37.魔法が使えた日(2)
ぐんぐんと、大杖は夜空を駆け上がっていく。
頬を撫でる風はひんやりと冷たい。それなのに胸の奥は不思議なくらい熱くて、怖さよりも高鳴る鼓動のほうがずっと大きかった。
やがて雲を突き抜ける。その瞬間、視界が一気に開けた。
夜空には、手を伸ばせば触れられそうなほど近くに月が浮かび、その周りを無数の星々が散りばめられている。どの星も息を呑むほど眩しく、今にも空から降り注いできそうだった。
「あははははっ! 到着!」
思わず笑い声がこぼれる。夢の中でしか見られないと思っていた景色が、今は目の前いっぱいに広がっている。その美しさに息を忘れ、ただただ見惚れてしまった。
「一度、雲の上に来てみたかったんだよね。だから……その夢が叶って、本当に嬉しい」
胸いっぱいに夜空を吸い込みながら呟くと、隣から優しく微笑む気配がした。
「だから、こんなに高くまで来たんですね。少し怖いですけれど……ルシアと一緒なら、平気です」
そう言ってティアリスは柔らかく微笑み、そっと私の手に自分の手を重ねる。夜空の冷たさとは対照的に、その温もりは驚くほど優しくて、指先から胸の奥へと静かに染み渡っていった。
「魔法を使ってからのルシアは、まるで子供みたいにはしゃいでいて可愛かったです。ふふっ、さっきまでずっと笑っていましたよね」
「だって、魔法を使えるって本当に楽しくてさ! 想像していたよりも、ずっと、ずっと楽しかったんだもん! 今だって、まだ笑っていたいくらい」
「なら、ずっと笑っていてください。私は、そんなルシアを見ているのが好きですから」
穏やかな微笑みとともに返された言葉に、胸の奥がふわりとくすぐられる。照れくさい。だけど、その恥ずかしささえ心地いい。
胸いっぱいに満ちる幸福が、それをあっさりと飲み込んでしまう。隣には、大好きな人がいる。ずっと憧れていた景色が、目の前に広がっている。
夢にまで見た空を、大好きな人と一緒に見上げている。こんな幸せが、この世界にあるなんて。
「……ティアリス、ありがとう。私を、ここまで連れてきてくれて」
自然と零れた感謝の言葉に、ティアリスは目を丸くした。
「えっ? わ、私は何もしていませんよ? ここまで来られたのは、ルシア自身の力です」
「ううん。ティアリスのおかげだよ」
私はゆっくりと首を横に振る。
「私のために、魔力を増やす方法を探してくれた。難しい方法を一人で習得までしてくれた。……ティアリスは強引に私を連れ出して、『諦めなくていい』って教えてくれた」
一つひとつ思い返すたび、胸がじんわりと熱くなる。
「ティアリスが動いてくれなかったら……私はきっとあのままだった」
魔法は使えないまま。夢は夢のまま終わっていた。今日という景色も、この感動も、きっと一生知らずに生きていた。
「だから……全部、ティアリスのおかげ」
私のために必死になってくれた。私の夢を、自分のことみたいに大切にしてくれた。その事実が嬉しくて、胸が苦しくなるほど愛おしかった。
「じゃ、じゃあ!」
すると、ティアリスが切羽詰まったように距離を縮めてきた。手をギュッと握って、懇願するような顔をする。
「もう、離れなくてもいいですよね? ずっと、傍にいてくれますよね?」
なぜ、突然そんなことを言ってきたか分からない。だけど、ティアリスには重要なことらしく、熱い視線を向けてきた。
不安な気持ちを見せつけられて、胸が締め付けられる。そんな顔をさせたくないのに……私が言葉が足りないから……。
だから、手を握りしめた。強く、離さないように。
「うん、離れないよ。ずっと、傍にいる」
「だ、だったら……新しい約束してください。あの時みたいに」
そう言って、ティアリスは真剣な表情のまま、小指を差し出してきた。月明かりに照らされた白く細い指が、ほんの少しだけ震えている。
その震えを見た瞬間、胸が締めつけられた。ティアリスは、本気で怖かったんだ。また私が離れてしまうことが。それほどまでに、私を失うことを恐れてくれていた。
「……うん」
私は静かに頷き、自分の小指をそっと差し出す。絡み合った小指は、あの日と同じはずなのに、あの頃よりずっと温かかった。
出会ったばかりの頃は、ただ古代魔法を教える先生と生徒。今は違う。
嬉しいことも、苦しいことも、夢も、涙も。たくさんの時間を重ねてきたからこそ、この小さな約束の重みが胸に染み渡る。
「約束する。私はティアリスから離れない。これからずっと、何があっても」
その一言を口にした瞬間、ティアリスの翡翠色の瞳が大きく揺れた。月明かりを映したその瞳が潤み、今にも涙が零れそうになる。
「……はい」
震えた返事と一緒に、小指へ力が込められる。私も応えるように、そっと指へ力を返した。
「約束ですよ」
「約束」
二人で小さく笑い合う。だけど――。
「あっ!」
「えっ!? ど、どうしました!?」
「ティアリスに言うの忘れてた!」
「な、なんでしょうか!?」
しまった……重要なことを言い忘れていた。そう思うと、大杖の浮力が弱まっていく。
「魔力が尽きるって」
そう言い終わると、大杖の浮力がフッとなくなり――盛大に落下していった。
「あわわわわわっ!」
「あはははははっ! すごーい! 速い!」
「そそそ、そんなことを言っている場合じゃありませんよっ!」
風が、悲鳴のような音を立てて耳元を吹き抜ける。さっきまで穏やかだった夜空が、一瞬で牙を剥いた。地面へ向かって一気に引きずり込まれる。
「きゃああああああっ!」
ティアリスの悲鳴が夜空に響いた。髪は激しくなびき、服がばたばたと暴れる。胃がふわりと持ち上がるような浮遊感に、景色が目にも留まらぬ速さで流れていく。
月も星も、雲さえも後ろへ置き去りにして、二人で夜空を真っ逆さまに落ちていた。
「す、すごいすごい! 本当に落ちてる!」
「楽しんでいる場合ではありませんっ! 地面がどんどん近づいていますよ!」
ティアリスは必死に私の手を握り締める。このままでは、本当に墜落してしまう。だけど、大丈夫。ティアリスがいるから。
「これは早く魔力補給をしないといけないねぇ」
そう言うと、私はぐっとティアリスの腕を引いた。急降下する勢いの中、腰に手を当てて引き寄せるとお互いのの体が密着する。
互いの吐息が触れ合うほどの距離。夜風とは違う温もりが、すぐそこにあった。
「キスしてくれる?」
悪戯っぽく微笑むと、ティアリスは一瞬目を丸くする。
「~~っ」
みるみる頬が朱に染まり、恥ずかしそうに視線を揺らした。それでも、小さく息を吸うと覚悟を決めたように頷く。
「……はい」
照れ笑いを浮かべながら、少しだけ拗ねたような声で続けた。
「今度は……もっと早く言ってくださいね」
「ごめんごめん」
思わず笑うルシアに、ティアリスも苦笑を返す。そして片手で杖をしっかりと握り直し、静かに魔力を巡らせた。
ティアリスは震える指先で私の頬へそっと手を添える。落下の風が二人の髪を激しく揺らしているのに、その手だけは驚くほど優しかった。
蒼の瞳が、すぐ目の前で揺れる。恥ずかしさと愛しさを滲ませながら、ティアリスは静かに瞼を閉じた。
そして――そっと唇を重ねた。




