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俺は婚約破棄してねえ!! 〜クソ親父の悪評を押し付けられた王太子、今日も婚約者ができません〜  作者: 伊佐波瑞樹


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第4話 婚活をやめたなんて、一言も言ってねえ!!


ハトラン王国の王都にある朝の広場は、いつもなら市場へ向かう荷車と買い物客で賑わっている。焼きたてのパンの香りが路地に広がり、店先では商人たちが値段を告げる声を響かせていた。


その日、広場の片隅にある手紙の代筆を請け負う店の前には、妙に熱心な貴族家の使いが集まっていた。彼らが気にしているのは穀物の値段でも天気でもなく、来週王城で開かれる交流会についてである。


「王宮から、婚約者を選ぶ催しではないと訂正があったんだろう? なら、王太子殿下は当面、結婚なさらないおつもりなのか?」


「さあね。うちに届いた正式な文書には、そこまでは書いてなかったよ。ただ、令嬢を連れてくる必要はないという話なら聞いたね」


「じゃあ、次の機会まで縁談は受け付けないということか。うちの奥様にどう報告したものか……」


どの使者も、手元にある案内を読んだうえで話しているつもりだった。しかし、書かれていない部分をそれぞれの事情に合わせて補ってしまえば、まるで違う結論へ辿り着くこともある。


その会話は、ほどなく王城へ届けられることになった。


◇


「……俺が、結婚を諦めた?」


その朝、王太子執務室で報告書を開いたジルク・シルベスタは、昨夜よりいくらか低い声で尋ねた。黒い髪を整え、朝の政務に備えて上着を着替えたばかりの彼は、王国の次期国王らしい端整な姿をしている。


ただし、その眉間には深い皺があった。昨日は交流会がお妃選びにされ、今日は婚約を諦めたことにされているのだから、穏やかな顔でいられるほうが不思議だった。


「申し上げにくいのですが、複数の家から『殿下は婚姻をお望みでないのでしょうか』とのお問い合わせが届いております。公式の訂正内容を受け、そう解釈した方がいらっしゃるようです」


側近のアーヴィン・フェルドは、机の右側へ問い合わせを並べた。いつもの落ち着いた顔つきだったが、その指先は紙の順序を何度も確認している。


「待ってくれ。俺、昨日は何て言った? 交流会は婚約者を選ぶための催しじゃないって、それだけだよな?」


「はい。殿下が今後も婚姻を希望されているかどうかは、公式文書には記しておりません。今回の催しの目的と、参加者の意思を尊重する方針のみをお知らせしております」


「だったら、なんで俺が結婚しないことになるんだよ! 昨日は花嫁選びだと騒がれて、今日は婚活引退って、話が両極端すぎるだろ!」


「殿下、いまの『婚活引退』という表現は、どなたの文書にもございません。ご自身で話を大きくされております」


「細かいところを訂正するな! いや、訂正は大事だな。昨日さんざん学んだばっかりだ……」


ジルクは勢いよく反論しかけ、途中で肩を落とした。誤解されることの怖さを知ったばかりの身としては、自分まで言葉を大袈裟に扱うわけにはいかない。


アーヴィンは差し出した報告書を再び整え、状況を説明した。王宮へ届いた問い合わせの多くは、交流会への出席可否ではなく、王太子の将来の婚姻方針を確かめたいというものだった。


「俺が結婚したくないと思ってるなら、そもそもあんなに悩んでねえよ。アーヴィン、お前は一番よく分かってるだろ?」


「存じております。殿下がこれまで何度『婚約者が欲しい』と仰ったかを数えれば、記録係をもう一人増やす必要があるかもしれません」


「数えるな、そんなもん! ……ああ、もう。じゃあ俺が結婚したいって公式の文書に書いてもらえば済むのか?」


「それをなさいますと、今度は『王太子殿下が正式に婚約希望者を募集しておられる』と受け取られる恐れがございます」


「……つまり、どう答えても縁談の話になりかねないわけか」


「王宮の文書は、お気持ちを表す手紙とは異なりますから。殿下個人の結婚への希望を、一斉に配る通知でご説明する必要はないと思われます」


ジルクは椅子にもたれ、天井を見上げた。王太子という地位に生まれた彼は、政務の言葉がどれほど重い意味を持つか理解しているつもりだった。


だが、結婚したいと口にすれば相手が探され、結婚相手を募集していないと言えば恋愛を諦めたことになる。自分の思いと周囲が受け取る意味の間には、想像以上に深い溝があるらしい。


(……俺は、普通に好きな人が欲しいだけなんだけどな。どうして王太子だと、それを説明することすら難しいんだ?)


「……分かった。公式の案内を出し直すんじゃなくて、聞かれたことに必要な範囲で答えよう。婚姻について王家から何か命令が出たわけじゃないし、交流会と縁談は別だって、そこだけ伝えればいい」


「妥当なご判断です。では、各家からの問い合わせには担当部署で統一した返答を用意いたします。個別の縁談が寄せられた場合には、従来どおり正式な手続きを経ることといたしましょう」


「……そもそも、個別の縁談が寄せられたら苦労しねえんだけど」


漏れた言葉に、アーヴィンは何も答えなかった。その沈黙がやけに現実的で、ジルクはますます悲しくなった。


◇


午前の会議では、昨夜までに配られた案内文の行方についても報告があった。王宮の事業調整官ダリオ・モルテは、いくつかの写しを抱え、慎重な足取りで会議室へ入ってきた。


「殿下。非公式の案内文ですが、現在確認できているのは三種類です。最初の紙には『王妃候補との交流を望んでいる』との文言があり、二種類目では未婚のご令嬢の参加を勧め、三種類目では特別な面談があるかのように読める表現まで加わっております」


「三種類もあるのか。まさか一人が毎日書き直して、俺の婚約者探しを盛り上げようとしてるわけじゃないだろうな」


「その可能性も断定はできませんが、別の人が元の情報を書き写すうちに内容を変えてしまったことも考えられます。紙の大きさや文字の並べ方が異なっているため、現在は発行元を一つに決めずに確認を進めております」


「そうか。王城にない印を勝手に押したり、公式の招待状だと偽っていたりするなら話は別だけど、今あるのは出所不明の案内なんだよな?」


「はい。正式な王家の紋章や署名が用いられた形跡は見つかっておりません。ただ、王宮の予定に関する情報が正確なため、受け取った側が公式に近いものだと誤認したようです」


ジルクは紙を一枚ずつ見比べた。字面だけを見れば、悪意ある陰謀の証拠というより、誰かが得意げに書いた社交案内にも見える。


しかし、配られた紙を見て慌てた家があるのも事実だ。王家が望んでいると誤解されたなら、家族は娘の意思とは関係なく予定を変えたかもしれない。


「調査は続けてほしい。ただし、根拠もないのに筆耕所や商人を呼びつけるようなことはしないでくれ。まずは、どこで誰が受け取ったのか、分かる範囲で確認しよう」


「承知いたしました。正規の手続きで確認を進めます。なお、昨日お出しした訂正については、多くの家から受領の返事が届いておりますので、参加条件の混乱は少し落ち着いてきたようです」


「それならよかった。……できれば、もう四種類目なんて出てこないでほしいもんだな」


ジルクがぼやくと、ダリオは答えに困ったように微笑んだ。アーヴィンは新たな問い合わせをまとめた紙を手元へ引き寄せ、会議の議題を展示準備へ移す。


「殿下。もう一つ、会場に関して相談がございます。昨日までの騒動で、本来予定されていた展示内容が十分伝わっていないことが分かりました。来場者にどこへ向かえばよいか知らせる方法を、改めて考える必要がありそうです」


「案内板は用意してたよな? 会場の入口に大きな図を置いて、各区画の名前も載せる予定だったはずだけど」


「その予定です。ただ、展示を見に来る方の中には、農業や流通について詳しくない方もおられます。説明の言葉が難しく、どの展示から見るべきか分からないという意見がありました」


「……そうか。俺たちには当たり前の用語でも、初めて見る人には分かりにくいのかもしれないな」


ジルクは昨日のエステルの教えを思い出した。相手が何を知っていて、何を不安に思っているのか、最初に聞くことが大切だと教わったばかりである。


「だったら、説明を一方的に並べるんじゃなくて、来た人が気になることから見られるようにできないかな。『冬の食べ物を守る工夫』とか『荷物を楽に運ぶ道具』とか、難しい言葉を使わずに」


「なるほど。展示の分類とは別に、親しみやすい案内を付けるということですね。担当者と相談すれば、準備期間内に対応できるかもしれません」


「うん。それと、質問したい人が担当者に声をかけられずに帰るのはもったいない。展示の横に質問を預かる紙を置くのはどうだろう。答えられる人がその場で答えてもいいし、後で担当者がまとめてもいい」


ダリオは手帳を開き、ジルクの考えを記録した。ただし、その場で実施を決めることはしない。


「質問の受付を設けることは可能だと思いますが、担当者の人数や回収方法を確認する必要がございます。書いた方の名前を必須にすると遠慮されるかもしれませんし、返答の方法も決めなければなりません」


「名前はなくても質問できる形がいいな。返事を必ず届ける約束はしないで、会場の説明板へ反映できるものは反映する。個人の事情が書かれていたら、勝手に掲示しないようにしてほしい」


「承知いたしました。必要な人手や管理方法を確認し、実施できる範囲で案を作ります」


話が進むにつれ、ジルクの表情から朝の苛立ちが消えていった。婚約者探しの噂を追いかけているときより、こうして一つの仕事について考えているほうが、はるかに落ち着ける。


それを横で見ていたアーヴィンは、書類の余白に小さな覚え書きを残した。殿下が自然な会話をできる状況は、やはり仕事の中に多く存在しているらしい。


◇


昼前、ジルクは王宮の庭園へ向かった。会議で展示を分かりやすくする話が出た際、三日前の庭園で令嬢と交わした花の会話を思い出したからである。


リネア・クラウゼルという伯爵令嬢の名前を知ったのは昨日のことだった。正式な参加予定の書類には、庭園の植物について話を聞く機会があるか確かめたい、と書かれていた。


だからといって、ジルクが本人へ直接返事を出す必要はない。案内の可否は交流会の担当部署が確認し、他の来場者にも同じ機会があるよう整えるべきだと彼自身も考えている。


「三日前、あの赤い花の名前も聞いておけばよかったな。令嬢に紹介しておいて、俺が知らないっていうのも格好がつかないだろ」


「殿下。いまのところ、リネア嬢と再びお話しになる予定が決まったわけではございませんよ」


「分かってるって! あの人が来るかもしれないからって話じゃなくて、俺自身も気になったんだ。せっかく庭師が教えてくれたんだから、もう少し知っておいてもいいだろ」


「それなら何よりです。殿下が花について学ばれることは、婚姻の進行状況に関係なく有意義でしょうから」


「お前、最近なんでも最後に婚姻を持ち出すようになってないか?」


「殿下が気にしておられる話題ですので、つい」


言い返しかけたジルクは、今日も側近に振り回されていると気づいて口を閉じた。庭園には剪定した枝の香りが漂い、陽光を受けた噴水が細かな水しぶきを散らしている。


奥の花壇では、背の高い庭師が土の表面を整えていた。ジルクに気づいた男は作業具を置き、丁寧に頭を下げた。


「王太子殿下。先日はお声がけいただき、ありがとうございました。お花は、交流会までよい状態で保てそうでございます」


「こちらこそありがとう、ヨルン。今日はちょっと聞きたいことがあって来たんだ。一昨日の赤い花だけど、あれは何ていう名前なんだ?」


「こちらは『緋灯草』と呼ばれております。南方の丘陵地に多い花で、夜の冷え込みが厳しすぎない土地なら、秋になっても長く咲く種類でございます」


庭師ヨルン・アデルは、花壇の端を指して説明した。濃い赤色の花弁は小さな灯のように幾重にも重なり、陽光を受けると外側がわずかに透けて見える。


「緋灯草か。いい名前だな。こっちの土地では、どんなことに気をつけて育ててるんだ?」


「南方ほど土が乾きませんので、水を与えすぎないことが大切です。特に朝露の残る日には、土の様子を見てから調整いたします。こちらの花壇は風も通りますから、比較的育てやすい場所でございますね」


「なるほど。じゃあ、同じ花でも土地によって世話の仕方が変わるわけだ。庭園の案内に、そういう話を少し加えたら面白いかもしれないな」


ヨルンは作業の手を止めたまま、嬉しそうに目を細めた。王宮の庭に咲く花は、来客にとっては美しい飾りでしかないことが多い。


だが、どの土地から運ばれ、どう手をかけて咲かせているのかを知ってもらえれば、庭師としてはやりがいがある。彼は少し考え、それから慎重に答えた。


「交流会の主催者がお認めになるのでしたら、植物の名札と短い説明を用意することはできます。庭を訪れる方の歩く道を妨げない場所へ置けば、見学される方にもご覧いただけるでしょう」


「それはよさそうだな。ただ、みんな忙しいだろうから、無理のない範囲でいい。ダリオに相談して、正式にできるか確認してみよう」


「ありがとうございます。庭師たちにも話してみます。よろしければ、緋灯草のほかにも、秋に咲く花の由来をまとめてみます」


ジルクは頷き、花壇から少し離れた場所に立った。よく見れば、同じ赤に見えた花にも、濃淡の違いや花弁の形の違いがある。


(……リネア嬢は、こういうところにも気づいてたのかな。俺は綺麗だなって思ったくらいだったけど、詳しい人にはもっといろいろ見えてるんだろう)


自分とは違う興味を持つ人と話すことは、知らない景色を教えてもらうことなのかもしれない。ジルクはそんなことを考え、花壇の向こうにある木々を眺めた。


「殿下。緋灯草を一輪、お部屋へお持ちになりますか? 切り花にできるものもございますが」


「いや、今はここで咲いててもらおう。せっかく育ててくれてるんだし、交流会に来た人たちにも見てもらいたいからな」


「承知いたしました。では、当日まで大切に育てます」


ヨルンは深く一礼し、再び土の手入れへ戻った。その姿を見ながら、ジルクは自分がいつも王城の庭を歩いているくせに、どれほど多くのことを知らずにいたのかと感じた。


◇


一方、クラウゼル伯爵家でも、交流会に向けた準備が進んでいた。もっとも、それは衣装を何着も並べて選ぶようなものではなく、リネアが机へ広げた一冊の植物図鑑と、庭園について書き留めた覚え書きが中心だった。


リネアは窓辺の鉢植えを見ながら、王城で見た赤い花の形を思い出していた。花弁が幾重にも重なり、秋の陽光を受けると濃い色の縁が美しく見えたのを、今も覚えている。


「……あれに似た花、南部のページにあった気がするのだけれど。花の形は近いのに、葉が少し違うのよね」


独り言を漏らしてページをめくると、母親が部屋へ入ってきた。伯爵夫人は娘の机に積まれた本を見て、困ったような、それでいて嬉しそうな笑みを浮かべた。


「またお花の本を読んでいるのね。昨日も遅くまで調べていたのでしょう? 朝食のとき、少し眠そうに見えたわ」


「少しだけです、お母様。王城の庭園に咲いていた花が気になってしまって。名前を知らないままだと、どうしても落ち着かないんです」


「そうだったの。あなたが一度気にし始めると、答えが見つかるまで本を手放さないことは知っているけれど、疲れるほど夜更かしをするのは感心しないわね」


「はい、気をつけます。……それで、お母様。交流会の庭園案内について、王宮からお返事は届きましたか?」


「まだよ。昨日の訂正であちらも忙しいでしょうし、返事を急がせるつもりはないわ。展示を見るだけでも十分楽しめると思うけれど、それでは物足りない?」


「いいえ。農具の展示も楽しみです。ただ、王城の花は普段見られない種類が多いので、もし説明していただけるなら嬉しいと思って」


リネアは図鑑を閉じ、母親を見上げた。彼女の顔には、王太子に会えるかどうかを気にするような様子はなかった。


伯爵夫人はそのことにほっとしながらも、娘が数日前の出会いを好ましく受け止めているのは知っていた。だからこそ、今の興味を無理に抑えつけることも、早まって恋愛の話へ結びつけることもしたくなかった。


「リネア。もし当日、殿下と再びお会いすることがあっても、緊張する必要はないわ。ただ、ご挨拶をして、お話しできる状況ならお礼を申し上げればそれで十分。無理に機会を作ろうとしなくてもいいのよ」


「はい。私も、お花について知ることが一番の楽しみですもの。殿下が教えてくださったわけではなく、庭師の方から聞いたお話だと仰っていましたし、できればその庭師の方のお話を直接聞いてみたいです」


「……そうね。そのほうが詳しいことを伺えるかもしれないわね」


母親の表情が和らぎ、リネアも安心したように笑った。王太子を好ましい青年だと思ったことと、すぐに婚約を望むことは、まったく別の話だった。


彼女は自分の将来について、まだ知らないことがたくさんあると感じている。王家の問題はその中でも特に大きく、一度の短い会話で決められるようなことではない。


「お母様。交流会で気になったことを、後から質問してもよいのでしょうか。もし混んでいて担当者にお話を聞けなかったら、諦めるしかないのかなと思って」


「会場の決まりによるでしょうけれど、正式な質問の受付があるなら利用してみてもいいでしょう。なければ、また次の機会に調べればよいのです。何も一日ですべて分かる必要はないのだから」


「……そうですね。知らないことが増えるのも、楽しみの一つですものね」


リネアは再び図鑑へ目を落とした。南方の花々を紹介するページの端へ、王城で見た赤い花の形を小さく描き写しておく。


まだ名前も知らないその花について、彼女は自分の興味から調べているだけだった。王都の噂話がどんな言葉で広まろうと、窓辺の植物や知らない品種への好奇心まで変わるわけではない。


◇


午後、ジルクは再び南棟の展示広間を訪れた。会場ではダリオが職員たちと案内表示の配置について相談しており、昨日より少し広くなった通路には、来場者の動線を示す縄が張られている。


「ダリオ。さっき話した分かりやすい案内だけど、担当者たちの意見はどうだった?」


「おおむね好評でした。ただ、展示の分類をすべて書き換えると間に合わないため、正式な区画名はそのまま残し、入口に短い説明を追加する形を考えております。質問を預かる紙については、各区画で管理できるか確認中です」


「それなら十分だよ。準備を増やしすぎて、みんなが疲れてしまっては意味がないからな。庭園のほうも、花の名札を置けないか相談したいんだ」


ジルクがヨルンから聞いた話を説明すると、ダリオは頷いた。庭園は会場の一部ではないものの、移動の合間に立ち寄る来場者も多く、簡単な案内があれば楽しんでもらえそうだという。


「では庭園管理の部署へ正式に確認しましょう。見学可能な範囲や、当日案内できる人手についても確かめる必要がございます。王妃陛下のご予定とも重なりますので、警備や誘導の担当にも相談いたします」


「分かった。無理に新しい行事を作る必要はないから、今ある庭を少し分かりやすく見てもらえればいい。それと、花の手入れの邪魔にならないようにしてほしい」


「承知いたしました。殿下がご自身で庭師へお話を聞かれたことも伝えておきます。現場の意見をもとに、できる範囲で調整いたします」


仕事の話を終えると、ダリオは少しためらった様子で別の紙を差し出した。ジルクは嫌な予感を覚えたが、手を伸ばさずにはいられなかった。


「……今度は何だ? また婚約者探しの案内でも増えたのか?」


「いえ、こちらは正式な問い合わせです。王宮からの訂正を受け取った伯爵家より、展示の説明を受ける際、女性だけで質問しても差し支えないのか確認が届きました」


「どういうことだ? 質問するのに男性の付き添いが必要なのか?」


「貴族家によっては、若い令嬢が男性の担当者へ長時間話しかけることを気にする場合がございます。逆に、殿下へ質問した場合に婚姻の意思表示と受け取られないか、不安に思う方もおられるようです」


ジルクは紙を読み、しばらく考えた。人によって守りたい礼儀や慣習は違い、それを一度に変えることはできない。


「付き添いが必要だと思う家は、もちろん一緒に来てもらって構わない。でも、会場の質問は仕事の話だから、女性が質問しただけで婚約の打診だなんて扱う必要はないだろ。担当者にも、そこはきちんと伝えよう」


「承知いたしました。ただし、殿下ご自身が直接説明なさる区画では、人が集まりすぎることも考えられます。質問の順序をどうするかは、警備と調整しておきます」


「うん。俺と話すために並ぶ人ばかりになったら、それこそ本末転倒だからな。俺が担当してない展示は、担当の人の説明を聞いてもらうのが一番だ」


ジルクがそう答えると、近くで準備していた職員が安堵したように息をついた。王太子が来場者の関心を一人で集めるのではなく、展示した品物やそこに関わった人々を見てほしいと考えていることが伝わったのだろう。


その職員は、手元の説明札を持って近づいてきた。二十代半ばほどの青年で、何度も頭を下げながら話し始める。


「殿下。失礼いたします。私、展示札の文章を確認している者なのですが、先ほどのご相談を聞いて、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」


「ああ、構わないよ。何か困ったことがあるのか?」


「新しい運搬具の展示に『従来比で積載時の抵抗を軽減』と記しているのですが、これでは難しいのではないかという意見が出ておりまして。もっと分かりやすい書き方にするなら、どうすればよいでしょう」


ジルクは札を受け取り、しばらく文字を眺めた。仕組みを知る者には意味が通じるが、初めて見る来場者には想像しづらい表現かもしれない。


「……『荷物を載せても動かしやすい工夫』じゃどうだろう。ただ、実際には条件によって違うはずだから、どんな道で試したのかも添えておこう。大げさに便利だと書くより、使う人が判断できるほうがいいと思う」


「なるほど。ありがとうございます。現場の技師にも確認して、説明文を調整してみます」


青年は深く礼をし、仲間のところへ戻った。ジルクはその背中を見送り、ふとアーヴィンの顔を見た。


「……なあ。さっきは俺、普通に答えられてただろ?」


「ええ。殿下が真剣に聞いておられたので、相手も安心して質問できたようです」


「これと同じことを令嬢相手にできればいいんだけどな。相手が何を聞きたいのか考えるだけなら、男女で違いなんてないんだし」


「そのとおりです。殿下が余計な期待を抱かずにお話しできれば、普段のよいところが自然と伝わるでしょう」


「……分かった。今度こそ、交流会では落ち着いて話す。どんなに綺麗な令嬢が来ても、まずは相手の興味を聞く。婚約の話は、そのずっと先だ」


「では、それをお忘れにならないようお願いいたします。もっとも、殿下のお顔を拝見する限り、まだ少し期待しておられるようですが」


「期待くらいさせてくれよ! 俺だって二十歳なんだぞ。いつか恋人ができたらいいなって思うくらい、許されるだろ!」


「もちろんです。お相手も同じように望まれるなら、何も問題はございません」


正論で返されたジルクは、今度は笑うしかなかった。昨日までなら悔しさばかりが残ったかもしれないが、今日の彼には少し違う感覚があった。


王太子として人の話を聞くことと、一人の青年として人と親しくなること。その二つはまったく別の道ではなく、同じ姿勢から始められるのかもしれない。


◇


夕方、ジルクが執務室へ戻ると、机の上には新しい報告が二通置かれていた。一通は交流会の案内表示について、もう一通は王妃エリアーヌの担当部署から届いたものだった。


先に案内表示の報告を開くと、入口の説明札を増やす案がまとまっていた。専門分野の分類を変えずに、展示の概要を短い言葉で説明し、質問を受け付ける方法については担当者の負担を見ながら試すという内容である。


「……よし。これなら大丈夫そうだな。質問の紙も、まだ全区画で使うと決めたわけじゃないんだろ?」


「はい。まずは数か所で管理できるか確認いたします。来場者が書いた内容を勝手に公開しないことや、答えられない質問への対応についても、担当者とすり合わせを行う予定です」


「分かった。今の段階では、現場に無理をさせないことを優先してくれ。あと、庭園の名札の件も、ヨルンたちの都合を聞いてからでいいからな」


ジルクは書類を閉じ、もう一通を手に取った。こちらには王妃が後援する慈善事業の展示について、来場者からの質問を受ける担当者を増やせるか確認中だと書かれている。


さらに末尾には、エリアーヌが自筆で短い言葉を添えていた。ジルクはその文字を見つけると、自然に表情を緩めた。


『皆が安心して見学できるよう、丁寧に進めてくれてありがとう。夕食の前に少し時間があれば、お茶でもいかがかしら』


母親のように自分を育ててくれた王妃からの誘いは、忙しい一日を終えた彼にとって嬉しいものだった。ジルクは時間を確かめ、アーヴィンに相談する。


「夕食まで少し空いてるよな。王妃様のところへ寄ってもいいか?」


「はい。急ぎの決裁は済んでおります。残りの書類は明朝でも差し支えありませんので、どうぞお顔を見せて差し上げてください」


「ありがとう。……なんだか今日は、一日中誰かの誤解を解いて回ってた気がするけど、最後に普通のお茶が飲めるなら助かるな」


「殿下がご結婚を望んでいないという誤解についても、必要な問い合わせには対応いたしました。少なくとも今夜、殿下が婚活を引退されたという正式発表が出る心配はございません」


「そんな正式発表、出したら俺が泣くぞ。……いや、今の言い方も変だな。そもそも引退するほど婚活が始まってねえんだよな」


その言葉を自分で口にした瞬間、ジルクは少しだけ情けない気持ちになった。王太子としてどれほど仕事をしても、恋愛に関しては入り口に立つことすら難しい。


しかし、今日は花の名前を一つ覚え、仕事の説明を分かりやすくする案を考え、交流会を楽しみにしている人のことも知った。それらは婚約者の人数を増やしてはくれないが、確かに自分の中に残る経験だった。


(……まあ、いいか。焦ったところでどうにもならないことはあるし、少しずつやっていくしかない。それに、あの赤い花のことだって、知ってみたら案外面白かった)


ジルクは笑って立ち上がり、扉へ向かった。すると、アーヴィンが背後から声をかけてくる。


「殿下。そういえば、先ほどクラウゼル伯爵家への案内についても、庭園管理の担当から回答がございました。見学可能な場所であれば、ほかの参加者と同じように植物の説明を受けられるよう調整する予定だそうです」


「それはよかった。特定の家だけ特別扱いせずに済むし、花が好きな人なら誰でも楽しめる。リネア嬢も喜んでくれるかもしれないな」


「はい。……ただし殿下、リネア嬢がご参加になることと、殿下との交流が約束されたことは別でございますので」


「分かってるよ! 花の名前を覚えたからって、いきなり婚約の話をするほど俺も馬鹿じゃねえ!」


「それを聞いて安心いたしました。では、ご夕食前のお時間をお楽しみください」


にこやかに礼をする側近を見て、ジルクは苦笑を浮かべた。せっかく学んだばかりのことを何度も確認されるのは癪だったが、それだけ自分が焦っていたということなのだろう。


扉を開けると、夕暮れの光が廊下の石床を長く照らしていた。城の外では、多くの人々がそれぞれの暮らしを終え、家族の待つ家へ帰っていくころである。


ジルクもまた、自分を気遣ってくれる家族のもとへ向かうところだった。今はまだ恋人も婚約者もいないけれど、それだけで自分の人生のすべてが空っぽになるわけではない。


ただし、二十歳の青年として、好きな女性と手をつないで歩いてみたいという願いまで消えたわけでもなかった。


「……なあ、アーヴィン。最後に一つだけ聞いてもいいか?」


「何でしょう、殿下」


「俺、今日もちゃんと頑張ったよな?」


「はい。王太子としては、とても立派なお仕事ぶりだったと思います」


「……恋愛のほうは?」


「本日の成果としては、花の名前を一つ覚えられたことが挙げられますね」


「そっちの評価だけ、なんでそんなに厳しいんだよおおお!!」


結局、その日の最後にもジルクの叫び声は廊下に響いた。アーヴィンは慣れた様子で扉を閉め、側を通った侍従は小さく笑って仕事へ戻っていく。


婚約者ができたわけではない。恋人ができたわけでもなく、誰かと二人きりで会う約束ができたわけでもない。


それでもジルクは、来週の交流会で何を話すかについて、昨日より少しだけ前向きに考えられるようになっていた。相手の答えを急がず、同じ場所で一緒に何かを知ることから始めればいいのだと、ようやく思えるようになったのである。


もっとも、王都に広まった噂がすべて消えたわけではない。王宮では引き続き非公式の案内の出所を確かめており、貴族家の間でも交流会についてさまざまな思惑が交わされていた。


そのことを知りながらも、ジルクは今日、自分のできる仕事を一つずつ終わらせた。父親の残した悪評は今も重く、簡単に取り払えるものではないけれど、少なくとも自分の振る舞いだけは、自分で選べる。


王太子ジルク・シルベスタ、二十歳。今日も婚約者はゼロのままだが、だからといって恋愛そのものを諦めた覚えは、もちろん一度もなかった。


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