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俺は婚約破棄してねえ!! 〜クソ親父の悪評を押し付けられた王太子、今日も婚約者ができません〜  作者: 伊佐波瑞樹


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第5話 お妃候補じゃなくて、ただの来場者です!


王城の西棟へ続く廊下に、ジルク・シルベスタの声が響き渡ったのは、夕食まであと少しという時刻だった。窓から差す夕日が石床を橙色に染めるなか、王太子の側近アーヴィン・フェルドは、主君の叫びが終わるのを待ってから静かに扉を閉めた。


「……殿下。王妃陛下のお部屋へ向かわれるのでしたら、声を整えてからにいたしましょう。廊下の先まで聞こえております」


「分かってる! 分かってるけど、今日一日あれだけ頑張って、恋愛の成果が『花の名前を一つ覚えた』だけって言われたら、俺だって叫びたくなるんだよ!」


「それだけの成果ではありません。正式な案内を受け取った方々への説明も整い、展示の担当者からは感謝のお言葉をいただいております。王太子としては、充実した一日だったかと」


「……王太子としては、な。俺もそこは分かってるんだけどさ」


ジルクは力の抜けた笑いをこぼした。国の仕事が進んだことは嬉しいし、困っていた職員たちの顔が明るくなったのも、嘘ではなく誇らしい。それでも一人の二十歳の青年として、誰かと手をつないで歩く未来を想像すると、そこだけ妙に遠く感じるのだった。


王妃エリアーヌの居間へ通されると、用意された紅茶の香りとともに、柔らかな笑い声が迎えてくれた。長椅子に座っていた王妃の隣には、十四歳になる王子フェリクスもいる。どうやら乗馬の授業を終えたところらしく、机の端には厩舎で使う革手袋が置かれていた。


「ジルク、いらっしゃい。廊下から元気な声が聞こえたけれど、今日は何か嬉しいことがあったのかしら」


「……王妃様。あれが嬉しそうな声に聞こえたんですか?」


「声の大きさだけなら、たいへん元気そうでしたよ。ねえ、フェリクス」


「はい。兄上がご無事だと分かったので、僕は安心しました。何か壊れた音はしませんでしたから」


「俺が叫ぶと物が壊れる前提で話すなよ! ……って、いけない。落ち着くんだった」


笑いながら席に着くと、エリアーヌは侍女に茶を頼み、ジルクの前に小さな焼き菓子の皿を寄せた。まだ幼かったころ、失敗して落ち込んだジルクへ、彼女はよく同じように菓子を勧めてくれた。あのころと違って執務の責任は重くなったが、この部屋では肩の力を抜くことができる。


「お母様から聞きました。兄上は、女の人と普通にお話しできるように練習しているんですよね」


「……何でそこまで伝わってるんだ。そうだけど、まるで俺が女性と一言も話せないみたいな言い方はやめてくれ。王妃様とも、こうして普通に話してるだろ?」


「お母様と話せるのは、当たり前じゃありませんか。僕が聞きたいのは、知らない人と話すときのことです」


フェリクスのもっともな指摘に、ジルクは焼き菓子を持ったまま固まった。年下の従弟は人を傷つけるつもりで物を言うわけではないが、ときどき恐ろしいほど核心を突いてくる。エリアーヌは息子を軽くたしなめたあと、ジルクへ穏やかな眼差しを向けた。


「そんなに急いで答えを見つけなくてもいいのよ。あの交流会だって、もともとは各地の仕事を紹介する催しでしょう? あなたが大切にしてきた仕事を、皆さんに見ていただく機会なのだから」


「はい。そこは忘れないようにします。……ただ、どうして俺はこんなに結婚したがってるんだろうって、自分でも思うんです。王太子だから必要なのもあるけど、それだけじゃなくて」


口に出すと、ジルクは少し恥ずかしくなった。側近には「婚約者が欲しい」と何度も叫んでいるくせに、その理由を家族へ真面目に説明したことはあまりない。エリアーヌが続きを急かさず待ってくれたので、彼は紅茶の表面を眺めながら言葉を探した。


「叔父上と王妃様が、いつも一緒にお茶を飲んだり、些細なことで笑い合ったりしてるのを見て育ったでしょう。フェリクスも生まれて、こうして家族で集まることが増えて……。だから俺も、いつか自分が好きになった人と、そんな時間を過ごしてみたいんです」


フェリクスは少し驚いたように兄を見た。いつも「恋人がいない!」と騒いでいる姿からは、そこまで静かな願いを抱えていると想像していなかったのだろう。


「そうだったんですね。僕はてっきり、兄上が早く結婚しないとお父様が隠居できないから、急いでいるのかと思ってました」


「それも少しはあるよ! でも、叔父上を引退させるためだけに結婚するなんて、相手の女性に失礼だろ。それに、結婚したら楽しいことだけじゃないってことくらい、俺だって分かってるつもりだ」


「ええ、そうね。誰かと家族になるのは、楽しいときばかりではありません。それでも一緒にいたいと思える人に出会えたら、きっと素敵なことだわ」


エリアーヌの声には、長い年月をともに過ごした者だけが持つ温かさがあった。ジルクは小さく頷き、手元の菓子を口に運んだ。今すぐ縁談が決まらなくても、その願いまで諦める必要はないのだと思えた。


もっとも、隣でフェリクスが「じゃあ、兄上が結婚できたら、僕もお祝いに花を贈ります」と真顔で言ったときには、危うく紅茶を吹き出しそうになった。


「結婚できたらって、ずいぶん先の予定みたいに言うな! せめて来年には婚約してるかもしれないだろ!」


「では、そのときのために花の勉強をしておきます。兄上は最近、緋灯草という花を覚えたそうですね」


「お前まで知ってるのかよ!? ……もうやだ、この城、俺の婚約状況だけ情報が早すぎる!」


エリアーヌが笑い、フェリクスもようやく笑みを見せた。ジルクは二人の顔を見比べ、結局は自分も笑った。誰かが自分をからかうのは、いつも必ずしも悪意からではない。少なくともここには、自分が帰ってきてもいいと思える場所があった。


◇


翌朝、ジルクの執務室には交流会の展示配置図が広げられていた。前日に相談した案内表示について、担当部署から新しい見本が届いたのである。広い紙の上には、「冬の食べ物を守る工夫」「荷物を運びやすくする道具」といった見出しが、大きな字で書き込まれている。


「いいじゃないか。専門的な区画名も残ってるし、これなら初めて見に来る人も、何が展示されてるか想像しやすいだろ」


「はい。ただし、一点だけ確認したいことがございます。来場者からの質問を受け付ける用紙について、書き方の案が二つ出ておりまして」


アーヴィンは見本を差し出した。一枚には名前、家名、身分、質問内容の欄があり、もう一枚には質問内容だけを書く欄が設けられている。


「最初のほうだと、名前を書くだけで嫌になる人もいるんじゃないか? 質問したいだけなのに、家柄まで必要なのか?」


「個別に返事を届ける場合には、差出人が分かったほうが便利だという意見がございます。一方で、身分を明かさず質問できるほうが利用しやすいのではないか、との意見もありました」


「どちらも分かるな。……なら、質問するだけなら名前なしでいいことにしよう。個別に返事が欲しい人だけ、連絡先を書けるようにしておけばいい。答えられないこともあるって、最初に伝えておく必要はあるけど」


「承知いたしました。では、担当者の負担や保管方法を確認したうえで、数区画で試験的に置く案をダリオへ伝えます」


ジルクが頷いたところへ、侍従が訪れた。南棟の展示広間で、搬入された農具の模型に確認したい点が生じたため、事業調整官ダリオ・モルテが王太子に意見を求めているという。


「模型の問題か。昨日本物の説明を聞いたばかりだし、気になるな。アーヴィン、午前の決裁は終わってるよな?」


「はい。昼前の会議まで少し時間がございます。ただし、殿下が現場へ行かなくても、技術面の確認は担当者でできるはずですが」


「それでも、俺も担当してる事業だからな。どうせなら何が起きたのか見ておきたい。向こうの作業を邪魔しないようにするから、案内してくれ」


アーヴィンは一瞬だけ主君を見て、それから予定表を閉じた。ジルクがこうして仕事の現場へ足を運ぶ姿は、もはや珍しくない。婚姻の話になると別人のように取り乱す青年が、国の仕事については驚くほど落ち着いて判断できることを、側近はよく知っていた。


南棟の展示広間では、すでに数人の職人が木製の運搬具を囲んでいた。幅の広い車輪と低い荷台を備えたその道具は、北部のぬかるんだ道でも荷物を運びやすくするために試作されたものだ。


しかし、昨日見た模型と比べると、車輪の取り付け方が少し違って見える。展示の責任者ダリオは、ジルクを迎えると申し訳なさそうに頭を下げた。


「殿下。ご足労いただき恐れ入ります。こちらの展示について、見栄えを整えるために行った調整が、実際の構造と違っている可能性が出てまいりました」


「……見栄えを整えるため? つまり、使いやすさを説明する模型なのに、本物と違う形になってしまったってことか?」


「そのようです。昨日の段階では私どもも細部まで確認できておらず、今朝、北部から派遣された技師の方が気づかれました」


ジルクが目を向けると、作業着の上に簡素な上着を羽織った男が、一歩前へ出た。四十歳前後と思われる職人で、日に焼けた手には細かな傷がある。


「北部の工房から参りました、ロイド・バルゼンと申します。殿下、このたびは大切な展示に口を挟むようなことになってしまい、申し訳ございません」


「いや、気づいてくれて助かったよ。俺たちは使ったことがない道具を展示しようとしてるんだ。実際に造ってきた人が教えてくれるなら、それが一番ありがたい。どこが違うのか、見せてもらえるか?」


ロイドはほっとしたように息をつき、車輪の軸を指した。装飾担当が安定して見えるように位置を調整した結果、荷台を支える重心が元の設計より外側へ寄っているという。


「見た目は立派になったのですが、重い袋を載せると片側へ力がかかりやすくなります。試験ではもっと内側へ軸を寄せておりまして、狭い道でも引っかかりにくくしていたんです」


「なるほど……。じゃあ、このまま展示したら、便利だと言いながら実際には使いづらい形を紹介することになるのか。装飾を考えてくれた人も悪気はなかったんだろうけど、そこは直さなきゃいけないな」


「はい。見た方に、これが完成した形だと思われてしまうのが心配でして。実物を造るときに真似をされたら、困るのは使う人ですから」


ロイドの言葉に、ジルクは静かに頷いた。国の事業として展示する以上、見栄えのよさだけで誤った情報を広めることはできない。


「直すのにどれくらい手間がかかる? 交流会までには、まだ日数があるけど、ほかの展示の準備も進んでる。無理をして別の仕事が止まるなら、方法を考えたい」


「幸い、軸の固定部分は取り外せる形です。作業場所と人手を少しお借りできれば、今日中に戻せると思います。ただし、完成してから荷物を載せて確認する時間もいただけると助かります」


「もちろん。安全を確かめてから展示しよう。ダリオ、作業場所の手配は頼めるか? ほかの担当者に負担がかかるなら、模型だけ先に移動する方法でもいい」


「承知いたしました。作業場の責任者へ相談いたします。展示に使う模型ですから、完成後には安全確認の記録も残しておきます」


そこでジルクは、広間の奥に置かれたもう一つの模型に気づいた。そちらは車輪が細く、旧式の運搬具として比較に用いる予定のものらしい。


「そういえば、改良前の道具も一緒に見せるんだよな。できれば、持ち上げるだけじゃなくて、荷を載せて引いたときの違いも説明できると分かりやすそうだ。ただ、会場で本当に引っ張るのは危ないか?」


「広間の中は人が多くなりますし、実演は避けたほうがよいかと。代わりに、試験した場所の地面の状態や、どんな荷を運んだのか、絵にして説明することはできると思います」


「そのほうがいいな。説明のために怪我人が出たら元も子もない。ロイド、試験のときに困ったことや、まだ改良しなきゃいけない点も教えてもらえるか?」


職人は驚いたように目を瞬かせた。褒めてもらいたいわけではないが、失敗や不便だった部分まで人前に出してよいと言われるとは思っていなかったのだろう。


「……よろしいのでしょうか。せっかく王宮に展示するのですから、よいところを中心に説明すべきかと考えておりました」


「もちろん長所は知ってほしい。でも、使う土地によっては向かない場合だってあるんだろ? そこまで分かったほうが、ほかの領地の人も役立てやすいと思うんだ」


「……ありがとうございます、殿下。それでしたら、北の谷あいの村では車輪の幅が足りなかったことや、坂道では人手が余計に必要になったことも、記録を持っております」


「それはぜひ聞きたい。俺が昨日読んだ報告書には、そこまで詳しく載ってなかったからな」


ジルクは用意された机を借り、ロイドの説明を聞きながら簡単な覚え書きをした。アーヴィンも隣で内容を整理し、展示の説明へ反映できる点と、今後の事業報告で確認すべき点を分けて記録していく。


慌ただしかった広間の空気は、少しずつ落ち着きを取り戻した。職人たちは模型の修正作業に戻り、ダリオは他の展示にも同じような誤りがないか確認するため、担当者と話し始めた。


「……あの、殿下。一つだけ、伺ってもよろしいでしょうか」


作業へ戻る前、ロイドが声をかけた。ジルクが振り向くと、男は木くずのついた手を気にして、上着の端で拭おうとしている。


「何だい? 道具のことなら、俺に分かる範囲で答えるよ。分からないことは、きちんと担当者に聞くけどな」


「いえ、その……。殿下は王太子でいらっしゃるのに、どうして私どもの話をそこまでお聞きになるのかと思いまして。最初は、間違いを指摘したことで展示から外されるかと心配しておりました」


ジルクはすぐに答えられなかった。目の前の技師が、自分の仕事を誇りに思いながらも、王族の前で意見を述べることにこれほど気を遣っていたとは知らなかったからだ。


「……むしろ逆だろ。間違った模型のまま展示したら、作った人も、それを見て使おうとする人も困るじゃないか。俺が知りたいのは、皆が安全に使える道具なのかってことだよ」


「ですが、王宮の判断を訂正するのは、私のような一職人には恐れ多く……」


「俺が王太子だからって、車輪の仕組みまでお前より詳しくなるわけじゃない。俺には俺の仕事があるし、ロイドにはロイドの仕事がある。それぞれが知ってることを持ち寄ったほうが、きっといい結果になるだろ」


ロイドは深く頭を下げた。ジルクはそこまで畏まられなくてもいいのにと思ったが、相手には相手の礼儀がある。無理に頭を上げさせる代わりに、直した模型を楽しみにしていると伝えた。


少し離れたところからその会話を聞いていたノーラ・ケルンは、小さく笑った。穀物の保管箱を担当する彼女は、昨日から続く騒動で王太子の婚姻事情を何度も耳にしているが、今目の前にいる青年は、もっぱら車輪と木材のことを考えているようだった。


(……この方、ほんとうにお仕事の話がお好きなのね。それなのに、誰かと話しただけで婚約候補だなんて噂にされるのは、気の毒だわ)


そう思う一方で、ノーラは貴族家の娘たちが心配される理由も理解できた。彼女たちは自分のように仕事上の説明だけをして終わるわけにはいかず、一度の挨拶が家同士の話へ発展することもあるのだろう。


王太子がよい青年に見えることと、王太子妃になる覚悟を持てることは、別の話だ。ノーラはその違いを忘れずにいたいと思いながら、保管箱の脇へ新しい説明札を置いた。


「殿下。先ほどの模型についてのご相談は済みましたか? こちらも表示の文章を少し直したので、もしお時間があれば見ていただければと思いまして」


「ああ、もちろん。……って、昨日も随分話を聞かせてもらったよな。俺ばっかり質問して、仕事を止めてないか?」


「いいえ、私たちも説明の練習になりますから。今日は、保管箱のよい点だけでなく、使う前に注意したい点も書いてみたんです。殿下が昨日お尋ねになった、木材の違いについても加えてあります」


ジルクは札を受け取り、内容を読んだ。ノーラの説明には難しい専門用語もあったが、その下に、初めて見る人にも分かる短い言葉が添えられている。


「これ、すごくいいな。水気の多い場所では、箱を置くだけで安心せず中の様子も確かめるって書いてある。便利な道具でも、使い方を間違えれば困る人が出るもんな」


「ありがとうございます。……実は、先ほどロイドさんとも少しお話ししたんです。展示は自慢するためだけではなく、誰かが使うときに役立つようにするものだと、改めて思いまして」


「そっか。じゃあ、俺たちが今回の会でやることも、そういう話を皆に届けることなんだな。目立つ人だけが話すんじゃなくて、知っている人にちゃんと話してもらうのが一番だ」


そう言ったあと、ジルクは自分の言葉を心の中で繰り返した。相手が何を望み、何を知っているのかを聞くこと。父親とは違うと叫んで証明するのではなく、日々の判断を積み重ねること。


(……仕事なら自然にできるんだよな。人の話を聞くことなんて、そんなに難しくないはずなのに。これを令嬢と話すときにも忘れなきゃいいんだ)


少し考え込んでいたせいか、アーヴィンが横から心配そうに覗き込んできた。ジルクが理由を尋ねると、側近は平然とした顔で答える。


「殿下が珍しく黙っておられたので、次はどのような婚姻に関するご質問が出るのかと身構えておりました」


「俺が静かになった理由、何でもかんでも婚約のせいにするなよ!」


「失礼いたしました。では、いま何をお考えだったのでしょう?」


「……仕事でできることを、社交でもできたらいいなって考えてただけだよ」


アーヴィンは意外そうに目を瞬かせ、それから素直に頷いた。主君の成長をからかうばかりではないのが、この側近のよいところだった。


「それは、よい気づきだと思います。今のお言葉を、来週まで覚えておいてくださいませ」


「もちろんだ。……お前もたまには、そうやって普通に褒めてくれよ」


「殿下が普通に褒められるような振る舞いをなさったときには、いつでも」


「それ、一応褒めてるんだよな?」


ノーラは笑いをこらえながら、二人のやり取りを聞いていた。王太子にとっては少し情けない会話かもしれないが、少なくともこの広間の職員たちには、昨日より親しみやすい人物に見えていた。


◇


同じころ、クラウゼル伯爵家では、リネア・クラウゼルが父親から交流会の案内を受け取っていた。昨日の時点で母親とは出席する方向で話していたが、今朝、王宮から庭園の見学に関する回答も届いたのである。


「庭師の方々のお仕事を妨げない範囲で、花の名前を示した札を置く予定だそうだよ。質問できるかどうかは当日の状況次第らしいが、見学そのものは歓迎しているとのことだ」


「本当ですか、お父様。私、緋色の花の名前が知りたかったんです。図鑑を調べても、似たものばかりで決められなかったので……」


リネアの父、エドガー・クラウゼル伯爵は、娘の顔に浮かんだ喜びを見て微笑んだ。彼は王国の財務や領地経営について学んできた男で、王太子が仕事に真面目だという評価も、以前から耳にしている。


ただし、父親として娘を王家へ嫁がせたいかと問われれば、答えは簡単ではなかった。過去に王太子の婚約者となった令嬢が味わった苦しみを知る世代にとって、王族との婚姻は華やかな栄誉だけを意味しない。


「今回の訂正については、王宮が早く動いてくれて助かった。殿下ご自身も、交流会の目的が変わらないよう気を配っているらしい。仕事の面では、私もあの方を評価しているよ」


「お父様も、殿下のお仕事をご存じなんですか?」


「もちろんだとも。北の領地へ向かう運搬路の整備や、川沿いの村の水路改修については、貴族会議でも何度か報告があった。殿下は問題が見つかれば現地の意見を聞いて、費用の使い道を慎重に決める方だと聞いている」


リネアは父親の説明に興味深そうに頷いた。王城の庭園で会った青年は、花について詳しいわけではなかった。それでも、知らないことを恥じるのではなく、教えてほしいと言っていたのを覚えている。


「……そうなんですね。庭園でお会いしたときも、殿下は私が家で育てている花のことを聞いてくださったんです。すぐにご挨拶を終えることになりましたけれど、無理に引き留めたりはなさいませんでした」


「それなら何よりだ。だがリネア、殿下が親切な方に見えたからといって、何かを決める必要はないからね。お前が交流会へ行きたいのは、植物や展示に興味があるからだろう?」


「はい。私、まずは緋色の花の名前を知りたいんです。それから、農具の展示も見たいと思っています。家の領地でも、雨が多いと道がぬかるんで荷車が動かなくなるので、どんな工夫をしているのか聞いてみたくて」


父親は満足そうに頷いた。令嬢としての礼儀を学ぶことも重要だが、娘が自分の意思で何かを知ろうとしている姿には、親として誇らしさを感じる。


「それなら、お前の関心を大切にすればいい。もし展示で分からないことがあれば、担当の方に尋ねてみなさい。せっかくの機会なのだから、王太子殿下に会えるかどうかだけを気にして過ごす必要はない」


「はい、お父様。……あの、もう一つだけ。王宮から届いた案内には、質問を預かる紙を用意するかもしれないと書かれていましたけれど、私も使っていいんでしょうか?」


「もちろんだよ。まだ設置が決まったわけではないようだが、正式に用意されるなら、誰でも質問できるように考えているのだろう。名前を書きたくない人にも利用しやすくする案だそうだ」


リネアは安心したように微笑んだ。分からないことを聞くために、わざわざ身分や家柄を名乗らなくてもよいなら、初めての場所でも少し気が楽になる。


「……では、聞きたいことを忘れないように、小さな手帳へ書いておきます。花の名前と、北の農具のことと、それから……」


「そんなにたくさん聞きたいことがあるのかい? 当日は一日で全部を回る必要はないから、疲れない程度に楽しんでおいで」


父親の穏やかな声に、リネアは頬を緩めた。彼女にとって交流会は、まだ知らない世界を覗くための場所である。誰かの婚約者候補として見られるための舞台ではないと、少なくとも今は思っていた。


窓辺に置かれた鉢植えの小さな花を見ながら、リネアは手帳の最初の行に『王城の赤い花』と書き込んだ。そこには王太子の名前はまだなく、ただ一つ、自分の好奇心が残されていた。


◇


午後の遅い時間になって、ジルクは執務室へ戻った。朝から展示の修正や案内表示の確認が続いていたが、少なくとも大きな問題は見つからず、予定されている作業は少しずつ進んでいる。


「……今日は婚約者ができない話じゃなくて、ちゃんと仕事の話ばっかりだったな。なんだか久しぶりに、普通の王太子として一日を過ごした気がするぞ」


「普段も王太子としてお仕事をなさっておりますよ。殿下がお気づきでないだけで、皆さんから高く評価されていることも多いのです」


「……そう言われると嬉しいけど、最近は誰と話しても恋愛のことを持ち出されてたからな。今日くらい、普通に仕事を終えたいもんだよ」


ジルクは椅子へ腰を下ろし、机に置かれた最後の書類へ目を通した。北部の運搬具の修正について、ロイドと作業担当者から確認の報告が届いている。


模型の車輪は元の設計どおりに戻され、荷を載せた際の安定性も確認できたという。説明札には長所だけでなく、坂道や狭い場所での注意点を加える予定だと記されていた。


「……よかった。これなら、安心して見てもらえるな。ロイドにも、助かったって伝えておいてくれ。現場の人が遠慮せず意見を言えるほうが、俺たちも助かるから」


「承知いたしました。……それから殿下、最後にもう一件だけ、確認していただきたいご連絡がございます」


「……まだあるのか? 頼むから、またお妃探しの噂じゃないよな。今朝も問い合わせに答えたばっかりなんだぞ」


「いえ。今回は正式な参加予定についてのご連絡です。これまでご回答を待っていた一つの侯爵家から、出席の意思が届きました」


「侯爵家? それなら、ダリオのところで参加者一覧を更新してもらえばいいだろ。俺が直接見る必要があるのか?」


アーヴィンはすぐに答えなかった。普段なら必要な書類を淡々と差し出す側近が、珍しく言葉を選んでいる。


その様子に、ジルクも表情を改めた。何か、ただの来場者の追加では済まない事情があるのかもしれない。


「……アーヴィン。どこの家だ?」


「ヴェルクハルト侯爵家です。北部の流通事業にも多額の出資をしており、今回の展示にも関係の深い家でございます。そして……侯爵夫人ご本人が、来場を希望しておられます」


ジルクは胸の奥で、何かが重く沈むのを感じた。ヴェルクハルト侯爵家の名前を知らない者など、王都の貴族社会にはほとんどいない。


現侯爵夫人セラフィーナ・ヴェルクハルト。かつて父の婚約者だった女性であり、無実の罪を着せられ、追放されそうになった末に、父の仕掛けた危害から自らを守り抜いた人物だ。


その後、同じ侯爵位を持つ家の子息と結婚した彼女は、商業と領地事業に優れた手腕を発揮した。いまではその名を聞くだけで、王都の商人も貴族も自然に姿勢を正すほどの影響力を持っている。


「……あの方が、交流会に?」


「はい。後援している流通事業の成果を確認するとともに、参加する技師や商業組合の担当者の話を聞きたいとのことです。婚姻に関するご意向は、もちろん何も記されておりません」


最後の一言を添えたアーヴィンに、ジルクは皮肉を返せなかった。父の過去を知る彼女が、今回の会をどんな思いで見ているのか、自分には分からない。


しかも、非公式の案内文によって、交流会が一時は王太子の花嫁選びだと誤解されていた。自分の父に婚約を一方的に破棄され、罪まで押し付けられた女性が、その噂を聞いてどう感じたかを想像すると、胸が痛んだ。


「……参加なさる理由は、仕事なんだな」


「そのように記されております。侯爵夫人は今回の流通事業を後援しておられますから、展示をご覧になるのは何も不自然なことではございません」


「なら、ほかの来場者と同じように、安心して展示を見てもらわなきゃいけないな。俺が勝手に特別な意味をつけて、出席を遠慮してもらうようなことはしたくない」


ジルクはそう答えながらも、指先に力が入るのを感じた。王太子として責任ある立場にある以上、いつかは父の被害者と向き合う機会が来るかもしれないと思っていた。


しかし、いざ現実になりそうになると、何を言えばいいのか分からない。自分は父とは違うと説明することも、父の代わりにすべてを許してほしいと願うことも、相手に押しつけるべきではない。


「……アーヴィン。もし会場でご挨拶する機会があったら、俺はどうすればいいと思う?」


「まずは王太子として、来場へのお礼を申し上げればよろしいかと。殿下個人のお気持ちや過去の件については、侯爵夫人ご自身が話題になさらない限り、無理に持ち出す必要はないと思います」


「そうだな。俺が楽になりたいからって、謝罪の言葉を聞かせるのも違う。あの方は、仕事のためにいらっしゃるんだから」


「はい。必要でしたら、過去の交流記録や現在の事業について、改めて資料を整えます。ただし、侯爵夫人が殿下へ直接お話しくださるかどうかは、まだ分かりません」


ジルクは頷き、窓の向こうへ目をやった。夕日を受けた王城の庭園には、緋灯草の赤い花が小さく揺れている。


つい数日前まで、自分が一番心配していたのは、令嬢たちにうまく挨拶できるかどうかだった。今も婚約者が欲しいという願いは変わらないが、交流会にはそれより先に守るべき目的がある。


(……父上のせいで苦労してるのは、俺だけじゃないんだよな。あの方が受けたことを思えば、俺が『モテない』って嘆いてるのが、ずいぶん小さな話に思えてくる)


そんな考えが浮かんだ直後、ジルクは自分で首を振った。侯爵夫人が受けた被害の重さと、自分が将来の伴侶を望む気持ちは、同じ秤で比べるものではない。


過去の罪を軽く扱わず、自分の幸福も諦めない。その両方を大切にすることこそ、自分が選ぶべき道なのだろう。


「……よし。アーヴィン、侯爵家には正式な参加のお礼を送ってくれ。展示について必要な資料があれば用意すると伝えてほしい。侯爵夫人のことを特別に警戒して、ほかの参加者まで落ち着かなくなるようなことは避けたい」


「承知いたしました。殿下らしいご判断だと思います」


アーヴィンは頭を下げたが、顔を上げると、ふと何かを思い出したように付け加えた。


「もっとも、侯爵夫人のご来場が決まったことで、交流会への注目はいっそう高まるかもしれません。貴族家の方々も、展示内容だけではない関心を抱かれるでしょうから」


「……だよな。俺の親父を返り討ちにした人が、俺の担当する交流会に来るんだもんな。そりゃ、いろいろ言われるか……」


ジルクはしばらく考え、机の上に置いてあった新しい案内板の見本を見つめた。そこには、婚姻に関する文言は一つもない。あるのは、人々が積み重ねてきた仕事を紹介するための言葉だけだった。


「……だったら、なおさらちゃんとした会にしなきゃな。侯爵夫人にも、ほかの来場者にも、何を見に来たのか忘れないで帰ってもらいたい」


「はい。私も、そのためにできることを進めます」


ジルクは深く息を吐き、最後の決裁書へ署名した。彼の婚約者がいないという事実は、今日も変わらない。しかし、王太子として自分の判断で動かせるものがあることも、改めて確かめられた。


交流会の日まで、まだ少し時間がある。そこに集まる人々が、それぞれの興味や目的を持って安心して話せる場所にするため、やるべきことは山ほど残っていた。


「……なあ、アーヴィン。一つだけ、頼んでもいいか?」


「何でしょう、殿下」


「交流会の準備が無事に終わったら、誰かに『お疲れさま』って言ってもらえるくらいの余裕は欲しいな。できれば、俺の婚約問題をからかわずに」


「もちろんです。殿下のお仕事ぶりを評価する方なら、きっといらっしゃいますよ」


「……お前が言ってくれれば済む話なんだけどな」


「それでは、少々早いですが申し上げます。殿下、本日もお疲れさまでございました」


予想していなかった素直な言葉に、ジルクは目を瞬かせた。側近はいつもと同じ落ち着いた表情で、それ以上何も付け加えない。


「……ありがとな。なんだよ、そういうのも言えるんじゃねえか」


「殿下のご希望でしたので。なお、明日も朝から展示の確認がございます。お休みになる前に、必要な資料だけご覧ください」


「……やっぱり最後は仕事の話かよ!」


思わず声を上げたジルクに、アーヴィンは笑みを浮かべた。いつもの二人のやり取りが執務室へ戻るなか、机の上にはヴェルクハルト侯爵家から届いた正式な返書が置かれている。


ジルクはまだ、その手紙の差出人と何を話すことになるのか知らなかった。ただ、父が残した過去から目を逸らすことなく、自分自身の言葉と行動で向き合うべき日が、以前より少し近づいたことだけは確かだった。


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