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06 追憶

 一陣の風が、高原の大地をさらう。アルダフルとアーザードは、旅人の足で押し固められた往来を西へと進んでいた。砦を発ってから幾日も進み、背後の畑や村は、もう見えぬところまで遠のいている。旅人の足でならされた路は次第に途切れ、石の混じる斜面が目につき始めていた。


 丘を越えるたび、眺めも変わる。遠くには雪を残した山なみが横たわり、その手前には荒々しい岩の帯が折れ重なっていた。


 路の脇には、小さな祠がところどころに建っている。石と木で組まれたその姿は、風雨に耐えながら旅人の祈りを受け止めていた。高原の町で見た火壇の堂々たる姿は遠い。


 「今しばらく進めば、フルワーンへ通じる峠の手前に着きます」


 前を行く隊商との間合いを測りながら、アーザードが言う。


 「このあたりからは北へ折れる路も増えます。王都へ向かう役人や、火の守りを務める者たちが行き交っておりましょう」


 遠くを行き交う人影は、小さな点に見えるばかりで誰の顔も分からぬ。ただ、それぞれが別の土地と家を背負って西や北へ向かっている。その流れに紛れているのだと意識すると、アルダフルは手綱を握る指先に力をこめた。


 ひとつ道を違えれば、どこで誰に指を差されるかも知れぬ。


 アーザードは、斜面の先に連なる稜線を見上げた。


 「ここから先は山の風が強くなります。高原の土を離れる前に、馬の脚を慣らしておかねばなりませぬ」


 アルダフルはうなずき、蹄を荒土に踏み込ませる。斜面を登るごとに息が苦しくなった。背後を振り返ることはしない。振り返れば戻れぬものが目に浮かぶ。


 やがて丘の上に立ったとき、前方の眺めがひらけた。連なる山々の線が、いつの間にか手の届きそうなほど近くに迫っている。その裾には峠へとつながる筋が幾つも走り、ところどころに石を積んだ塔が立っていた。西陽がその石を赤く染め、山の端には濃い影が落ちている。


 アルダフルは、その影の向こうに広がる見知らぬ土地を思い描きながら、馬の首を軽く撫でた。


 陽が山の端に落ちると、二人は往来から少し外れた岩陰へと馬を入れる。岩の裂け目からは水が流れ出ていた。アーザードは鞍を解き、枝を集めて火を起こす。


 焔が落ち着きを見せると、アルダフルは外套を寄せて腰を下ろした。見上げれば山の稜が空を切り取り、その向こうにこの先の地が思われる。


 「砦を出てから、父上のことを考えることが増えた」


 アルダフルは火を見つめたままこぼす。


 「お前の知っている父上を聞かせてくれないか」


 アーザードは一度うなずき、視線を焔に落とした。


 「……殿下はよく訓練所で兵の列を見渡しておられました。左の眼で前をとらえながら、右側の兵の足の乱れを、砂の揺れと甲冑の音で見抜いてしまわれる。兵の槍を手に取って確かめ、構えを正しておられました」


 砂地に並んだ槍と盾、片目で全てを量ろうとする横顔が、言葉とともに立ち上がる。アルダフルは、話しながら遠い記憶を重ねた。


 「戦で傷を負った者のもとにも、よく足を運ばれておられました」


 アーザードは続ける。


 「胸や腕を巻いた若い兵、脚を失った者、長く務めた老いの兵。その枕元で家族の名と人数をお聞きになり、簿に記させておられた。俸禄や穀の配り方をその場で改め、城下で出来る務めを探させることもありました」


 アルダフルは顔を上げた。


 「そこまでなさったのか」

 「はい。王とはなれずとも、父祖の旗の下で戦った兵とその家を守る務めは自分が担うのだと、お考えであったように見受けました」


 右眼の傷を思い出し、アルダフルは膝の上で手を組む。


 「法が許さぬ身であったことも、子どものころから聞かされてきた。それでも、私はどこかで、父上が冠をお取りになる道もあったのではないかと思っていた」


 アーザードは首を振った。


 「殿下ご自身が、冠を求めることはなさいませんでした。ホスロー様の治世が揺れ始めたのちも、評議の場で勅令の綻びを繕い、諸州と王命のあいだに橋を架けておられたのです。王となるより先に、国を支える柱であろうとなさったのでございましょう」


 クテシフォンの広間で板札の文言を改め、矛盾する命を前後からつなぎ合わせる姿が、アルダフルの胸の内に浮かぶ。


 「私が覚えている父上は、そう多くはない」


 アルダフルは、焔の色を見つめたまま続けた。


 「右眼の深い傷、それに大きな身体。抱き上げられたとき、世界が広く見えた。短い刻だったが、その腕の温かさは今も離れぬ」


 言葉の端が揺れる。アーザードは、あえて顔をのぞき込まず、折った枝を火にくべた。


 「砦での鍛錬も、アデルグドゥンバデス様の庇護も、すべて殿下のお心から始まったものです。アルダフル様に先王陛下の名を託し、その名が荷ではなく支えとなるようにと」

 「だが、その名は奪われた」


 膝の上の両手に力をこめ、アルダフルは言った。


 「祖父と同じ名を。父上が守ろうとした我が名を。いつか、取り戻さねばならぬ」


 アーザードは深く頭を垂れる。


 夜が明けて、山の斜面に薄く色が戻り始めていた。岩と砂利の腹を踏み分けて、アルダフルとアーザードは峠への路をとる。昨日まで背後に広がっていた高原は、もう折り返しても見えなかった。


 路は狭くなり、馬一頭が通るのがやっとの箇所もある。片側は切り立った崖、もう片側は谷へと落ち込んだ斜面で、足元の石が転がるたびにからからと音が響く。息は苦しくなり、馬の首には汗が流れた。


 ひとつ曲がり角を抜けると、向こうの崖の上に砦が見える。岩を切り立てた縁に石壁が築かれ、塔がいくつか突き出ていた。旗は見えぬが、門の上を巡る巡邏の姿が小さく動く。山道を押さえるその構えは、遠い辺境へ赴任した司令官の務めを思わせる。


 アルダフルは手綱を引き気味にしながら、その石壁を見上げた。かつて父が任を負った砦も、こうした地にあったのであろうか。片目の将が砂の匂いと風の音の中で兵を束ねていた姿が、ザグロスの岩肌に重なった。


 陽が高くなると、路の傾きが変わっていく。登りいっぽうだった坂がいつの間にか緩やかな下りに移り、風の匂いも石より水に近いものを帯びてきた。山あいの小さな窪地には、いくつもの泉が湧き、そこに寄り添うように家々が固まっている。


 ある窪地では、土壁の家並みの中央に、火壇を載せた建物が一つ据えられていた。屋根の上には小さな煙が絶えず立ちのぼり、その周りで白い衣の人影が出入りしている。古くからの祈りを守る村であると、アーザードは告げた。


 「王都からの勅も届きましょうが、山の中では祖先の教えが支えとなるのです」


 そう言って彼は村から目を離す。アルダフルもまた火の煙が谷の風に溶けていくのを見送りながら、都で改められた法と変わらぬ祈りとのあいだを思った。


 さらに西へ下ると、路の脇には小さな果樹園や段々の畑が現れる。石を積み上げた塀の奥に、古い印を刻んだ門柱が立っていた。かつてクシャトラと呼ばれた在地の家々であろう。王都からの勅令と税の命が届きながらも、山と水を頼みに土地を守ってきた者たちの営みが、そこにある。


 アルダフルは、そうした門を横目に見ながら馬を進めた。父が読み上げた簿の上の名も、こうした土地のどこかに家と炉を持っていたに違いないと考えると、道の一つひとつが、見ぬ人々の暮らしにつながっているように思われる。


 やがて眺めは大きくひらけた。前方には、土色の平原がどこまでも続いている。ところどころを川の帯が横切り、そのほとりに城と町が並んでいた。南の空の低いところには、大きな流れがかすんで見える。アーザードはそれを見て、メソポタミアの地に入ったことを告げた。


 高原と山を背にして、アルダフルは馬上で姿勢を正す。背後にはザメスが守ろうとした国と人々の地があり、前には帝国の都へつながる見知らぬ世界が横たわっている。


 夕映えが平原の土を赤く染めた。その中を進む二頭の馬は、やがて西を目ざす旅人の列に紛れていく。


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