09 荒野
アルダフルとアーザードは、細く伸びる往来を西へとたどっていた。道の脇には背の低い灌木が点々と生え、そのあいだを涸れかけた川筋が蛇のように曲がりながら続いている。水の気配は乏しいが、かつて流れた名残りが、土の色と石の並びに刻まれていた。
時おり、遠くを行き交う一団の姿が見える。荷を積んだ駱駝を連れた商人、槍を持った少数の兵。誰もが互いの列から距離を取り、様子を量って過ぎていく。アルダフルもまた、視線で道の幅と人との間合いを測り、馬の歩を少し緩めた。
「この先はニシビスの名が届く地」
前を行くアーザードが、振り向かずに言う。
「境を見張る目も多くなりましょう」
アルダフルはうなずいた。背後の山は遠くなり、前方には、丘と土色の塔がいくつか浮かび始めている。塔の上では見張りの兵が動いていた。
「ここからが肝要です。帝国兵と接触を図り、ビュザンティウムへとアルダフル様の身を運んでもらわねばなりません」
アーザードの声には、確かな決意が現れている。
「ただし、境の地を離れるまでは何者であるか知られてはなりませぬ。己の欲でペルシアに売り渡そうとする者が出ぬとも限りませぬゆえ」
言葉を聞きながら、アルダフルは前方の塔を見やった。そこからどのような眼差しがこちらへ注がれているのか、地の上からはうかがい知れない。それでも、誰かに見られているという感覚は、山を出てからいよいよ濃くなっている。
道の左右に、粗く積んだ土塀に囲まれた畑がところどころに現れた。麦の若い穂が風に揺れ、奥には平らな屋根を載せた家並みが固まっている。家々の中央には小さな建物があり、その上から煙が立ちのぼっていた。
陽が高くなるにつれ、眩しさが増し、遠くの輪郭が薄れていく。往来は次第に南へと曲がり、ニシビスのある方角へと近づいた。アーザードは時おり空と地平を見比べ、分かれ道ごとに迷いなく進む路を選んでいる。
アルダフルは、その背中を見守りながら、手綱を握る指に少し力をこめた。進む先にどのような詮議が待っていようと、まずはそこへ出向き、正面から受けねばならぬ。その覚悟を胸に確かめつつ、彼は馬の腹を軽く蹴り、列の間合いを保ちながら西を目ざした。
闇が地を覆い、雲の切れ間から星が瞬く。日中に熱を帯びた土は冷え、踏みしめるたび砂が鳴った。
アルダフルとアーザードは声をひそめて馬を進める。遠くには塔の影と火の明かりが浮かんでいた。ニシビスへ通じる路からは外れているはずだが、その名が届く地帯であることを思うと、物音のひとつごとに耳が向く。
草の間で何かが揺れた。次の瞬間には、闇の中から幾つもの影が湧き出す。槍の穂先が月明りを受け、こちらを囲む輪を形づくっていく。
「Μὴ κινῇ!」
意味は分からずとも、声の勢いで命令と知れた。アーザードが先に両手を掲げ、アルダフルもそれにならう。馬の手綱は素早く奪われ、二人は地に降ろされた。
問いかける言葉が浴びせられる。アーザードは息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「抵抗する気はありませぬ。私たちはビュザンティウムへ参る途上にございます」
どこまで届いたかは分からない。それでも声の調子と身じろぎひとつで、敵意を持たぬことだけは伝えようと努める。アルダフルは黙したまま、槍の輪から目をそらさずに立っていた。
兵のひとりが近づき、二人の腰と腕に縄を巻きつける。別の者たちは荷を地に広げ始めた。袋がこじ開けられ、干し肉や水袋、布の包みが次々とつまみ出されていく。
「このまま彼らの上官のもとに案内してもらいましょう」
アーザードが告げる。
ひときわ背の高い兵が、布の包みを足もとに引き寄せた。紐を解き、上衣を取り出して広げる。粗い手付きであったが、襟をつまんだ指が途中で止まった。
松明を持った別の兵が近寄る。布の内側に、糸で縫い込まれた印があった。輪と線を組み合わせた小さな形を見た者の顔つきが変わる。
ささやき声が輪の内側を走る。印がただの家財の標ではないと気づいたことは、表情だけで見て取れた。
上に立つ男が歩み寄り、上衣を奪い取るように受け取る。襟元を確かめ、目を眇めて二人を見比べた。
アーザードが一歩前に出ようとすると、兵が槍で胸を押しとどめる。
それでも彼は退かぬ。
「印の意味を知るのであれば、我が主を粗略に扱うべきではないことは分かりましょう」
ゆっくりとした調子でそう言い、縛られた両手をわずかに持ち上げた。言葉のすべてが届いたとは思えぬ。それでも、声にこめた誘いは聞く者の耳に何かを残す。
男は命じた。槍の穂先は下がらぬままだが、囲み方には変化があった。二人の縄が引き締め直され、別の者が馬の口を取る。
行く先を告げる声が交わされた。名までは聞き取れないが、遠くの城を指す仕草から、帝国側の要地へ連れて行かれることは分かった。
アルダフルは焦りを胸に押し込めた。問われるままに答えるのではなく、問われる場を選ばねばならぬ。
夜風が衣の裾を揺らす中、二人は囲みの中央に立たされたまま、次の命を待った。
ほどなくして、囲みの端から馬のいななきが響く。斥候の長と思しき男が号令を発すると、兵たちは輪を開き、縄を引いてアルダフルとアーザードを歩ませた。
「ここで裁きを下すことは出来ぬ」
男は上衣を腕に掛けたまま告げる。
「城で確かめる。歩け」
言葉の細部までは聞き取れなかったが、行く先が近くの陣ではなく、より大きな城であることはその声音から察せられた。アーザードが一瞬だけ横目で主をうかがう。アルダフルはうなずきもせず、前に向き直って歩き出した。
夜が空に薄く残る時刻。兵たちは列を組み、前後に散って周囲を警戒する。二人の足には縄がかかっているが、引きずられるほどきつくはない。逃げようとすればたちまち槍が届く距離に、幾人もの影がついていた。
土の上を進むたび、草の穂が靴に触れる。遠くでは、どこかの町か砦か、焔の輪郭がかすかに揺れていた。アルダフルはそちらを見ることをせず、足もとと前に伸びる路の筋とを見比べる。
「問いたいことがあれば、城でお聞き下さい」
しばしの後、アーザードが口を開いた。誰に向けたとも知れぬ言葉であったが、上衣を預かった男が耳をそばだてる。
「主の名は、然るべき御前にて明らかに致します。それまでは、これ以上の口上は控えとう存じます」
いくらかの言葉が返された。アーザードは相手の舌をなぞるように、返答を続ける。すべてを解き明かすのではなく、行き先と扱いについての問いをやり過ごしていく。その様子を、アルダフルは前を向いたまま耳で追う。
やがて東の空が明るくなり始めた。遠くの地平に、石を積み上げた壁の影がかすかに見える。塔がいくつか並び、その上を巡る歩哨の姿が豆粒ほどの大きさで動いていた。帝国の城でありましょうとアーザードがささやく。
兵たちの歩みがわずかに早まった。列の前方からは、開門を告げるらしい角笛の音が風に乗って届く。
アルダフルは肩を起こし、足取りを乱さぬように踏みしめた。この先に待つ問いと視線を思い浮かべながら、それでも唇を結んだまま路の先を見据える。
クバードという名は、まだ胸に留めておく。ザメスの子としての血筋も、誰の前にも示さぬまま、今は一人の無名の旅人として城門へ進むほかはなかった。




