04 面影
東の空が明るみ始め、砦を囲む丘の稜が影となって浮かび上がる。
その中を、ひとりの青年が歩いていた。背は伸び、肩つきも逞しい。髪をうなじのあたりで束ね、外套の紐を胸もとで締め直す仕草には、家の主にふさわしい落ち着きがあった。
アルダフル。館の者がそう呼ぶ名が、この辺境では当たり前のものになっている。
中庭の片隅では、従僕の少年が水瓶を抱えて行き来していた。足元がおぼつかず、瓶の口から水がこぼれそうになったところへ、アルダフルの手が伸びる。
「肩を起こせ。腕に力を入れ過ぎると、足元が乱れるぞ」
やわらかい声で言いながら、瓶の底を支えてやると、少年は顔を赤くして慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません」
「気にするな。次から気をつければよい」
叱るというより、習いを教える口ぶりである。少年が瓶を抱え直すと、アルダフルは手を放ち、歩みを先へ進めた。
回廊の柱の影には、アーザードが控えている。灰色の外套をまとい、腰の剣に手を添えて主の動きを見守っていた。呼びかけられればすぐに出る距離を保ちながら、影に紛れて目立たぬ立ち方である。
「アーザード」
「ここにございます」
気配に気づいたアルダフルが声を向けると、従者は回廊の影から進み出た。
「今朝の見張り台からの報せは」
「変わりはございません。北の峠も東の道も、人の通った跡は薄いとのこと」
アルダフルはうなずき、視線を城壁の上へ向ける。あの高さを見上げると、守りに就く兵や館に仕える者たち、近くの村の老人や子らの顔が浮かぶ。
「では、昼前に一度、持ち場の兵を見て回ろう。寒さで手足が強ばっては弓も槍も利かぬ」
言葉の端に、兵の労を思う気遣いがにじんだ。
「承知いたしました」
アーザードは答える。
中庭の向こうから、煮炊きの支度を告げる香が流れてきた。台所の戸口では女たちが鍋を運び、従僕たちが木皿を並べている。道具を持つ手がアルダフルの姿に気づき、一瞬だけ動きを止めた。
「おはようございます、アルダフル様」
年配の従僕が袖を払って頭を下げる。続いて周りの者も挨拶をした。
「おはよう」
アルダフルはひとりひとりの顔を確かめながら応じる。名を呼ぶべき者には名を添え、病をしたと聞いた者には体調を問う。その声には人を和ませる温かさがあった。
朝の働きが再び動き始める中、アルダフルは館の奥を振り返る。老いたアデルグドゥンバデスもそこにいた。
「父上のところへ顔を出してから、城壁の上へ向かうとしよう」
小さくつぶやき、アルダフルは回廊の方へ歩を返す。その背を追うように、アーザードの足音が続く。この辺境の一日の始まりが、今は彼の歩みに合わせて動くようになっていた。
× × ×
館の門は、人の出入りが絶えなかった。砦から戻る兵が馬の手綱を引き、村から来た者が麦や干し草を納めに来る。その合間を縫うように、若い騎馬が砂煙を上げて駆け込んできた。
鞍の上にいるのはヴァラメスである。服には葡萄酒の汚れが残っていた。頬は少し紅く、目許には夜更けまで杯を重ねた疲れが見え隠れする。
「門を開けろ」
荒い声を聞きつけ、衛士が慌てて柵を引いた。馬が中庭へ踏み込むと、傍らで控えていたミフルダードがすぐに駆け寄る。
「お帰りなさいませ、ヴァラメス様」
従者は手綱を受け取り、馬の首を軽く撫でた。行き先と戻りの時刻から、どこで夜を過ごしたか、おおよその見当はついている。だがその顔には責める色よりも、心配の方が濃かった。
「外の村ばかりに顔を出されては、兵の目が揃いませぬ。アデルグドゥンバデス様のお耳にも入りますぞ」
ミフルダードが諫めると、ヴァラメスは鼻で笑う。
「父上はアルダフルを見ておればよい。この地の守りも、政も、あいつに任せれば済むのだろう」
言葉には、酔いとともに拗ねた響きが混じっていた。
「だが、槍を振るう腕なら負けぬつもりだ」
ヴァラメスは外套の裾を払って胸を張る。馬上で酒をあおぎ、歌を叫ぶ場では、その若さと腕前がひときわ目立った。だが務めを担う場では、その勢いが持ち場から外へと向かいがちである。
ミフルダードは主の顔をうかがいながら、そっと息を吐いた。
「腕の立つところを、アデルグドゥンバデス様もよくご存じです。ゆえにこそ、務めにも心を向けていただきとうございます」
言葉を選んで告げると、ヴァラメスの眉がわずかに動く。
「務めだの何だのとうるさいな。アルダフルが真面目に立ち回れば、それで家の名は保てる」
吐き捨てるように言いながらも、声にはかすかな羨望がにじんでいた。父が頼りとするのは自分ではなく、養われている若者である。その思いが澱のようにたまっていた。
「俺とて、戦になれば誰より先に馬を進めてみせる。辺境の守りに名を残すことも出来よう。だが今は、誰もそれを求めぬ」
ヴァラメスは視線を館の奥へと向ける。
ミフルダードは主の横顔を見つめ、手綱を引いて馬を厩へと導いた。
「いずれ機は巡ってまいりましょう。その時、ヴァラメス様が誰よりも先に馬を進められるよう、今は体を休め、槍の柄を磨いておくのがよろしゅうございます」
柔らかく促す声に、ヴァラメスは不機嫌そうに肩をすくめる。
「説教はそのくらいでよい」
そう言いながらも、足は自然と自らの部屋の方へ向かっていた。壁に立てかけられた槍や弓が、主人の帰りを待っている。杯と歌に紛れてはいても、戦の場に立ちたいという思いは、若い胸に燻り続けていた。
陽が傾き、館の女たちの部屋の灯に火が入れられる。窓辺の机には上衣や外套が幾枚も重ねられ、針箱の蓋が開いていた。
ヴィースは糸を指にかけ、膝の上に広げた上衣の綻びを繕っている。布は厚く、端には砦の印が丁寧に縫い込まれていた。肩のあたりの縫い目が引きつれているのは、ここしばらくで持ち主の体つきが変わった証である。
「本当に大きくなられましたね」
傍らで糸を撫でていたフラームが、縫い目を覗き込みながら言った。
「昔、ザメス殿下のお身の回りを見ていたころを思い出します。あの方の上衣も、こうして何度も縫い直したものでした」
ヴィースは手を止め、布にそっと指を置く。
「ヴァラメスは、まだあの調子で町へ出ていっては酒に呑まれて戻ってくるのに」
独り言のようにこぼれた。
「同じ屋根の下で育ったというのに、あの子は気ばかり先へ走ってしまう。アルダフルは……在りし日のザメス様に、ますます似ていらっしゃるのに」
その声には、戸惑いと誇らしさとが入り混じっている。槍を執る姿勢も、人に言葉をかける折の眼差しも、ザメスを思わせるところが多い。家を継ぐはずの実の子の方が、酒や歌に時を費やしているとなれば、母としての憂いはなお募るばかりであった。
「アデルグドゥンバデス様も、家の守りのこととなるとまずアルダフル様のお顔をお尋ねになりますからね」
フラームが、針を動かしながら言う。
「ヴァラメス様も腕は立つのですけれど」
「分かってはいるのよ」
ヴィースは小さく首を振った。
「けれどあの子は、褒められぬといよいよ荒れた方へ走ってしまう。アデルグドゥンバデス様のお心も、アルダフルの働きも、どちらも偽りではない分だけ厄介なものだわ」
そのやりとりは、半ば開いた戸口から漏れ出て隣の広間へと届く。
広間の机には羊皮紙が積まれ、その前にアデルグドゥンバデスが腰を据えていた。葦のペン先を器の縁に当ててインクを払っていた手が、ふと止まる。
アルダフルは、在りし日のザメス様に、ますます似ていらっしゃるのに。
妻の声の一節が、耳に鮮やかに残った。
アデルグドゥンバデスは顔を上げる。灯の明かりが額の皺の影を濃くし、眼差しは机から戸の方へ移った。
背の伸び方も歩きぶりも、兵に言葉をかける折の眼の据わり方も、たしかにザメスに似てきている。家の者がそう口にするなら、外から来る者の目にも、いずれ同じものが映るであろう。
この辺境ならば、しばしは目を逸らせておけると見てきた。
心の内で言葉を継ぎながら、アデルグドゥンバデスは視線を机の上に戻した。そう考えて、これまでアルダフルを手元に置いてきた。だが噂というものは、思わぬところから都へ届く。歳月が過ぎるほど、そのおそれは増すばかりであった。
アデルグドゥンバデスはゆっくりと立ち上がり、女部屋とのあいだの戸を引き寄せる。
「その話は、ここだけに留めよ」
言葉を置くと、ヴィースとフラームは慌てて膝を折り頭を下げた。
広間に戻ると、アデルグドゥンバデスは机の前に再び坐った。だが文字は目に入らぬ。ザメスとの約定と王への偽りの文、アルダフルという名で過ごしてきた年月が、心の中に列をなして立ち上がる。
「似てきた分だけ、ここに置く危うさも増したのだ」
誰に聞かせるともなくつぶやき、アデルグドゥンバデスは胸の内でひとつの問いに向き合った。いつまでこの館に留めておけるのか。守るために選んだこの地が、やがては追手を導く目印になりはしないか。
老いた指が簿の端を押さえたまま動かずにいるあいだに、アデルグドゥンバデスは、アルダフルをこの地から遠ざける道を思い始めていた。




