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02 王命

 昼の刻、館の広間には素焼きの皿に山羊の煮込みと麦のジョー・バーが並び、湯気が立ちのぼる。


 奥の坐にはアデルグドゥンバデス、その右に妻のヴィース、向かいには乳母のフラームとクバードが坐り、末席にはヴァラメスが背筋を伸ばして腰を掛けていた。


 「沢山お食べ」


 ヴィースが粥をよそいながら穏やかに促した。


 フラームはまずクバードの椀に肉を一片落とし、続いてヴァラメスの椀にも同じだけよそう。


 「今朝もよく動いたのね」


 フラームの言葉に、ヴァラメスがわずかに胸を張った。


 「父上に弓を見てもらったんだ」


 アデルグドゥンバデスは匙を持ったまま、一息置いて顔を上げる。


 「教えた通りに引けば矢は応える。お前の腕もそれに追いついてきた」


 クバードがそっと口を開く。


 「僕も少しは矢が届くようになりました。まだ当たるのは端ばかりですが」

 「端でもよい。昨日より先へ運べたかどうかだ」


 アデルグドゥンバデスは視線をクバードにとどめ、続けてヴァラメスへ移した。


 「お前はクバードの手本となれ。兄と呼ばれる者は常に半歩前に立つものだ」

 「はい」


 ヴァラメスは真剣な面持ちでうなずく。


 ヴィースは、夫の声が平生より抑えられていることに気づいた。器を配りながら、そっと話題を継ぐ。


 「なら、しっかり食べて身体を大きくしないとね」


 彼女はクバードの椀に粥をすくい足し、ヴァラメスにも目をやった。


 「あなたもですよ、ヴァラメス」

 「分かってるよ」


 ヴァラメスは山羊の肉を口に運ぶ。


 卓の上の器は次第に軽くなっていった。ヴァラメスが稽古の失敗を笑い話に変えれば、クバードが慌てて否を唱える。


 アデルグドゥンバデスの器だけが、早く底を見せた。胸の内には何も残らぬ。


 「ごちそうさまでした」


 クバードが匙を置く。ヴァラメスもそれにならい、椀を揃えて卓の端に寄せた。


 「母上、砦の上へ行ってもいい?クバードとこの後行こうって約束したんだ」


 ヴァラメスが言うと、ヴィースは二人の顔を順に見る。


 「兵の邪魔をせぬこと。それを守れるなら、お行きなさい」

 「はい、気をつけます」


 アデルグドゥンバデスは席を立とうとする二人に目を向けた。


 「上は風が通る。羽織を忘れるな」


 ヴァラメスはうなずき、クバードの肩に軽く手を置く。


 「行こう」


 クバードはフラームに一礼し、戸口へ向かった。


 少年たちの足音が廊の向こうへ遠ざかり、広間には片づけの音だけが残る。


 アデルグドゥンバデスは席を離れず、ひと呼吸置いてから口を開いた。背後にはアーザードが控えている。


 「ヴィース」

 「はい」

 「片づけは後でよい。ここへ坐りなさい。フラームも」


 促されて、二人は卓の端に膝を寄せた。器を持つ手が行き場を失い、膝の上で重ねられる。


 アデルグドゥンバデスは廊の方へ声を向けた。


 「ミフルダード」


 戸口の傍で見張りについていた従者が一歩進み出る。


 「ここにおります」

 「外に人がいないか見てこい」


 ミフルダードはうなずき、広間を出て行った。廊を行き来する足音が続き、やがて木戸の合わさる音が鳴る。


 「人払いして参りました」

 「お前もそこで聞け」


 ミフルダードは壁際に退き、腕を下ろしたまま主の言葉を待った。


 アデルグドゥンバデスは懐に忍ばせていた封書を取り出す。封はすでに破られ、王宮の紋を刻んだ封泥が欠けていた。


 「陛下からの文だ」


 そのひと言で、ヴィースの瞼が震える。フラームも、思わず膝の上の指を強く握った。


 「ザメス殿下のことが記されている」


 クバードの父の名が出た瞬間、二人は顔を見合わせる。砦に預けられて以来、少年が折に触れて語ってきた父の姿が胸に浮かんだ。


 「王宮で捕らえられ、謀を企てた者として裁かれた。命はすでに絶たれたとある」


 アデルグドゥンバデスの声は落ち着いていたが、その裏には長い年月を共にした者への思いがにじんでいる。


 ヴィースは口元に手を当てた。いつか都へ戻り、父と再び会えると信じていたクバードの言葉が思い出される。あの子にもうその道はないと告げねばならぬのかと考えた途端、胸の内側が冷えていく。


 フラームは視線を膝に落とした。クバードに父の死をどう伝えればよいのか、どこから話せばよいのか、考えるほど言葉が遠のいた。


 アーザードは主の背の少し後ろに立ち、拳を握ったまま動かぬ。ザメスからクバードを託された夜の記憶が、あらためて胸に刺さる。


 アデルグドゥンバデスは封書を指先で押さえ直した。


 「話はそれで終わらぬ」


 ヴィースが息を呑む。父を失ったばかりの少年に、次に向けられているものが何であるかを悟ると、胸が締めつけられた。


 「王命は一つだ」


 アデルグドゥンバデスは目を伏せて告げる。


 「クバードを殺せ、と」


 クバードの名が、刃の上に載せられた形で広間に落ちた。


 ヴィースは目を閉じ、心の中で少年の名を呼ぶ。この家の戸をくぐった日から、我が子と変わりなく育ててきたクバードの命を奪うことなど考えられぬ。


 フラームもまた、クバードの顔を思い浮かべていた。乳をねだるときの声、眠る前に父の話を求めた夜。あの子にどんな言葉を添えればよいのか、今は一つも浮かばぬ。


 ひとときの間誰も口を開かなかった。封書の上に置かれたアデルグドゥンバデスの手が固くなる。その指先を、向かいに坐るヴィースは見ていた。


 やがて彼女は膝の上で組んでいた手をほどき、卓の方へ身を寄せる。


 「あなた」


 掠れた声で呼びかけた。


 「クバードは、ここで育った子です。家族として共に食べ、眠り、笑ってきました。その子を王命だからといって、この館で葬るとおっしゃるのですか」


 最後の一語は、ほとんど息である。


 フラームも、堪えきれぬように口を開いた。帯の上で重ねた両手が、膝の上で強く握り合わされている。


 「アデルグドゥンバデス様。あの子は、何も知らぬままにございます。都で何があったかも、王の御心も。その子をこの家の者の手で土に返せとお命じになるのは、どうかおやめください」


 言ううちに声が途切れ、フラームの目から涙がこぼれ落ちた。彼女は身を乗り出し、主の膝に縋る。


 「お願い申し上げます。乳飲み子のころから抱いてまいりました。熱を出した夜も、ザメス殿下を恋しがって泣いた夜も、この腕の中であやしてきた子にございます。その喉に刃を当てよと仰るなら、私はアデルグドゥンバデス様をお恨みしてしまいます」


 膝元に触れる額の重みを、アデルグドゥンバデスは感じていた。だが手は動かさぬ。指はなお封書の縁を押さえたままである。


 ヴィースもまた、坐ったまま身を寄せた。瞳に涙が浮かんでいる。


 「クバードはザメス殿下が私達を信頼して預けられた子です。その子に向ける刃を、あなたの手から出してほしくはありません」


 言葉は途切れ、代わりに喉から嗚咽が洩れた。


 広間の一隅で、アーザードは姿勢を崩さずに立っていた。膝に縋る二人の姿を見ながら、別の夜の景色を思い出す。ザメスが卓の前で封書を手渡し、クバードを託したあの刻。そのときの主の声と眼差しは、今も瞼の裏に残っている。


 ミフルダードは壁際に控えたまま拳を握った。言葉を挟む場ではないと悟りつつ、子供たちの姿が胸に浮かぶ。主に命じられれば剣を振るうほかない身でありながら、クバードを亡くして悲しむヴァラメスのことを思うと、視線を床から上げることが出来なかった。


 ヴィースとフラームの声は、やがて泣き声に変わっていく。


 「どうか……クバードを生かして下さいまし」

 「命だけは、お助け下さい」


 二人は同じ願いを繰り返す。


 アデルグドゥンバデスは、長いあいだ口を開かなかった。封書の向こうには、ホスローの顔とザメスの顔が並び立っている。王の命と、戦場で肩を並べた友の言葉。そのどちらにも背を向けることは出来ぬと知りながら、どちらかを選ばねばならぬ務めが、今この手に落ちている。


 やがて彼は、目を開けた。膝に縋る二人の姿の向こうに、戦場で見送った者たちの面影が重なる。


 封書を押さえていた指が、わずかに力を緩めた。


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