03 偽書
「もうよい。顔を上げなさい」
かすれた声に、ヴィースとフラームはそろそろと身を起こした。目元は涙で赤く、なお不安の色が残っている。
「わしもザメス殿下との約束を違える気はない」
アデルグドゥンバデスは封書から手を離し、卓の上に置き直した。
「クバードは、生かす」
ヴィースの胸に息が戻る。
「では」
「この館で育てる。これまでと変わらぬようにだ。ただし、都には別のことを伝える」
アデルグドゥンバデスは言葉を選んで続けた。
「陛下には、命じられた通りクバードを斬ったと書き送る。ザメス殿下の血はここで絶えた、と」
フラームが思わず唇を押さえる。言葉にはしない嘆きが胸の内で渦を巻いた。
アデルグドゥンバデスは二人を見据える。
「偽りの文を出す以上、我らはみな同じ罪を負うことになる。それでもよいか」
ヴィースは迷わずうなずいた。
フラームも続けて首を縦に振る。
「乳を分けた子でございます。その結果どのような裁きを受けようとも構いません」
アデルグドゥンバデスは息を吐いた。
「ヴィース、フラーム」
名を呼ばれ、二人は姿勢を正す。
「館の内でも、人の出入りがある場では口を慎め。砦の者や村の者には、クバードは死んだとだけ告げる。今後はその名を軽々しく出すな」
「はい」
ヴィースが答え、フラームもうなずく。
アデルグドゥンバデスは、背後と壁際に立つ二人にも視線を巡らせた。
「よいな」
「ご決断、感謝いたします」
返答の中に、アーザードの決意がこもる。
ミフルダードは言葉を発さずうなずいた。
アデルグドゥンバデスは新たな羊皮紙を引き寄せ、葦のペンを手に取る。墨壺の縁に一度軽く当ててから、白い面の上に先を下ろした。戦場では剣を握ってきた手が、今は一つの家と一人の子を守る道を、文字でもって選ぼうとしている。
その時、戸口の外で小さな声が漏れた。アデルグドゥンバデスは走らせていたペン先を止める。戸板一枚を隔てた向こうで何者かが息を潜めている気配があった。
「誰だ」
呼びかけると、戸の向こうにかすかな音が立つ。アーザードが近づいて戸を引いた。
そこには外套を腕に掛けたヴァラメスと、戸に半ば身を寄せる形で立っているクバードの姿がある。
「砦へ向かったのではなかったのか」
アデルグドゥンバデスが言うと、ヴァラメスは外套を示した。
「これを忘れてて……」
視線は自然と卓の上に伏せられた羊皮紙へと向かう。そこに何が記されているか、戸のこちらの言葉で悟ったのであろう。
「入れ」
厳しく告げ、戸を閉めさせる。ヴィースとフラームは膝を正し、アーザードとミフルダードも立ち位置を改めた。
「さきほどの話を聞いたのだな」
アデルグドゥンバデスの言葉に、ヴァラメスはうなずく。クバードの肩がわずかに跳ねた。
「王に、クバードが斬られたと伝える、と」
少年の声はかすれている。
アデルグドゥンバデスはひと息置いてから言った。
「偽りだ。クバードはこれからもこの館で暮らす」
顔を上げたのはヴァラメスである。
「そんなことをすれば、俺たちもザメス殿下のように処刑されるのではありませんか。父上も、母上も、この家の者も!」
口に出たのは、胸にたまっていた恐れそのものだった。
ヴィースは帯の上で両手を組み、フラームはクバードの背を見つめる。アデルグドゥンバデスは一歩前へ進み、険しい表情で息子を見据えた。
「己の破滅ばかりを量るか」
叱責が落ちる。
「ザメス殿下は、それを承知のうえで陛下に刃を向けたのだ。あの方が何を先に見たのか考えよ。その殿下が守ろうとした子を、我らはここで預かっている」
ヴァラメスは顔色を青くして立ち尽くしていた。握った拳のわずかな震えが、胸に残るものを物語っている。
「怖いなら、その怖さごと抱いて立て」
アデルグドゥンバデスの声は、先ほどよりわずかに和らいだ。
「お前はわしの子だ。ならばクバードの前に立て。兄と呼ばれる者は、自分の安らぎより先に守る者を抱えるものだ」
束の間の沈黙が続き、やがてヴァラメスは拳を握り締める。
「……承知しました」
かすかな返事であったが、その声を聞きとめるように、アデルグドゥンバデスはうなずいた。
翌朝、再び館の奥の一室に人が集められる。窓には厚い布が下ろされ、外から中の様子はうかがえなかった。卓の上には、少年用の新しい上衣が一枚、きちんと畳まれて載せられている。
アデルグドゥンバデスは卓の端に立ち、向かい合うように並んだ顔ぶれを見渡した。ヴィースとフラーム、アーザードとミフルダード、そしてヴァラメスとクバードである。
「ここにいる者の前で、ひとつ決めておかねばならぬことがある」
言葉に、視線が自然と卓の上へ落ちた。今までクバードが身につけていた衣から印が外されている。胸元の刺繍は縫い替えられ、別の模様が置かれていた。
アデルグドゥンバデスが、その布に手を添える。
「今日から、この子を呼ぶ名を改める」
クバードの肩がわずかに強張った。
「これまでの名は、もう声に出すな。戸の内であろうと外であろうとだ。呼びかけるときは、アルダフルと呼べ」
室内に、耳慣れぬ音が落ちる。
「アルダフル……」
クバードは小さく繰り返した。その響きが自らに結びつくまでにはまだ距離がある。だが、与えられた名を受け取るほか道はないと、少年なりに察していた。
アデルグドゥンバデスはみなの方へ顔を向ける。
「ここにいる者は、今聞いた名を胸に刻め。簿にも記録にも、この名を書く。誰かに問われることがあれば、かつてここにいた子の名など知らぬ顔を通せ」
アーザードは頭を垂れ、ミフルダードも胸に手を当てた。ヴィースは膝の上で指を組み、フラームは目元を押さえる。
「ヴァラメス」
父に呼ばれ、少年は一歩進み出た。
「はい」
「お前の傍らに立つのは、これからはアルダフルだ。外で口を違えるな。ともに山へ出るときも、砦の上に上がるときも、その名を呼べ」
ヴァラメスはクバードの横顔に目をやる。
「分かりました」
子の返事に、アデルグドゥンバデスは、その奥にまだ消えぬ不安と押し隠した決意の両方を読み取った。
フラームが卓から上衣を取り上げ、両手で抱えてクバードの前に立つ。
「アルダフル」
乳母の口から新しい名がこぼれた。長いあいだクバードと呼んできた舌が、別の音を探っている。
「これをお召しなさいませ」
少年は一瞬ためらったが、やがて両腕を差し出し、衣を受け取った。布の重みは、昨日までと変わらぬはずである。それでも胸に抱くと、別の鎧をまとわされたような感覚があった。
アデルグドゥンバデスは、その様子を見つめながら言う。
「名が変わっても、お前の中に流れるものは変わらぬ。忘れるな」
クバードは衣を抱えたまま深く頭を垂れた。
この狭い室の中で交わされた名が、やがて砦の兵や村の者のあいだにも広がっていくだろう。外の世界で語られることのない名として。アデルグドゥンバデスはその先の景色を思い描き、胸の内でザメスの名を呼んだ。




