13 不滅
ビュザンティウムの皇宮は、海を見下ろす高台にその身を据えていた。穹隆の下、柱廊を抜けた奥の広間には、紫の帷と金の装飾が重なっている。その一段高い坐に、皇帝ユスティニアヌスが身を正していた。
左右には高官と衛士が列をつくり、侍従が扉の方へ目をやる。遠き東方より来た客人があると、朝のうちに報せが入っていた。名はクバード。かつてペルシアを治めた王と同じ名を持つという。
扉が開き、足音が石床を渡った。槍を持つ帝国の兵に囲まれて、ひとりの若者が進み出る。そのすぐ後ろに、陽焼けした顔の従者が姿勢を低くして続く。目には疲労の色があったものの、視線の芯は折れていない。
若者は広間の中ほどで止まり、示された場所で膝をついた。肩に落ちる黒髪の線と、引き結んだ口許のかたち。ユスティニアヌスは、その面差しに見覚えのある影を見いだす。記憶に残る亡きクバード王の姿が、胸の奥から浮かび上がる。遠い戦と交渉の折に耳にした名が、今は血を伴って目の前に立っているのであった。
列に並ぶ官人たちも互いに視線を交わす。ザメスの子はすでに亡き者と聞かされていた。その名がふたたび口の上にのぼり、名乗りを待つかたちで広間全体が固まっている。
玉坐の脇には、侍従長ナルセスが控えていた。細身の体を黒衣で包み、その眼は客人と皇帝とのあいだを測るように動いている。ペンと印章で帝国の財と軍を動かしてきた男は、この若者がどのような価値を持つかを見きわめようとしていた。
「顔を上げよ」
皇帝の声が通訳によって伝えられる。若者がゆっくりと顔を上げると、広間に居並ぶ者たちの視線が一斉にその目元に集まった。遠い国の血筋でありながら、どこかで見た王の線を宿していると、誰もが悟る。
「そなたがクバードか」
その問いに、若者は胸に手を当てて応じた。
「はい。ザメスの子クバードにございます」
その答えと顔立ちとが一つに重なり、騒然としかけた場を、ユスティニアヌスの上げた片手が抑えた。皇帝はひととき口を閉ざし、目の前の男を、ペルシアの過去と帝国の行く末とを量る秤の一つとして見つめる。
名乗りの声が広間に響いたのち、ユスティニアヌスは玉坐の上で姿勢をわずかに改めた。若者の面差しと、東から届いていた数々の報を胸の中で照合する。ザメスの処刑、アデルグドゥンバデスの死。その余波として語られていた秘匿の子が、今こうして自ら歩いてここに来ている。
「ペルシアのことは、こちらにも多くの報が寄せられておる」
皇帝の声が通訳によって移された。クバードは膝をついたまま、まっすぐに顔を上げる。
「ならば父の最期も、すでに陛下のお胸にあるのでしょう」
クバードの声は落ち着いていた。
「私はその血を継ぐ者としてここに参りました。ザメスの名がまだ陛下のお役に立つならばと、そのためにこそ」
庇護を請う言葉は口にしない。その代わりに差し出しているのは、自らの血筋そのものである。
ユスティニアヌスは、その言いぶんに一瞬だけ目を眇めた。遠い国の王家の若者が、己を札として差し出す覚悟を、最初から備えていることが見て取れたからである。
皇帝は傍らに控える侍従長へと視線を送った。
「ナルセス。そなたはどう聞く」
名を呼ばれたナルセスは一歩進み出る。指が胸の前で組まれ、その眼差しは客人と皇帝とを等しくとらえていた。
「ザメス殿は、王冠にもっとも近いところで斃れた御方。民のあいだでその名は今も語られております。その子と名乗る者が、帝国の宮中にいるとなれば、ホスロー王は常にその影を思わざるを得ませぬ」
ナルセスの言葉の先にある景色は明らかである。
「陛下がお手元に置かれれば、この若者は東への文を書かれるときの抑えとなります。剣を抜かざるうちは旗であり、抜くときには、別の王位を指し示す印ともなりましょう」
ユスティニアヌスは玉坐からゆるやかに立ち上がり、列の端々まで届く声で告げた。
「いいだろう。私はこの者を、クバード王の孫として遇する。ザメスの子クバードと名を記し、宮に住まわせよ。衣と坐とを備え、我が友たる王家の一人として礼を尽くせ」
侍従と書記官が一斉に頭を垂れ、広間のあちこちで羽根ペンの音が鳴る。列に並ぶ高官たちは、今しがたまで亡命者として見ていた若者を、帝国が手にした王家の血として目に刻みつけていた。
通訳が宣言を移し終えると、クバードは深く礼を取る。
「お取り計らいをお受けいたします。いずれの日か、陛下のご決断にこの血が報いることが叶いますよう」
願いというより、約束に近い響きであった。王家の血は正しさを負うためのものであり、この血の上に何を築くかを示さねば、ザメスの名もアデルグドゥンバデスの労も空へ散るだけである。
やがて衛士が前に出た。クバードとアーザードを宮の内へと案内する。立ち上がった若者の姿を見送りながら、ユスティニアヌスは心中でひとつの刃のかたちを思い描いていた。ホスローが約を違えたとき、その刃は東の王坐へ向けられることになる。クバードもまた、その行く末を見据えながら、新たに与えられた路へと歩を進めた。
夜の帷がおり、ビュザンティウムの宮に灯火の列が続く。クバードに与えられた一室では、小さな油皿の火が石の床を照らしていた。
卓の上には水鉢が据えられている。澄んだ水が縁まで張られ、その傍に旅路を共にした帯が畳まれていた。砦を発つ日の前夜、アデルグドゥンバデスが無言で差し出し、結びを確かめてくれたクスティである。
「アーザード」
声をかけると、従者は戸口の横から進み出て膝を折った。その瞳は昔と変わらぬ敬意を湛えている。
「ここで祈ろう。父と養父のために」
アーザードはうなずいた。
クバードは袖をたくし上げ、水に両の手を浸す。指先から手首へ、肘へと流れを運び、額にも軽く触れた。砦の祈りの場で教わったとおり、身と心をあらためる作法である。冷えた感触が、東方の土と空気を思い起こさせた。
水を払うと、畳まれた帯を取る。布の一部は使い込まれて白く擦り減り、そのところにアデルグドゥンバデスの手の温もりが残っているように思われた。クバードは腰に帯を回し、三たび結び直す。
ホスローの甥として名を掲げるのではなく、ザメスの子として、またアデルグドゥンバデスに託された者としてどのように生きるべきか。ペルシアの王家の血は、安穏のためではなく責を負うために与えられていると、若い心にも分かっている。
帯の端を撫でると、クバードは火の前に進み出た。油皿の焔は小さいながらも芯を保ち、その向こうに故国の聖なる火壇の像が重なる。
アーザードも主の隣に並び、胸の前で指を組んだ。二人は顔を下げ、唇だけで句を繰り返す。善き思いと善き言葉と善き行いを求め、暗きものを遠ざける古い言葉である。
やがてクバードは、心の中で亡き者たちの名を一つひとつ呼んだ。父ザメス、アデルグドゥンバデス。この世を去ってなお善き側にとどまり人を導く霊が、この土地にも届くようにと願い、焔の先を見つめる。
父は法の前に立ち、王家の規を受け入れて首を差し出したのだと聞かされていた。己の血を頼むだけの生き方では父に顔向けできぬ。与えられた血の意味を知り、その上にどのような正しさを立てるかを、これからの歩みで示さねばならぬ。
ホスローの名もペルシアの動きも、いずれこの宮に届くだろう。そのときどこに立ち、誰の側にいるかを誤れば、ザメスとアデルグドゥンバデスの名はまた土に埋もれてしまう。クバードは火を見つめながら、胸の内で思いを温めていった。
祈りの句を唱え終えると、焔が穏やかに揺れる。クバードは腰の帯に手を添え、アーザードとともに深く頭を垂れた。二人の父に想いを寄せ、王家の子は与えられた新たな夜をおごそかに受け入れていく。




