12 血筋
陣の中央で、幕舎の帷が風に揺れていた。
ホスローは卓に向かい、一通の文を読む。封泥には東方の砦の名、行の終わりには近ごろの日付が記されていた。王の指がそこをなぞるたび、瞳が冷える。
「ヴァラメスを呼べ」
侍従が退くと、ほどなくして若い将が幕舎の口に姿を見せた。鎖帷子の肩には砂が残り、遠征の疲れが顔に刻まれている。それでも背は伸び、額には父ゆずりの硬さがあった。
「陛下のお召しにより参上いたしました」
ホスローは卓の前を指し示し、羊皮紙に指を置く。
「東の砦より報せが届いた。そなたの父が亡くなったとな。落馬の傷が癒えぬまま、砦で息を引き取ったとある」
言葉が布の内に響いた。ヴァラメスは一歩出かけて足を止める。胸の中で何かが浮かび、すぐに堅い殻の奥へ落ちていくのを覚えた。
「長く境を預かった将であった。王として、その労は認めねばならぬ」
ホスローが言い終えるあいだ、ヴァラメスは頭を垂れる。自らの選びが砦への道を敷き、そののちに何が起きたかを思えば、喉の手前まで酸いものが上がった。だが、同じところには別の感触もある。父の影は退き、自らの名が前に出た。その事実を否むことは出来ぬ。
「陛下。父へのご慈念、恐懼の至りに存じます」
口から出たのは礼の言葉だけである。悔いも安堵も胸に押し包んでおく。
ホスローはじっとその顔を眺め、唇の端に薄い笑みを乗せた。
「血で得た坐か」
一語が幕舎の空気を重くする。ヴァラメスの肩が、見て取れるか取れぬかほどに跳ねた。父を告げた日の自分の声が耳に戻る。
王は立ち上がり、奥に吊した地図の前へ歩み寄った。山と河の線が交わる一角に、東方の砦の名が記されている。
「アデルグドゥンバデスの後を空けてはならぬ。境に隙を見せれば、外の者も内の者も同じ場所を突いて来よう」
ホスローは振り向き、ヴァラメスを見据えた。
「ヴァラメス。お前がその地を継げ。これより王命をもって、カナランの務めを任ずる」
幕舎の中で音が遠のいたように感じられた。父の名で呼ばれてきた砦が、これからは自分の名と結びついて語られる。
どのような血の上に築かれたものであれ、与えられた坐は守り通さねばならぬ。
「拝命いたします。境を守る務め、命に代えても果たしてご覧に入れましょう」
ホスローはうなずき、片手を軽く振る。ヴァラメスは一礼し、砦の口へ退いていった。
× × ×
帝国領に入ってからの路は、踏み固められた帯のように大地を横切っている。石を敷き詰めた道の脇には土塁が続き、ところどころに立つ石柱には、知らぬ文字と数が刻まれていた。槍を帯びた帝国の兵が前後を固め、アルダフルとアーザードはその中ほどを進んでいく。
囲む槍の意味は、もはや追い立てるためではない。往来を行き交う商人や巡礼は、帝国の紋章を掲げた盾を見ると道の端へ寄り、列が過ぎるのを待った。闇の中で取り囲まれたあの夜とは違い、この列は迎えの列である。
メソポタミアの城々を離れていくあいだ、灌木の多い荒地は、水を引いた畑と木立に変わった。夜営のたび、書記官が名と人数を書き付け、護送の兵に印を渡す。
束の間の休息の時、焚き火の傍でアーザードが囁いた。
「この先がアンティオキア。ビュザンティウムへの門となります」
護送の長は二人を客人として扱うようになり、同じ鍋の糧を分ける。それでもアルダフルは胸の内で名を抱きしめたまま、ザメスの子であることも、アデルグドゥンバデスに託された身であることも口に出さなかった。
やがて広い河と城壁の姿が現れる。塔が並び、城門の上には帝国の旗が翻っていた。列が近づくと門楼から合図が返り、扉が内側へ引かれる。敷石の路には柱廊が続き、人と車が絶え間なく行き交っていた。
護送の列は川に近い一棟の館へと導かれる。庭を囲む壁の内に入り、アルダフルとアーザードは小さな部屋に通された。水と簡素な食が運ばれ、戸口の外には二人の兵が控える。アルダフルは卓の縁に手を置き、長い路の終わりにようやく肩の力を抜いた。
そのとき、戸の外で足音が止まる。書記官風の男が一人、通訳を伴って入ってきた。手には巻かれた羊皮紙がある。
「ペルシアからの報が届きました」
通訳が言葉を移す。男は文を開き、いくつかの行を目で追ってから続けた。
「ペルシアのカナラン、アデルグドゥンバデスが召しに応じて出立したのち、砦で命を落としたとのことです」
アーザードの瞼が震える。訳された言葉が耳に入った瞬間、アルダフルの胸には砦の中庭と弓場の的が広がった。ザメスの子を受け取り、辺境に庇護の場を与えてくれた男である。その名をここまでの路の証として抱いてきた。
詳しい事情は分からぬ。ただ、新たなカナランとしてヴァラメスが境に立ったとだけ添えられていた。
安堵とともに抜けかけていた力が、別の意味を帯びて戻ってくる。守り手を失ったという報は、これから名を明かそうとする場の意味を変えた。アデルグドゥンバデスに託された名と命は、もはや砦ではなく、自らの口から語らねばならぬものとなる。
アルダフルは目を閉じ、息を吐いた。遠い東方の砦と、そこで肩を並べた者たちの面影を胸に納めながら、ゆるやかに顔を上げる。
戸口で足音が止まり、兵が板戸を押し開けた。書記官が一歩進み出て一礼し、通訳が後ろに控える。
「総督がお待ちです。こちらへ」
アルダフルはうなずき、アーザードと共に立ち上がった。長い旅の土が裾に残っている。砦を発った日から過ぎた日数を胸で払い落とし、兵の先導に歩を合わせた。
石の柱が並ぶ回廊を抜けると、大きな扉の前で列が止まる。合図とともに扉が内側へ引かれ、石の広間が目の前にひらけた。奥の一段高い場所には椅子があり、金の縁取りの衣をまとった男が腰を下ろしている。その傍らには甲冑の将が立ち、腰に帯びた剣に手を添えていた。
「ペルシア王家の紋を携えていたと聞いたが」
総督の声が広間に届き、通訳が言葉を移す。示されたところで膝をつくと、視線が一斉に集まった。
「何者であり、いかなるわけあって帝国の地に身を寄せたか。まずそれを聞きたい」
問いかけにアルダフルは頭を垂れたまま、胸をひと巡りする思いを確かめる。
ザメスの子として生まれながら、その名を消され、砦の館で偽りの名を与えられて育った。父の期待を負いながら、王子としてではなく、一人の若者として弓を引き馬にまたがることを覚えてきたのは、アデルグドゥンバデスの計らいによるものである。館の炉端で包みを差し出してくれたヴィース、幼いころに抱き上げてくれたフラームの腕の温みも、いまなお忘れてはいない。
その傍らで、ザメスに従ったアーザードが、ただ一人の従者として自分を見守り続けてきた。砦を出てからの路は、彼の先導と覚悟によって開けたものだ。みなに守られていた日々は過去に置かねばならぬ。
王家の血は、自らを誇るためだけに与えられたものではない。ザメスの子として、アデルグドゥンバデスの子として、そしてここまで運んでくれた人々の恩に報いる者として、名を掲げる務めがある。誰かの陰に隠れて路を終えるなら、その血も恩も無に帰すほかはない。砦で呼ばれてきたアルダフルという名は、ここで役目を終えるべき覆いであった。
アルダフルはゆるやかに顔を上げ、総督と近衛隊の将をまっすぐに見据える。血の誇りと守ってくれた者たちへの感謝を、一息に声へと変えた。
「私の名はクバード。ペルシアのカナラン、アデルグドゥンバデスにより秘匿された、王兄ザメスの子です」




