05 離郷
館の前庭に二頭の馬が並べられていた。鞍の帯は締め直され、水袋と布包みが左右にくくりつけられている。まだ人の気配は少なく、馬の尾が揺れていた。
石段の上から、その様をアルダフルとアーザードが見下ろしている。胸もとで外套を握る指先に、戻らぬ覚悟が浮かんでいた。
館の戸口から、ヴィースとフラームが現れる。ヴィースは頭を薄布で覆い、その端で目もとを押さえていた。夜のあいだ酷く泣いたのだろう、瞼が重たげである。
「山の夜は冷えます。これをお召しなさいませ。……昔、あの方が着ておられたものですが、華美なものではありませんから、目を引くようなこともないでしょう」
フラームが折り畳んだ上衣を差し出した。内側の襟には、ザメスを示す小さな印が糸で縫い込まれている。
アルダフルは両手で上衣を受け取り、縫い目に指を触れた。
「長いあいだ、世話になりました」
そう言うと、フラームは首を振る。
「世話などではございません。幸福な毎日でした」
今度はヴィースが、小さな革袋を差し出した。
「干し肉と干し果、それから固く焼いた菓子を少し入れてございます。道すがらの足しになさってください」
声は毅然ととしているが、袋を持つ指先がかすかに震えている。
「どの町にも人の目がございます。疲れた旅人のふりをして、あまり目立たぬようお運びくださいませ」
アルダフルは深く頭を下げた。
「ここを離れても、みなのことは忘れません」
石段に靴音が響く。アデルグドゥンバデスであった。厚手の衣に外套をまとい、腰には剣を帯びている。
「ヴァラメスのやつは、ついに顔を出さなんだか」
アデルグドゥンバデスは前庭を見回し、吐き出すように言った。
「いざという折に家の名を背負って立つべき男が、別れの朝に姿も見せぬとはな。ミフルダードもミフルダードだ」
アルダフルはひと呼吸おき、穏やかに口を開く。
「顔を合わせれば、かえって別れが辛くなるがゆえにございましょう」
アデルグドゥンバデスは鼻を鳴らした。
「お前はあれのことまで気にかける。そこもまた、ザメス殿下に似てきおった」
そう言いながら、眼差しはわずかに和らぐ。
やがてアデルグドゥンバデスは懐から革袋を取り出し、アルダフルの前に差し出した。
「これを持て。しばらくの宿と馬の代には足りよう。どこへなりとも逃げて、自らの身を守れ」
「ありがたく頂きます」
アルダフルは両手で袋を受け取る。掌に伝わる重みが、この家との縁の深さを思わせた。
アーザードが一歩進み出て、アデルグドゥンバデスとその妻に深く頭を下げる。
「この身の及ぶ限り、アルダフル様をお守りいたします」
「頼んだぞ。ザメス殿下と交わした約を忘れるでない」
アデルグドゥンバデスはわずかに目元を赤くして言った。
× × ×
砦と館の屋根が地平の向こうに沈む。
アデルグドゥンバデスたちとの別れから幾日かが過ぎ、馬の蹄は石を離れ、やがて砂まじりの地に音を落とした。背後にあった山裾の村々は遠のき、かわりに丘と草の斜面が続く。
先を行くアルダフルの馬の鼻面から、大きく息が漏れた。陽が高くなると、今度は地の熱が鞍の下からじりじりと伝わってくる。風が衣の裾を持ち上げ、砂を巻き上げた。
路はほどなく古い往来に合流する。押し固められた轍の跡が幾筋も重なり、両側には石を積んだ目印がところどころに立っていた。前には荷を積んだ駱駝と馬の列がゆるやかに進み、鈴の音が乾いた空気を渡る。
「このあたりからは、砦の見張り台から眺めていた西の路でございます」
手綱を並べたアーザードが、遠くの山なみを見やりながら言った。
「上から眺めていた時とは、ずいぶん違って見えるものだな」
アルダフルは振り返りたい思いを押さえ、前だけを見据えた。背後にあるはずの砦も館も、もう目には入らぬ。あるのは、馬の前脚が踏みしめていく見知らぬ路ばかりであった。
アーザードは隊商との距離を測り、少し間を置いてその後ろにつく。あまり離れ過ぎれば浮き上がり、近づき過ぎれば顔を覚えられる。人の流れに紛れつつ、名を問われぬほどの間合いを保つようにしていた。
「今の身なりならば、商家の若者が従者を伴って遠縁を訪ねるように見えましょう」
そう言って、アーザードは主の外套の裾を見る。
「ここまでは、不自然なところはございません」
アルダフルは小さくうなずいた。
「この路を行き来する者たちは、みなどこを目ざしているのだろう」
路の先に灯がぽつりぽつりと見え始めたころ、アルダフルがふと口にする。遠くにも別の列が動いており、その向こうに土煙が立っていた。
「西の市場を求める者もありましょうし、帝国との境に近い町を目ざす者もありましょう」
アーザードは傾きつつある陽を仰ぐ。
「ですが、我らはどこか一つの町に根を下ろすわけには参りませぬ。ペルシアに長く留まれば、いずれ王の目に触れます」
アルダフルは手綱を握り直した。祖父の名を受け継いだこと、その血筋がどれほど重いかを、アデルグドゥンバデスの家で幾度も聞かされている。
「帝国の都へ向かうほかはない、ということか」
ようやく絞り出した言葉に、アーザードはうなずいた。
「はい。帝国の都であれば、王の手も届きますまい。アデルグドゥンバデス様も、それを見越して金を持たせてくださったのでございましょう」
西へ向かう列の中で、東へ戻る路はもう、馬の足から離れている。
三日ばかり西へ進んだころ、路の脇に林と小さな泉が見えた。隊商の者たちもそこで足を止め、荷をおろして火の支度を始める。アーザードは周りを見回し、人目を避けられる一角に馬をつながせた。
「今夜はここで休むといたしましょう」
そう言って水の深さを確かめると、アーザードは隊商の若い者に薪を分けてもらい、代価を払う。アルダフルは鞍から下り、脚にたまった疲労を地面に移した。
火が起こされると、アーザードは干し肉と干し果を分け、水袋を傍らに置く。
「アルダフル様、先に口をおつけください。そのあとで馬にも水を飲ませましょう」
「お前は」
「残りで足ります」
アーザードは火の傍に腰をおろし、アルダフルも向かいに坐った。掌に伝わる焔の熱で、一日の終わりをようやく意識する。
しばらく二人は黙っていた。やがてアルダフルが、火の向こうに目を据えたまま口を開く。
「ビュザンティウムという都は、どのようなところなのだ」
アーザードは主の顔を見てから、ゆっくり答えた。
「海に面した丘の上に宮と城が並び、石の路には終日人の列が続いております。諸国から集められた者たちが、皇帝の名のもとに文を運び、言葉を取り次いでおりました」
アルダフルは聞きながら、見たことのない都を心の内に描く。
「その宮廷で、ホスロー陛下の名も語られたことがございます」
アーザードは焚き火に枝を足した。
「クバード王の御代、王がホスロー陛下を皇帝の養子とするよう求められたのです」
「叔父上を、皇帝の子に」
アルダフルは思わず言葉を繰り返す。
「はい。そうなれば、陛下の御身はどちらの国にとっても軽んじられぬものとなる、と考えたのでしょう。しかし帝国の中でも受け取り方は分かれ、和を結ぶ策とみなす者もあれば、簒奪の謀と主張する者もあったと聞き及んでおります」
「その話は、どう終わった」
アルダフルの問いに、アーザードは息を吐いた。
「多くの書簡が往き来した末、その養子の話は定まらぬまま終わりました。陛下は皇帝の子とはなられず、やがてペルシアの王として冠をお取りになったのでございます」
アルダフルは膝の上で指を組み、その言葉を胸の内で並べ替える。
「その都へ、今度は私が助けを求めに行くのか」
自分自身に確かめるように言うと、アーザードはうなずいた。
火の赤が二人の顔を照らす。燃え残った木の皮がはらりと落ち、赤い芯があらわになった。




