10 召集
辺境の砦の館に、王都からの使いが馬を乗り入れた。広間に通されると、男は封書を差し出す。
「ホスロー陛下の勅命を携えて参りました」
アデルグドゥンバデスは呼び出され、肩の毛皮を正しながら使いの前に進んだ。王の印が、封泥の上に押されている。アデルグドゥンバデスはそれを両手で受け取ると、卓の上に広げて目を通した。
行の連なりを追ううち、山々と砂の野で過ごした歳月が報いられた心地になる。辺境にとどめ置かれていた手を、王自らが戦の席へと呼び戻しそうとしていた。若き日の血がわずかに騒ぐ。
「ヴィース!」
呼びかけに応じて、奥から妻が姿を見せた。フラームもその後ろに続く。
「何事でございますか」
問いに、アデルグドゥンバデスは手紙を掲げてみせた。
「ホスロー陛下が、わしに帰陣の折に肩を並べよと仰せだ。戦の図を共に描くゆえ、自ら出頭せよとある」
妻の瞳に、驚きと誇りが浮かぶ。
「まあ。きっとヴァラメスが陛下の陣でも砦とあなたの働きを申し上げたのでございましょう。幼いころからあなたのことばかり語っておりましたから」
フラームもうなずく。
「ヴァラメス様が将として認められた証でもあります。父と子とが同じ戦の席に呼ばれるなど、なんと誇らしいことでしょうか」
アデルグドゥンバデスは、口の端をわずかに上げた。ザメスと肩を並べて戦場を駆けた日々が遠く蘇る。今は亡き友の子を守り、そのうえでなお王に召されるなら、老いの身にも悔いは少ないと感じられた。
「あれがどう語ったかは知らぬが、陛下が砦の名を忘れておらぬことは確かだ。辺境の兵にもなお用があると見える」
ヴィースは夫の前に進み、文言をちらりと見やる。
「長い道でございます。どうかご無理をなさいませぬように」
「陛下のご期待に応えぬわけにもいくまい。万全とは言えずとも、召しに応じて馬に乗るだけの脚は残っておる」
そう応じつつ、アデルグドゥンバデスは自らの膝に目を落とした。幾度も傷を負い、寒さと歳月に締め付けられてきた脚であり、この召しを逃せば二度と王の前に出る機はあるまいと理解している。
間もなく館は出立の支度に追われ始めた。従僕たちは鎖帷子と兜を用意し、馬屋では乗り慣れた馬の鞍が点検される。従者が精鋭の名を少数書き上げ、主に差し出した。砦を空にせぬよう兵を残しつつ、自らの周りには長く戦場を知る者ばかりを置くつもりであった。
選び抜かれた名が定まると、ヴィースは旅装束を纏った夫の帯を結び、フラームは懐に忍ばせる薬包みを用意する。王命の響きは館の隅々にまで浸み、誰もがこれから伸びていく道を戦の栄誉で満たされたものと思っていた。
アデルグドゥンバデスは王の手紙を胸に納め、門の方を見やる。遠い山々とその向こうに広がる戦場を思い浮かべながら、老いた胸にひそかな誇りを抱いていた。辺境の砦から再び王の前へ。長く願いながら、もはや叶うまいと思っていた道が、今まさに開けようとしている。
砦を出て山道に入ってから幾日かが過ぎた。アデルグドゥンバデスは列の先頭に立ち、荒い息を吐く馬を進めながら前方の斜面を見上げた。路は次第に狭くなり、石が多くなっていく。鞍の下で老いた腰と膝が軋んだ。
「急げ。陛下の軍は山を一つ越えた先にあると聞いている」
背後の騎兵が、その声を合図に手綱を締め直す。従者もすぐ後ろに続いた。
冷えは脚の古傷を締め付ける。アデルグドゥンバデスは背をわずかに丸め、鞍の前縁を握りしめた。
路はやがて片側が崖に落ち込む棚へと変わる。
その刹那、馬の前脚が石を蹴り、蹄が滑った。体がぐらりと傾き、鞍の下で馬の背が遠のく。アデルグドゥンバデスは脚で挟み込もうとしたが、強張った膝が意のままにならぬ。視界が翻ったかと思うと、土と石が胸元に迫った。
衝撃が肩と背を打ち、右脚に鋭い痛みが走る。
叫び声と蹄の乱れる音が続き、数騎が駆け寄った。従者が馬から身を躍らせ、砂をはね散らしながら傍らに膝をつく。
「お体をお支えします」
肩と背に腕が回された瞬間、アデルグドゥンバデスは顔を歪めた。膝から下が不自然な角度で曲がり、骨の線がずれている。
「馬に戻る。遅れてはならぬ」
荒い息の合間に絞り出された言葉に、従者は首を横に振った。
「これ以上進めば、途中で命を落とされましょう。この脚では明日を待たずに倒れます」
周囲の者たちは小さな平地を探し、斜面の脇に荷を下ろす。外套と敷き布が重ねられ、即席の寝床が作られた。板切れと枝を添え、裂いた布で脚を固定する。
やがて脚が動かぬよう固められると、従者は身を寄せて言った。
「このままでは進軍は叶いません。どうか、お考えをお預け下さい。伝令を走らせ、陛下にお伝えいたします」
アデルグドゥンバデスは目を閉じ、浅い息を吐く。召しを受けた身でありながら道半ばで倒れることは、武人として恥であった。それでも今は、己の脚よりも命令そのものを先に運ばねばならぬと悟る。
「ではこう伝えよ」
老将は一語ずつ区切るように続けた。
「王命を奉じて進軍中、山路にて落馬し脚を負傷いたしました。このままの行軍は叶いませぬ。一時近隣の砦に入り療治を受けるか否か、今後の処し方につき御裁可を仰ぎます」
従者はその文言を胸に刻み込む。
「承りました。そのままの言葉をお届けいたします」
従者は最も足の立つ若者を呼び寄せ、報告の文を書き取らせた。小さな封が施され、騎兵の懐に納められる。
若者は頭を下げ、馬腹を蹴った。蹄が土を蹴る音がしだいに遠のいていく。アデルグドゥンバデスは外套に背を預けたまま、王の旗の下に再び立つことをなお疑ってはいなかった。
やがてホスローの陣に東方からの報せが届く。山路を進む途上でアデルグドゥンバデスが落馬し、脚を折ったとあった。報を読み終えると、ホスローはすぐさま立ち上がる。
「馬を用意せよ。案内の者も連れて行く」
少数の騎と共に陣を出た。やがて報に記された一角に近づくと、斜面の途中に荷を下ろした一団が見える。その中央で、アデルグドゥンバデスが半身を起こしていた。脚には粗い添え木が当てられている。
ホスローの姿を認めると、老将は腕を支えられながら上体を起こし、胸の前で両手を合わせて頭を垂れた。
「陛下自ら、かような場所までお運びとは」
声は掠れているが、眼差しにはまだ兵を束ねてきた者の強さが残っている。ホスローは馬を降り、地を踏んで近づいた。
「報せは受けた。脚を損じたと聞くが」
「山路を急ぎましたところ、馬が踏み誤りましてな。しかし、傷が癒えればなお鞍に戻るつもりでおります」
ホスローは膝を折り、巻かれた布の上から一度だけ脚を見る。それから顔に憂いを浮かべて見せた。
「この様子では、歩くことさえ難しかろう。無理を続けてここで命を落とされては、東方の地の者らが途方に暮れる」
アデルグドゥンバデスは唇を結ぶ。
「では、いかがいたせばよろしいか」
「近くに砦がある。そこへ運び、医師に治療をさせよ。ここから先は選んだ少数に任せ、残りはこの場で待て。骨が繋がれば、ふたたび務めを任せることも出来よう」
言葉の調子には咎め立てする色はなく、労わりさえにじんでいた。傍らに控えていたヴァラメスが、一歩前に出る。
「父上。陛下のお考えの通りにすべきです。この脚で無理をなされれば、東方の民も兵も嘆きます。砦にお移り下さい。……後は俺に任せて」
アデルグドゥンバデスは王と息子の顔を見比べた。王命を退ける道はなく、息子の言葉にもまた理がある。
「承知いたしました。ヴァラメス、頼んだぞ」
若い兵が一人進み出てアデルグドゥンバデスの傍らに膝をつき、その腕を自らの肩に回させた。アデルグドゥンバデスは痛む脚をかばいながら身を預け、もう一方の足で地を踏みしめる。顔に走る痛みのために眉がわずかに寄った。それでも声は洩らさぬ。
兵は歩調を合わせて斜面を下り、砦のある方角へと身を向ける。ヴァラメスはホスローの傍らに歩を進め、ミフルダードはその背後に控えた。その行き先にどのようなものが待っているか、アデルグドゥンバデスだけは知らぬまま、兵の肩を頼りに砦への道を進んでいった。




