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俺は婚約破棄してねえ!! 〜クソ親父の悪評を押し付けられた王太子、今日も婚約者ができません〜  作者: 伊佐波瑞樹


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第3話 王太子の婚活会場じゃありません!


王城の朝は、決まった手順で始まる。門衛が交代し、厨房に火が入り、侍従たちが執務棟へ書類を運ぶころには、王都からの使者も少しずつ姿を見せる。


もっとも、その日の朝に限っては、正門の受付がいつもより騒がしかった。貴族家の紋章を付けた馬車が続けて到着し、使者たちは一様に、来週の交流会について確認したいことがあると申し出たのである。


「王太子殿下に直接お会いする予定はございません。ただ、娘の衣装について、王宮から何かご指定があるのか確かめたいのです」


「当家には、未婚の娘を優先して参加させるようにとの話が伝わっております。正式なご案内とは異なるようでしたので、確認に参りました」


受付を任されていた侍従は、差し出された紙を見比べながら、困惑を隠せなかった。王宮が発行した正式な招待状には、衣装の色も婚姻状況も、一言として条件に書かれていない。


さらに三組目の使者は、王太子が令嬢たちと順番に面談する時間帯があるのか尋ねてきた。職務に忠実な侍従は落ち着いて否定したが、内心では首を傾げるしかなかった。


(……来週の交流会は、農具や保存箱の展示だったはずなのですが)


その疑問に答えられる者は、まだ誰もいなかった。


◇


「……婚約候補の面談時間?」


数刻後、王太子執務室に届いた報告を読んだジルク・シルベスタは、思わず書類を机から持ち上げた。黒髪の下にある空色の瞳が、信じられないものを見るように細くなる。


「待て、アーヴィン。昨日の紙には『王妃候補との交流を望んでいる』って書いてあっただけだよな? いつから一人ずつ面談する話になったんだ?」


「私も初耳でございます。しかも、その面談には衣装の審査が含まれるのか、というお問い合わせまで届いております」


「何を審査するんだよ! 俺は王妃を選ぶための審査員になった覚えなんかねえぞ!」


ジルクは立ち上がりかけ、途中で椅子の背に手を置いた。昨日、宮廷儀礼官のエステルから、感情に任せず相手の立場を考えるよう助言されたばかりである。


深呼吸を一つして、彼は声の大きさを落とした。向かいに立つ側近アーヴィン・フェルドは、その努力を見届けてから、何事もなかったかのように次の紙を差し出してくる。


「こちらが昨夜お見せした非公式の案内文です。そして、こちらが今朝持ち込まれた写しでございます。記載されている会場と開催日は同じですが、後者には『若いご令嬢のご参加を特に歓迎する』との一文が加わっております」


「誰かが勝手に書き足したってことか。……それとも、別々の人間が同じ勘違いをしてるのか?」


「現時点では判断できません。正式な紋章も担当部署の署名もありませんが、会場の区画名まで正しく記載されています。公式の予定表を見た者が書いた可能性も、既に公表されていた情報を集めて作った可能性もあります」


アーヴィンが言葉を選んでいることに、ジルクは気づいた。根拠のない推測で誰かを疑えば、その人にもまた取り返しのつかない迷惑がかかる。


「分かった。誰が作ったかは調べるとして、先に誤解を止めよう。今朝のうちに関係者を集めるって約束したからな。ダリオたちは来てるか?」


「隣の会議室で待機しております。儀礼官も同席を希望されましたので、エステル女史にもお越しいただいております」


「先生まで!? いや、こういうときこそ頼るべき人か……。ただ、昨日教わったばかりなのに、もう実践試験が始まるとは思わなかった」


席を立ったジルクに、アーヴィンが外套を差し出した。その表情は相変わらず涼しいが、目元にはわずかな笑みがある。


「殿下。昨日の声量訓練は、思わぬところで役立ちそうですね」


「お前、今朝の俺が叫ぶかどうか賭けてないだろうな?」


「そのような不敬なことはいたしません。私は殿下が最後まで落ち着いてご対応なさると、心から期待しております」


「……その言い方がもう怪しいんだよ」


ジルクはぼやきながら扉へ向かった。婚約者が欲しいと願っただけなのに、どうして自分は架空の花嫁選考会を中止する仕事をしているのだろう。


(昨日は自然な会話の練習。今日は存在しないお見合いの後始末。俺の恋愛、どうして始まる前からこんなに忙しいんだ?)


◇


会議室には、王宮の事業調整官ダリオ・モルテをはじめ、交流会の招待状を管理する書記官、会場を担当する職員、そしてエステル・ラングレイが集まっていた。長机の中央には、正式な招待状と出所不明の案内文が並べて置かれている。


ジルクが入室すると全員が立ち上がったが、彼は手短に礼を返して着席を促した。挨拶より先に伝えておきたいことがあったのである。


「朝早くから集まってもらって悪い。昨日の会議でも話したとおり、来週の交流会は各事業の紹介と意見交換の場だ。俺の婚約者を選ぶための催しじゃないし、誰かにそんな役割を頼んだ覚えもない」


「承知しております、殿下。ただ、貴族家からの問い合わせが増えておりまして、招待状の担当部署だけでは対応が追いつかなくなっております」


書記官は申し訳なさそうに口を開いた。彼の前に積まれた紙には、今朝届いた質問が几帳面な文字で書き留められている。


「令嬢の参加が必須なのか、婚約者のいる女性は出席を控えるべきなのか、王太子殿下への挨拶には特別な申し込みが必要なのか、といった内容です。中には、ご令嬢が二人いらっしゃる家から、どちらをお連れすべきかという相談まで届いております」


「両方来てもいいし、二人とも来なくたって構わないだろ。……いや、そもそも展示に興味があるかどうかで決めてほしいんだけどな」


「仰るとおりでございます。しかし、非公式の文書が王宮の意向だと受け取られている場合、参加しないことで不興を買うのではないかと案じる方もおられるようです」


その言葉を聞いたジルクは、顔をしかめた。父親がかつて婚約者の意思を踏みにじった事件を、貴族たちは今も忘れていない。


だからこそ叔父である国王は、王家から婚姻を強制しないと宣言したはずだった。それなのに、存在しない選考会の噂が広まっただけで、出席を断りにくい雰囲気が生まれている。


「参加しなかった家を不利に扱うなんて、絶対にない。俺もそんなことは望んでいないし、陛下もお認めにならない。そこは最初にはっきり伝えてほしい」


「では、改めて各家へご案内を送りましょうか。婚姻に関する選考を行わないこと、出欠によって評価が変わらないことを明記する形でよろしいでしょうか」


「そうしてくれ。あとは、展示の担当者にも伝えよう。未婚の人だけが参加する会だと思われたら、商業組合や技師の皆さんまで困るだろうから」


ジルクが答えると、ダリオが大きく頷いた。昨日から展示を担当する人々の間にも、落ち着かない空気が広がっていたらしい。


「実際、商業組合から問い合わせが入っています。担当のノーラ殿は『穀物の保管箱を説明するために参加するのであって、王妃候補の審査に来るわけではありません』と、たいへん困惑しておられました」


「そりゃそうだろ! ……いや、待て。なんでノーラまで候補に入ってるんだ? あの人には昨日、箱の底の工夫について話してもらっただけだぞ」


「殿下がお話を熱心に聞いておられたことが、準備に関わる職員の間で話題になったようです。それ自体は好意的な評判ですが、噂と結びつける者もいるのでしょう」


アーヴィンが補足すると、ジルクは自分の額を押さえた。未婚の若い令嬢と話せば婚約の打診と受け取られ、仕事で女性と話せばそれも婚約候補扱いされるらしい。


(待て待て。じゃあ今度は、女性に仕事の質問をするだけでも噂になるのか? 俺が普通に話せる相手、どんどん減っていかないか?)


「殿下。いま考えておられることが、お顔に出ておりますよ」


エステルの静かな声が、横から飛んできた。ジルクが顔を上げると、かつての礼儀作法の教師は、少し厳しい目で彼を見ている。


「噂に振り回されるおつもりですか。昨日、殿下は誰かと話すこと自体を大切にしたいと仰ったでしょう。仕事に関する会話まで避けるようになれば、本来の交流会が成り立ちません」


「……分かっています。だからこそ、きちんと訂正したいんです。ただ、どう伝えれば余計な噂が増えずに済むのか、それが難しくて」


「ご自身の婚姻事情を長々と弁明する必要はありません。事実として、交流会の目的と参加条件を簡潔に知らせることです。ご令嬢方の気持ちを勝手に決めつけず、参加するかどうかは各人の意思に任せると明確にすればよろしいでしょう」


その指摘を聞いて、ジルクは息をついた。焦るあまり、自分の潔白を証明する文章を作ろうとしていたのかもしれない。


「そうですね。俺が婚約者を欲しがってることまで否定する必要はないんだ。今回の交流会が、そのための催しじゃないと伝えればいい」


「ええ。ついでに『王太子殿下の将来の王妃を探すため』という表現は、文書にも会場の説明にも一切使用しないよう徹底なさいませ」


「……先生。まさか会場に、そんな看板が用意されてるわけじゃありませんよね?」


ジルクの問いに、ダリオが不自然なほど背筋を伸ばした。長机の向こうで彼の目が一瞬だけ泳ぐ。


「……ダリオ?」


「い、いえ。正式な看板はございません。ただ、昨夜のうちに装飾を請け負う業者から、花飾りの色を変更するべきかという相談が入りまして。確認のために持参された見本に、少々、余計な文字が……」


「なんて書いてあった?」


「『祝・王太子殿下のお妃探し』と」


室内が静まり返った。ジルクはしばらく口を開けたまま、机の上の正式な招待状を見つめていた。


「……誰も頼んでねえよ、そんな看板」


「はい。もちろん作成は中止しております。業者側も噂を耳にして気を利かせたつもりだったそうで、悪意があったとは確認されておりません」


「気遣いの方向が豪快すぎるだろ……。俺が見たら泣くぞ、その看板」


アーヴィンの肩が、ごくわずかに揺れた。笑ってはいけない場面だと分かっているのか、口元を手で覆っている。


「アーヴィン。お前、いま笑ったか?」


「失礼いたしました。ですが殿下、実際に掲げられる前に判明して幸いでしたね。会場の入口に設置されていた場合、訂正文よりずっと目立ったでしょうから」


「想像させるな! 俺が交流会に入った瞬間、お妃探しって書かれた看板が出迎えるんだろ? もう農具の展示どころじゃねえじゃねえか!」


「殿下、声量です」


エステルが注意すると、ジルクは喉まで出かかった叫びを飲み込んだ。会議の参加者たちは一斉に書類へ視線を落としたが、何人かの口元が緩んでいることを彼は見逃さなかった。


(……こんなところで笑いものになってる場合じゃない。俺が取り乱したら、心配して問い合わせてきた家にも失礼だ)


「……すまない。話を戻そう。交流会の出席者は、婚姻状況に関係なく事業に関心があれば歓迎する。誰かを王妃候補として紹介する予定もないし、特別な面談や衣装の審査なんかもしない。そういう内容で、書面を作ってくれ」


落ち着きを取り戻したジルクの声に、書記官が頷いた。ダリオも記録を取り、担当部署へ伝達するための項目を整理していく。


会議が終わるころには、王宮から出す訂正の方針が固まっていた。公式の招待を受けた家と出展団体へ同じ内容を送り、非公式の案内を受け取った場合には王宮の担当窓口へ確認するよう知らせることになったのである。


ただし、出所不明の紙を作った人物については、まだ調べなければならなかった。ジルクは事実が分かるまで軽々しく誰かを疑わないよう、アーヴィンたちに念を押した。


◇


会議のあと、ジルクは叔父である国王ベルンハルトの執務室を訪れた。国王は財務関係の書類に目を通していたが、甥の顔を見た途端、何か察したように筆を置いた。


「どうした、ジルク。今朝は城の中が慌ただしいようだが、交流会で何か問題でも起きたのか?」


「問題なら起きていますよ。俺が知らないうちに、来週の交流会が俺の花嫁選びの会にされかけていました。しかも、衣装の審査まであることになってるんです」


「……衣装の審査?」


「はい。どうやら俺は、国の事業を紹介する前に令嬢たちのドレスを採点するつもりだったらしいです。そんな予定、一度も聞いたことないんですが」


ベルンハルトは数度瞬きをし、やがて片手で額を押さえた。ジルクは国王が怒るかと思ったが、その口から出たのは長いため息だった。


「王族の婚姻となると、なぜ皆、本人の意思を抜きに話を大きくするのだろうな。兄上の一件から、何も学んでいない者がいるということか」


「叔父上。今回の紙を書いた人が何を考えていたかは、まだ分かりません。悪意とは限らないでしょうし、そこは調べてから判断するつもりです」


「……そうだな。お前の言うとおりだ。私も少々、過去のことを思い出して気が立ったようだ」


国王は椅子の背にもたれ、真剣な眼差しでジルクを見た。こうして二人きりになると、君臣というより叔父と甥の距離に近くなる。


「正式な訂正は私の名でも支えよう。王家が婚姻のために参加者へ圧力をかけることはない、その方針は変わらない。お前が望まない催しを勝手に開いたことにされては、私も困るからな」


「ありがとうございます。……叔父上が困るのって、俺の婚約がますます遠のくからですか? それとも、隠居する日が遠のくからですか?」


「両方だと言っておこう。もっとも、お前が納得できる相手と出会わぬ限り、婚姻を急がせる気はないがな」


「……そこは本当に感謝してます。ただ、俺としては一刻も早く好きな人が欲しいんですよ。まだ恋人の手をつないだことすらないんですから」


ジルクがそう言うと、ベルンハルトは一瞬気まずそうに目を逸らした。理由を尋ねるまでもなく、国王自身には仲睦まじい王妃がいる。


「……叔父上。今、王妃様のこと考えましたね?」


「いや、まあ……。私とエリアーヌは長年の付き合いだからな。若いころにもいろいろあったが、お前にもいずれ分かる日が来る」


「夫婦の仲のよさを目の前で見せられてる俺に、それ言います!? しかも俺の婚約問題が解決したら二人で隠居したいって、いつも言ってるでしょう!」


「その望みは変わらん。しかし、今回の騒動については、お前が先に参加者の意思を守ろうとしたことを誇らしく思っている。立派な判断だったぞ」


予想外にまっすぐ褒められ、ジルクは続けようとした文句を飲み込んだ。叔父は時々、こういうずるいことをする。


「……ありがとうございます。けど、まだ終わってませんから。正式な案内を受け取った家が安心できるまでは、責任を持って対応します」


「うむ。必要な協力は惜しまん。あと、交流会の仕事をしているときくらい、婚約のことで自分を追い詰めすぎるなよ」


「今朝まで俺を花嫁選考会の主催者にされかけてたんです。追い詰めてくるのは、どう考えても周囲のほうでしょうが!」


今度こそ少し声が大きくなったジルクを見て、ベルンハルトは吹き出した。甥は不満そうな顔をしたものの、久しぶりに見る叔父の心からの笑い声を止める気にはなれなかった。


◇


同じ日の午後、王都の貴族街にある一軒の伯爵邸では、少女が母親と向かい合って座っていた。窓辺にはよく手入れされた鉢植えが並び、その一つに咲く小さな紫色の花が、風に揺れている。


少女の名はリネア・クラウゼル。十七歳の伯爵令嬢で、一昨日、王城の庭園でジルクと言葉を交わした淡い緑色のドレスの少女だった。


「お母様。交流会への出席は、やっぱり取りやめたほうがいいのでしょうか。私は、王宮で紹介される新しい農具や花壇の整備について、少し興味があったのですが……」


「あなたが見学を楽しみにしていたことは知っているわ、リネア。ただ、今朝届いた非公式の案内を読むと、王太子殿下の婚姻に関係する集まりだと受け止められかねないでしょう?」


母親は机の上の紙を見つめながら、困ったように眉を寄せた。娘が王太子を嫌っていないことは、一昨日の帰り道の様子からも分かっている。


むしろ、ジルクが庭園の花について熱心に聞いてくれたことを、娘は嬉しそうに話していた。だが、相手がどれほど誠実な青年に見えても、王家との婚姻には容易に踏み切れない理由がある。


「私は、殿下のお人柄を疑いたいわけではないの。ただ、あなたが誰かと少し話しただけで、将来のお妃候補などと噂されるのは避けたいのよ。あなたには自分の意思で将来を選んでほしいから」


「分かっています。私だって、殿下と一度お話ししただけで結婚を考えたりはしていません。でも、王宮にあるお花や各地の展示を見ることまで、諦めなければならないのでしょうか」


母親は答えに詰まった。大切な娘を守りたい気持ちと、娘自身の興味を尊重したい気持ちの間で揺れていたのである。


そこへ侍女が控えめに扉を叩き、王宮から使者が来たことを告げた。侍女の手には、クラウゼル家宛ての封書が一通ある。


「王宮の担当部署から正式なご案内が届いております。交流会について訂正のお知らせとのことです」


母親は封を切り、娘と一緒に文面を確かめた。そこには、交流会は農業や流通、慈善事業などについて意見を交わすためのものであり、婚姻に関する選考や特別な面談は一切予定されていないと明記されていた。


加えて、参加や欠席が王家との関係に影響することはなく、各家庭と本人の希望を尊重するとも記されている。リネアは一文ずつ読み終え、ほっとしたように息を吐いた。


「……よかった。これなら、私がお花や展示を見に行っても、誰かに婚約したいと思われるわけではないんですね」


「少なくとも、王宮がそのような目的で招いているわけではないようね。あなたが学びたいと思っているのなら、その気持ちを大切にしていいのかもしれないわ」


「それなら、見学したいです。王宮の温室で育てている花と、北部の土地で使われる農具の展示も気になりますし、庭園の方に聞いてみたいこともあるんです」


リネアの顔が明るくなった。母親はまだ心配そうではあったが、娘の興味を押さえつけることが、果たして本当に娘を守ることになるのか考え直していた。


「分かったわ。お父様とも相談して、予定どおり参加できるようにしましょう。ただし、何か困ることがあったら遠慮せず教えてちょうだい。無理に王太子殿下へご挨拶する必要もないのよ」


「はい、お母様。私、まずは展示をじっくり見たいです。もし殿下とお会いしたら、昨日教えていただいた赤い花がどんな名前なのか、聞いてみたいですけれど」


母親は少し驚き、それから小さく笑った。娘にとって、一昨日の出来事はそれほど特別な恋愛の始まりではなく、花について楽しく話した記憶なのだ。


「それくらいなら、自然にお話しできるといいわね。王太子殿下も、花壇のことをもっと知りたいと思っていらっしゃるかもしれませんし」


窓辺の紫色の花が、もう一度風に揺れた。伯爵家の居間で交わされたその会話は、ジルクの知らないところで、小さな安心を生んでいた。


◇


王城では、訂正の手配が進む一方で、交流会の準備も続けられていた。ジルクは午後の執務を終えると、アーヴィンとともに南棟へ向かった。


昨夜の案内文が広まってから、現場の職員たちまで騒動を気にしていると聞いていた。余計な心配をかけたままにしたくなかったのである。


展示広間へ入ると、昨日説明を受けた穀物の保管箱が並べ直されていた。担当のノーラ・ケルンは、二人の若い職員と一緒に棚の高さを調整していたが、ジルクに気づくと慌てて礼をした。


「殿下、本日は何か追加のご確認でしょうか。昨日のご質問については、保管箱の素材ごとの比較表を用意しておりますので、必要でしたらすぐにお持ちいたします」


「ありがとう。今日はそれより、謝りたいことがあって来たんだ。今回の交流会について妙な噂が広まって、そちらにも問い合わせが届いたと聞いた。仕事をやりにくくしてしまって、すまない」


ノーラは驚いたように目を丸くした。少なくとも、彼女は王太子本人から謝罪されるとは思っていなかったらしい。


「い、いえ! 殿下がお悪いわけではございません。私も今朝、出展団体へ『未婚の女性が優先されるのでしょうか』という話が届いて、初めて知ったくらいですから」


「そもそも、出展の目的は保存技術を紹介することだろう。未婚かどうかなんて関係ないし、俺も昨日は仕事の話が面白くて聞いていただけなんだ」


「ええ、それは伝わっておりました。……ですが、私が殿下に熱心に説明している様子を見た方が、何か別の意味に受け取ったようで。少々、困っておりました」


ジルクは申し訳なくなり、肩を落とした。自分には何気ない仕事上の会話でも、相手に思わぬ負担をかけることがあると、また一つ学んだ気がした。


「今日、王宮から正式な訂正を出している。これ以上仕事に関係のない話が広まるようなら、担当部署へ知らせてほしい。俺のほうでもできる限り対応するから」


「ありがとうございます。……実は、私たちの商業組合でも、変な噂が一つ広まってしまいまして」


「……まだ何かあるのか?」


ノーラはためらったのち、隣にいる職員へ目を向けた。若い男性職員は、申し訳なさそうに口を開く。


「その、殿下が保管箱をたいへん気に入られたと聞いた者が、王妃選びの試験では家事の腕も審査されるのだろうと……。うちの組合でも、なぜか穀物の保存方法を覚えようとする人が増えてしまいまして」


「……は?」


「ですから、保管箱の使い方を知っている女性が有利になるのではないかと、根拠のない話が広まったようです。もちろん、組合からそのような説明はしておりません」


ジルクは言葉を失った。水路や運搬具の展示がいつの間にか花嫁選びになっただけでも理解できないのに、今度は穀物の保管箱が婚姻の条件として扱われ始めている。


「……アーヴィン。俺、昨日なんて言ったっけ?」


「保管箱の底板を工夫している点が面白い、と仰っておられました。それから、木材の種類による湿気の違いについて質問をなさっていましたね」


「だよな!? 俺、嫁さんに穀物を保存してほしいなんて一言も言ってねえよな!?」


「はい。そのようなお話は一切ございませんでした。……殿下、声が少々」


「……っ! すまない、つい!」


ノーラが吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。周囲の職員たちも、王太子が本当に困っている様子を見て、緊張を少しだけ解いたらしい。


「申し訳ございません、殿下。笑ってはいけないと思うのですが、その……。殿下がお気の毒で」


「いいよ、もう。俺も自分で聞いてて笑いたくなってきた。仕事で箱の底を見ただけなのに、どうして俺の婚約条件が増えていくんだよ……」


「私どもは、これまでどおり展示を進めてまいります。正式な訂正が出たのでしたら、来場者の方にもきちんとご説明できますから」


ノーラの明るい返答に、ジルクはようやくほっとした。彼女が自分の責任ではない騒動のために、仕事を諦める必要はない。


広間を見渡せば、職員たちは机を運び、展示物を磨き、説明文を貼る位置を確かめていた。それぞれが自分の仕事に誇りを持っているのが、ジルクにも伝わってくる。


「……ありがとう。来週、みんなが準備してきた成果を、たくさんの人に見てもらえるといいな」


「はい。殿下にも、また保管箱の改良についてご意見をいただければ嬉しいです。そのときは、どうか婚約者探しとは関係のない話としてお願いいたします」


「当たり前だろ! ……いや、待ってくれ。俺が何か言うたびに、そういう注釈を付けなきゃいけないのか?」


ノーラも、隣にいた職員たちも、今度は堪えきれずに笑った。悪意のない笑い声が展示広間に広がり、ジルクは困った顔をしながらも、つられて口元を緩める。


(……まあ、いいか。少なくとも、こうやって普通に笑って話してもらえるなら、悪いことばっかりじゃない)


◇


その日の夕刻、王宮から送られた訂正の案内は、順次各家と出展団体へ届けられた。ジルクは執務室でその報告を受けながら、書記官たちの働きに感謝していた。


問い合わせがすべて止まったわけではない。すでに噂を聞いた者の中には、訂正の案内すら深読みしてしまう人がいるかもしれなかった。


それでも、王宮が何も言わないよりはずっといい。間違った話が一人歩きするのを防ぐために、できることを一つずつ進めるしかないのだ。


「今日は一日、走り回った気がするな。まさか交流会の案内を訂正するのが、こんなに大仕事になるとは思わなかった」


「殿下が本来の目的を明確にされたおかげで、各部署の対応が揃いました。特に、出欠を婚姻の意思と結びつけないという一文は、問い合わせを受けていた家にとって安心材料になるでしょう」


「そうだといいんだけどな。……なあ、アーヴィン。今日はさすがに、俺が女性と話す練習をする時間はなさそうだな」


「ええ。ですが殿下は本日、エステル女史の助言を実践し、ノーラ殿とも自然にお話しできておられました。会話の練習としても、十分な一日だったと思います」


「……お前が素直に褒めると、逆に何かあるのかと思うんだけど」


「それは心外でございます。では、改善点も申し上げましょうか?」


「いや、やっぱりいい! 今日くらいは、褒められたまま一日を終えたい!」


アーヴィンは軽く笑い、最後の報告書を差し出した。そこには訂正を受け取った家々から、正式な回答が少しずつ届き始めたことが記されている。


「実は先ほど、交流会の参加について一件、新たな確認が届きました。内容は婚姻に関するものではございませんので、殿下にも目を通していただきたいのです」


「婚姻に関するものじゃない、ってわざわざ言うのか。……まあいいや。見せてくれ」


ジルクは紙を受け取り、目を通した。差出人はクラウゼル伯爵家で、来週の交流会へ母娘で出席する予定に変更はないという連絡だった。


さらに、娘のリネアが展示を楽しみにしているため、農具の区画と、王宮庭園で育てている花の案内について質問できる機会があるか確認したい、と書かれている。


「……へえ。こういう問い合わせも来るんだな。花の案内は今回の中心じゃないけど、庭園の係に話を聞けるか確認してもいいだろうし、農具の展示ならもちろん歓迎だ」


「はい。ご本人が興味を持っておられることについて、事前に問い合わせてくださったようです。王宮としても、可能な範囲で案内を整えればよろしいかと」


ジルクは、もう一度書面を読んだ。令嬢の名前に心当たりはなかったが、花について尋ねたいという文面を見て、一昨日の庭園での出来事を思い出した。


「……そういえば、一昨日の庭園でも花が好きそうな令嬢と話したんだ。あの子も、家で育てている花の話をしてくれたんだよな。途中でお母上に呼ばれちゃったけど」


「もしや、淡い緑色のドレスを着ておられたご令嬢のことでしょうか。一昨日の侍女の案内記録によれば、クラウゼル伯爵家の方々も庭園をご見学になったとのことです」


「……そうなのか? じゃあ、一昨日話したのは、そのリネア嬢だったのかもしれないな。名前を聞く前に別れちゃったから、知らなかった」


ジルクは少し驚き、それから考え込んだ。あのとき彼女は、花の話を始めた途端に緊張が解け、楽しそうに笑っていた。


王太子と話したこと自体がよい思い出になったかどうかは分からない。それでも、今日の訂正によって、花や農具に興味を持つ令嬢が安心して参加できるようになったのなら嬉しかった。


「だったら、ますます展示をきちんと準備しないとな。せっかく来てくれるんだから、好きな話を思う存分聞ける会にしたい」


「よろしい心がけです。……殿下、念のため申し上げておきますが、リネア嬢がお越しになるのは、交流会の展示をご覧になるためですからね」


「分かってるって。俺だって今日一日、さんざんそのことを説明して回ったんだぞ。いまさら婚約者が見つかったなんて勘違いしねえよ」


ジルクは落ち着いて返事をし、参加予定の書類を机の上に置いた。だが、ほんの少し間を置いて、再びアーヴィンへ視線を向ける。


「……なあ、アーヴィン。普通に会話してくれる令嬢が一人いるっていうのは、前よりは進歩したって言ってもいいよな?」


「ええ。少なくとも、相手の興味に合わせて自然にお話しできたのであれば、昨日の目標に近づいたといえるでしょう」


「そうだよな! いや、別に深い意味はないぞ。ただ、自分でも少しは変われてるのかなって、確認したかっただけだ」


「もちろん存じております。ですから、明日はそのご自覚を維持したまま、交流会の説明文の確認をお願いいたします」


「……仕事の話に戻すの、早すぎないか?」


アーヴィンは答えず、未処理の書類を一枚差し出した。そこには、新しい運搬具について、北部の農村から届いた追加報告がまとめられていた。


ジルクは苦笑しながら羽根ペンを取り、必要な箇所へ目を通し始めた。今日も婚約者はできなかったが、少なくとも、誰かが安心して交流会に参加できるようにする仕事はできた。


(……焦るな、俺。相手が自分の意思で笑ってくれるような人間になれれば、きっといつかは、ちゃんとした出会いだってあるはずだ)


そう言い聞かせた、その直後だった。


「それから殿下。訂正の案内を受け取った別のご家庭から、もう一件、少々変わったお問い合わせがございます」


「……今度は何だ? 頼むから、お妃選びの試験に剣術が加わったとか言わないでくれよ」


「いえ。『婚約者探しの催しではないと承知いたしました。それでは、殿下は現在、本当に結婚相手をお探しではないのでしょうか』というご質問です」


ジルクの羽根ペンが止まった。間違った噂を訂正した結果、今度は自分に結婚する意思がないと思われかけているらしい。


「……アーヴィン。俺、今日なんて説明したっけ?」


「交流会は婚約者探しの場ではなく、参加者の意思を尊重する、とご説明されました。殿下ご自身がご結婚を望んでおられないとは、一度も仰っておりません」


「だよな!? 俺は結婚したいんだよ! ただ、この交流会をお見合い会場にしたくないだけなんだよ!」


「はい。十分理解しております。……殿下、声量にお気をつけください」


ジルクは大きく口を開けたまま固まり、それからゆっくりと椅子に座り直した。窓の向こうでは、夕焼けが王都の屋根を赤く染めている。


亡き父親の過去のせいで婚約者ができず、自然な会話をしようとすれば誤解され、誤解を正せばまた別の誤解が生まれる。ここまで来ると、自分の恋愛だけ妙な呪いでもかかっているのではないかと疑いたくなった。


「……なあ、アーヴィン。俺が婚約者を見つけるのと、王都の水路を全部直すのと、どっちが先に終わると思う?」


「水路の整備計画には、すでに完了までの工程表がございます。殿下の婚約については、今のところ相手方も日程も未定ですので、比較するなら前者かと」


「その正論が今、一番聞きたくなかったんだよおおおお!!」


とうとう抑えきれなかった叫びが、夕暮れの執務室から廊下へと響いた。すぐ外にいた侍従は驚いて足を止めたが、隣の警備兵は何事もないように姿勢を正している。


「……本日も、殿下はお元気そうですね」


「ええ。少なくとも、執務室で何か危険が起きたわけではなさそうです」


そんな会話が交わされていることなど、ジルクは知る由もなかった。王太子の婚約者探しは、今日も前途多難である。


ただ一つ確かなのは、来週の交流会へ向けて、彼が自分の意思で守ろうとしたものがあったということだ。女性たちが安心して参加できる場所も、担当者たちが誇りを持って仕事を紹介できる機会も、王太子自身の焦りによって壊すわけにはいかない。


その努力が誰かの心に届くのかは、まだ分からない。だが、ジルクの知らないところで、少なくとも一人の令嬢が、前より少しだけ気軽な気持ちで交流会の日を待ち始めていた。


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