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俺は婚約破棄してねえ!! 〜クソ親父の悪評を押し付けられた王太子、今日も婚約者ができません〜  作者: 伊佐波瑞樹


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第1話 王太子なのに、婚約者ができません


ハトラン王国の王城には、早朝から人の出入りが絶えない執務棟がある。歴代の国王や王太子が政務を行ってきたその建物の三階、朝日が差し込む一室で、一人の青年が深刻な顔をしていた。


机の上には各領地から届いた報告書、財務官がまとめた予算案、そして昨日の夜会について記された書類が整然と並んでいる。どれも王太子が目を通すにふさわしい重要なものばかりだったが、青年の視線は最後の一枚に釘付けになっていた。


「なあ、アーヴィン。少し聞いてもいいか?」


「政務に関するご質問でしたら、できる範囲でお答えします。昨日の夜会についてでしたら、先に申し上げておきますが、私の報告書に誤りはありません」


「まだ何も言ってねえだろ。俺が聞きたいのは、もっと根本的なことだ」


青年の名はジルク・シルベスタ。二十歳にして王位継承者の座にある、ハトラン王国の王太子である。


夜の闇を思わせる黒髪は丁寧に整えられ、晴れ渡った空のような青い瞳には、人目を引く鮮やかさがある。すらりとした長身と、剣術の鍛錬で引き締まった身体を持つ彼は、黙って立っていれば絵画から抜け出した王子と評されても不思議ではなかった。


その向かいで書類を仕分けているのは、王太子付きの側近、アーヴィン・フェルド。伯爵家の次男でジルクより三歳年上の彼は、落ち着いた茶髪と灰色の瞳を持ち、主君の突拍子もない言動にも滅多なことでは表情を崩さない。


「俺って、王太子だよな?」


「はい。昨年の貴族会議でも、殿下の王位継承者としての地位は再確認されました。今さら不安になる理由が私には分かりません」


「じゃあ、俺って顔も悪くないよな? 別に国一番の美男子だと言ってほしいわけじゃないんだ。人前に出て恥ずかしくない程度には整ってるよな?」


「ええ。容姿については、むしろ恵まれておられるかと。もっとも、それを自ら確認なさる男性を女性がどう評価するかは、また別の問題ですが」


「余計な一言を足すな! じゃあ剣術はどうだ? 勉強は? 王太子としての仕事は!?」


「剣術は近衛騎士団の教官から高い評価を得ています。学問も優秀で、政務については先月の水路改修案で財務官を納得させておいででした。ただし、今朝提出するはずの決裁書が一枚、まだ署名待ちです」


「それは後でやる! ……そこまで条件が揃ってるんなら、どうしてだ?」


ジルクは机の上の最後の書類をつまみ上げた。そこには、昨日の夜会で交わされた会話の要点と、王太子への紹介を丁重に辞退した貴族家の名前が並んでいる。


「どうして俺には婚約者ができないんだあああああ!!」


窓の外で小鳥が一斉に飛び立った。廊下を歩いていた侍従が足を止めた気配がしたが、アーヴィンは手元の書類から目を上げることすらしなかった。


「朝から元気で何よりです、殿下。ですが、城の東棟に響くほど叫んでも、お相手が見つかるとは思えません」


「分かってるよ! そんなことは俺が一番分かってるんだよ!」


王太子。端正な顔立ち。十分な教養と武芸、そして将来は一国を治めることになる地位。普通に考えれば縁談が途切れないはずの青年に、婚約者はもちろん、恋人もいなかった。


それどころか、仕事以外で気軽に会話できる女性の友人すら一人もいない。夜会で挨拶を交わせば令嬢たちは礼儀正しく微笑むが、その先の会話を始めようとすると、決まって家族に呼ばれるか、都合のよい用事を思い出すのだった。


「昨日もそうだ。エルマンド伯爵のご令嬢に挨拶をしたら、お茶が冷めるからって退席されたんだぞ。会場は夜会だ! お茶なんて出てなかっただろ!」


「隣室に休憩用の茶席がございました。なお、ご令嬢は退出される際、殿下に三度お辞儀をしておられます」


「丁寧なのは分かる! 俺に失礼がないよう気を遣ってくれてるのも分かる! でも、せめて天気の話くらいさせてくれたっていいだろうが!」


「殿下が最初のご挨拶で『よろしければ今後もお話しする機会を』と仰ったことが、いささか重く受け取られた可能性はあります」


「普通の挨拶だろ、それ!」


「お相手のご実家にとっては、王太子から継続的な交流を求められたと解釈できるお言葉です。殿下のお立場では、気軽なひと言が縁談の打診に聞こえる場合もございます」


ジルクは口を閉じた。腹立たしいことに、アーヴィンの指摘は正しかった。


王族から声をかけられた相手が、断りづらい思いをすることは避けたい。そう考えて言葉を選んでいるつもりなのに、丁寧に言えば言うほどかしこまった意味に受け取られるのだから、どうにもならなかった。


「……じゃあ、俺から声をかけないほうがいいのか?」


「それでは、殿下のことを知っていただく機会が永遠に訪れません」


「詰んでるじゃねえか!」


「まだ詰んではおりません。少なくとも、今日の予定表には改善を試みる余地がございます」


「本当か!?」


「まず、未署名の決裁書に署名をお願いいたします」


「婚約者の話をしろよ!」


主君の抗議を受け流しながら、アーヴィンは銀の筆置きと書類を机の中央へ移した。ジルクは不満げに唸ったものの、結局は羽根ペンを取った。


彼がここまで婚姻に苦労する原因は、顔でも能力でもなかった。問題は本人が何度も叫んでいるとおり、実の父親にあった。


かつてハトラン王国には、国民から将来を期待された第一王子がいた。ジルクの実父であり、当時は王太子の地位にあった男である。


その男には、幼いころから婚約していた侯爵令嬢がいた。才覚と教養に優れ、領地経営にも関心を持つ彼女との婚約は、王家と有力貴族の信頼をつなぐ約束でもあった。


ところが、王侯貴族の子弟が通う学園で、第一王子は一人の男爵令嬢と恋に落ちた。令嬢は後にジルクの実母となる女性である。


身分の違う二人が恋をしたというだけなら、まだ当事者たちの間で話し合う道はあっただろう。しかし、第一王子は婚約者と誠実に向き合う代わりに、彼女が男爵令嬢をいじめ、命まで狙ったと糾弾した。


彼は大勢の前で一方的に婚約破棄を宣言し、婚約者を追放しようとした。そればかりか、表に出せない手段で彼女を亡き者にしようとまでしたのである。


結果は、第一王子の思い描いたものとは正反対だった。侯爵令嬢は証拠と証言を積み重ね、告発の虚偽と自分に向けられた危害の企てを明らかにした。


王家は第一王子の継承権を剥奪し、王族の身分からも退けた。彼と男爵令嬢は後に夫婦となったが、ほどなくして暗殺事件で命を落としたと公表され、まだ幼かったジルクは両親を失った。


父親の名誉は回復されず、事件の記録も取り消されなかった。それは当然のことだと、ジルク自身も理解している。


一方、濡れ衣を着せられた侯爵令嬢は同じ侯爵位の家の子息と結婚し、夫とともに商業や領地の事業を成功させた。今やその一族は財力だけでなく、多くの貴族や商人からの信頼を集め、王家ですら意向を軽んじられない存在となっている。


これほど有名な前例があって、娘を王家へ嫁がせたいと考える親がそう簡単に現れるはずもなかった。かつての婚約者が味わった屈辱と危険は、貴族社会に深く刻まれている。


ジルクは父親とは別人だ。しかし、別人だから何も心配はいらないと、親たちに言い切れるだけの理由もない。


「……俺、生まれたときはまだ赤ん坊だったんだぞ」


「承知しております」


「父上が誰と何をしたかなんて、何一つ決められなかったんだぞ」


「それも承知しております。ですが、それだけでご令嬢方の不安が消えるわけではないのでしょう」


「……分かってる。分かってるから、余計にやりきれねえんだよな」


ジルクはようやく決裁書に署名をした。水路の修繕に必要な木材の輸送を許可する書類で、雨季の前に工事を終えるには今日中の手続きが必要だった。


自分のため息が誰かの暮らしを遅らせるわけにはいかない。そう思う程度には、彼は王太子の仕事を真剣に考えていた。


「もう一つ聞く。俺が伯爵家より下の家の娘を好きになったら、どうなる?」


「現在の王国法では、正妃の候補となる女性には原則として伯爵家以上の家格が求められます。法を改める議論は可能ですが、殿下ご自身の結婚のためだけに急いで変更すれば、別の疑念を招くでしょう」


「分かってるよ。平民の娘に身分を気にせず求婚、なんて物語みたいなこともできないわけだ」


「好意を抱くことまで禁じられているわけではありません。しかし、相手の方が王太子妃としての責任を負うことを望まれるか、王国がその選択をどう受け止めるかは、別に考える必要があります」


「恋愛の前に法律と貴族会議が立ちはだかってくるんだから、王太子っていうのも難儀な身分だよな」


「その身分を羨む者は大勢おりますが」


「だったら婚約者が一人もいない状態まで含めて譲ってやりたい」


言い終わると、アーヴィンが珍しく小さく笑った。ジルクはその笑みを見逃さず、恨めしそうに目を細める。


「お前、今笑っただろ」


「失礼しました。ですが殿下、譲る相手が見つかる前に、まず陛下がお認めにならないでしょう」


「その陛下が問題なんだよ!」


現国王ベルンハルト・シルベスタは、ジルクの実父の弟に当たる。兄の失脚によって望まず王位継承者となり、先王の崩御後に即位した人物だ。


国王には王妃がいる。二人の間には息子も生まれており、その子は健康に成長していた。血筋だけを考えれば実子を後継に据える道もあるのだが、ベルンハルトは幼い甥を正式に養子とし、貴族会議の承認を得て王太子に立てた。


ジルクの能力や王籍を守るためでもあったが、国王には公の席ではあまり口にしない本音がある。彼は政治が嫌いで、自分が背負った王位の重圧を、愛する妻や実の息子にまで継がせたくないのだ。


かといって投げ出せるほど無責任な人物ではなく、即位してからの統治は堅実だった。ジルクが成人し、国と家庭を支えられる王太子となるまで務めを果たすというのが、ベルンハルトの公言する方針である。


そしてもう一つ、彼が頑として譲らないことがあった。


『兄の不始末は王家全体が背負うべき責任だ。ジルクの婚姻について、王家の権威で相手を従わせることはしない』


その宣言を撤回するつもりはないらしく、どれほど縁談が進まなくても国王は貴族家に圧力をかけない。ジルクも方針そのものは正しいと思っているが、だからといって自分の恋人が空から降ってくるわけでもなかった。


ちょうどそのとき、執務室の扉が控えめに叩かれた。アーヴィンが応じると、侍従が一礼して入ってくる。


「王太子殿下、陛下がお越しです。お通ししてもよろしいでしょうか」


「……噂をすれば、だな。もちろんだ。叔父上をお待たせするわけにはいかない」


ジルクが立ち上がると、ほどなくして国王が姿を現した。深い藍色の上着をまとったベルンハルトは、兄譲りの端整な顔立ちこそ持っていたが、目元には長年の政務による疲れが刻まれている。


「朝から随分と賑やかだったそうだな、ジルク。東棟の侍従が、何か事件が起きたのではないかと私のところへ報告に来たぞ」


「事件なら起きていますよ、叔父上。二十歳の王太子に婚約者ができないという、極めて深刻な事件が!」


「そうか。では、犯人が分かっているだけでも幸いではないか」


「犯人がもう死んでるんですけど!?」


「……兄上のことか。お前には、実に面倒なものを残してしまったと思っている」


ベルンハルトの表情がわずかに翳ったのを見て、ジルクも勢いを緩めた。王になった叔父もまた、兄が起こした事件によって望まぬ人生を歩むことになった一人だった。


「すみません。叔父上を責めたいわけじゃないんです。俺だって、あんなことをした父親の息子と縁を結びたくないって気持ちは、理解できますから」


「それでも、自分の罪ではないものを背負わされるのは苦しいだろう。私にできることは限られているが、お前の苦労を当然だとは思っていないよ」


「……だったら、何かいい方法を考えてください。国を治めるより、こっちのほうがよほど難しく感じるんです」


「まずは国を治める仕事をしっかり覚えてくれ。それが済めば、私も安心して隠居できる」


「結局それですか!」


思わず声を上げたジルクに、国王は悪びれた様子もなく微笑んだ。アーヴィンが視線を伏せて肩を揺らしているのが見え、ジルクは今日二度目の恨みがましい視線を送る。


「だいたい叔父上には、実の息子がいるじゃないですか。フェリクスは聡明で、俺よりよほど落ち着いてますよ。あいつが大きくなってから決めたっていいでしょう」


「フェリクスが賢いのは私も知っている。だからこそ、あの子には自分の好きな道を選ばせたいのだ。私は兄上の失脚によって進路を決められ、王妃も望まず王宮の重荷を担った。息子に同じ苦労をさせたくはない」


「俺にはさせるんですね?」


「お前の王太子としての資質を評価しているからだ。それに、王位継承の承認を受けるとき、お前自身も覚悟を述べただろう」


「それを言われると弱いんですけど……。覚悟したのは国を守ることであって、恋人のできない人生じゃないんですよ!」


「その二つは別問題だろう。よい相手に出会えるよう、私も願っている」


「願うだけじゃなくて手伝ってほしいんです!」


「娘を差し出せと命じることはできんし、私が勝手に相手を選ぶのも違うだろう。だが、無理のない出会いの場を作ることなら相談に乗れる」


その言葉に、ジルクは目を瞬かせた。予想していなかった具体的な助け舟だった。


「……本当ですか? 叔父上が?」


「なんだ、その疑わしそうな顔は。私とて、お前がいつまでも独り身で苦労している姿を楽しんでいるわけではないぞ」


「ついさっき、俺が結婚したら隠居したいって顔をしてましたよね」


「それとこれとは両立する」


「開き直った!」


ベルンハルトは咳払いをして、持参した書類を机へ置いた。王都の慈善事業と領地間の物資流通について記した報告で、数日後に宮廷で開かれる秋の交流会に関連するものだった。


「来週の交流会には、貴族家の若者だけでなく、救貧院や学術院の事業に関わる者も招いている。お前が担当してきた水路整備と食糧輸送の取り組みも紹介する予定だ。華やかな舞踏会とは違い、仕事や関心のある話題から会話を始められるだろう」


「つまり、婚約候補を紹介する集まりではないんですね」


「そのとおりだ。誰かに求婚するためではなく、お前がどんな考えで仕事をしているか知ってもらう機会にする。女性側が興味を持てば、交流も自然に生まれるかもしれん」


「……なるほど。それなら相手も、いきなり婚約を迫られるんじゃないかと身構えなくて済むかもしれませんね」


「ただし、結果を急ぐな。まずは相手の話を聞くことだ。人は、自分をどう扱うかによって相手を判断するものだからな」


国王はそう言って、署名済みの水路改修書類へ視線を落とした。ジルクが抱えていた苦悩とは別に、王太子としてすべきことは着実に進んでいる。


「この件もよく確認してくれたな。上流域の村まで輸送を延ばした判断は正しかった。お前の働きを見ている者は、王宮の中にも外にもいるぞ」


「……ありがとうございます。俺だって、肩書だけで選んでほしいわけじゃないですから」


「ならば、何より先にお前自身を知ってもらえばいい。私ができるのは、そこまでだ」


国王が退出したあと、執務室はしばらく静かになった。ジルクは窓際まで歩き、眼下に広がる庭園を眺めた。


整えられた生け垣の向こうでは、庭師たちが秋の花を植え替えている。王太子にとって王城は生まれ育った家であると同時に、多くの人々が働き、国の意思が集まる場所でもあった。


(俺のことを知ってもらう、か。簡単に聞こえるけど、それが一番難しいんだよな)


彼には両親と過ごした記憶がほとんどない。物心がつく前に二人を失い、叔父夫婦に引き取られてからは、不自由のない暮らしと十分な教育を与えられた。


叔父は厳しいときもあったが、ジルクの失敗をただ責めるようなことはしなかった。王妃は幼い彼が夜中に熱を出した際、侍医が帰るまでそばにいてくれたこともある。


だから、ジルクは孤独に育ったわけではない。王城には家族がいて、信じられる側近がいて、自分の帰る場所もある。


それでも、誰かに一人の男として好きになってもらいたいという願いは、別のものだった。王太子としての責任を背負うことと、好きな相手と一緒に笑って暮らしたいと思うことは、両立できるはずだと彼は信じている。


「殿下。せっかく陛下が機会を用意してくださるのですから、今から練習なさってはどうでしょう」


「練習? 剣なら朝にやったぞ」


「女性との会話の練習です。まずは私が令嬢役を務めますので、相手に負担をかけない挨拶を考えてみてください」


アーヴィンが椅子から立ち上がると、ジルクは露骨に顔をしかめた。長い付き合いの側近が令嬢を演じるところなど、想像するだけで嫌な予感しかしない。


「お前が令嬢役って、無理がありすぎるだろ。せめて侍女に頼めないのか?」


「王太子殿下の私的な婚約活動に侍女を付き合わせるのは、公務の範囲を超える可能性がございます。私は側近として必要な助言を申し上げる立場ですので、ご遠慮なく」


「理屈は分かるけど、ものすごく嫌だ」


「では始めましょう。殿下、私は初めてお会いする伯爵家の令嬢です。婚約を望んでいるかどうかも分からず、家族からは王族との距離を慎重に考えるよう言われています」


その設定が妙に現実的なのが腹立たしかった。ジルクはこめかみを揉み、夜会での挨拶を思い浮かべながら背筋を伸ばす。


「本日はお越しいただき、ありがとうございます。お時間が許すようでしたら、少しお話を……」


「申し訳ございません、殿下。母が私を待っておりますので」


「まだ始めて三秒だぞ!?」


「私の設定では、王太子との長い会話を避けたい事情がありますから。では、もう一度お願いいたします」


「おい、せめて最後まで聞けって! ……分かったよ。じゃあ、今日の展示をご覧になりましたか? 北の領地で造られた新しい水車があって――」


「その話題なら、少しは続けられるでしょう。ご令嬢が興味をお持ちなら、ですが」


「そこが問題だよな。俺は水車の話ならいくらでもできるけど、誰だって好きとは限らない」


「ようやくお分かりになりましたか。殿下は普段、政務の場では相手の話をよく聞いておられます。それを夜会でもなさればよいのです」


「……なんだよ。最初からそう言ってくれればよかったのに」


「最初に申し上げても、今朝の殿下は聞く耳をお持ちでなかったでしょう」


「否定できねえ!」


その後、二人は昼前まで交流会の準備資料を確認した。ジルクは各事業の責任者と参加予定者の立場を調べ、質問されたときに一方的な説明にならないよう話題を整理する。


作業そのものは普段の政務と大差がなかったが、アーヴィンは初めて、主君が婚約者探しに関することを叫ばずに進めている姿を見た。午後にはその評価を撤回することになるとは、まだ知らなかった。


昼食の席で、ジルクは国王夫妻と王子フェリクスに顔を合わせた。王妃エリアーヌは淡い金色の髪をまとめた穏やかな女性で、ジルクにとっては幼いころから母親同然の存在である。


「今朝はずいぶん早くから執務室にいたそうですね、ジルク。朝食をきちんと取ったのかしら?」


「はい。アーヴィンが逃がしてくれませんでしたから。仕事を始める前に食べろって、食堂までついてきたんです」


「それなら安心しました。あなたは考え事があると、食事まで忘れてしまうことがありますものね」


「忘れるのは大抵、婚約者のことで悩んでいるときですけどね」


ジルクが苦笑すると、エリアーヌは責めるでもなく眉を下げた。彼女は王家の事情をよく知っており、ジルクが出会いの少なさに苦労していることも気にかけていた。


「来週の交流会には、私も少し顔を出すつもりです。あなたの進めてきた事業に関心を持ってくれる方と、落ち着いてお話しできるといいですね」


「ありがとうございます。けど、王妃様まで俺の婚約のために動いてるって思われたら、相手も緊張しそうです」


「ええ、ですから誰かを紹介するつもりはありません。会そのものを楽しんでもらうのが一番ですわ」


「叔父上より、よっぽど話が分かる……」


「聞こえているぞ、ジルク」


「聞こえるように言いました!」


父子にも叔父と甥にも聞こえるやり取りに、エリアーヌが小さく笑った。向かいの席では、十四歳のフェリクスがスープの器を置き、兄のように慕うジルクを興味深そうに見ている。


「ジルク兄上は、やっぱり早く婚約したいんですか?」


「そりゃあな。好きな人ができて、その人にも好きになってもらって、いつか結婚できたら最高だと思うぞ。なんだ、フェリクスも興味があるのか?」


「僕はまだいいです。今は勉強と乗馬だけで十分忙しいので。でも兄上は、令嬢たちと話すときに、いつも結婚相手を探している顔をしている気がします」


「……結婚相手を探している顔って何だ?」


「難しい試験問題を解こうとしているときと同じ顔です。お父様が書類を増やしたときにも、よく似た顔をしてます」


フェリクスは真顔でそう答えた。ベルンハルトは咳払いをし、王妃は口元へ手を当てて笑いをこらえている。


「そんな顔で話しかけてくる男がいたら、僕だって何か試されてるのかなって身構えますよ。普通に話して、相手の好きなものを聞けばいいんじゃないですか?」


「お前、十四歳のくせに随分と的確なことを言うな……」


「兄上が分かりやすいだけです。昨日だって、夜会が終わってからずっと窓の外を見てましたし」


「見てたのかよ!」


「廊下でため息が聞こえましたから。あれだけ大きなため息なら、部屋の外でも分かります」


ジルクは両手で顔を覆った。どうやら自分の婚約問題は、王城の中で想像以上に知られているらしい。


それでも、フェリクスの言葉に腹は立たなかった。父親の事件を直接知らない年下の家族は、彼を王太子という肩書だけで見ず、昔からのジルクとして接してくれる。


(……そうだよな。俺が欲しいのは、こうやって気兼ねなく話せる相手なんだ)


ただし、フェリクスと同じようにしてくれる令嬢が現れるかどうかは別問題だった。ジルクの表情を読んだのか、エリアーヌは会話の流れを変えるように、午後の予定を尋ねた。


「今日は財務官との打ち合わせがあるのでしょう? そのあと少し庭園を歩いてみてはどうかしら。頭の中が婚約のことだけになってしまうと、せっかくの景色も楽しめませんよ」


「そうですね。少し気分転換してみます」


答えたジルクに、ベルンハルトが満足そうに頷いた。しかし、その直後に口にしたひと言が余計だった。


「それで気持ちが落ち着いたら、交流会のあとの婚姻についても前向きに考えられるな。私の隠居も少しは近づくというものだ」


「叔父上! いま王妃様が婚約のことばっかり考えるなって言ったでしょうが!」


「……そうだったな。これは私が悪かった」


謝る国王の顔が、ちっとも反省しているように見えなかったのは気のせいだろうか。ジルクは深く息を吐き、もう一口だけスープを飲んだ。


午後の財務官との会議では、ジルクは朝の騒動が嘘のように落ち着いた態度で臨んだ。流通路の整備に必要な費用について、財務官が示した見積もりと現地から届いた報告を一つずつ照らし合わせる。


「この区間だけ資材の運搬費が高いのは、橋が使えないためですか?」


「はい、殿下。春の増水で橋脚の一部が傷み、荷車を通せなくなっております。新たな橋が完成するまでは大回りになるかと」


「では、橋の応急補修を先に進めた場合の費用も出してください。安全確認をした上で荷車が通れるようになれば、水路の工事資材だけでなく、村へ運ぶ食糧の負担も減らせるでしょう」


「承知いたしました。現地の技師へ確認を取り、危険がない方法かどうかも含めて報告します」


財務官は真剣な顔でメモを取った。会議の出席者の中には、王太子の婚約が決まらないことを心配している貴族もいたが、少なくとも仕事に関してジルクを軽んじる者はほとんどいない。


むしろ、本人の努力を認めているからこそ、婚姻が進まない現状を残念に思う者もいる。ただ、仕事のできる青年だという評価と、自分の娘を王太子妃に差し出す決断との間には、簡単に埋められない隔たりがあった。


会議を終えたジルクが中庭へ出たころには、午後の日差しもやわらかくなっていた。花壇の近くで働く庭師たちに声をかけ、今季の植え替えについて話を聞く。


「この花は、去年と違う種類なんだな。ずいぶん濃い赤だ」


「はい、殿下。南の地方から取り寄せた品種でして、涼しい季節にも比較的長く咲きます。来週の交流会までには、こちらの花壇も見頃になると思います」


「そうか。楽しみにしてるよ。いつも綺麗にしてくれて、ありがとう」


庭師は驚いたように頭を下げた。王太子が使用人に礼を言うのは、この城では珍しい光景ではない。それでも、実際に声をかけられた者が嬉しそうに笑う姿を見ると、ジルクも少し気分が明るくなった。


中庭の一角には、来週の交流会に向けて仮設の案内板が置かれていた。慈善事業、農業技術、各地の工芸品など、展示の種類ごとに区画を分ける予定らしい。


「……婚約者を探すことばかり考えずに、この会を成功させる。まずはそこからだよな」


口に出してみると、案外悪くない考えに思えた。自分のことを知ってもらうためには、まず相手のことを知らなければならないのだろう。


そんなふうに少し前向きになったところで、庭園の向こうから数人の令嬢と、その付き添いと思われる女性たちが歩いてくるのが見えた。彼女たちは王妃の招きで城を訪れた貴族家の一行らしく、庭を案内する侍女と楽しそうに話している。


ジルクの存在に気づいた一人が、ぴたりと足を止めた。淡い緑のドレスを着た少女は目を見開き、慌てて深い礼をする。


「お、王太子殿下。ご機嫌麗しゅうございます」


「こんにちは。今日は庭園を見に来たのかな? 今ちょうど来週の交流会に向けて花を植え替えているところなんだ」


「は、はい。王妃陛下のお許しをいただき、母と見学を……。とても、美しいお庭ですわ」


少女は緊張していたが、逃げ出そうとしているようには見えなかった。ジルクは背後に控えていたアーヴィンの助言を思い出し、目の前の花壇へ視線を移す。


「この赤い花は南方から取り寄せた新しい品種だそうだよ。俺もさっき教えてもらったばかりなんだ。花に詳しいなら、感想を聞かせてもらえると嬉しい」


少女の顔が、ほんの少し明るくなった。どうやら花の話題は嫌いではないらしい。


「まあ、南方の花なのですね。確かに花弁の形が、こちらでよく見るものとは少し違いますわ。私の家でも庭師が珍しい花を育てておりますけれど、こんな深い色は初めて拝見しました」


「へえ、そうなんだ。ご実家ではどんな花を育てているの?」


「春は白い小花が多いのですが、母が淡い紫色を好みますので、夏には――」


「失礼いたします、殿下」


少女が楽しそうに話し始めたところで、付き添いの女性がすっと前へ出た。見事な礼をしたその女性の顔には笑みが浮かんでいたが、声音は一分の隙もなく整っている。


「娘がお話を長引かせてしまい、申し訳ございません。王妃陛下とのお約束の時間がございますので、そろそろ失礼させていただきたく存じます」


「ああ、もちろん。こちらこそ引き留めてしまったね。楽しい話をありがとう」


「とんでもございません。殿下にお言葉をいただき、娘も光栄に存じます」


少女は母親に促され、名残惜しそうに一礼した。ジルクは追いすがることなく笑顔で見送り、その背中が角を曲がるまで動かなかった。


会話は、ほんの数十秒。それでも、昨日の夜会よりずっと自然に話せた気がした。


「……今のは、悪くなかったよな?」


「ええ。ご令嬢の話を途中で遮らず、相手が興味を持つ話題を選ばれました。よい交流だったと思います」


「だよな! ちゃんと笑ってくれたし、向こうからも話してくれた。俺だって、やればできるじゃねえか!」


「ただ、残念ながら先方のご家族は早々に会話を切り上げる判断をなさったようです」


「分かってる! 喜びかけたところに現実を突きつけるな!」


ジルクは頭を抱えたが、すぐに腕を下ろした。さっきの少女が自分と話している間、怯えているだけではなかったことは確かだった。


「……でもさ。俺があの子と話しただけで、お母上は心配になったんだろうな」


「そうでしょう。娘を守るために慎重になるのは、決して不自然なことではありません」


「分かってるよ。あの人を責める気なんてない。だから俺も、引き留めずに見送ったんだ」


「その判断も、間違っておりません」


アーヴィンの穏やかな返答に、ジルクは視線を落とした。過去の出来事を知らない少女たちにまで、自分の父親の行いが影を落としている。


婚約者になってくれるかどうか以前に、安心して話してもらえる相手になる必要があるのだろう。思ったより長い道のりになりそうだった。


そのころ、庭園を離れた少女は、廊下へ入ってから小さく息をついていた。母親は周囲に人がいないことを確かめ、娘の手をそっと取る。


「驚いたでしょう。まさかあちらで殿下にお会いするとは思わなかったわ」


「はい。でも、お母様……殿下はとてもお優しい方でした。お花のことも、私が話し終わるまできちんと聞いてくださって」


「そうね。殿下ご本人のお人柄を悪く言うつもりはないのよ。ただ、王家との婚姻は、あなた一人の気持ちだけで決められるものではないの」


「……分かっています。お祖母様も、昔の事件のことを心配していらっしゃいましたもの」


母親は娘を見つめ、少しだけ表情をやわらげた。王太子を恐れているのではなく、王家と縁を結んだときに降りかかるかもしれない責任や、過去の失敗が繰り返される危険を案じているのだ。


「今日お話ししたことは、悪い思い出にしなくていいのよ。ただ、誰かに親切にしていただいたからといって、急いで大きな決断をする必要はないの。あなたが自分で考えられるようになるまで、私たちはあなたを守りたいのだから」


「はい、お母様。……でも、殿下が花のことをご存じなかったのは、少し意外でした。王太子様でも、知らないことがあるんですね」


「もちろんあるでしょう。王太子である前に、あの方も一人の人間ですもの」


母娘はそれ以上、ジルクの婚姻について話さなかった。短い出会いは令嬢の胸に好意的な印象を残したが、それがすぐ縁談に結びつくほど、貴族の社会は単純ではない。


夕刻、執務室へ戻ったジルクのもとへ、アーヴィンが翌週の交流会の参加予定者一覧を持ってきた。国王夫妻の後援を受け、各領地の貴族家や事業関係者が集まるため、名前の数は相当なものになっている。


「女性の参加者も多いんだな。これは少し期待していいのか?」


「交流会の目的は事業内容の紹介と意見交換です。参加者全員を婚約者候補と考えないよう、くれぐれもお願いいたします」


「分かってるよ。俺だって昼間のことで少しは学んだんだからな」


「それは結構です。では、先ほどの練習を踏まえ、最初にお話ししたい事業を三つ選んでいただけますか。女性の参加者だけでなく、担当者や各領地の関係者とも交流する必要がございます」


「そうだな。水路の改修と、冬場の食糧輸送。それから新しい農具の展示も面白そうだ。農作業なんて実際にやったことは少ないけど、現場の話を聞くのは好きなんだよ」


「そのようにお話しになればよろしいのです。殿下が興味を持って尋ねれば、相手も安心して答えやすくなるでしょう」


「……婚約のことは一度忘れて、普通に話せってことだな」


「はい。少なくとも、ご挨拶した直後に婚約者の有無を確認するよりは、ずっとよいかと」


「そんなこと一回も聞いてねえだろ!」


「聞きたそうなお顔は、何度もなさっていました」


「顔に出てたのかよ……」


ジルクが机へ突っ伏すと、アーヴィンはようやく声を立てて笑った。珍しいことだったので抗議するのも忘れ、ジルクはしばらく彼の顔を見つめてしまう。


「なんだよ。今日はずいぶん機嫌がいいな」


「失礼しました。殿下がご自身のことを理解しようとなさっているので、少し安心しただけです」


「それ、どういう意味だ?」


「王太子として優秀な方が、恋愛となると途端に周囲の様子を見失われる。それを何年も隣で見てきた者としては、改善の兆しがあるのは喜ばしいことなのですよ」


「……そこまで言うなら、来週は少し見直させてやる。婚約者を見つける前に、普通に会話できる相手を増やしてみせるさ」


「大変よい目標です。できれば初日で一人、名前を覚えてもらえる方がいらっしゃれば上出来でしょう」


「目標が低くないか!?」


「昨日の殿下の成果を考慮すれば、現実的な数字かと」


容赦のない返答に、ジルクは天井を仰いだ。王位継承者として財務官と対等に議論し、難しい書類を読み解ける自分が、女性と一人、穏やかに話すことを目標にする日が来るとは思わなかった。


それでも、昼間の少女の笑顔は思い出せた。花の話題で少しずつ緊張が解けていく様子を見たとき、自分が欲しかったものの輪郭がほんの少し分かった気がしたのだ。


(俺は別に、王太子だからって無条件に好かれたいわけじゃない。ただ、父上と同じ人間だって決めつけられる前に、俺自身を見てもらいたいんだ)


父親がかつて婚約者を裏切り、罪を犯した事実は消せない。婚姻を警戒する人々にも、そうするだけの理由がある。


だからこそ、ジルクには証明していくしかなかった。自分は自分であり、大切な相手を一方的に傷つけるようなことはしないと、時間をかけて示していくほかない。


「アーヴィン」


「はい、殿下」


「来週の交流会、ちゃんと準備しておこう。誰かに無理して近づくんじゃなくて、話してくれた相手に『また話したい』と思ってもらえるようにしたいんだ」


「承知しました。そのための準備でしたら、私も喜んでお手伝いいたします」


「……いつも悪いな。俺のしょうもない悩みにまで付き合わせて」


「しょうもないとは思っておりません。殿下にとっては、ご自身の人生に関わる大切な問題でしょう。それに、将来の王妃選びは王国にとっても重要ですから」


穏やかな言葉が嬉しくて、ジルクは小さく笑った。口では遠慮なく毒を吐くものの、この側近は大切なところで必ず自分を支えてくれる。


そのとき、机の隅に置いてあった封筒の束が目に入った。昨日の夜会について、貴族家から届いた返書をアーヴィンがまとめたものだった。


「……ところで、その封筒は何だ? まだ開けてない返事があるのか?」


「はい。昨日、今後の社交行事でのご紹介について打診していた三家から、正式なお返事が届きました」


「三家も!? よし、見せてくれ!」


ジルクは期待を胸に封を切った。一通目には、令嬢が当面は領地で静養する予定であることが丁重に記されていた。


二通目の返書では、家族の事情により今年の社交活動を控えるという。三通目に至っては、娘がしばらく学問に専念するため、個人的な紹介を受ける予定はないと書かれていた。


いずれも礼を失した文章ではなかった。むしろ、断られる側の体面を最大限に守ろうとした気遣いが、文字の端々から感じられた。


「……なあ、アーヴィン」


「はい」


「俺、今度こそ少しは前進したと思ったんだけどな」


「本日ご自身で気づかれたことは、確かな前進ですよ。こちらのお返事は、その前に送った打診への回答ですから」


「理屈では分かってる。でもさ……。三家とも、会って話す前に終わっちゃったんだぞ」


「ご家族が慎重であることを責めるわけにはまいりません。それに、殿下が今後のやり方を変えれば、いつか異なる結果が出るかもしれません」


「……そうだな。諦めるには、まだ早いよな」


ジルクは三通の返書を丁寧に重ね、机の脇へ置いた。返書の主たちを悪く言うつもりはなかったし、無理に引き留めることもしたくなかった。


ただ、積み重なった断りの手紙を眺めると、どうしても胸の奥に溜まった言葉がこぼれそうになる。


「……けど、これだけは言わせてくれ」


「周囲への影響を考えて、小さめのお声でお願いいたします」


「分かってるよ。……俺は、俺はなあ……」


ジルクは拳を握った。国のために働くことも、失われた信頼を取り戻すことも、これから自分が背負っていく覚悟はある。


だが、たった一つだけ、どうしても納得のいかないことがあった。


「婚約破棄したのは、俺じゃねえんだよおおおおお!!」


王太子の叫びが、またしても夕暮れの執務棟に響き渡った。廊下では侍従が慣れた様子で足を緩め、窓辺に戻ってきた小鳥が驚いて羽ばたいた。


アーヴィンは机の上の書類を整えながら、深いため息を一つつく。


「……殿下。明日からの会話練習には、声量の調節も加えておきましょう」


「そこは慰めてくれよ!!」


こうして、ハトラン王国の王太子ジルク・シルベスタの、あまりにも前途多難な婚約者探しは続いていく。本人の知らないところで積み重なった父親の悪評を背負いながら、それでも自分の手で幸せをつかもうとする青年の戦いは、まだ始まったばかりだった。


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