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08 策謀

 やがて、ホスローの喉の奥から押し殺した笑いが洩れる。声になり切らぬ笑いが続き、やがて自ら噛み砕くように途切れた。


 「我が奴隷の身でありながら」


 指に力がこもる。王の命を受けた者が、それを胸一つで裏返した。クバードは生きている。アデルグドゥンバデスが、王命を偽りの文で守ったがゆえに。


 ホスローはふと視線を落とした。衣の縁をつまんでいた指先が、ゆっくりと布地を離れる。胸の内では可笑しさと怒りが絡み合い、どちらにも傾き切らぬまま煮え立っていた。王が秤に掛けたことを、臣下が別の秤で量り直したのである。


 ザメスの名は、一度は葬ったはずであった。王家を巡る疑いとともに、その血も土の下へ埋めたつもりでいた。だがその子が辺境で生きていると知った刻から、戦場で高まったかつての名といま冠をいただく己とが、再びひとつの秤の上に並ぶ。


 「ザメスの血を残すか。あの老いぼれが」


 低い呟きが卓を這う。アデルグドゥンバデスは、先王の代から東方を守り続けてきた。砦と兵と民とを預かる務めを与えられ、その地で功を重ねた。だからこそ、ザメスの子の始末を託したのである。


 その腕が、命を退けた。


 ホスローは顔を上げ、幕舎の天井を見た。コルキスへの軍を自ら率いて山を越えつつあるこの時、東の果てではなおアデルグドゥンバデスがカナランとして王の手の外縁に立っている。砦の上で何を語ろうとも、都からは届きにくい場所であった。


 将が己の正しさを掲げて王命を量る。ザメスの頃と変わらぬ構図が、別の名を通じて現れたようにホスローには見えた。王家の名が一つであることを示すために振るった刃が、いまだ根を断ち切っていない。


 笑いが、もう一度喉にこみ上げた。今度の笑いには、もはや可笑しさの色は薄い。王の意志を奪おうとする者への怒りと、王家の秤を自ら据え直そうとする決意とが、その響きにひそんでいる。


 「そうか」


 ホスローは卓に置かれた地図へ手を伸ばした。指先が、東方の山並みのあたりに触れる。そこにいる老将を王の目と手の届く場へと引き寄せぬかぎり、ザメスの影もクバードの名も、完全には消えぬと悟っていた。


 ホスローは束の間黙し、それから顔を上げた。幕舎の床に膝をついているヴァラメスを見やり、その眼を測るように見据える。


 「そなたは、何を望んでここまで来た」


 問いに、若者の肩がわずかに動いた。父を告発する言葉を吐き出したばかりの喉から、今度は自分の欲を出さねばならぬ。躊躇はあったが、退く道はとうに断っている。


 「東方の地を、陛下の御ために預からせて頂きとうございます。カナランの務めを、この身にお与え下さればと」


 ホスローは息を吐いた。やはり、と思う。父の築いた砦と兵を王に差し出し、その代わりに地位を請う。王にとっては扱いやすい欲であった。


 「望みは聞こう」


 そう答えながら、思考はすぐに別の筋道を描き始める。


 ホスローは卓に広げられた地図に視線を落とした。山を越えた先に走る一本の河、その両岸に広がる地を目でなぞる。


 「コルキスから軍を返す折、私は全軍を二手に分けると書き送ろう。一方は私自らが率い、もう一方を、王と並ぶ誉れを与える唯一の臣下に託すとな」


 ヴァラメスの喉が小さく鳴った。父の名がそこに置かれることを、すぐに悟ったのであろう。


 「父はそれを誇りと受け取り、都へ出て来るはずです」


 ホスローはうなずき、言葉を継いだ。


 「文には、戦の構えを詳しく記す。ユーフラテスの両岸から攻め込めば、帝国の守りは割かれよう。私とアデルグドゥンバデスがそれぞれの岸を預かるとあれば、他の者らも疑うまい」


 戦の大構えは、実のところ紙の上にすぎぬ。だが兵と諸侯は、王が自ら矛を執ると知れば、それだけで血を奮い立たせる。老将もまた、長く求めてきた誉れをそこに見いだすに違いなかった。


 「ただし、砦ごとこちらへ引き連れて来られては困る」


 ホスローは言う。


 「まずは自ら出頭せよと命じる。戦の図を共に練るためだと書き添え、砦の守りもあるため、部下や兵は少数のみでよいと記しておけばよい」


 アデルグドゥンバデスが山を下りたのち、東方の地には新たな守り手を据える。老将の命もまた、王の掌の上で量られていた。


 ホスローはヴァラメスを見下ろす。


 「そなたは、この策の始まりに名を連ねた。のちに東方の務めを望むならば、私の言葉を洩らすな。耳と口を持たぬ者として、ここに留まれ」


 ヴァラメスは深く頭を垂れた。父を売ったその場ですでに新たな主に縛られていることを、はっきりと理解する。


 油灯の明かりがいくぶん落とされ、幕舎の内は濃い影に飲まれた。ホスローは卓の前に坐したまま指を組み、目を閉じていたが、やがて顔を上げる。入口近くにはヴァラメスとミフルダードが膝を折って控えていた。告発の言葉を吐き出したあとも、額を伏せたまま、王の次の声を待っている。


 「書記を呼べ」


 命が下った。小箱を抱えた男が入って来て、羊皮紙と筆記具を卓の上に並べる。ホスローは一枚を手前に引き寄せ、先ほど胸に描いた戦の構えと老将への誉れ、出頭を命じる一節とを、余さぬよう順に示した。細かな言い回しそのものは書記に任せるつもりであったが、外してはならぬ骨は自ら口にせねばならぬ。


 先ほどヴァラメスの前で語った策が、そのまま王の言葉として紙の上に定められていく。


 ホスローの声を受け、書記はうなずきながら葦のペンを運び始めた。ヴァラメスは身じろぎもせず、葦の穂先が羊皮紙の上を滑る音に耳を澄ませていた。父の名と位がどのような調子で文の中に置かれていくのかを、言葉の抑揚から探ろうとしているようである。ミフルダードは視線を落とし、膝の上で固く組んだ指を解こうともしない。長く仕えた主の名の終焉をよく知っている者の手つきであった。


 やがて書記は手を止める。ホスローは羊皮紙を受け取り、行の端から端まで目を走らせた。遠方への遠征を語り、辺境の労をねぎらう文と見えながら、その読み手が山を下って都へ向かうほかなくなるよう道筋が仕込まれている。王は小さくうなずき、巻き取らせた。


 封を施す支度が行われる。辺境のカナランに送るにしては派手とも思える飾りの紐や印を用いさせた。遠い砦でこの封を目にする老将がどれほど胸を高鳴らせるかを思い描きながら、その誇りごと手繰り寄せる感触を心の中で確かめる。


 赤い粘土に王の紋が押し当てられ、印が浮かび上がるのをひと呼吸見つめてから、ホスローは側近の一人に目を向けた。


 「東方の路に通じ、口の堅い者を選べ」


 名を挙げさせるまでもない。事情を察している側近は、すぐにふさわしい顔を思い浮かべたのであろう。やがて選ばれた一人が呼び入れられ、巻かれた文を両手で受け取った。額を地に近づけて拝し、立ち上がると、迷いのない足取りで幕の外へ消えていく。


 その背が見えなくなっても、ヴァラメスとミフルダードはなお膝を折ったままであった。ホスローは二人に一瞥を送り、この若者と従者もまた、今しがた送り出した一通と同じく自らの掌の内にあると己に言い聞かせる。告発を口にした刻から、二人の行く末も王の秤の上に載せられていた。


 油灯の明かりが卓の地図を照らす。帝国との戦に備えて引かれた線の脇に、いま東方に向かって新たな筋が一本、重なっているように見えた。矛と盾が交わる前に、文一つで勝敗を定めようとする戦がすでに動き出している。ホスローはその戦を胸で押さえ、ゆるやかに組んだ指をほどいた。


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