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07 密告

 春とも夏ともつかぬ季節の風が、山々の尾を渡っていた。カフカスの連なりはまだ雪をいただき、その谷のあいだを、槍と旗の列が長く伸びている。


 その先頭に、ペルシア王ホスローの乗る馬があった。王は鞍上から前方を見やり、谷を塞ぐ巨木の一つひとつに目を留める。伐り倒された幹が、行く手の深い溝を埋めていた。兵たちはその上を渡り、荷車もまた大勢の手を借りながら、音を立てて進んでいく。


 「帝国も、北から矢が飛ぶ日が来るとは思うまい」


 王の脇を進む者が、半ば独り言のように洩らす。


 ホスローは答えず、黒海の方角に顔を向けた。山の尾根を越えさえすれば、コルキスの平地と海に臨む港が眼の前に開ける。その先には、帝国の州々が帯のように連なっていた。


 コルキス王グバゼスが初めて密使を寄越したのは、昨年のことである。ビュザンティウムの将が専売を強い、港の出入りを握ったと伝えて来た。兵はコルキスの民家に勝手に入り、金や糧を取り立て、王でさえ門前で待たされるのだと。


 『友と頼んだ帝国は、いまや我らの首に縄を掛ける者です。』


 文にはそう記されていた。王や貴族たちは、公には皇帝への忠誠を口にしながら、ひそかにホスローの庇護を求めていたのである。


 表向き、今回の遠征はその訴えに応えるためとされた。帝国の横暴を戒め、コルキスの王を旧き盟友として守る。そのためにホスロー自ら軍を率いたと、諸侯と兵には告げてある。


 だが王の胸には、さらに別の秤が据えられていた。


 イベリアの山道を押さえれば、内陸の民が帝国へ走る路は狭まる。コルキスの海辺を握れば、黒海沿いにいる諸族の矛先を好きな時に帝国の岸へ向けられる。ペトラのような港を一つ取れば、そこを根拠にさらに西の地にも火を放つことが出来よう。


 さらにホスローは、コルキスの民そのものにも信を置いてはいなかった。彼らはキリストを崇め、帝国の僧とも深く結びついている。王家を存続させれば、いずれどちらに身を翻すか分からぬ。ならば、山と海とを押さえたのちには民を別の地へ移し、代わりにペルシア人と辺境の兵を入れようとすでに心に定めていた。


 山中の一角に、仮の野営地が設けられている。伐り倒した木を立て並べただけの柵の内に、幾つもの幕が張られていた。先に越えた峠で待機していた諸隊が、そこに集められている。


 ホスローは陣の高みに馬を止めると、従者に手綱を預けて地に降りた。大地には靴の跡が刻まれている。彼はそれを一瞥し、山道を越えて来た軍を量るように歩みを進めた。


 ここは帝国とペルシアの境に近い。谷を抜ければもはやコルキスの領であった。ホスローはそこに自らの旗を立て、帝国と互いに睨み合う場を作ろうとしている。


 その日のうちに、王の陣に新たな一行が到着したとの報が入った。東方の辺境から来たと聞き、ホスローは名を尋ねさせる。


 「アデルグドゥンバデスの子、ヴァラメスと名乗っております」


 告げられた名に、王は眉をわずかに動かした。アデルグドゥンバデスは、先王クバードの代から辺境を支えてきた老いた猛将である。ザメスとも旧くからの付き合いがあったことを、ホスローはよく承知していた。


 「ここへ通せ」


 命じると、幕舎の入口が上げられた。山路の泥を帯びた外套の裾を払いつつ、一団の男たちが中に進み入る。先頭に立つ若者が一歩前に出て、膝を折った。


 「東方の地より馳せ参じました、ヴァラメスにございます」


 父に似て頑なそうな目をしている。額には旅の疲れが刻まれているが、その声に迷いはない。彼の背後には、鎖帷子を着けた者、弓を負った者が整列し、いずれも長く戦場を歩いてきた風であった。


 ホスローはその列をゆっくりと見渡す。辺境の地で鍛えられた兵と家臣は、今後コルキスに兵を移すにも用い得る。何より、アデルグドゥンバデスの家から男が出て来たことは、王家にとって軽くはない印であった。


 「そなたの父はどうしている」


 問うと、ヴァラメスは一瞬唇を引き結ぶ。


 「砦を離れませぬ。老いもあり、山道を越えるには堪えぬと申しました。されど、王のために働くべき者はまだ残っていると」


 言いながら、彼は背後の一人を手招きした。中年にさしかかった男で、目もとに慎重な色を宿している。


 「ミフルダード。父のもとで長く従者を務めていた者です。あの地のこと……ザメス殿下の時代からの事どもにも通じております」


 ザメスの名に、ホスローの眉がわずかに歪む。


 ミフルダードは頭を垂れた。


 「陛下の御前に出るを許され、身に余ることでございます。アデルグドゥンバデス様の命により、これよりは王の旗の下で働く覚悟を致しております」


 忠義を装う言葉は誰にでも口に出来る。だが、長く辺境で一人の主に仕えた者の胸には別の責務も刻まれていると、ホスローは経験から知っていた。


 「カナランの忠義はしかと受け取った」


 そう告げると、幕舎の空気がわずかに緩む。ヴァラメスは安堵とも決意ともつかぬ表情を浮かべ、もう一度礼をした。彼の背後の男たちもまた、王の前に膝をそろえる。


 ホスローはその光景を見ながら、心の内で別の算を弾いていた。アデルグドゥンバデスの家の者が、今この刻にザメスの名を挙げた意図を計ろうとしていたのである。


 ヴァラメスら一行が幕舎を辞してから、さほど日を置かずに、ホスローは改めて彼とその従者を呼ぶことにした。山風の入り込まぬ奥まった一室に席を設けている。


 「私にしたい話があるのではないか」


 王の言葉にヴァラメスは膝をつき、頭を垂れた。その肩がかすかに跳ねる。長く胸に抱えてきたものをいまここで差し出そうとしていると、ホスローには見えた。


 「……恐れながら、陛下にお伝えせねばならぬ事がございます」


 顔を上げた若者の目は、父に似て強情でありながら、その奥に別の翳りを宿している。


 「ザメス殿下の子、クバードのことにございます」


 その名が出たとき、王のまなざしが鋭くなった。


 「クバードは、死んではおりませぬ」


 ヴァラメスの言葉は、幕舎の空気を変える。


 「父は、陛下より賜りました手紙に従ったふりをし、殿下の御子を己が館に匿いました。そして、時を見て逃がしたのです。私はその一部始終を傍らで見ておりました」


 ホスローはすぐには口を開かなかった。アデルグドゥンバデスが辺境でどれほど忠勤に励んできたかを思えば、軽々しく断じることは出来ぬ。だが今その息子の口から語られた言葉は、王位をめぐる過去の不安と結びついて胸をざわつかせる。


 「証を立てる者はいるか」


 促されると、ミフルダードが一歩進み出た。


 「私もまた、事の始めから終わりまでを見届けております」


 ミフルダードは顔を上げぬまま、はっきりと言葉を継ぐ。


 「アデルグドゥンバデス様は、陛下の勅命に偽りをもって返し、ザメス殿下との約定を守られたのです」


 東方の辺境で起こっていた事どもが、一筋の線となってホスローの前に現れた。ザメスの最期の落ち着き。アデルグドゥンバデスが送ってきた報告の文。そのすべてが、いまの証言と結びついていく。


 ホスローは掌を膝の上でゆるく握りしめた。コルキスの山々を越え、帝国との新たな戦を始めようとするこの時に、王家の内から再び古い名が立ち上がろうとしている。


 「ほう。クバードが生きているか」

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