョコ味の食パンになるというものでもない。生地の発酵から焼き上がる時間まですべてが少しずつ異なってくる。そこも新商品を開発するには問題となるところだ。だからどこまでも時間管理が重要なんだ。失敗しながら、ベストの方法を見つけ出すしかない」

 半田は、焼け焦げたパンを眺めながら改善方法を考えていた。特にパンを焼く時間の重要性を改めて痛感していた。

 このような苦労を繰り返し、チョコ風味、あんこ風味、ミルク風味、そしてレーズン食パンという食パンの新商品を開発した。店頭では杏子と久留美がチラシを配り、集客を図っていた。香織と亜美はSNSで告知するため新しいパンの写真撮影をしていた。塩村がカメラマンとなりコックコート姿の二人がモデルになった。パンを片手に持ち、あれこれとポーズを決めた。

「なんかアイドル雑誌のグラビアみたいだね」

 亜美が少し懐かし気な様子で香織に声をかけた。

「亜美、タレント時代を思い出した?」

 香織が冗談ぽく亜美に質問する。

「いや。もうそれはいいよ。塩村くん。私たちもかわいく撮ってよ。これもパンの売上げに影響するんだからね」

「そうだよ。誰が見るか、わからないんだから」

 香織も微笑みながら塩村に注文をつけていた。

「香織の本音は、あの人が見るかもしれないって思っているんでしょ?」

 亜美が香織の頬を人差し指でつんつんする。

「私はあくまでもこのスターライトベーカリーを救わねばという気持ちで言っているのであります。邪な気持ちなんかこれっぽっちもありませぬ」

 二人は顔をあわせて大声で笑っていた。


 それから、二か月ほどが経つとスターライトベーカリーには以前のように多くの客が戻ってきた。杏子は電卓で売り上げの計算を終えると、小さく頷いた。

「なんとか、以前と同じ売上に戻りました」

 杏子が大声で報告すると大きな拍手が沸き起こり、みなホッとしていた。

 メンバーの安心した顔を見て半田が口を開いた。

「一度、落ちた売上を回復することは実はとてつもなく難しい。その前に気をつけることは、まず売上を落とさないこと。それに日々研究して新しいパンを開発していくこと。ライバルは他にもいるだろうし、向こうさんだって黙って負けているばかりじゃない。日々の努力を怠った方が負けていくんだ」

 半田は腕を組んだまま、しみじみと話した。

「よし、米野と持田、次はフランスパンに取りかかるぞ。いよいよ本格的に世界で通用する味に挑戦する。そしてフランスパンをマスターしたら、その次は米野が一番作りたがっていた最終目標のクロワッサンを焼くからな」

「はい」

 二人とも目が輝いていた。

「フランスパンは日本よりも欧米では一番ポピュラーで一番食べられている。一番象徴的な話としては、フランスではフランスパンだけのコンテストがある。その優勝者は大統領の朝食用のパンを焼くことができる権利をもらえるんだ」

 半田はフランスパンについて香織と亜美に語りはじめた。

「ちなみにフランスではもちろんフランスパンなんで呼び方はしない。そんな言い方をするのは日本人だけだ。パン・トラディショネルと言って何種類もある。バゲット、フルート、バタール、パリジャン……。この何種類ものパンをきっちりと焼けるかどうかで一流のパン職人かどうか判断される」

 香織が神妙な面持ちで聞いていた。

「日本でもご飯を炊くとき、赤飯や雑炊やおかゆを作るだろ。それと同じだ。その国の主食だから、様々な呼び方がある。イタリアではパスタといっても何十種類もある。フランス国民が一番重要視して日常的に食べるもの。それがフランスパンなんだ」

 香織も亜美も納得していた。

「フランスパンの作り方は、いままでのパンとはかなり違う。まず粉から違っていて、強力粉ではなくて、中力粉または準強力粉を使う。つまり強力粉多めで薄力粉が混ざっている感覚だ。それに水、塩、ドライイーストだけというシンプルな材料。そこにモルトシロップをほんの少し入れる。これが独特な風味につながるし、イースト菌の発酵を助ける」

 半田の解説にも力が入ってきた。

「そして焼き上がりは、クラム(内側の白い部分)とクラスト(外側の茶色いところ)の食感が異なることが重要。外がパリッとして中はしっとり。だからあまり捏ねすぎないように気をつけて発酵させる」

 半田の話を食い入るように二人は聞いていた。

「成形の仕方も他のパンとは全く違う。平たく伸ばしたら三つ折りにし、最後は棒状にしていく」

 やっと細長いフランスパンらしい形状となる。

「焼く直前にカミソリのようなクープナイフで表面にサッと切れ目を入れる。これでフランスパン独特の焼き上がりの模様ができる」

 香織は不思議そうな目でクープナイフを見ていた。

 二人が実際に作業してみるとフランスパンを思うようになかなか作ることができなかった。特にクープナイフを入れるとき、半田はササッと簡単そうに作業するのだが、香織はなかなか上手くいかなかった。

「このクープナイフを入れる作業は経験がものをいう。とにかく何度もチャレンジして自分なりにコツをつかむしかない」

 半田は愛弟子の香織に早く一流のパン職人になって欲しかった。半田自身の経験や知恵をすべて教え込んでやりたい心境だった。

「フランスパンはその性質上、焼き上がりが湿度に左右される。空気が乾燥しているヨーロッパと湿度の高い日本とは焼き上がりがまったく異なる。それに大事な原料である水も硬水と軟水という違いもある。地域の特性にあわせてパンを焼くことも重要だ」

 半田がクープナイフを入れたフランスパンが焼き上がると、ナイフを入れた部分が開いて見事な形になっていた。香織と亜美はその芸術作品のようなパンをまじまじと見入っていた。焼き上がって少しの間、鉄板の上に放置しておくとパンからパチパチというなんともいえない心地よい音が聞こえてきた。この音は「天使の拍手」と呼ばれ、まるでパンがおしゃべりしをしているようでもあった。香織たちはそのパンが発する音にしばらく聞き惚れていた。


 半田のフランスパン講義が始まって数日経った時、レジの近くから誰もが振り返るような声が聞こえてきた。

「痛っ」

 塩村の悲痛な声だった。店内はまるで時間が止まってしまったかのように、その場にいたすべての人の動きが止まり、何が起きたのか、誰もわからなかった。

 声のした方を見ると、塩村が右手を押さえたまましゃがみこんでいたのである。

「塩村君、どうしたの」

「大丈夫か」

 杏子も半田も慌てて塩村のそばに駆け寄ると、塩村の手から血がポタポタと落ち、厨房の床は真っ赤になっていた。

 塩村が焼き上がった食パンをスライスする機械スライサーを操作していたとき誤って指を切断してしまったのだ。半田がすぐに救急車を呼び、塩村は近くの市民病院へと運びこまれた。杏子はすぐに店を閉め、全員で市民病院へと向かった。

 香織たちが病院に駆けつけたとき、塩村は緊急手術を終えて、ベッドで横になっており、その周りには家族と思われる女性とまだ小さな子どもたちが心配そうに塩村を見つめていた。

 包帯でぐるぐる巻きになった塩村の右手が痛々しかった。

「みなさん、すいませんでした」

 塩村はケガの痛みと会社に迷惑をかけてしまったという思いで少し涙目になっていた。

「店のことは心配しなくていい。それでケガをした指はどうだ」

 半田が心配そうに声をかける。

「はい。すぐに縫ってもらったので、指はなんとか元どおりになるみたいです。担当の医師からは、しばらく入院すれば回復すると言われました。ただ、リハビリが必要みたいなんですけが」

「よかったじゃないか。かなり痛むだろうから、しばらくゆっくり休めばいい。慌てて退院しなくていいから。店のことは心配するなよ」

 半田の言葉に塩村は少し涙目になりつつ、ぐっと下唇を噛みしめていた。

「ずっと忙しくて悪かったな。オレがもっと気をつけていればこんな事故にならなかったんだ。すべて私の責任だ。本当にすまん」

 半田が悔しそうな顔をしてベッドの横にあったパイプイスに腰をおろし塩村に向かって頭を下げた。半田は両手を膝に置き深くうなだれている。するとベッドの反対側には、塩村の母親らしき女性とまだ小学生ぐらいのあどけない女の子と男の子が心配そうにじっと塩村を見つめていた。

「私の母と妹の柚と弟の蓮です」

 塩村の母親が香織たちに頭を下げた。

「お忙しいのに息子のたくみがご迷惑をかけて、申し訳ありません」

「大丈夫ですよ。こちらこそ、毎日、朝早くから塩村君にはがんばってもらって感謝しています」

 杏子が塩村の母親の手をぐっと握った。ベッドの横にいたゆずれんは、じっと塩村のことを心配そうに大きな瞳で見つめていた。

「お兄ちゃんはもう大丈夫だから安心して」

 塩村がきょうだいに声をかけると二人は泣き出しそうな顔で大きく頷いていた。

「二人でお母さんを手伝ってあげてね」

 塩村の言葉を聞くと弟・蓮の目から大粒の涙が頬を流れ落ちていった。

 塩村は左手で優しく幼い二人の頭をなでながら声をかけていた。香織と亜美はいたたまれなくなり静かに病室を出て、近くにあった談話コーナーへ移動した。

「塩村君には、あんな小さなきょうだいがいたんだね」

 香織が驚きながらつぶやいた。

「塩村君のお父さんは数年前に病気で亡くなったんだって。お母さんもずっと体調が悪いらしくて、時々近くのスーパーでパートとして働いているみたい。だから、どうしても家計が大変になるから、塩村君は中学を卒業してからずっとスターライトベーカリーで働いて家族を養っているんだ」

 亜美が香織の耳元で塩村家の事情を伝えた。

「そうなんだ。私、何も知らなかった。塩村君は家族のために必死に働いていたのか。いつも塩村君はニコニコしているから、いい子だなとしか思っていなかった。そう考えると、私なんかずっと恵まれていたんだよね」

 香織は俯きながら自分自身の両親や妹の顔を思い浮かべていた。


 塩村の母親と柚と蓮が今にも泣き出しそうな顔をして病室から出てきた。

 香織はしゃがみ込んで幼いきょうだいに優しく声をかけた。

「お兄ちゃん、きっとよくなってすぐに元気にパンを作れるようになるから心配しなくてもいいよ」

 すると、塩村の妹・柚が目に涙をためながら香織をじっと見つめた。

「本当に、お兄ちゃんはちゃんと治るんですか。あなたは、どうしてそんなことが言えるんですか。お医者さんでもないのに。絶対治るんですね」

 香織につかみかかろうとするような勢いで訴えると、香織も亜美も彼女に返す言葉が見つからなくて、その場になんとも言えない空気が流れた。

 すると、そばで見ていた半田が横から柚と蓮に声をかけた。

「きっと、治るさ。おじさんもな、若い頃に君たちのお兄ちゃんと同じケガをしたんだ。ほら見てごらん」

 そういって右手をぐっと伸ばして幼いきょうだいの目の前に出して見せた。半田の中指は少しだけ「くの字」のように不自然に曲がっていた。

「お兄ちゃんの指はまったく元の通りには治らないかもしれないけれど、すぐに治療したから、きっと治るよ。しばらくは入院して治療すると思うから、お兄ちゃんのそばで看病してあげて欲しいんだ。お兄ちゃんは毎日朝早くから真面目に働いていたんだよ。そんな人を神様は守ってくれないはずがないじゃないか。だから大丈夫だよ」

 半田は幼い二人の頭をポンポンと軽く叩いた。幼い二人は、涙を流しながら小さく頷いていた。しっかり者の柚が弟・蓮の手を引きながら母親とともに静かに病院を出て行った。

 香織はその三人の後ろ姿を見ながら家族の大切さをしみじみと実感していた。

 亜美や星野姉妹も、しばらく言葉もなく病院の廊下でやりきれない気持ちでいっぱいになっていた。

 香織が隣にいた半田に指のケガについて訊いた。

「半田さんも塩村君と同じケガをしていたんですね」

「ああ。パン職人の宿命かもしれんな。もちろんケガはしない方がいいに決まっている。だが、どうしても忙しいと注意力が落ちてこんな事故が時々あるし、現実的には他の店でも起きているらしい。お前たちもこれからこの業界で働いていくんだから、十分気をつけるんだぞ」

 香織と亜美は無言で頷いていた。パン職人は火傷もするし今回のように指のケガをすることも多い。他人からはオシャレな仕事のように思われるけれども、実際は危険でハードな職業でもあった。また一日中立ち仕事でもあり、ゆっくり休憩をとることも難しい店もある。肩や腰の不調を訴える従業員も多い。また、大きな会社組織のところはシフト制が組めるが小規模店舗では休日も満足に取ることができないという現実もある。給与面の問題もあわせて、このパン製造業という職業にはまだまだ多くの課題が残されていた。


 その後、しばらく塩村は仕事を休んだが二ヶ月後、店に復帰した。

「みなさん、長い間ご迷惑をおかけしました」

 塩村が久しぶりに出勤しスターライトベーカリーのメンバーに頭をさげた。

「よかったな。指はどうだ」

 半田はケガを気遣っていた。

「はい。まだ包帯は取れないですけれど、なんとか仕事はできますから」

 塩村のいつものやさしい笑顔が輝いていた。ただし、何かが右手に当たると痛みが走るようで、しばらくは左手一本でできる限りの作業をすることとなった。

 スターライトベーカリーにいつもの顔ぶれが揃い、メンバー全員ほっと胸をなでおろしていた。


 半田からのフランスパンについての講義をひとまず終え、いよいよ明日から待ちに待ったクロワッサンの作り方を教えてもらうということになり、香織は嬉しくて何も手がつかなくなってしまい、布団に入ってもなかなか寝つけなかった。仕方ないので香織はスマホでクロワッサンについてあれこれと調べていた。

 オスマン帝国(現在のトルコ共和国)という強大な国家が、十三世紀から二十世紀初頭まで存在し、その領域はアジア、アフリカ、ヨーロッパにまで及んでいた。

 十七世紀後半、そのオスマン帝国軍がオーストリアのウイーンにいたローマ皇帝を包囲したことが発端となり大トルコ戦争が始まった。最終的にはローマ皇帝がオスマン帝国を破り、オスマン帝国は衰退の道をたどることになる。オーストリアではこの戦勝を祝し、オスマン帝国の国旗に描かれていた三日月をかたどったパンが考案され、これが「クロワッサン」の原型となった。(フランス語で三日月を「クロワッサン」と呼ぶ)

 その後、オーストリア出身のマリーアントワネットが十四歳でフランスのルイ十六世のもとに嫁いだ際、フランスにクロワッサンを持ち込んだといわれている。

 それ以来、クロワッサンはフランス国内でさかんに食べられるようになった。

 だが、後にフランス革命が起こり、マリーアントワネットは処刑されその短い生涯を終える。そんな歴史がクロワッサンにはあった。

 クロワッサンの歴史を知った香織は、自分自身の家族の顔を思い起こしていた。ヨーロッパへの卒業旅行で偶然口にしたクロワッサンのあまりの美味しさに感動し、パン職人になることを決意したのはいいが、歴史ある米野屋の仕事を受け継ぐことをやめてしまった。そして妹の舞が急遽跡継ぎに指名され彼女のプロダンサーになるという夢まで壊してしまった。香織のわがままから家族に大きな迷惑をかけていた。おまけにあこがれていた田端が自分と入れ替わるように米野屋に入社をし、すべてがちぐはぐになってしまった。大人しく両親の言うとおり米野屋を受け継いでいればよかったのだろうか。香織は一人悶々としていた。今のスターライトベーカリーの仕事に不満があるわけではない。むしろ楽しくやりがいを感じていた。ただあの米野家の和室での話し合いの時、母親と勢いでしてしまった「世界一のパン職人になる」というとんでもなく重大な約束に頭を悩ませていた。現実的にはどうすればいいのか。香織には具体的な構想は何もなく、とてつもない高い目標だけが中に浮んでいた。まるで広大な砂漠の中で一人ぽつんと取り残されてしまったような感覚で、香織の悩みは日々深まるばかり。一人あれこれと思いを巡らせているといつのまにか眠りについていた。


 翌朝、いつもの時間に香織と亜美はコックコートに着替え半田の指導が始まるのを待ち構えていた。普段であれば半田が先に出勤し、そこに香織と亜美が慌てて厨房に駆け込んでくるというのがいつものパターンだったが、今日はいつもの半田の姿がなかった。

「どうしたんだろう」

「半田さんらしくないよね」

 香織と亜美は二人とも寝ぼけた顔のまま話をしていると事務所の電話が鳴った。半田からの電話で、体調がすぐれなくて出勤が少し遅れるという。                                                                                                    

「半田さんって身体は丈夫そうだけど、やっぱり生身の人間だし、体調が悪いときだってあるよね」

「いつも元気な人だったから余計に心配だよね」

 実際、半田はスターライトベーカリーがオープンしてから営業日に休んだことは一度もなかった。店長の杏子も久留美も心配で落ち着かない。それから一時間ほどして半田は厨房に現れた。

「すまん。少し体調が悪くてな」

 そう言いつつ半田は激しく咳き込み、かなり苦しそうな様子だった。

「まず、クロワッサンの話を始める前に、大事なことを確認しておこうと思う」

 半田が出勤してほっとしていた香織と亜美だったが驚いたように半田の前に歩み寄っていった。

「具体的に米野と持田の今後の目標を決めておこうと思う」

「はい」

 どんな話が出るのだろうかと香織は少し緊張しつつ次の言葉を待った。

「五年間で世界一のパン職人になるという目標の話だ。米野が入社してもうすぐ一年になる。この間にパン職人としての基本は教えてきた。残された時間はあと四年。米野、どういう方法で世界一を目指すのか考えているか?」

 半田から単刀直入に質問された。

「はい。そうですね。ウチの常連のお客さんたちに認めてもらって、そこから口コミが広がってじわじわと実力が認められて、世界一になるとかでしょうか。ハハハ」

 香織は頭を掻きながら苦し紛れに答えた。

「そんな漠然とした計画ではいつまでたっても世界一は無理だぞ。キッチリ目標を明確に立てて取り組まないと米野も持田もあっという間にお婆さんになるぞ」

 香織は自分や亜美がお婆さんになった姿を想像し一人でニヤリと笑っていた。

「まず具体的な目標を決めよう。フランスでパン職人の世界一を決める世界選手権が毎年開催されているのを知っているか?」

 それを聞き二人はただ首を捻るだけだった。

「それが『ブーランジェコンクール』というパン職人の世界選手権だ。そこに日本代表として出場し、世界一を獲る。これまで日本チームの最高順位は二位で、まだ誰も優勝していない。この大会で優勝すれば文句なしで世界一だ。もちろん五年以内に、いや四年ちょっとの間に優勝することを目標にする。その前提として日本代表にならないと話にならん。とにかくこの世界選手権の日本代表をとりにいく。まず、誰もが認める日本トップのパン職人になるんだ」

「はい」

 元気よく返事をしたものの香織も亜美もどうすればいいのかよくわからなかった。

「とりあえず、今日から教えるクロワッサンをマスターしたら、大まかなパン作りの基本は一通り覚えたことになる。そこから先はすべてバリエーションだ。まずクロワッサンの作り方をきっちり身につけるしかない」

「はい」

 香織もこれから何が起きるのか頭の中では期待と不安が入り交じっていた。

 そこまで話すと半田は少し事務所で休憩をした。半田の体調はすぐれないままだったが

 なんとかクロワッサンの技術を香織と亜美に伝えたいという思いだけで出勤していた。

 半田は青白い顔色のままで厨房に戻ってきた。

「すまんが、休憩しながらクロワッサンの話をさせてもらう」

 香織も亜美も、申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、懸命に半田の説明をしっかりと学ぼうという姿勢だった。

「まずクロワッサンは、他のパンと違い、とにかく手間がかかる。まずそこが他のパンと基本的に違う部分だ。手間がかかった分だけ美味しいとも言える。生地を何度も何度も折り重ね、その生地の間にバターを入れる」

 半田の話にも徐々に熱が入っていた。

 実はスターライトベーカリーでは月に数回しかクロワッサンを焼いていなかった。クロワッサンを焼くにはどうしても他のパンよりも時間と手間がかかってしまうため、作る余裕のあるときにだけ焼くことにしていた。本来であれば、毎日定番メニューのように店頭に並べたい商品だったが、他のパンが数種類減ってしまうことになる。そこは半田と星野姉妹との話し合いでスターライトベーカリーとして、クロワッサンは毎日のメニューには入れないということにしていた。半田の思いとして中途半端なものは店に出したくないというこだわりもあった。常連客もそのことを理解し、もしクロワッサンが並んでいれば喜んで買っていくという商品になっていた。

 半田のクロワッサンについての説明は普段とは違いより真剣であり、香織たちにパン職人としての技術をすべて伝えるかのようでさえあった。

 香織と亜美も日々の半田との特訓の中でそのことは十分に感じとっていた。彼女たちも半田の思いに応えるようと真剣にパン作りに取り組んだ。とりわけ香織はあこがれのクロワッサンを最高の師匠である半田に教えてもらいながら自分自身で作っているということが嬉しくて仕方なかった。

 作業を開始してから一時間ほど経過した頃。半田の身体が急に倒れそうになった。

「半田さん、大丈夫ですか?」

 香織が寄り添い半田の身体を支えた。

「すまんが少しだけ休憩させてもらう」

 そう告げると半田は厨房からゆっくりと出ていき、事務所のソファでしばらく身体を休んでもらうことにした。

「半田さんは体調が悪いのにかなり無理をして出勤してくれたんだよ。そこまでして私たちにクロワッサンの作り方を伝えようとしてくれているんだ」

 香織は苦しそうに目を閉じて休んでいる半田の姿を見ると胸が熱くなり、半田をそっとしたまま事務所の扉を閉めた。

 しばらくそのままの状況で時間が流れていった。パン作りの師匠である半田が万全の体調で教えることができなくなってしまった。香織と亜美は今後のことを相談していると塩村が近づいてきた。

「僕でよければクロワッサンについて知っていることをお話ししましょうか?」

「塩村君、店の他のパンを焼かないといけないけどいいの?」

 香織は嬉しかったものの、一人で店のパンを焼いていた塩村に負担がかかってしまうことを心配した。

「大丈夫ですよ。今なら焼き上がるのを待っているだけですから。何度か半田さんと一緒にクロワッサンを焼いたことあるのは僕だけですから」

「ありがとう」

 亜美も塩村の言葉がありがたかった。

「でも、深い部分については僕も何もいえないです。ただ、クロワッサンのつくり方の手順を知っているというだけです。細かいことは半田さんじゃないとわからないことは山ほどありますから」

 まだ先日の右手の大ケガが治って間もない塩村だったが、香織たちにとっては救いの神が現れたかのような声だった。

「ありがとう。まず私たち三人でクロワッサンを作ってみようよ。それで困ったら半田さんに相談することにしよう」

 香織が笑いながら亜美の肩をポンと叩いた。

「そうだね。とにかく始めよう」


 半田の体調が思わしくないためにしばらくこの方法でクロワッサンを作ることになった。

 半田の話をもとに塩村が中心となりクロワッサンを焼き上げていった。そんな日々が何日も続いた。半田は店になんとか出勤はするものの体力が続かなかった。

 そこで半田には事務所のイスに座ってもらい、そこからクロワッサン作りをしている三人に指示を出してもらうという形をとることになった。

 唯一、半田のクロワッサン作りを知っている塩村だったが、それだけでは思うようには焼けなかった。焦がしてしまったり、うまくふくらまなかったりと思考錯誤しながら焼き続けた。時折、香織は事務所に様子を見にいくと、半田はソファの上で横になったまま肩で息をしていた。額にはうっすらと汗もかいていたので、香織が安易に声をかけることさえ憚られるような状態だった。

「クロワッサンのことを聞いても大丈夫ですか」

 香織は恐る恐る訊いてみた。

「ああ。いいぞ。クロワッサンはそんな簡単には上手く焼けないぞ。慌てなくていいから自分たちで焼き時間とか、生地の捏ね方や成形の仕方をもう一度見直してみろ。自分のベストの方法がきっと見つかるはずだ」

 半田は目を閉じ、しゃがれた声で香織の話に応じてくれた。

「わかりました。やってみます」

 香織はそうこたえると厨房にもどっていき、自分たちの作業方法を見直すということを繰り返すしかなかった。なかなか思うようなクロワッサンを焼くことはできなかったが、何度も生地とにらめっこをしながら考えるというこの時間が香織にとっては「至福の時」でもあった。こうしてクロワッサンと真剣に向き合っていることがどんなことをするよりも香織は幸せを実感していた。

 だがクロワッサンに挑戦しつつ半田の体調を思うと香織は目頭が熱くなってしまった。

「半田さん、家で一人だけなんだよね。それも心配だよね」

 亜美が生地を捏ねながら口を開いた。

「えっ。奥さんいないの?」

 香織は今さらながら驚いていた。

「奥さんは亡くなったのよ。このスターライトベーカリーが始まる少し前に」

「そうだったんだ」

 香織は作業の手が止まってしまった。

 半田は、ブランジェリー藤が丘に勤めていた時、妻の洋子が病気で長期の入院をすることになり、しばらく仕事を休み病院で付き添っていた時期がある。そして六年前、半田の妻・洋子は病気で亡くなってしまう。半田は、そのことをかなり悩んでいたという。あまりにもパン職人として忙しく、妻の洋子と二人だけの時間がほとんど持てず、そのことをかなり後悔していた。そんなプライベートな時間も持てないような仕事ならばいっそのこと辞めて、妻・洋子の供養をしてあげたいと半田は考えていた。

 だが、そんな時、一輝と太陽の事故が起きた。

 杏子や久留美の苦しみを思うと他人事とは思えず、いてもたってもいられなくなり、二人の激励をした。二人を励ますうちに、半田は自分の人生を振り返っていた。

 半田はパン職人として生きてきて妻・洋子と結婚した。ブランジェリー藤が丘で一輝とも一緒に働き、ともに「美味しいパンのつくり方」を研究し抜いた日々。そのことを思い起こしていた。

 そして、洋子も一輝も亡くなってしまった。残りの人生をどう過ごすのか。半田は一人逡巡していた。自分の焼くパンを「美味しい、美味しい」といって笑顔で食べてくれた妻・洋子。その一方、一輝の夢だったパン屋をオープンする準備はかなり進んでいたが、突然の事故で星野姉妹は悩みふさぎこんでしまい、夢だったパン屋の開店も難しくなってしまっていた。

 半田は何日も悩み抜いた末に一つの結論を出した。

「自分が一輝の代わりにパンを焼こう。そして杏子と久留美を激励してパン屋をオープンさせよう」と考えた。つまりスターライトベーカリーは一輝自身の夢だったが、半田にとってもぜひ開店して欲しいと心から願っていた。亡くなった妻の洋子も一輝のパン屋ができることを楽しみにして、オープンしたら半田と二人で行こうと相談していた。星野姉妹、半田の願いが結集した店。それがスターライトベーカリーだった。そして、自分の後継者を育てるために香織、亜美、塩村にパン作りを教えてきた。この三人が次の時代のスターライトベーカリーのパンを作るのだ。

 そもそも世界一という目標は香織が母親と口喧嘩したことがきっかけで始まった話だったが、一輝もいつの日かパン職人の世界選手権に出場することを夢みていたという。世界一になるというのは香織の大きな夢だったが、実はスターライトベーカリーの目標でもあったのだ。

 その話を聞いて、香織はよりクロワッサン作りに力が入った。


 時間はかかったけれども、香織、亜美、塩村の三人で苦労しながらクロワッサンをなんとか焼き上げることができた。塩村が半田に教えてもらった経験をもとに焼き上げたのだ。

 事務所にいる半田が三人の焼き上げたクロッサンを試食した。

「よし。これなら店に出してもいいだろう」

 何日もかかったが、やっと半田のOKが出た。

 香織たち三人は手を取り合って喜びあい、半田も香織たちの成長していく姿を心強く思って眺めていた。


 その翌日、仕事終りに半田が三人を呼び集めた。

「ちょっと今日は大事な話がある」

 三人とも、緊張した面持ちで半田の前にずらりと並んだ。

「今後のことを話したいと思う」

「これで、米野も、持田も、塩村も三人とも、一通りパン作りの基本は教えた。これから世界一を目指してレベルを上げていく段階になった」

 三人とも静かにうなずき黙って半田に注目した。

「そこで、パン職人の世界選手権を開催するフランスへ研修にいってもらいたい」

 突然の提案だった。半田は香織たちが世界一になるためのプランを誰よりも綿密に考えていた。そのためには、まず、本場のフランスで研修し、自分の目で海外のパン作りの現場を見て、外国人との交流をすることが重要だと考えた。そして世界選手権の開催されるパリの空気や水を体感することでどんなパンが作られているのか、現地の人々のパンに対する考え方を肌で実感して欲しかった。日本国内でみっちりとパン作りの経験を積んでから海外で腕試しをするという方法もあるが、あと四年というタイムリミットを考えると時間が足りない。そこで経験はまだ浅いが今の段階からパリに行って研修するほうが結果的に早く結果を残せると考えた。

「私が昔、フランスで修行をしていたとき、一緒に働いていたパン職人がいま、パリで店を経営している。もちろん超一流の店だ。その店に君たちを鍛えてやってくれと研修のことを伝えてある」

 三人とも突然の話で驚いていたが、世界一になるにはそれぐらい思い切った行動をしていかないと難しい、という現実も理解できた。塩村は家族を支えなければならないこともあり、香織と亜美の二人がパリの研修へ行くことになった。香織と亜美は費用のことが心配だったが、半田と星野姉妹が全面的に支援してくれることになった。パン職人世界一という夢は香織の目標であり、スターライトベーカリーメンバー全員の夢でもあった。

「私がクロワッサンの作り方をしっかりと教えてやることができなかったから、パリでしっかり覚えてくるんだぞ。本場の味を食べて、あらゆることを学んでこいよ」

 半田は力をこめて伝えた。

「はい、行ってきます」

 二人の目は希望を胸に輝いていた。


 世界一を目指し香織と亜美は、一路フランスへ向かった。


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