第2話 王太子の婚約者探し、まずは普通の会話から始めます
ハトラン王国の王城に、穏やかな朝が訪れた。
秋の澄んだ空気が庭園の木々を揺らし、東の空から差し込む陽光が白い石造りの城壁を明るく照らしている。早朝から働き始めた使用人たちは、それぞれの持ち場へ向かい、廊下では侍従たちが今日の予定について静かに言葉を交わしていた。
そんな平和な王城の一角で、一人の青年が非常に険しい顔をしていた。
「……アーヴィン」
「はい、殿下。本日は昨日より三十分ほど早く執務室へお越しになりましたね。大変結構なことだと思いますが、どうかなさいましたか?」
「お前、昨日の最後に何て言った?」
「昨日の最後、ですか。いくつか心当たりがございますが、どのお言葉についてでしょう?」
「とぼけるな。明日から会話の練習に何かを加えるとか言ってただろ!」
ジルク・シルベスタは、目の前の机に置かれた一枚の紙を指差した。
そこには、丁寧な文字で本日の予定が記されている。午前中には領地から届いた報告書の確認、昼前には財務官との短い打ち合わせ、午後には来週の交流会に関する準備会議が入っていた。
それらは、王太子であるジルクにとって珍しくない仕事ばかりだった。
問題は、その予定表の一番上に書き加えられた項目にある。
『朝の会話練習及び声量調節』
「……なんだよ、これ」
「ご覧のとおり、昨日お約束した練習でございます。殿下は一日に何度も大声を上げられますので、まずは声量を適切に調節していただこうかと」
「俺は子供か!? 声の大きさくらい、自分で調節できるわ!」
「昨日の夕刻、三階の廊下を巡回していた警備兵が、執務室で何か問題が発生したのではないかと確認に来ております。ちなみに、一昨日も同様の報告がございました」
「……そこまで響いてたのか?」
「はい。警備上の問題と誤認される可能性もございますので、改善していただければ幸いです」
冷静に答えるアーヴィン・フェルドを前に、ジルクは言葉を失った。
アーヴィンは二十三歳の伯爵家次男であり、ジルクの側近として働いている青年だ。仕事は正確で、判断も早く、王太子の予定や書類の管理については文句のつけようがない。
ただし、主君に対する遠慮というものを、どこかに置き忘れてきたような人物でもあった。
「……分かったよ。で、何をするんだ?」
「難しいことではございません。まずは普通の声で、ご自身のお名前と現在のお立場をお話しください」
「ジルク・シルベスタ。ハトラン王国の王太子だ。……これでいいか?」
「はい。では続けて、ご自身が現在抱えておられる悩みを、同じ声量でお願いいたします」
「俺には婚約者がいない」
「大変よくできました。では、その理由についてもお願いします」
「実父の婚約破棄事件のせいで、貴族家から縁談を避けられている」
「その調子です。最後に、その件についてどのようにお考えなのか、率直なご意見をどうぞ」
「……全部、クソ親父のせいだと思っている」
「素晴らしい。今の声量であれば、廊下の侍従を驚かせる心配もありませんね」
ジルクは無言でアーヴィンを見つめた。
昨日までなら、ここで一度は声を張り上げていたことだろう。しかし、目の前の側近が明らかに自分を試していると分かった以上、思いどおりの反応を見せるのも癪だった。
「……お前、わざとだろ」
「何のことでしょう?」
「俺が叫ぶのを待ってるだろ。絶対そうだろ」
「まさか。私はただ、殿下が落ち着いて会話できるよう、お手伝いをしているだけでございます」
「だったら、その楽しそうな顔を何とかしろ!」
「殿下、声が大きくなっております」
「……っ!」
ジルクは口を閉じ、深く息を吐いた。
(落ち着け、俺。こんなところで側近の挑発に乗ってどうする。婚約者が欲しいなら、まずは普通の会話ができるようにならなきゃいけないんだ)
それは昨日、庭園で出会った令嬢との短い会話を通じて、ようやく理解したことだった。
ジルクは王太子としての仕事をこなすことには、それなりの自信がある。財務官や各領地の役人を相手にする場合なら、必要な情報を聞き、相手の意見を理解しながら、落ち着いて話を進められる。
それなのに、相手が同年代の貴族令嬢になると、途端に頭の中が婚約者のことでいっぱいになってしまう。
父親の不祥事によって女性たちから避けられているという意識が、必要以上に自分を焦らせているのだろう。
「……よし。今日は絶対に叫ばないからな」
「承知いたしました。では、その決意を一日維持していただければ、練習の成果があったと判断いたします」
「なんだか、王太子としての評価基準がおかしくなってないか?」
「婚約者探しについてのお話ですから、通常の政務評価とは別に考えております」
当然のように答えたアーヴィンは、予定表の次の項目へ指を移した。
「それから殿下。本日は午後の準備会議に先立ち、宮廷儀礼官のエステル・ラングレイ女史にお時間をいただいております」
「……誰だって?」
「以前、殿下が礼儀作法の指導を受けられた先生です。王族の社交儀礼を長年担当されている方で、現在も宮廷で指導に当たっておられます」
「エステル先生!? なんでまた、あの人が出てくるんだよ!」
ジルクは思わず立ち上がりかけた。
エステル・ラングレイ。
年齢は五十代半ば。王宮の儀礼に関わる仕事を長年務め、王族だけでなく、宮廷へ出入りする若い貴族たちへの指導経験も豊富な女性である。
幼いころのジルクにとって、彼女は剣術の教官よりも恐ろしい存在だった。
背筋が少し曲がれば指摘され、食事中の姿勢が乱れれば即座に注意が飛び、挨拶の角度を間違えれば何度でもやり直しを命じられる。決して理不尽に叱る人物ではないが、妥協という言葉とは無縁の指導者だった。
「俺、礼儀作法の試験はとっくに合格してるよな?」
「はい。王太子殿下として必要な儀礼については、非常に高い評価をいただいております」
「だったら、なんで今さら!」
「今回お願いしたのは礼儀作法の再教育ではなく、社交の場における自然な会話の指導です。殿下は礼儀正しく振る舞うことは得意ですが、女性を前にすると、それを必要以上に意識される傾向がありますので」
「……先生には、俺の婚約者ができない事情まで話したのか?」
「当然、必要な範囲でご説明しております」
「必要な範囲って、どこまでだよ!」
「王太子殿下が、女性との会話に自信を失っておられるという程度です」
「もっと恥ずかしい言い方になってるじゃねえか!」
ジルクは頭を抱えた。
しかし、アーヴィンが自分のために準備してくれたことも理解している。どれだけ恥ずかしかろうと、何もせずに婚約者が現れるのを待つよりは、ずっと建設的なのだろう。
そう考えて、ジルクは渋々予定表を受け取った。
「……分かった。先生にはきちんと挨拶する。ただ、俺が何か余計なことを言ったら、ちゃんと止めてくれよ」
「承知いたしました。もっとも、殿下が余計なことを仰る前に止めるのは、なかなか難しい仕事ですが」
「お前、そういうところだぞ」
「何か問題でもございましたか?」
「……いや、もういい」
こうして、王太子の婚約者探しに向けた本格的な訓練が始まった。
ただし、現時点で成果と呼べるものは、朝から大声を出さずに済んだという、非常にささやかなものだけだった。
◇
午前の政務を終えたジルクは、王宮の西側にある小さな応接室へ向かった。
その部屋は公式な謁見に使われる場所ではなく、王族が少人数の来客を迎える際や、礼儀作法の指導を受ける際に使用されている。大きな窓からは中庭を見渡すことができ、落ち着いた色合いの家具が並ぶ室内には、すでに茶器と焼き菓子が用意されていた。
椅子の前に立っていた女性は、ジルクの姿を見ると静かに一礼した。
「お久しゅうございます、ジルク殿下。お元気そうで何よりです」
「ご無沙汰しております、エステル先生。本日はわざわざお時間をいただき、ありがとうございます」
「まあ、立派なご挨拶ですこと。以前のように、礼をした拍子に上着の裾を踏んで転ぶ心配はなさそうですね」
「……先生。その話は、もう十年以上前のことです」
「ええ、よく覚えております。あのときの殿下は、転んだことよりも、私に叱られることを心配して泣きそうになっておられました」
「頼みますから忘れてください!」
「ふふっ。懐かしい思い出を語るのも、年長者の楽しみなのですよ」
エステルは柔らかく笑った。
灰色が混じり始めた栗色の髪をきっちりと結い上げ、深緑色の落ち着いたドレスを身につけた彼女は、以前と変わらず背筋を伸ばしている。穏やかな表情をしているものの、その眼差しには人の振る舞いを細かく見逃さない鋭さがあった。
「それで、本日のご相談は、女性との会話についてだとか」
「……アーヴィンから聞いているんですね」
「もちろんです。大まかな事情は承知しておりますが、まずは殿下ご自身のお言葉で、何にお困りなのか聞かせていただけますか?」
促され、ジルクは椅子に腰を下ろした。
アーヴィンは壁際に控え、必要に応じて記録を取る準備をしている。逃げ道がないことを悟ったジルクは、覚悟を決めて口を開いた。
「……俺には婚約者がいません。父親の事件が原因で貴族家から警戒されていることは理解していますが、最近は普通に会話することすら難しくなってきました」
「なるほど。それで殿下は、女性にどのように接しておられるのですか?」
「丁寧に挨拶しています。相手が困らないように言葉を選んでいますし、失礼なことを言わないようにも気をつけています」
「それは大切なことですね。では、ご挨拶のあとは?」
「……できれば、今後も話す機会をいただきたいと伝えています」
「なぜでしょう?」
「なぜって……。一度話しただけじゃ、その人がどんな人なのか分からないでしょう?」
「それはそうですね。ですが、初めて会った女性が殿下との継続的な交流を望んでいるとは限りません。殿下は、そのことをどうお考えですか?」
ジルクは答えようとして、言葉を止めた。
昨日、アーヴィンからも似たようなことを指摘されている。自分にとっては気軽な誘いでも、王太子からの言葉となれば、相手は別の意味を感じ取るかもしれない。
「……断りづらい、ということですか?」
「ええ。殿下が何気なく仰った一言でも、相手の家族にとっては重要な意味を持つことがあります。例えば、殿下が一人の令嬢に『また会いたい』と仰った場合、周囲はそれをどう受け取るでしょう?」
「王太子が、その令嬢に興味を持ったと……」
「そのとおりです。そして、ご令嬢が望んでいなくても、家族や周囲の者が勝手に期待したり、心配したりすることがあります」
「……なるほど」
「殿下は誰かと親しくなりたいだけでも、相手は将来の結婚まで考えなければならなくなる。それでは、気軽に話すことすら難しくなってしまいますね」
ジルクは膝の上で両手を組んだ。
父親の事件ばかりに気を取られていたが、王太子という立場そのものが、女性たちを緊張させていたのかもしれない。
「……先生。だったら俺は、どうやって女性と仲良くなればいいんですか?」
「まず、仲良くなることを目的にしすぎないことです」
「……え?」
「相手の方が何を考え、何に興味を持っているのかを知ろうとすること。その会話自体を大切にしてください。そこから親しくなれることもあれば、一度きりの交流で終わることもあります」
「一度きりで終わったら、意味がないんじゃ……」
「いいえ。殿下にとっては、さまざまな人の考えを知る機会になるでしょう。王太子としても、一人の青年としても、それは無駄にはなりません」
エステルはそこで言葉を切り、静かに紅茶を口に運んだ。
ジルクはしばらく考え込んでいたが、やがて小さく頷いた。
「……そうですね。俺、いつの間にか、会話を婚約者探しのためだけに考えるようになってた気がします」
「お気持ちは理解できますよ。ですが、焦りは相手にも伝わるものです。殿下が誰かと話すたびに結婚を意識していれば、相手が身構えるのも自然なことではありませんか?」
「……ぐうの音も出ません」
「それだけではございません。殿下は、ご自身に向けられる不安を、すべて父君の事件によるものだとお考えになっているのでしょう?」
ジルクの表情がわずかに変わった。
自分の父親が何をしたのか、彼はよく知っている。幼いころから王家の記録を学び、失脚に至った経緯も、婚約者だった女性が受けた仕打ちも理解してきた。
だからこそ、同じことを繰り返すつもりなどないと、何度も心に誓ってきたのだった。
「……父上の行いは、間違っていました。婚約者がいたのに別の女性を好きになって、その人と一緒になるために無実の女性を陥れたんですから。貴族家が警戒するのは、当然だと思います」
「ええ。過去に起きたことを、なかったことにはできません」
「でも、俺は父上じゃありません。それだけは分かってほしいんです」
「では、殿下は相手に何を示せば、ご自身が父君とは違う人物だと理解していただけるとお考えですか?」
「……約束を守ること。相手の気持ちを大切にすること。それから、勝手な理由で傷つけたりしないこと、でしょうか」
「とてもよいお答えです。ですが、それを言葉で説明するだけでは足りませんね」
「……実際に行動で示さないと、信じてもらえない」
「そのとおりです。信頼というものは、相手に求めるだけでは得られません。日々の振る舞いや、相手を尊重する姿勢を積み重ねることで、少しずつ育っていくものです」
ジルクは目を伏せた。
(……そうか。俺はずっと、父上とは違うって分かってもらいたかった。でも、それをどうやって証明するかなんて、真剣に考えてなかったのかもしれない)
父親の罪を自分が償うことはできない。被害を受けた女性の苦しみを、息子である自分が勝手に終わったことにすることもできない。
ただ、自分が同じ過ちを犯さないよう努力することならできる。
その当たり前のことが、今になって少し違う意味を持ち始めた。
「……先生。俺、来週の交流会では、まず普通に話してみようと思います。婚約者になるかどうかなんて考えずに、相手の話をちゃんと聞いてみたいです」
「ええ。それがよろしいでしょう。では、そのための練習を始めましょうか」
エステルは微笑みながら、机の上に置かれた小さなカードを手に取った。
「こちらには、初対面の相手と会話する際によくある状況を書いてあります。殿下には、それぞれの場面でどのようにお話しするか考えていただきます」
「……なんだか、昔の礼儀作法の試験みたいですね」
「よく覚えておられますね。あのころよりは少し難しくなっておりますので、どうぞご安心ください」
「安心できる要素が一つもないんですが!」
「殿下、声量にお気をつけくださいませ」
笑顔のまま注意され、ジルクは慌てて口を閉じた。
壁際では、アーヴィンが記録用の紙に何かを書き込んでいる。
(……絶対、今の失敗も記録されてるだろ)
ジルクは恨めしそうに側近を見たが、当のアーヴィンは何事もなかったように視線を戻した。
◇
最初の課題は、相手が自分と異なる意見を持っている場合の会話だった。
エステルは、交流会で展示する農業用水路の整備案を例に挙げた。ジルクが推進している事業の一つであり、彼自身も内容をよく理解している。
「殿下。私は、王都の近くに住む伯爵家の令嬢だとお考えください。殿下が進めておられる水路整備について、あまりよい印象を持っておりません」
「……それは、なぜでしょう?」
「工事のために多くの費用が使われると聞いております。その費用があれば、もっとほかのことに使えたのではないでしょうか?」
「確かに費用はかかります。ですが、水路が整備されれば農地への水の供給が安定しますし、干ばつの影響を受けにくくなります。長期的には収穫量の増加も期待できるので――」
「殿下」
「……はい?」
「私は今、専門的な説明を求めたのでしょうか?」
ジルクは口を閉じた。
政務の場であれば、費用対効果や事業の必要性を説明することは当然の対応だ。しかし、エステルが演じている令嬢は、事業に疑問を持っているというだけで、詳しい資料を要求したわけではない。
「……まず、どうしてそう思ったのか聞くべきでしたか?」
「そうですね。説明することが悪いわけではありませんが、相手が何を心配しているのか知らずに話し始めては、十分な会話になりません」
「……なるほど。俺、仕事の癖で、つい説明しようとしちゃうんですね」
「ええ。では、もう一度お願いします」
ジルクは考え直した。
「費用がかかりすぎるんじゃないかと心配されているんですね。もしよければ、どのあたりが気になっているのか教えてもらえますか?」
「そうですね……。私の知り合いには、去年の収穫が悪くて生活が苦しくなった人がいるんです。そういう人たちへの支援を優先したほうがいいのでは、と思ってしまって」
「それは心配ですね。確かに、今困っている人を助けることも大切です。水路整備とは別に、食糧支援の予算も組んでいるんですが、そのことはご存じでしたか?」
「いいえ、詳しくは存じませんでした」
「でしたら、交流会でその取り組みについても説明する予定なので、興味があれば見ていただけると嬉しいです」
エステルは満足そうに頷いた。
「よろしいでしょう。相手の不安を受け止めたうえで、必要な情報を伝えられましたね」
「……なるほど。こうやって話せばいいのか」
「ええ。ただし、相手が興味を示さない場合は、それ以上無理に勧めないことも大切です」
「分かりました。……でも先生、これって女性との会話というより、普通に人と話すための練習ですよね?」
「ようやくお気づきになりましたか?」
「……え?」
「女性だから特別な話し方をしなければならない、と考える必要はないのですよ。もちろん礼儀や配慮は必要ですが、相手も殿下と同じように、自分の考えや興味を持つ一人の人間なのですから」
ジルクは思わず天井を見上げた。
言われてみれば、実に当たり前のことだった。
王宮で働く女性たちと仕事の話をするとき、彼はここまで緊張しない。王妃や年配の貴婦人を相手にする場合も、相手の話を聞きながら自然に会話できる。
それなのに、同年代の未婚の令嬢となった途端、将来の婚約者という可能性が頭をよぎり、普段どおりに振る舞えなくなっていたのだ。
「……俺、自分で自分を追い詰めてたのか」
「そういう面もあるでしょうね。もっとも、過去の事情によって交流の機会が限られていることも事実ですから、すべてが殿下ご自身の問題というわけではございません」
「……先生って、厳しいけど優しいですよね」
「お褒めいただき光栄です。では、次の課題へ進みましょう」
次にエステルが手にしたカードには、さらに難しい状況が書かれていた。
『相手が王家との婚姻に不安を抱いている場合』
ジルクの表情が引き締まった。
「……これは、実際にありそうですね」
「ええ。では私が令嬢の立場でお話ししますので、殿下はご自身のお考えをお聞かせください」
エステルは少し姿勢を変え、初対面の令嬢を演じるように控えめな声で話し始めた。
「殿下。大変失礼なことを申し上げますが、私の家族は王家との婚姻に不安を感じております。過去の事件についても、決して忘れておりません」
「……それは、当然だと思います」
「殿下ご自身を疑っているわけではありません。ですが、もし私が王家へ嫁いで、何か問題が起きた場合、家族まで巻き込まれるのではないかと心配なのです」
ジルクは答えを急がなかった。
相手の不安を否定することはできない。だからといって、絶対に何も起こらないと軽々しく約束するのも違うだろう。
「……心配されるのは当然だと思います。王家が過去にしたことは、俺が何を言っても消せませんから」
「では、殿下は私に何を求められるのですか?」
「……俺を信じてください、とは簡単に言えません。まだ俺のことをよく知らないでしょうし、言葉だけでは証明できないこともありますから」
「それでは?」
「まず、俺がどんな人間なのか、時間をかけて見てもらえたら嬉しいです。それで、もし信用できないと思われたなら、無理に関係を続けていただくつもりはありません」
答えたジルクは、少し不安そうにエステルを見た。
王太子としては、あまりにも頼りない答えだったかもしれない。相手の不安を解消するための決定的な言葉を何一つ示せていない気がした。
しかし、エステルはすぐに否定しなかった。
「……殿下。今のお答えは、ご自身で考えられたものですか?」
「はい。上手く言えたかどうかは分かりませんけど……。俺が相手の立場だったら、いきなり信用しろって言われても困ると思ったので」
「それでよろしいと思います。大切なのは、相手の不安を一度の言葉で消そうとしないことです」
「……そうですか」
「ええ。ただし、相手が断られた場合には、その意思を尊重することを忘れないでください。王太子というお立場は、殿下が想像される以上に重いものなのですから」
ジルクは静かに頷いた。
父親が婚約者へ行ったことを考えれば、相手の意思を尊重するという言葉は、単なる社交上の礼儀では済まされない。
自分は誰かを好きになることがあるだろう。いつか本当に大切にしたい女性と出会うこともあるかもしれない。
けれど、その女性が自分を好きになってくれるとは限らない。
そのとき、王太子という立場を利用して相手を縛るようなことだけは、絶対にしたくなかった。
(……俺が欲しいのは、命令で手に入れた婚約者じゃない。俺と一緒にいたいって、相手にも思ってもらえる関係なんだ)
そう考えたとき、これまで胸の中にあった焦りが、ほんの少しだけ形を変えた気がした。
婚約者を見つけることは大切だ。
しかし、婚約者という立場だけを手に入れても、相手が幸せでなければ意味がない。
「……先生。今日はありがとうございました。俺、少し考え方が変わった気がします」
「それは何よりです。もっとも、実際の社交の場では、練習どおりにいかないことも多いでしょう」
「分かってます。だからこそ、ちゃんと相手の話を聞けるようにしたいです」
「ええ。そのお気持ちを、どうか忘れないでくださいね」
エステルはそう言って微笑んだ。
その様子を見ていたアーヴィンも、珍しく穏やかな表情を浮かべていた。
◇
昼過ぎ、ジルクは交流会の準備が進められている王城の南棟へ向かった。
来週の交流会では、各領地の事業や技術を紹介する展示が行われる予定になっている。王家が支援している慈善活動、農業技術の改良、交通路の整備、冬季の物資輸送など、扱う内容は多岐にわたっていた。
ジルク自身もいくつかの事業に関わっているため、今回は単なる主催者側の王族としてではなく、事業の担当者として参加することになっている。
もっとも、彼の頭の片隅には別の期待もあった。
(……交流会なら、同年代の令嬢とも自然に話せるかもしれない。いや、駄目だ。そういうことばっかり考えてるから、先生に注意されたんだろ)
自分の考えを反省しながら廊下を歩くジルクの隣では、アーヴィンが資料を確認していた。
「殿下。午後の準備会議では、展示の配置と案内表示について確認する予定です。特に、冬季の食糧輸送に関する展示では、参加者から質問を受ける可能性があります」
「分かってる。昨日も資料を読んだからな。東部の領地で使われている新しい保管方法について、担当者に詳しく聞いてみたいと思ってる」
「それはよろしいですね。なお、今回は各事業の関係者が直接説明を行う予定ですので、殿下がお一人ですべての質問に答える必要はございません」
「そうだな。俺が全部説明してたら、せっかく来てくれた人たちの出番を奪っちまう」
「はい。相手の専門分野を尊重するという点では、先ほどの練習とも共通するものがございます」
「……お前、何でも婚約者探しに結びつけるようになってないか?」
「殿下がご自身の課題を理解しやすいよう、説明しているだけでございます」
「本当かよ……」
軽口を交わしながら南棟へ入ると、広間ではすでに多くの職員が作業を進めていた。
壁際には展示用の机が並べられ、床には配置を示す目印が置かれている。木箱に収められた農具の模型や、領地から届けられた布製品、加工食品などが運び込まれ、会場全体に慌ただしい空気が漂っていた。
ジルクが姿を見せると、近くにいた職員たちが一斉に礼をした。
「殿下、お越しいただきありがとうございます。本日の準備状況について、ご説明いたします」
代表して声をかけてきたのは、三十代半ばの男性だった。王宮の事業調整官を務めるダリオ・モルテで、今回の交流会では各部門の連絡役を任されている。
「ご苦労さま、ダリオ。今日は実際の配置を見ながら話を聞きたくて来たんだ。みんなも作業を続けてくれて構わないから、必要なところだけ案内してもらえるかな?」
「承知いたしました。それでは、まず西側の展示からご案内いたします」
ダリオは丁寧に一礼し、ジルクを展示区画へ案内した。
最初に見せられたのは、新しい農具を紹介する場所だった。木製の模型がいくつか並んでおり、その一つには従来よりも大きな車輪が取りつけられている。
「こちらは、北部の農村で試験的に使用されている運搬具の模型です。ぬかるんだ道でも荷物を運びやすいよう、車輪の幅を広げております」
「なるほど。実際に使った人たちの感想はどうなんだ?」
「今のところ、荷車が深く沈み込みにくくなったという報告がございます。ただし、車輪が大きくなった分だけ重量も増えておりますので、改善の余地があるかと」
「そうか。じゃあ、使う場所によって向き不向きがあるわけだな。展示でも、そのあたりまで説明できるといいかもしれない」
「承知いたしました。担当者に伝えておきます」
ジルクは模型を眺めながら、実際に使う農民たちの姿を思い浮かべた。
王宮の執務室で数字だけを見ていると、こうした細かな事情は見落としやすい。現場で働く人々の意見を聞くことが、事業を改善するためには欠かせないのだろう。
次に向かったのは、冬季の食糧輸送に関する展示区画だった。
そこでは、いくつかの木箱と布袋が並べられ、保管方法による品質の違いを説明する準備が進んでいる。棚の配置を確認している女性職員が一人おり、ダリオは彼女に声をかけた。
「ノーラ、殿下がお越しになった。現在の準備状況をご説明してくれるか?」
「はい。……あっ、王太子殿下! 失礼いたしました!」
慌てて振り向いた女性は、三十代ほどの年齢に見えた。栗色の髪を後ろでまとめ、実務向きの落ち着いた服装をしている。
「突然来てしまってすまない。作業の途中だったんだろう? 急がなくていいから、普段どおりに説明してもらえると助かる」
「は、はい。ありがとうございます。私はノーラ・ケルンと申します。王都の商業組合から派遣され、保管方法の展示を担当しております」
ノーラは緊張した様子だったが、自分の担当する品物の話になると、少しずつ言葉が滑らかになっていった。
「こちらは、東部の農村で使われ始めている穀物用の保管箱です。従来のものより湿気が入りにくい構造になっておりまして、冬場の長期保存に向いております」
「へえ、見た目は普通の木箱に近いんだな。どのあたりが違うんだ?」
「底の部分をご覧ください。地面に直接触れないよう、短い脚がついております。それから、内側に薄い板を重ねて、湿気が入り込む隙間を減らしているんです」
ジルクは腰をかがめ、箱の底を覗き込んだ。
説明されたとおり、底板の下にはわずかな空間が設けられている。単純な工夫に見えるが、湿気の多い土地では大きな違いが生まれるのかもしれない。
「なるほど。これなら雨の多い季節でも使えそうだな。実際の保存期間には、どれくらい違いが出たんだ?」
「試験では、従来の保管箱よりも品質を保ちやすいという結果が出ております。ただし、地域によって湿度や温度が異なりますので、まだ十分な比較ができていない部分もございます」
「そうか。じゃあ、今回の交流会でほかの領地の人たちにも意見を聞けたら、もっといいものになるかもしれないな」
「はい! 私どもも、ぜひそうしたいと考えております!」
ノーラの顔が明るくなった。
最初は王太子を前にして緊張していた彼女だったが、ジルクが自分の説明を真剣に聞いてくれることが分かると、次第に普段の調子を取り戻していった。
彼女は別の木箱も取り出し、実際に使用された品物との違いや、保管中に発生した問題について説明を続けた。
ジルクはその話に興味を示しながら、必要なところで質問を挟んでいく。
「なるほどな。……ああ、そうか。木材の種類によっても湿気の吸い方が違うのか。それなら材料を選ぶ段階から工夫が必要になるんだな」
「ええ。安価な材料を使いたいところですが、保存する穀物の量や期間によっては、丈夫なものを選んだほうが結果的に費用を抑えられる場合もございます」
「確かに。最初の費用だけで判断するのは危険だな。現場の人たちがどんな条件で使うのか、もう少し詳しく聞いてみたい」
気づけば、ジルクはすっかり展示の説明に夢中になっていた。
相手が女性であることも、婚約者探しのことも、ほとんど頭から抜け落ちている。
ただ、目の前の人物が持つ知識に興味を持ち、その話を聞いていた。
その様子を少し離れた場所から見ていたアーヴィンは、静かに息をついた。
(……なるほど。殿下は、こういう状況であれば自然に会話できるのですが)
ジルクが女性との会話を苦手としているという話は、王宮でもそれなりに知られている。
しかし、実際には女性そのものが苦手なのではない。相手を将来の婚約者候補として意識した瞬間に、過剰なまでに慎重になってしまうのだ。
今のように仕事の話であれば、相手が男性でも女性でも態度は変わらない。
むしろ、興味を持ったことについては積極的に質問し、相手の意見を尊重できる青年である。
(……この姿を、そのまま社交の場でも見せられればよいのですが)
アーヴィンはそう考えながら、主君の様子を見守った。
ジルク自身は気づいていなかったが、彼がノーラの説明を熱心に聞く姿を、周囲の職員たちも興味深そうに見ていた。
普段は王太子と直接話す機会の少ない者たちにとって、ジルクが自分たちの仕事へ真剣に関心を示してくれることは、素直に嬉しい出来事だった。
その場にいた若い職員の一人が、隣の同僚へ小声で話しかける。
「殿下って、思っていたよりずっと気さくな方なんですね。もっと堅苦しい方なのかと思っていました」
「仕事の話になると、いつもあんな感じらしいぞ。財務官たちからも、現場の意見をよく聞いてくださるって評判だ」
「へえ……。だったら、どうしてご婚約のお話が進まないんでしょう?」
「さあな。俺たちが簡単に口を出せる問題じゃないだろう」
それ以上、二人は話を続けなかった。
王族の婚姻には、本人の人柄だけでは解決できない事情がある。
そのことを、この城で働く者たちもよく知っていた。
◇
展示区画の確認を終えたジルクは、午後の準備会議へ出席した。
会議には各部門の担当者が集まり、当日の案内表示や来場者の移動経路、展示物の安全管理について意見が交わされた。
ジルクは事前に資料へ目を通していたため、会議の内容についていくことに苦労はなかった。むしろ、実際の展示を見てきたことで、紙の上だけでは分からなかった問題点にも気づくことができた。
「こちらの通路は、もう少し広くしたほうがいいと思う。展示を見る人が立ち止まると、後ろを通る人が移動しにくくなるんじゃないか?」
「ご指摘のとおりです、殿下。先ほど実際に配置を確認したところ、同様の問題が見つかりましたので、机を一列移動させる方向で検討しております」
「それならいい。あと、説明文は専門用語を少し減らしたほうがいいかもしれないな。初めて見る人にも伝わるようにしておきたい」
「承知いたしました。各担当者へ、説明文の見直しを依頼いたします」
会議は順調に進んだ。
ところが、最後の議題に入ったところで、ダリオが一枚の書類を差し出した。
「殿下。今回の交流会について、一部の貴族家からお問い合わせがございました」
「問い合わせ? 何か問題があったのか?」
「いえ、現時点では大きな問題ではございません。ただ、参加者の中には、今回の交流会を通常の事業紹介とは異なるものとして受け止めている方がいらっしゃるようです」
「……どういう意味だ?」
ダリオは少し言いづらそうに言葉を選んだ。
「その……。王太子殿下が来週の交流会へ積極的に参加されることから、貴族家のご令嬢との交流も目的の一つなのではないか、というお問い合わせがございました」
ジルクは一瞬、言葉を失った。
確かに、今回の交流会で女性たちと自然に話せる機会があれば嬉しいとは思っている。しかし、それはあくまでも個人的な期待であって、交流会の目的そのものを変えるつもりはない。
「……待て。今回の会は、あくまでも各事業の紹介と意見交換が目的だよな?」
「はい。そのように案内しております」
「だったら、婚約者探しのための行事だなんて誤解されたら困るぞ。俺が参加するだけで、令嬢たちに余計な負担をかけることになる」
「おっしゃるとおりです。現時点では、あくまでも一部の方から確認があったという段階ですが……」
ダリオは慎重に答えた。
アーヴィンも書類を確認し、わずかに眉を寄せる。
「殿下。こちらは少し注意が必要かもしれません。殿下が交流会へ参加されること自体は以前から決まっておりましたが、最近になってご婚約に関する話題と結びつける方が増えているようです」
「……俺が昨日、何軒かの家に断られたことが広まってるのか?」
「可能性はあります。ただし、現時点ではどこから話が出たのか確認できておりません」
ジルクは考え込んだ。
王太子に婚約者がいないことは、国の将来に関わる問題でもある。貴族たちが関心を持つのは自然なことだし、噂を完全になくすこともできないだろう。
それでも、今回の交流会を婚約者探しの場として扱われるのは困る。
参加者たちは、自分たちの仕事や取り組みを紹介するために集まるのだ。その場で王太子の婚姻ばかりが注目されてしまえば、本来の目的が薄れてしまう。
「……まず、案内文をもう一度確認しよう。交流会の目的が誤解されないように、必要なら説明を加えてほしい」
「承知いたしました」
「それと、参加者の中に未婚の令嬢がいるからって、特別な扱いをする必要はない。俺も担当者の一人として参加するんだから、ほかの人たちと同じように接してくれればいい」
ダリオは少し驚いたように目を上げた。
「……殿下。それでよろしいのですか?」
「もちろんだ。みんな仕事のために来てくれるんだろ? 俺の婚約者探しに付き合わせるために呼んだわけじゃない」
「……承知いたしました。そのように準備を進めます」
ダリオは深く一礼した。
その言葉には、単なる形式的な返答以上の安堵が含まれていた。
今回の交流会は多くの部署が協力して準備を進めている。もし王太子の婚約者探しが主目的だと誤解されれば、関係者たちの仕事にも余計な負担が生じる可能性があった。
ジルクの方針が明確になったことで、少なくとも主催者側が迷う必要はなくなったのだ。
「……それにしても、厄介だな」
会議を終えたあと、ジルクは小さく呟いた。
隣を歩くアーヴィンが、その言葉に頷く。
「殿下がご婚約を望んでおられることは、宮廷内でも広く知られておりますからね。何か行事があるたびに、縁談と結びつける者が出てくるのは避けられないでしょう」
「……俺が婚約者を探してるってだけで、普通の交流会まで妙な意味に取られるのか」
「残念ながら、その可能性はあります」
「……じゃあ、俺はどこで普通に女性と話せばいいんだよ」
ジルクは肩を落とした。
王太子という立場を考えれば、本人の行動が周囲に大きな影響を与えるのは仕方のないことだ。
しかし、女性と普通に話そうとするだけで、本人の意図とは別の意味を持たされてしまう。
それでは、どれほど努力しても前に進めないのではないか。
そんな考えが頭をよぎった。
「……殿下。少しよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「本日の交流会の準備では、商業組合のノーラ殿と自然にお話しできておられましたね」
「ああ。保管箱の話は面白かったな。ああいう工夫が実際の暮らしを支えてるんだと思うと、もっと詳しく聞きたくなる」
「そのとき、殿下は婚約者探しのことをお考えでしたか?」
「……いや。全然考えてなかった」
「では、まずはそれでよいのではありませんか?」
ジルクは足を止めた。
アーヴィンは穏やかな表情で続ける。
「殿下がすべての女性を婚約候補として意識される必要はありません。相手の話を聞き、関心を持ち、自然に交流する。その積み重ねが、いつかご自身にとって大切な方との出会いにつながるかもしれません」
「……そうだな」
「何より、殿下ご自身が楽しく会話できることも大切です。焦ってばかりでは、相手の方も落ち着いてお話しできないでしょう」
「……お前、今日はやけにまともなこと言うな」
「普段からまともなことしか申し上げておりませんが」
「それは絶対に嘘だろ」
ジルクは苦笑した。
何もかも一度に変えられるわけではない。
それでも、昨日より少しだけ、自分が何をすべきなのか分かってきた気がした。
◇
夕方、ジルクは王妃エリアーヌのもとを訪れた。
王妃は私室に近い小さな居間で、数通の手紙を確認していた。傍らの机には刺繍道具と読みかけの本が置かれ、窓際には季節の花が飾られている。
侍女の案内を受けて入室したジルクを見ると、エリアーヌは柔らかく微笑んだ。
「あら、ジルク。今日はお仕事が早く終わったのね」
「はい。午後の会議が予定より少し早く終わったので、様子を見に来ました。お邪魔ではありませんか?」
「もちろん。ちょうど手紙を読み終えたところですもの。よかったらお茶でもいかが?」
「ありがとうございます。いただきます」
ジルクは勧められた椅子に腰を下ろした。
王妃は侍女へ茶の用意を頼むと、改めてジルクへ視線を向けた。
「今日はエステル先生とお話ししたのでしょう? アーヴィンから、午前中にお時間をいただく予定だと聞いていましたよ」
「……もうご存じなんですね」
「ええ。あなたが何か新しいことに取り組もうとしているのなら、応援したいですもの」
「……ありがとうございます。ただ、その……。婚約者探しのために、昔の礼儀作法の先生を呼ぶことになるとは思ってませんでした」
ジルクが苦笑すると、エリアーヌも小さく笑った。
「エステル先生は厳しい方ですものね。でも、あなたが幼いころからよく知っている方でもあるでしょう?」
「そうなんですけど……。昔の失敗まで覚えてるんですよ。礼をしたときに転んだ話とか、何度聞かされたことか」
「ふふっ。あのころは本当に小さかったわね。あなたが上手に礼をできた日は、嬉しそうに私のところへ報告に来てくれたものです」
「……王妃様まで、その話をするんですか」
「懐かしいのですもの。今では立派な青年になって、王太子として毎日頑張っているのですから」
エリアーヌの言葉には、からかいだけではない温かさがあった。
ジルクは両親を失ってから、この王妃に育てられてきた。
正式には叔母に当たる女性だが、幼いころのジルクにとっては、母親のような存在だった。病気のときにはそばにいてくれたし、勉強で上手くいかないことがあれば話を聞いてくれた。
王太子としての教育が厳しくなってからも、彼女は一人の家族としてジルクを気にかけてくれている。
「……王妃様」
「なあに?」
「俺、今日先生に言われたんです。女性と話すとき、最初から婚約者になるかどうか考えすぎないほうがいいって」
「……ええ。それは大切なことだと思うわ」
「今まで、どうして俺には婚約者ができないんだろうって、そればっかり考えてました。でも、相手だって俺のことを知らないのに、いきなり将来のことまで考えろって言われても困りますよね」
エリアーヌは静かに頷いた。
「そうね。もちろん、あなたの立場では結婚が大切な問題になることも分かっています。でも、婚約という形だけを急いで決めても、それで幸せになれるとは限らないでしょう?」
「……はい」
「あなたには、あなた自身を大切にしてくれる人と出会ってほしいの。王太子だからとか、将来の国王だからとか、そういう理由だけではなくてね」
その言葉に、ジルクは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
王妃は昔から、彼に対して同じようなことを言ってくれていた。
王太子として立派になることは大切だが、それだけが人生のすべてではない。家族や友人を大切にし、自分自身の幸せについても考えてほしいと、何度も教えてくれたのだった。
「……俺も、そう思います」
「ええ。だから、焦らずにいきましょう。来週の交流会でも、まずはご自身が楽しむことを考えてみてください」
「……分かりました。俺、少しずつ頑張ってみます」
ジルクが笑うと、エリアーヌも嬉しそうに微笑んだ。
その後、二人はしばらく穏やかに話を続けた。
フェリクスが最近乗馬の練習に熱中していることや、王妃が新しく読み始めた本のこと。来週の交流会では、王妃自身も慈善事業の展示を見て回る予定であることなど、婚約者探しとは関係のない話題も多かった。
気づけば、ジルクは自然に笑っていた。
(……こういうふうに話せればいいんだよな)
何かを期待しすぎることなく、相手の話を聞き、自分も思ったことを伝える。
その積み重ねが、いつか誰かとの大切な関係につながるのかもしれない。
そんなふうに考えていると、王妃がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、ジルク。来週の交流会について、少し気になる話を耳にしたのだけれど」
「……気になる話、ですか?」
「ええ。どうやら、一部の貴族家では、今回の交流会をあなたの婚約者探しのための催しだと思っている方がいらっしゃるようなの」
ジルクの表情が固まった。
「……それ、今日の会議でも話が出たんです」
「あら、そうだったの?」
「はい。参加者の中に未婚の令嬢がいることから、俺が婚約者を探すために交流会を開くんじゃないかって、そんな話になってるらしくて……」
「まあ……。それは少し困りましたね」
エリアーヌは眉を下げた。
王妃として社交界の事情に詳しい彼女には、こうした噂がどれほど早く広まるか分かっている。
特に、王太子の婚姻に関わる話題となれば、貴族家の関心は高い。
「……俺、どうしたらいいんでしょう」
「まずは、今回の交流会の目的をきちんと伝えることね。あなたが婚約相手を探すためだけに開く催しではないのだから、その点は明確にしたほうがいいでしょう」
「はい。会議でも、その方向で進めるようにお願いしました」
「それなら、できることはしているわ。あとは、当日のあなたの振る舞いが大切になるでしょうね」
「……そうですね」
ジルクは静かに頷いた。
王妃はしばらく彼を見つめていたが、やがて優しく笑った。
「ジルク。あなたは、誰かに好かれるために無理をする必要はありませんよ」
「……王妃様?」
「もちろん、自分を磨くことは大切です。でも、あなたがあなたらしく振る舞って、それを素敵だと思ってくれる人が現れたなら、それが一番よいことだと思うの」
ジルクは、すぐには返事ができなかった。
自分らしく振る舞う。
簡単なようで、今の彼には難しいことだった。
王太子としての立場を考え、父親の過去を意識し、周囲の目を気にするうちに、いつの間にか自然体で女性と話すことすら難しくなっていたのだから。
「……ありがとうございます。俺、もう少し自分のことも信じてみます」
「ええ。それでいいのよ」
エリアーヌは、穏やかに微笑んだ。
◇
その日の夜。
ジルクは自室へ戻り、寝支度を整えながら、今日一日の出来事を振り返っていた。
朝はアーヴィンに声量の練習をさせられ、午前中はエステル先生から会話について指導を受けた。午後には交流会の準備を確認し、王妃ともゆっくり話すことができた。
振り返ってみれば、婚約者ができたわけでも、令嬢と親しくなれたわけでもない。
それでも、昨日までとは少し違う一日だったように思える。
(……婚約者を見つけることばっかり考えてたけど、まずは俺自身のことを知ってもらうところから始めればいいんだよな)
ジルクは窓の外へ目を向けた。
王城の庭園はすっかり夜の闇に包まれ、遠くには王都の灯りが点々と見える。人々がそれぞれの暮らしを送り、家族や友人と過ごしているのだろう。
その中には、恋人と一緒に夜を楽しんでいる人たちもいるのかもしれない。
「……いいなあ」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
ジルクは二十歳だ。
同年代の貴族子息たちの中には、すでに婚約を済ませている者も少なくない。なかには結婚し、子供が生まれたという話まで耳にする。
それなのに、自分には婚約者どころか恋人もいない。
王太子という地位があっても、好きな女性と手をつないで歩くことすら経験したことがないのだ。
「……普通に恋愛してみたいだけなんだけどな」
ジルクは苦笑した。
以前なら、ここで父親への文句が飛び出していたことだろう。
実際、すべての原因が父親にあるという考えが消えたわけではない。
ただ、いつまでも文句を言っているだけでは、何も変わらないことも分かってきた。
(……来週の交流会、少し楽しみになってきたな)
もちろん、そこで婚約者が見つかるとは限らない。
しかし、誰かと自然に会話できるようになれば、それだけでも前進だろう。
ジルクはそんなことを考えながら、明日の予定を確認しようと机へ向かった。
そのときだった。
扉の外から、控えめなノックが聞こえてきた。
「殿下。夜分に失礼いたします。アーヴィンでございます」
「アーヴィン? どうした、こんな時間に」
「少々、確認していただきたいものがございまして」
「……また書類か?」
「いえ。書類ではありますが、政務に関するものではございません」
その言い方に、ジルクは嫌な予感を覚えた。
「……入ってくれ」
許可を受けて入室したアーヴィンは、一枚の紙を手にしていた。
いつもと変わらない落ち着いた表情ではあるものの、その目元にはわずかな困惑が浮かんでいる。
「殿下。先ほど、王都の貴族街で配られているという案内文が、王宮へ届けられました」
「案内文? 交流会のか?」
「はい。ただし、こちらは王宮が正式に発行したものではございません」
「……どういうことだ?」
ジルクは差し出された紙を受け取った。
そこには、来週の交流会の日時や開催場所が記されている。
だが、その下に書かれていた文章を読んだ瞬間、ジルクの表情が固まった。
『王太子殿下が、将来の王妃候補となる令嬢方との交流を望まれているとのこと』
『今回の催しは、殿下のお人柄を知る貴重な機会となるでしょう』
『未婚のご令嬢をお持ちの貴族家におかれましては、ぜひご参加をご検討ください』
「…………」
ジルクは黙った。
もう一度、最初から読み直した。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……アーヴィン」
「はい、殿下」
「……これ、誰が作った?」
「現在、確認を進めております。少なくとも、王宮の正式な案内文ではございません」
「……そうか」
ジルクは紙を机へ置いた。
その動作は、不思議なほど静かだった。
「……なあ、アーヴィン」
「はい」
「俺、今日一日、何を頑張ってたと思う?」
「女性との自然な会話について学び、交流会の本来の目的を大切にするよう、関係者へ伝えておられました」
「……そうだよな」
「はい」
「……それなのに、これを読んだ人たちは、どう思うんだ?」
「王太子殿下が、交流会を通じて婚約者を探そうとしておられるのだと受け取る可能性が高いでしょう」
「……だよな」
ジルクは深く息を吸った。
今日一日、何度も意識してきたことがある。
大声を出さない。
焦らない。
相手の立場を考える。
冷静に話す。
その努力を思い出し、ジルクはゆっくりと息を吐いた。
「……アーヴィン。これ、早急に訂正したほうがいいよな?」
「はい。王宮が正式に発行した案内文と誤認される可能性もございますので、発行元を確認したうえで対応する必要があります」
「……分かった。明日の朝一番で、関係者を集めよう。参加者に余計な負担がかからないようにしたい」
「承知いたしました。では、必要な手配を進めておきます」
アーヴィンは一礼した。
そのまま退室しようとしたところで、ジルクが声をかける。
「……なあ、アーヴィン」
「はい、何でしょう?」
「俺、今日はちゃんと我慢できたよな?」
「ええ。最後まで落ち着いて対応されました。大変立派だったと思います」
「……そうか」
ジルクは静かに頷いた。
そして、もう一度机の上の案内文を見つめる。
将来の王妃候補。
未婚の令嬢。
婚約者探し。
自分が今日一日かけて、なるべく意識しないように努力してきた言葉が、そこには堂々と並んでいた。
「…………」
ジルクは天井を仰いだ。
しばらくして、ゆっくりと口を開く。
「……アーヴィン」
「はい」
「……一回だけ、叫んでもいいか?」
「おすすめはいたしません」
「……だよな」
「はい。せっかく本日は、声量を抑える努力を続けておられたのですから」
「……分かった」
ジルクは両手で顔を覆った。
そして、声を張り上げる代わりに、低い声で呟く。
「……俺は、ただ普通に交流会へ参加したいだけなんだよ」
「はい」
「……別に、花嫁選びの大会を開きたいわけじゃないんだよ」
「承知しております」
「……なのに、どうしてこうなるんだ?」
アーヴィンは答えなかった。
答えられなかった、と言うべきかもしれない。
王太子の婚約問題が、本人の意思とは関係なく貴族社会の関心を集めていることは事実なのだ。
ジルクはしばらく黙っていたが、やがて深いため息をついた。
「……明日、絶対に何とかするぞ」
「はい。私もお手伝いいたします」
「……頼む」
そう言って、ジルクは机の上の案内文を裏返した。
もう見たくなかった。
今日一日、少しだけ前に進めたと思っていた。
女性と普通に会話することの大切さを学び、交流会では婚約者探しを意識しすぎないようにしようと決めた。
それなのに、世間のほうが勝手に婚約者探しを始めている。
(……なんなんだよ、もう)
ジルクは窓の外を見つめた。
夜空には、穏やかな月が浮かんでいる。
王都の人々は、今日も平和に暮らしているのだろう。
そして、そのどこかでは、王太子の婚約問題について、面白おかしく噂をしている人たちもいるのかもしれない。
それを想像すると、胸の奥からどうしようもない叫びが込み上げてくる。
だが、ジルクは耐えた。
今日の練習を無駄にしないために。
将来の婚約者と、落ち着いて会話できる男になるために。
何より、これ以上アーヴィンにからかわれないために。
「……よし。寝よう」
ジルクはそう呟き、寝台へ向かった。
しかし、横になってからも、頭の中からあの案内文が消えることはなかった。
(……なんで、ただの交流会が花嫁選びみたいになってるんだよ)
しばらく天井を見つめたあと、ジルクは枕へ顔を埋めた。
そして、誰にも聞こえないように、心の中で思いきり叫んだ。
(だから俺は、婚約破棄なんかしてねえんだってばあああああ!!)
こうして、王太子ジルク・シルベスタの婚約者探しは、今日も思わぬ方向へ進んでいく。
本人はただ、普通に女性と会話したいだけなのに。
王太子という立場も、父親の残した悪評も、どうやら簡単にはそれを許してくれないらしい。
そして翌朝、ジルクは自分の知らないところで広まった噂が、想像以上に厄介なものになり始めていることを知るのだった。




