第2話 Days2 「一寸先は前…なのか?」
『7日8日9日10日(なのか?用か、9日10日)』
Days2・一寸先は前…なのか?
【読者の皆様へ】
本作品はフィクションです。登場する人物・団体・場所などは、実在するものとは関係ありません。
また、本作品では、若年性アルツハイマーについて、できる限り正確な医学的情報に基づいた描写を心がけておりますが、表現や解釈に不正確な点が含まれる可能性がございます。あらかじめご了承くださいますよう、お願い申し上げます。
深夜――ダメ親父の、眠れない夜
なのかがお婆さんの部屋に入ったのを見届けると、誠は自分の部屋へ戻った。
いつもと変わらない、散らかった部屋。
脱ぎっぱなしの服。
テーブルの上には、いつ買ったのか分からない空き缶。
そして、座布団の上には、なぜか片方だけの靴下が落ちていた。
「……汚ねぇなぁ、俺の部屋」
誠は、部屋を見回してつぶやいた。
今さらである。
しかし、今夜はそんなことを気にしている場合ではなかった。
誠はスマートフォンを取り出した。
なのかから聞いた、美雪の病気。
若年性アルツハイマー。
名前は聞いた。
だが、それが具体的にどんな病気なのか、誠はほとんど知らなかった。
「……若年性アルツハイマー、っと」
検索画面に文字を打ち込む。
すぐに、いくつもの情報が表示された。
誠は、最初のページを開いた。
「……若年性認知症……六十五歳未満で発症した認知症……」
声に出しながら、ゆっくりと読み進める。
「……アルツハイマー病は、その原因の一つ……」
誠は、画面をスクロールした。
認知症という言葉は知っていた。
だが、知らないことばかりだった。
若年性認知症は、一つの病名ではない。
アルツハイマー病だけでなく、脳血管の病気など、さまざまな原因によって起こる。
そして、アルツハイマー病では、最近の出来事を覚えにくくなるなどの記憶障害が現れることが多い。
ただし、症状の現れ方は人によって違う。
比較的若い年齢で発症した場合には、物忘れ以外の変化が目立つこともあるらしい。
「……物忘れだけじゃ、ねぇのか」
誠は、画面を見つめた。
さらに調べていくと、時間や場所が分かりにくくなること、慣れた道で迷うこと、段取りを立てたり、状況に合わせて判断したりすることが難しくなる場合もあると書かれていた。
「……道に迷う……」
誠の表情が変わった。
美雪は、今、どこにいるのだろう。
いつもの道を歩いているのか。
それとも、知らない場所へ行ってしまったのか。
寒い思いをしていないだろうか。
困って、立ち尽くしてはいないだろうか。
「……美雪……」
誠は、思わず名前を口にした。
もう一度、画面を見る。
認知症は、単に物忘れが増えるというだけのものではない。
記憶、言葉、時間や場所の把握、理解や判断など、さまざまな認知機能が低下し、日常生活に支障が出ることがある。
アルツハイマー病では、脳の中に異常なたんぱく質が蓄積し、神経細胞が障害されていくことが知られている。
だが、画面には、もう一つ大切なことも書かれていた。
症状の進み方も、現れる症状も、人によって異なる。
「……人によって、違う……」
誠は、スマートフォンを握り直した。
美雪が、これからどうなっていくのか。
自分に何ができるのか。
画面を読んでも、すべての答えが分かるわけではなかった。
それでも、知らないままでいるよりは、少しでも知っておきたかった。
さらに検索を続ける。
「……本人が、わざと忘れてるわけじゃねぇんだよな……」
当たり前のことのようで、誠には、その言葉が重く感じられた。
もし美雪が、何かを忘れてしまったとしても。
もし、同じことを何度も尋ねたとしても。
もし、道に迷い、助けを求めることができなかったとしても。
それは、美雪が悪いわけではない。
「……そっか……」
誠は、目を閉じた。
自分は、何も知らなかった。
美雪の病気についても。
美雪が、これからどんな不安を抱えていくのかについても。
そして、今、どれほど心細い思いをしているかもしれないのかについても。
「……ごめんな、美雪……」
誰もいない部屋で、誠は小さくつぶやいた。
「俺……何にも知らなかったよ……」
スマートフォンの画面には、まだ情報が表示されていた。
誠は、もう一度目を開ける。
「……よし」
頬を軽く叩いた。
「もっと調べねぇとな……」
ところが、次の瞬間。
誠の腹が、ぐぅぅぅぅ、と鳴った。
「…………」
誠は、腹を押さえた。
「……腹は減るんだな……」
当たり前である。
「……いや、待てよ。腹が減るってことは、元気な証拠か?」
誰に聞いているのか。
「よし! 元気だ!」
一人で納得すると、誠は再びスマートフォンに向き直った。
その夜、誠はほとんど眠らなかった。
美雪の病気について、できる限り調べた。
そして、もう一つ。
誰にも知られないところで、動き始めていた。
深夜――源さんへの電話
時計の針が、深夜を回っていた。
誠は、スマートフォンの連絡先を開いた。
そこに表示された名前。
源さん。
昔からの知り合いで、元刑事。
今では、麻雀を打つ仲間でもある。
誠は、しばらくその名前を見つめた。
「……頼むしか、ねぇか」
通話ボタンを押す。
数回の呼び出し音のあと、電話がつながった。
『……もしもし』
眠そうな声が聞こえた。
「……あ、源さん? 俺、誠」
『……誠?』
「悪いな、こんな時間に」
『……今、何時だと思ってんだ』
「いや、すまん。ちょっと、頼みがあって……」
源さんの声から、眠気が消えた。
『……どうした?』
誠は、短く息を吸った。
そして、美雪が行方不明になったことを話した。
なのかが自分を訪ねてきたこと。
美雪が若年性アルツハイマーを患っていること。
今、どこにいるのか分からないこと。
誠は、うまく言葉にできないまま、それでも必死に伝えた。
『……そうか』
源さんは、しばらく黙っていた。
『それは、心配だな』
「……ああ」
誠は、うつむいた。
「俺……何としても、美雪を見つけてぇんだ」
『分かった。俺にできる範囲で協力する』
その言葉を聞いた瞬間、誠の肩から、ほんの少し力が抜けた。
「……ありがとう、源さん」
『ただし、俺はもう警察官じゃない。昔の経験を生かして助言はできるが、警察しか扱えない情報まで調べられるわけじゃない。そこは分かってくれ』
「ああ、もちろんだ」
『警察には、もう連絡してあるんだな?』
「……ああ。なのかが、ちゃんと届けてくれてる」
『よし。なら、俺もできることを考える』
源さんは、少し考えてから続けた。
『まずは、美雪さんが最後に確認された場所と時間。それから、普段よく行く場所、立ち寄りそうな場所だ。家族しか知らないこともある。なのかちゃんにも話を聞いた方がいい』
「……分かった」
『それと、病気のことも忘れるな。本人がいつもの道を覚えているとは限らない。家族が思っている方向と、本人が実際に向かった方向が違うことだってある』
誠は、真剣に聞いていた。
『ただ、決めつけは禁物だ。病気があるから必ず道に迷うわけじゃない。まずは事実を一つずつ集めることだ』
「……ああ」
『明日の朝、俺はいつもの麻雀屋にいる。そこで、分かる範囲の情報を整理しよう』
「……助かるよ、源さん」
『礼は見つかってから言え』
「……ああ」
電話を切ったあと、誠はしばらくスマートフォンを握りしめていた。
美雪を捜すために、自分にできること。
一つでも多く、やっておきたかった。
なのかには、まだ言わない。
余計な期待を持たせたくなかった。
それに――。
「……少しくらい、親父らしいことしねぇとな」
誠は、照れくさそうに笑った。
その直後、スマートフォンが手から滑り落ちた。
ゴトッ。
「いってぇ!」
足の甲に直撃した。
「……何やってんだ、俺は……」
結局、最後まで格好はつかなかった。
それでも誠は、もう一度スマートフォンを拾い上げた。
そして、再び美雪の病気について調べ始めた。
翌朝――起きろ、クソ親父!
「……ん……」
誠は、布団の上でうめいた。
いつの間にか、スマートフォンを握ったまま横になっていたらしい。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
「……朝か……」
誠は、ゆっくりと体を起こした。
頭が重い。
目がしょぼしょぼする。
昨夜、何時間眠ったのだろう。
いや、そもそも眠ったと言えるのだろうか。
「……ね、眠い……」
誠は、再び布団に倒れ込んだ。
その瞬間。
ドンドンドン!!
部屋のドアが激しく叩かれた。
「おい! 起きろ、クソ親父!!」
「……んがっ!?」
誠は飛び起きた。
「な、何だ! 火事か!?」
「火事じゃねぇよ! 朝だよ!!」
「……朝?」
「そうだよ!! 昨日、朝一番から捜すって約束しただろうが!!」
誠の顔が、一瞬で青ざめた。
「……あっ!!」
ガバッ!
慌てて立ち上がったものの、足元に落ちていた服を踏んづける。
「うおっ!?」
ドテッ!!
派手に転んだ。
「……何やってんだよ、あいつ……」
ドアの向こうから、なのかの呆れた声が聞こえた。
誠は、床に転がったまま叫んだ。
「い、今起きた!!」
「見りゃ分かるよ!! 早く開けろ!!」
「ちょ、ちょっと待て! 準備が……!」
「何の準備だよ!!」
誠は、慌てて服を拾い上げた。
昨夜、ほとんど眠らずに調べ物をしていたことなど、なのかには知られたくない。
スマートフォンをテーブルの下へ滑り込ませる。
画面には、若年性アルツハイマーについて調べたページが、いくつも開いたままになっていた。
誠は、それを見ないようにして、ドアを開けた。
「お、おはよう、なのか!」
「……おはようじゃねぇよ」
なのかは、誠の顔をじっと見た。
「……何、その顔」
「え?」
「目の下。クマがすごいんだけど」
「……ああ、これはだな」
誠は、得意げに胸を張った。
「昨日、ちょっと夜更かしを……」
「何してたんだよ」
「……人生について、いろいろと」
「は?」
「……いや、あの、その……」
「どうせ、くだらない動画でも見てたんだろ」
「な、なぜ分かった!?」
「本当に見てたのかよ!!」
「しまったぁぁぁ!!」
なのかの拳が、誠の頭に落ちた。
ゴツン!
「いってぇぇぇ!!」
「いいから、早く準備しろ!!」
「は、はいぃぃ!!」
誠は、慌てて部屋へ引っ込んだ。
なのかは、ため息をついた。
やっぱり、ダメ親父だ。
何も変わっていない。
……少なくとも、なのかにはそう見えた。
隣の部屋の大学生――清六、起こされる
身支度を済ませた誠は、なのかと一緒に部屋を出た。
しかし、階段を下りる前に、誠は隣の部屋のドアの前で立ち止まった。
「……よし」
「……何?」
「ちょっと、頼みがある」
誠は、ドアをノックした。
コンコン。
返事はない。
もう一度。
コンコンコン。
やはり、返事はない。
誠は、少し考えてから、拳を握りしめた。
ドンドンドンドン!!
「清六ぉぉぉ!! 起きろぉぉぉ!!」
「うるせぇぇぇぇぇ!!」
ドアの向こうから、怒鳴り声が返ってきた。
なのかは、頭を抱えた。
「……朝っぱらから、何やってんだよ……」
ガチャッ。
ようやくドアが開いた。
寝ぐせだらけの頭。
半分閉じた目。
そして、ものすごく不機嫌な顔。
隣の部屋に住む大学生、清六だった。
「……何時だと思ってるんですか」
「おはよう、清六!」
「おはようじゃないです」
「いやぁ、悪い悪い!」
「悪いと思ってる人は、そんなに元気に挨拶しません」
清六は、誠の後ろにいるなのかを見た。
「……えっと、こちらは?」
「娘だ!」
誠は、なぜか胸を張った。
「なのかです」
なのかは、簡潔に頭を下げた。
「……ああ、娘さん」
清六は、少しだけ目を覚ましたようだった。
誠は、さっそく本題に入った。
「ところで、清六。車、貸してくれ!」
「……は?」
「車!」
「聞こえてます。意味が分からないんです」
「いや、ちょっと人を捜しに行かなきゃならなくてな!」
清六の表情が変わった。
誠は、美雪が行方不明になったことを簡単に説明した。
清六は、最初こそ寝ぼけていたが、話を聞くにつれて真剣な顔になった。
「……そういうことですか」
「頼む! 車が必要なんだ!」
清六は、しばらく考えたあと、うなずいた。
「分かりました。ただし、ガソリンは減った分を入れて返してください。それと、無茶な運転はしないでくださいね」
「おう! 任せとけ!」
「……今の返事、ものすごく不安なんですけど」
「大丈夫だ! 俺は安全運転の達人だからな!」
なのかが、すかさず口を挟んだ。
「……おまえ、免許持ってるよな?」
「持ってるよ!」
「本当に?」
「……持ってる!」
「何で疑問形なんだよ!!」
清六は、深いため息をついた。
「……本当に大丈夫かな、この人」
「大丈夫です。私が監視します」
なのかが即答した。
「……それなら、少し安心しました」
「おい! お前ら、俺を何だと思ってるんだ!」
「ダメ親父」
「不安要素」
「二人してひどくない!?」
清六は、部屋に戻り、車の鍵を持ってきた。
「……これです。くれぐれも気をつけてください」
誠は、鍵を両手で受け取った。
「ありがとう、清六! この恩は一生忘れない!」
「……いや、普通に返してくれればいいです」
「よし! 行くぞ、なのか!」
「……その前に」
なのかは、誠の襟元をつかんだ。
「何だ?」
「昨夜、あれだけ大口を叩いたんだから、今日はちゃんと働けよ」
「お、おう……!」
「絶対だからな!」
「……はい」
誠は、情けなくうなずいた。
そして二人は、清六から借りた車へ向かった。
いよいよ、美雪を捜す一日が始まる。
源さんのいる麻雀屋へ
車を走らせながら、誠は何度も源さんから聞いた話を思い返していた。
まずは、源さんのいる麻雀屋へ向かう。
そこで、もう少し詳しい話を聞く約束になっていた。
助手席のなのかは、窓の外を見つめていた。
母は、どこにいるのだろう。
何を考えているのだろう。
無事でいてくれるだろうか。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。
「……お父さん」
「ん?」
「……絶対に、お母さんを見つけようね」
誠は、ハンドルを握る手に力を込めた。
「ああ。絶対に見つける」
その声には、冗談もふざけた調子もなかった。
なのかは、父の横顔を見た。
しかし、誠はすぐに余計なことを言った。
「……ところで、麻雀屋って、朝から開いてるんだよな?」
「……は?」
「いや、ほら。麻雀って夜にやるもんじゃないのか?」
「……おまえ、昨日、源さんって人に電話したんだろ?」
「おう!」
「それで、朝に会う約束をしたんだろ?」
「……おう!」
「じゃあ、開いてるに決まってるだろうが!!」
「そ、そうだよな!!」
なのかは、額を押さえた。
「……先が思いやられる……」
誠は、何も言い返せなかった。
ただ、車を走らせた。
麻雀屋――元刑事、源さん
しばらくして、二人は麻雀屋に到着した。
誠が車を停めると、なのかは看板を見上げた。
「……ここ?」
「ああ」
「……本当に麻雀屋じゃん」
「そうだな」
「……お母さんを捜しに来たんだよね?」
「そうだぞ」
「……なのに、麻雀屋?」
「だから、そうだって!」
なのかは、呆れた顔で誠を見た。
「……ほんっと、意味分かんない」
「いや、だからな! ここに源さんがいるんだよ!」
「源さん?」
「昔からの知り合いだ。元刑事でな。今は、俺の麻雀仲間だ」
「……元刑事?」
「ああ」
なのかは、少しだけ表情を変えた。
「……それ、先に言えよ」
「いや、言おうと思ったんだけどな!」
「思っただけかよ!!」
「……はい」
誠は、しゅんとうなだれた。
二人は、店の中へ入った。
店内には、麻雀卓が並んでいた。
朝の時間帯ということもあって、客は多くない。
奥の卓に、一人の男性が座っていた。
誠の姿を見つけると、男性は軽く手を上げた。
「おう。来たか、誠」
「源さん!」
誠は、駆け寄った。
「昨日は、夜中に悪かったな!」
「いや、気にするな。それより……」
源さんは、なのかに目を向けた。
「……この子が、なのかちゃんか」
「はい。小林なのかです」
なのかは、頭を下げた。
源さんは、穏やかにうなずいた。
「話は聞いている。お母さんが心配だろう」
「……はい」
なのかの声が、小さくなった。
源さんは、椅子を勧めた。
「まずは座ってくれ。分かっていることを、一つずつ整理しよう」
誠は、なのかの隣に座った。
源さんは、机の上に置いてあったメモ帳を開いた。
「誠から聞いた話では、お母さんが行方不明になって、警察にはすでに届け出ているんだな?」
「はい」
なのかが答えた。
「お母さんが最後に確認された場所や時間、それから、普段よく行く場所は?」
なのかは、美雪がいなくなったときの状況を説明した。
源さんは、話を遮らずに聞いた。
ときどき、確認するように質問を挟む。
「……なるほど」
源さんは、メモを取りながらうなずいた。
「今の段階では、行き先を決めつけない方がいいな。普段の生活で立ち寄る場所、本人にとって思い出のある場所、駅や商業施設など、人が集まる場所も含めて、可能性を整理していこう」
誠は、真剣に聞いていた。
なのかも、黙って耳を傾けている。
「それから、警察には、病気のこともきちんと伝えておくこと。服装や持ち物、写真など、本人を特定するのに役立つ情報も重要だ」
「……分かりました」
なのかは、うなずいた。
源さんは、さらに続けた。
「俺の方でも、昔の仕事の経験をもとに、捜索の進め方について助言できることはある。知り合いに聞ける範囲のことも確認してみる。ただし、個人情報や防犯カメラの映像など、警察などの正式な手続きが必要なものを、勝手に調べることはできない。そこは理解してくれ」
「はい」
なのかは、もう一度うなずいた。
誠は、源さんの言葉を一つも聞き漏らすまいとするように、真剣な顔でメモを見ていた。
その横顔を、なのかはちらりと見た。
普段の誠なら、途中で話を脱線させたり、余計な冗談を言ったりするところだ。
しかし、今は違う。
源さんの話を聞き、分からないことは尋ね、必要なことを確認している。
美雪を見つけるために。
なのかは、初めて見る父の姿に、少し戸惑っていた。
(……ちゃんと、話を聞いてる……)
(……お母さんのこと、本気で心配してるんだ……)
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
しかし、誠は、そんな娘の気持ちなど知る由もない。
「……源さん!」
誠が、突然顔を上げた。
「ん?」
「ありがとうな、源さん!」
源さんは、軽く笑った。
「礼はいい。今は美雪さんを見つけることが先だ」
「ああ!」
誠は、大きくうなずいた。
そして、なぜか得意げに胸を張った。
「お礼は、源さんの好きな食い物の……『アルトラパン』でいいか?」
「…………」
源さんは、数秒間、誠を見つめた。
「……『タルトタタン』な」
「……あれ?」
「どんな間違いだよ、まったく……」
源さんは、思わず笑った。
「アルトラパンって、車じゃねぇか!」
「えっ!? そうなの!?」
「お前、今、車を運転してきただろうが!」
「……あっ!」
なのかが、とうとう吹き出した。
「アハハハハ! 何言ってんだよ、おまえ!!」
「いや、だって! 似てるじゃねぇか!」
「どこがだよ!!」
「……何となく!」
「何となくで食べ物を決めるなぁぁぁ!!」
源さんも、肩を揺らして笑っていた。
久しぶりに見る、いつもの誠だった。
けれど、笑いが落ち着くと、誠は再び真剣な顔になった。
「……源さん。本当に、頼むな」
源さんは、誠を見た。
「……ああ。できることはやる」
二人は、短くうなずき合った。
そのやり取りを見ていたなのかは、ふと、思った。
(……この人が……私のお父さんなんだ……)
まだ、完全に信頼できるわけではない。
でも、ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、頼もしく見えた。
麻雀屋を出て――道路の小さな命
源さんから、捜索に役立ちそうな助言を聞いた二人は、麻雀屋を後にした。
「よし。教えてもらった場所を順番に回ってみよう」
誠が言うと、なのかはうなずいた。
「うん。少しでも手がかりがあればいいけど……」
二人は車に乗り込んだ。
誠はシートベルトを締め、エンジンをかけた。
「……よし、出発!」
「安全運転でね」
「任せとけ!」
「……本当に?」
「……任せとけ!」
なのかは、疑いの目を向けた。
車は、ゆっくりと走り出した。
源さんから聞いた場所を目指し、二人は道路を進んでいく。
しばらく走った、そのときだった。
誠が、前方に何かを見つけた。
道路の端に、小さな動物が倒れていた。
すでに動いていない。
通りかかった車は、それを避けるように通り過ぎていった。
誠は、少し速度を落とした。
「……あっ」
「……何?」
なのかが前を見る。
「……動物?」
誠は、しばらくその姿を見つめた。
そして、安全に停車できる場所を探し、車を道路から離れた安全な場所へ停めた。
「……ちょっと待ってろ」
「……は?」
誠は、シートベルトを外した。
「おい、誠!」
なのかの声を背中に受けながら、誠は車を降りた。
周囲の車の流れを確認し、危険のない場所から動物の様子を見た。
そして、安全に近づけることを確かめてから、動物を路肩へ移した。
誠は、しばらくその場に立っていた。
「……悪いな」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
それから車へ戻ってきた。
ドアを開けるなり、なのかが声を上げた。
「ちょっと!! 何やってんのよ!!」
誠は、驚いて肩をすくめた。
「な、何って……」
「何ってじゃないよ! 今、何をしに行ったの!?」
「……あの動物を、端に寄せてきたんだよ」
「そんなこと、見れば分かるよ!!」
なのかは、いら立ちを隠せなかった。
「今、私たちは何をしてるの!? お母さんを捜してるんでしょ!?」
「……ああ」
「一分一秒だって惜しいんだよ! それなのに、何で今、そんなことするの!?」
誠は、黙っていた。
なのかの言うことは、もっともだった。
美雪がどこにいるのか分からない。
時間が惜しい。
一刻も早く見つけたい。
それなのに、誠は立ち止まった。
「……悪かった」
誠は、静かに謝った。
「……でもな」
「……何?」
「……あのままにしておくのも、かわいそうだろ」
なのかは、言葉を失った。
「……かわいそうって……」
「……いや、分かってる。今は美雪を捜すのが先だ」
誠は、ハンドルに手を置いた。
「でも……俺、どうしても、そのまま通り過ぎられなかったんだ」
なのかは、父を見つめた。
何を言っているのか、理解できない。
母を捜すことが最優先なのに。
今は、一秒でも惜しいのに。
それでも、誠は動物を放っておけなかった。
「……ほんっと、何なんだよ……」
なのかは、小さくつぶやいた。
誠は、何も言い返さなかった。
ただ、もう一度、動物を移した場所を見つめた。
そして、静かに車を発進させた。
車の中――父が語る、母との思い出
しばらく、車内には沈黙が続いていた。
なのかは、窓の外を見つめている。
誠は、前を向いて運転していた。
やがて、誠がぽつりと言った。
「……なのか」
「……何?」
「……昔な、美雪と似たようなことがあったんだよ」
なのかは、顔を向けた。
「……お母さんと?」
「ああ。俺と美雪が、まだ結婚する前の話だ」
誠は、少し遠くを見るような顔をした。
「……俺、あの頃、仕事で大失敗しちまってな」
「……お父さんが?」
「おい。何だ、その意外そうな顔は!」
「いや、だって……」
「だって、は余計だ!」
誠は、少しだけ笑った。
「……まあ、いいや。とにかく、そのときは本当に落ち込んでたんだ。何をやってもうまくいかない気がして、下ばっかり向いてた」
なのかは、黙って聞いていた。
「そしたら、美雪が言ったんだよ」
誠は、ゆっくりと話し始めた。
「『誠さん、あまり下ばかり向いていてはダメです』ってな」
「『下ばかり向いていると、何かもっと悪いものにぶつかって、怪我をしてしまいます』って」
なのかは、思わず小さく笑った。
「……お母さんらしい」
「ああ。俺も、そう思ったよ」
誠は、懐かしそうに笑った。
「それから、あいつ、こう言ったんだ」
「『心も身体も』って」
「『今の誠さんには私がいるじゃないですか』ってな」
誠の声が、少しだけ穏やかになった。
「……だから二人で手を取って、前を向いていきましょう、って」
なのかは、窓の外を見つめたまま、黙っていた。
母が、そんな言葉を父にかけていたなんて。
自分の知っている母は、いつも優しかった。
けれど、父と出会った頃の母が、どんなふうに笑い、どんなふうに父を支えていたのか。
そんな話を聞くのは、初めてだった。
誠は、ふと思い出したように笑った。
「……それでな、最後に美雪が言ったんだよ」
「……何て?」
「『昔から言うじゃないですか。一寸先は前……って』」
「…………」
なのかは、ゆっくりと父を見た。
「……は?」
「いや、俺も、そういう顔になったんだよ!」
誠は、思わず笑い出した。
「俺が『美雪さん、それ、一寸先は闇の間違いじゃないか?』って言ったら、あいつ、本気で驚いちまってな!」
「……うそでしょ?」
「本当だよ!」
誠は、笑いながら続けた。
「『えっ、そうなんですか? 私、今までずーっと一寸先は前だと思ってました』って!」
「……アハハ!」
なのかは、とうとう吹き出した。
「何それ! お母さん、ずっと間違えてたの!?」
「そうなんだよ! しかも、本人は全然気づいてなかったんだ!」
誠も、声を上げて笑った。
「いやぁ、あのときは二人で大笑いしたよ!」
なのかは、笑いながらも、胸の奥が少し温かくなるのを感じていた。
母と父が、そんなふうに笑い合っていた。
自分の知らないところで、二人だけの時間を過ごしていた。
そのことが、なんだか不思議だった。
誠は、笑いが落ち着くと、少しだけ真面目な顔になった。
「……でもな、なのか」
「……何?」
「俺、そのとき、本当に救われたんだよ」
なのかは、父を見た。
「仕事で失敗して、もうダメだって思ってた。でも、美雪が、俺にはお前がいるって言ってくれたんだ」
誠は、前を向いたまま続けた。
「……あいつのおかげで、もう一回頑張ってみようって思えたんだよ」
なのかは、何も言わなかった。
父が、母に支えられていたこと。
母が、父の弱いところも知ったうえで、そばにいたこと。
自分の知らなかった二人の時間が、少しずつ形になっていく。
誠は、ふと、さっきの道路を思い出したように言った。
「……それでな。そのあと、二人で手をつないで歩いてたんだ」
「……うん」
「そしたら、少し先に、小さな子猫が倒れてたんだよ」
なのかは、顔を上げた。
「……子猫?」
「ああ。まだ生きてたんだ。車道の近くで、危ないところにいてな」
誠は、ハンドルを握り直した。
「俺、周りを確かめてから、そいつを安全な場所へ移してやったんだ」
そして、少し照れくさそうに笑った。
「……そしたら、美雪が言ったんだよ」
「……何て?」
誠は、懐かしそうに目を細めた。
「『私たち、前を向いて歩いてきたから、あの子を見つけられたんですね』って」
なのかは、黙って聞いていた。
「それから、『やっぱり、そういう誠さんが大好きです』ってな」
「…………」
なのかの表情が、少し変わった。
誠は、照れくさそうに鼻をかいた。
「……あのときは、さすがに恥ずかしかったよ」
「……何で?」
「いや、だって……好きだなんて、面と向かって言われると……」
「……へぇ?」
なのかの目が、細くなった。
「……お父さん、照れてたんだ?」
「……そりゃ、照れるだろ!」
「……ふぅーん」
「何だ、その顔は!」
「別にぃ?」
なのかは、少しだけ笑った。
誠も、笑った。
そして、もう一つ、思い出したように言った。
「……それで、美雪、最後にこう言ったんだよ」
「……まだあるの?」
「ああ。『一寸先は、やっぱり前です』って!」
「アハハハハ!」
なのかは、思わず声を上げて笑った。
「何それ! 最後まで言ってるじゃん!」
「そうなんだよ! あいつ、最後まで間違いを直さなかったんだ!」
「お母さんらしいなぁ……!」
二人は、しばらく笑っていた。
やがて、なのかは、少しずつ笑顔を落ち着かせた。
「……お母さん、幸せだったんだね」
その言葉に、誠は一瞬、黙った。
そして、静かにうなずいた。
「ああ……俺も、幸せだったよ」
短い返事だった。
けれど、その声には、長い時間を一緒に過ごしてきた人にしか分からない、深い愛情が込められていた。
なのかは、父の横顔を見つめた。
今まで、自分は父のことを、ダメダメな親父だと思っていた。
もちろん、今だって、そう思っている。
頼りないし、抜けているし、余計なことばかりする。
それでも。
母が、そんな父を愛していたこと。
父も、そんな母を大切に思っていたこと。
なのかは、少しずつ分かり始めていた。
「……ねえ、お父さん」
「ん?」
「……お母さんのこと、本当に好きなんだね」
誠は、驚いたように娘を見た。
そして、少しだけ笑った。
「……ああ」
それだけだった。
誠は、余計なことを言わなかった。
なのかも、それ以上は聞かなかった。
車内には、再び静かな時間が流れた。
けれど、さっきまでの沈黙とは違っていた。
なのかの心の中に、父と母の知らなかった姿が、少しずつ積み重なっていく。
そして――。
「……で?」
「ん?」
「いつまで思い出話してんの? お母さんを捜すんでしょ!」
「お、おう! そうだった!」
誠は、慌てて前を向いた。
「よし! 行くぞ、なのか!」
「最初からそうしろぉぉぉ!!」
いつもの二人に戻った。
誠は、相変わらずダメダメ親父だった。
なのかも、相変わらず容赦がなかった。
それでも、なのかは、ほんの少しだけ思っていた。
(……お母さんが好きになった人って……こういう人だったんだ)
そして、心の中で、小さくつぶやいた。
(……一寸先は前、か……)
母が大切にしていた言葉。
その意味が、なのかにも、少しだけ分かった気がした。
一寸先は前――二人の旅が始まる
誠は、源さんから聞いた情報をもう一度確認した。
美雪が普段立ち寄りそうな場所。
最後に確認された場所から向かう可能性のある場所。
そして、なのかが覚えている母の行動や、二人で過ごした思い出。
一つずつ、確かめていくしかない。
「……なのか」
「……何?」
「お母さんが、よく行ってた場所って、ほかにもあるか?」
なのかは、少し考え込んだ。
「……ある。お母さんが好きだった場所なら、いくつか思い当たる」
「そうか」
誠は、うなずいた。
「じゃあ、そこも行ってみよう」
なのかは、父を見た。
「……うん」
短い返事だった。
けれど、その声には、先ほどまでとは少し違う響きがあった。
誠は、まだ頼りない。
それでも、母を捜すために、自分にできることをしようとしている。
なのかは、まだ父を全面的に信頼したわけではなかった。
けれど、ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、父のことが分かってきた気がした。
誠は、ハンドルを握り直した。
「……よし。行くぞ」
「……うん」
車は、ゆっくりと走り出した。
二人の目の前には、まだ何も見えていない。
美雪がどこにいるのか。
無事なのか。
いつ見つけられるのか。
何一つ、分からない。
それでも、二人は前へ進む。
一寸先が闇なのか。
それとも、前なのか。
今は、まだ分からない。
けれど――。
「……お母さん、待っててね」
なのかは、窓の外を見つめながら、静かにつぶやいた。
誠は、その声を聞き、前を向いたまま答えた。
「ああ。必ず見つけよう」
そして、二人を乗せた車は、美雪を捜すために走り続けた。
一寸先は前……なのか?
その答えを探す、長い一日が始まった。
Days2・一寸先は前…なのか?・続




