36.魔法が使えた日(1)
……浮いた。私の体が、浮いている。私自身が発動した魔法で宙に浮かんでいる!
「ティアリス、見て! 私……私、魔法が使えてる!」
「はい! ちゃんと見ています! ルシアは、自分の力で魔法を使えています!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥から込み上げてくるものを抑えられなかった。
できた……本当に、できた! 夢じゃない!
何度も夢見て、何度も諦めてきた景色が、今、目の前に広がっている。体を包む浮遊感が愛おしくて、祝福してくれているように思えた。
嬉しい。嬉しい、嬉しい、嬉しい! その言葉だけでは、とても足りない!
幼い頃、魔法書を抱えて眠った夜。魔法が使えないと知って、誰にも見つからないように布団の中で泣いた夜。研究を続けても何も変わらず、それでも「いつか」を信じて机に向かい続けた日々。
全部、全部、この一瞬へ繋がっていた。
「あはっ……あははははっ!」
笑みが零れる。止まらない。泣きそうになるくらいに嬉しいのに、不思議なくらい心は軽かった。
私は飛べる。憧れ続けた魔法を、この手で扱える。ずっと、焦がれていた魔法をようやく発動出来たんだ。
世界が変わったわけじゃない。変わったのは、私だ。変えてくれたのは、ティアリスだ。
ずっと届かないと思っていた夢へ、ティアリスが導いてくれた。全部、ティアリスのお陰だ。
「ティアリス、来て!」
手を伸ばすと、ティアリスが手を重ねてくれる。その手を引っ張って、大杖に腰かけさせると、魔力を流す。
すると、大杖が急上昇していく。
「わっ!?」
「このまま、空まで!」
しっかりと魔法を構築すれば、魔法が発動する。当たり前の事なのに、それが凄く嬉しい。
落ちないようにティアリスの腰を支えると、強く発動した。大杖は物凄いスピードで夜空へと登っていく。
「は、速いです! ど、どうしてこんなにも魔法を使うのが上手いんですか! 今日、初めて使いましたよね!?」
「そりゃあ、毎日のように魔法構築をしていたからだよ! 構築は完璧! 魔力が足りなかったから発動出来なかっただけ!」
思うように魔法を発動できる。この瞬間をずっと待ちわびていた。この感触が欲しかった。大杖は夜空を切り裂くように駆け上がる。
「きゃっ……!」
ティアリスが思わず私にしがみつく。その重みさえ今は心地いい。
頬を打つ夜風がどんどん強くなる。髪が後ろへと流され、服の裾が激しくはためいた。ひんやりとした風が火照った頬を撫でていくたび、胸の奥まで澄み渡っていくようだった。
ぐんぐんと高度が上がっていく。学園の校舎が小さくなり、やがて王城の白い尖塔さえ足元へ沈んでいく。
「見て、ティアリス!」
興奮を抑えきれず指を差す。街を彩っていた灯りは、いつしか無数の星屑のように地上へ散りばめられ、その向こうには黒々と連なる山々が夜の帳に溶け込んでいた。
空気が変わる。下では温かい空気を含んでいた風が、ここでは肌を刺すほど冷たい。息を吸うたび肺の奥まで澄みきった空気が満ちて、胸がいっぱいになる。
鼻先をくすぐるのは草木の匂いではなく、どこまでも透き通った夜の匂い。耳に届くのは風が唸る音だけ。それなのに、不思議と静かだった。
世界中の喧騒を置き去りにして、私たちだけが空を駆けている。
「あははっ!」
笑い声が夜空へ吸い込まれていく。
こんな景色があったんだ。こんな世界が、空の上には広がっていたんだ。
王城を越え、山々を越え、さらに高く。
手を伸ばせば届きそうなほど月が近づいてくる。銀色の月光が私たちを包み込み、星々はまるで祝福するように瞬いていた。
――だけど、それを邪魔するものが現れる。
「ギャァッ!」
「あっ、あれは――ワイバーン!」
人が居ない場所には魔物がいる。空にはまるで自分の縄張りだと言わんばかりにワイバーンが現れた。
以前の私なら歯が断たないけれど――今の私ならどうにかなる。
「ティアリス、大杖にしっかり捕まってて。私が相手をする」
ふわりと体を浮かせると、大杖の上に立ってみせる。ポケットから自分の杖を取り出すと、ワイバーンに向けた。
「えっ!? む、無理ですよ! ワイバーンは魔法士十人がかりで倒す魔物です! 私、そんなに魔力を渡せてました!?」
「んー……平民の子供一人分ちょっと?」
「だ、だったら相手にしないほうが!」
「大丈夫! だって、私が使うのは古代魔法だから!」
現代魔法よりも古代魔法が凄いってところを見せてあげる。
すると、ワイバーンが大きく翼を広げる。月明かりを遮るほどの巨体。黄金色の瞳が獲物を捉え、喉の奥から獰猛な唸り声を響かせた。
「ギャアアアァァッ!」
空気を震わせる咆哮と共に、一気にこちらへ突っ込んでくる。
「ルシア!」
「大丈夫」
私は杖を構えたまま微動だにしない。ワイバーンの牙が届く――その寸前。
「――そこっ!」
私の意思に呼応するように、大杖がふわりと横へ滑った。ワイバーンは勢いを殺せず、そのまま私たちの真横を掠めて飛び抜ける。
ゴォッ、と暴風だけが身体を揺らした。
「えっ!? て、手で大杖を触っていないのに、操作が出来るんですか!?」
「しーっ。口を閉じて、危ないよ」
「は、はいっ!」
その瞬間、ワイバーンが急旋回した。夜空を裂くように翼を打ち鳴らし、再び一直線に突っ込んでくる。私は空中を蹴るように身体を翻し、大杖を旋回させる。
右へ。左へ。急上昇。急降下。
まるで私自身が空を泳いでいるように、大杖は思い描いた通りの軌道を描いていく。
ワイバーンの鋭い爪が空を裂く。牙が目前を通り過ぎる。尾が唸りを上げて薙ぎ払われる。そのすべてを紙一重でかわし続けた。
「す、すごい……!」
ティアリスが息を呑む。ワイバーンは苛立ったように咆哮し、何度も旋回して襲い掛かってくる。
でも、対処できる。私は何百回、何千回と頭の中で飛行術を組み立ててきたのだから。
「そこだっ!」
大杖が一気に加速する。風を切り裂き、ワイバーンの頭上へ。気づいた時には、私たちはすでに奴の背後――さらに上空を取っていた。
ワイバーンが慌てて首を巡らせる。だけど、遅い。私は杖を差し向けた。
膨大ではない。けれど、精密に練り上げられた魔力が杖先へと収束する。術式は一瞬で完成した。
「いけっ!」
杖の先から赤い火花が一直線に夜空を駆ける。バチッと小さな音を出して、一条の閃光がワイバーンの頭へ吸い込まれた。
一瞬の静寂。次の瞬間――ドォォォォンッ!!
ワイバーンの頭部が爆ぜた。爆炎と衝撃に呑まれて夜空へ飛び散る。爆風が辺りに広がり、強風が吹き荒れた。
巨体は力を失い、翼だけが虚しく何度か羽ばたく。やがて頭を失った身体はくるりと反転し、そのまま真っ逆さまに落下していった。
私はゆっくりと杖を下ろし、ふっと息を吐く。
「うん。やっぱり古代魔法は現代魔法よりも強い」
「えっ……ワイバーンが一撃で……」
「見てくれた!? これが古代魔法の凄さだよ!」
嬉しくてたまらなかった。今まで誰にも証明できなかった理論が、ようやく現実になった。
魔法が使えないと笑われても、古代魔法なんて空想だと言われても、信じ続けてきたものが、今、確かな形になって目の前にある。
私は大杖に腰を下ろすと、興奮したまま古代魔法の理論や可能性を夢中になって語り始めた。ティアリスはそんな私の話を何度も頷きながら、嬉しそうに聞いてくれる。
月明かりに照らされた夜空を、二人を乗せた大杖がどこまでも駆けていく。頬を撫でる風は冷たいはずなのに、不思議なくらい温かかった。




