第5話「供物の理屈」
第五の朝、配給箱の底が見えた。
誰も「おはよう」とは言わなかった。
点呼が終わり、北條の数字が十三で止まっても、いつものような安堵の吐息すら出なかった。
食料の箱の中で、缶詰が二つだけ寂しく転がっている。
砂原がその箱を持ち上げ、底を指で叩いた。
「……これで、本当に終わりだ」
その声は、ささやきにも怒鳴りにもならず、ただ乾いていた。
高城ユウは、黒板の前でチョークを握っていた。
縦線の列が増えている。何日目なのか、本当に正確な数字は誰にも分からない。
ただ、今朝の点呼でも、儀式はきちんと行われた。
輪になり、順番に自分の名を呼び、肩に触れ合い、北條が数える。
「一、二、三、四……十三」
肩に触れる温度は、まだあった。
そして、倉庫の奥。
黒い列は五つ。昨夜から増えてはいない。
死体五。
楢崎が再度確認し、ユウが黒板にその数字を記す。
生存者十三
死体五
数字だけ見れば、“一晩増えなかった”という事実は、救いになるはずだった。
けれど、腹は空く。喉も渇く。体力も気力も削られていく。
救いは、いつも数行分だけ遅れてくる。
「……二つを十三人で分けるのか?」
三輪が、箱の中の缶詰を覗き込みながら呟く。
「計算するまでもないな」
御子柴が苦笑した。
「缶詰一個を六等分して、それをまた……いや、やめよう。想像しただけでむなしくなる」
「真面目にやるなら、水に溶いてスープにするしかない」
砂原が言った。
「塩分を薄めて、温度でごまかす。舌じゃなく、胃に訴えかける作戦だ」
「その“温度”がないんだけど」
片桐が、自分の腕をさすりながら言った。
震えが止まらない。天井から落ちる冷気が、薄い毛布一枚では防ぎ切れない。
電源は、とっくに落ちている。暖房も、コンセントも、もう何の意味も持たない。
「……熱源か」
誰かがぽつりとつぶやいた。
声の主は、駒田だった。
これまでほとんど目立たなかった男だ。眼鏡の奥の瞳はいつも眠たそうで、状況をひとごとのように眺めている印象が強かった。
その駒田が、珍しく倉庫の中心に一歩踏み出す。
「熱源なら、ある」
「どこにだよ」
御子柴が眉をひそめる。
駒田の視線が、黒い列へ滑った。
死体袋が五つ。ジッパーを閉じたまま、黙って並んでいる。
「……まさか」
北條が顔を強ばらせた。
「言っていいことと、悪いことがあるわ」
「現実の話をしているだけだ」
駒田は淡々と続ける。
「死んだ人間の身体は、資源だ。脂肪も、筋肉も、水分も。戦時中の話を知らないのか。寒冷地では、死体を焼いて暖を取ったという記録がある」
「本やネットの話を、今ここに持ち込むな」
楢崎が吐き捨てる。
「ここはそういう場所じゃない」
「じゃあ、どうする。あと何日、何時間、君たちは震えながら飢えを我慢する? 備蓄が尽きた以上、俺たちは何かを燃やさなきゃならない。木材か、マットか、服か。だったら、既に“使わないはずのもの”を燃やしたほうが合理的だろう」
合理的――その言葉が、喉に刺さった。
藤咲が、腹を押さえるようにしてうめき声を上げる。
「……やめて。その話、ほんとにやめて」
目を閉じたまま、顔を背ける。顔色が悪い。青白いというより、土色に近づいていた。
「気持ち悪いのか」
ユウが声をかけると、藤咲は小さく頷いた。
「匂いが……最近、前よりずっと強く感じるの。人の汗も、毛布の湿気も、あの袋の匂いも。話を聞いてるだけで、胃がひっくり返りそうで……」
胎動。
その言葉を誰も口にしなかったが、全員の頭の中をよぎった。
こんな場所でも、腹の中の命は育っている。
その子にとって、この空気はどんな世界に見えているのだろう。
「藤咲さんがきついなら、話は後回しに……」
「いや」
藤咲は震えながら首を振る。
「後回しにしても、消えないなら。今、ちゃんと聞いておきたい」
その強がりに、誰も軽々しく同意できなかった。
「駒田、一つだけ確認させてくれ」
結城が、死体袋から少し距離を取って立ったまま、ゆっくりと口を開く。
「君の言っているのは、“熱源として燃やす”だけの話か。それとも、“何かに捧げる”意識が混ざってる?」
「何かに捧げる?」
駒田が片眉を上げる。
「ここ三日間の状況を見ていれば、誰だって考えるだろう」
結城は、黒板の数字を指さした。
「生存者十三。死体五。毎朝、増える。俺たちは“見えない何か”に試されている気分になってる。だから、死体を焼くって話を聞いた瞬間、“供物”って言葉が頭に浮かんだ」
供物――その音だけで、藤咲がさらに顔をしかめる。
「俺たちが自分の意志で選んだ“死”なら、それは供物かもしれない。でも今、ここにあるのは“どこかから勝手に運ばれてきた死”だ。そこに俺たちが手を出して焼いた瞬間、“あっち側”のルールに組み込まれる気がしないか」
「“あっち側”?」
「死体の増え方を決めている何かだよ」
結城は淡々と言う。
「医学的に見れば、楢崎さんの言う通り“ここで死んだ身体じゃない”。それなのに、毎朝きっちり増えている。それは、“こことどこかを繋いでいるルール”があるってことだ」
「ルールを決めてるのが神様なら、供物を捧げるのは正しい流儀かもしれないだろ」
御子柴が、半分冗談のように口を挟んだ。
「数は神様だよ。ほら、こうして毎朝きっちり数えてくる。サボらない神様は信頼できる」
「ふざけないで」
北條が、小さく叱るように言った。
「神様は、そんな……」
「でも、北條」
御子柴は、彼女の持っている小さな十字架に目をやる。
「ここに閉じ込められてから、君が一番頼りにしてるのは、ほんとは神様じゃなくて“数字”なんじゃないか」
「何を……」
「毎朝、君は祈りながら数えてる。“一、二、三、四……”って。あれ、どっちに向かって祈ってる?」
北條は言葉を失った。
ユウも、息を飲む。
点呼の祈り。
あれは、生きている者同士が互いの存在を確かめる儀式だったはずだ。
けれど、いつの間にか「十三」という数字そのものが、目標になってはいなかったか。
今日も十三でありますように。
明日も十三でありますように。
その祈りは、数字に向かって捧げられていたのかもしれない。
「数は裏切らない」
御子柴は、死体袋の列を見ながら続ける。
「俺たちがどれだけごまかしても、数字は黙って増えたり減ったりする。誰が犯人か分からなくても、“五”って数字だけは疑えない。だったら俺たちは、神様より先に“数字”を信じてる」
「数が神様だって言いたいわけ?」
三輪が自嘲気味に笑う。
「すげー時代になったな」
「違う?」
御子柴は肩をすくめる。
「ここでは、そうだろ。“生きてるかどうか”を決めてるのは、温もりでも呼吸でもなくて、“十三”という数字だ」
北條は、震える手で十字架を握りしめた。
「私は……」
言葉を選ぶように、一拍置く。
「私は、神様に祈ってる。数字は、数えているだけ」
「でも、祈りの形が変わってきてる」
田所が、ぽつりと口を挟んだ。
「最初は“誰も死にませんように”だったのが、最近は“十三から減りませんように”になってる。対象が“人間”から“数字”にすり替わってる。ラベリングとして興味深い現象だ」
「今はその話じゃない」
結城が、田所を制した。
「供物の理屈の話だ。駒田、君は“死体を焼いて熱源にすれば、生き残る可能性が上がる”と思っている。それは分かる。でも、その行為は同時に、“数字の神”に対する供物にもなり得る」
「どういう理屈で?」
「簡単だ。五つある“死”から熱をもらうということは、“死の側の理屈”に足を突っ込むことになる。彼らは“どこかから運ばれてきた死”なんだろう? なら、その仕組みに自分たちの生活を依存させた瞬間、俺たちは“あっち側の一部”になる」
結城の語り口は、いつもより熱を帯びていた。
「俺は、それが嫌だ。分からないものに、これ以上、自分たちの生き方を預けたくない」
「分からないものに頼らなきゃいけない状況だろ、今は」
駒田は引かない。
「このまま凍え死ぬのと、死体から熱をもらって生き延びるのと、どっちがマシか決めるべきだ。倫理なんて、腹が減れば簡単に折れる」
「折れるかもしれない。でも、折れたくないから話してる」
結城は、駒田から目をそらさない。
「“供物の理屈”ってのは、いつもこうだ。“何かを差し出せば、何かが救われる”。でも実際には、差し出した時点で、“差し出した側”も同じテーブルに乗せられる。神様のルールの中にね」
沈黙が落ちる。
誰も、すぐには言葉を継げなかった。
その時、ユウはふと黒板に目を戻した。
生存者十三
死体五
さっきまで「十三+五」と頭の中で足し算していた数字が、急に別のものに見えた。
足して十八になる、という事実がどうでもよくなる。
ユウは、チョークを握り直した。
「……ちょっといい?」
みんなの視線がこちらを向く。
ユウは、十三と五のあいだに、すっと縦の線を引いた。
黒板に、新しい記号が浮かぶ。
十三|五
細い一本の白い線が、二つの数字を切り分ける。
「何だ、それ」
御子柴が首をかしげる。
「分数にしたいのか?」
「違う。なんか……こうしたほうがしっくりくる気がして」
自分でもうまく説明できなかった。
ただ、足し算の記号ではなかった。
「対だよ」
田所が、小さく呟いた。
「ペア。左右に分けて並べることで、“足し算じゃない関係”が強調される。十三対五。……あるいは、十三に対する五」
「対?」
ユウは、その言葉をゆっくりと口の中で転がす。
十三と五が向かい合っている。
足して一つになるのではなく、向かい合って、均衡を取ろうとしている。
「最初の頃、俺たち、“誰かがこの中から死体の列に移される”って想像してたよな」
ユウは黒板を見つめたまま言う。
「生きてる十三人のうち、誰か一人が死体五のほうに移される、みたいに。でも、今は違う気がする」
「どう違う」
楢崎が問う。
「生存者十三と、死体五。“足した結果”じゃなくて、“互いに向かい合っている二つの列”。十三人のこっちと、十三人のあっち。今ここにあるのは、そのうち五人だけ」
口にしてみて、ぞっとした。
十三|五。
“見えている死”は五つ。
“まだ見えていない死”は、残り八つ。
そんな考えが、頭の中で勝手に形になっていく。
「……やめようよ、その発想」
三輪が震え声で言った。
「“見えてない死”とか言うなよ」
「分かってる。ただの直感だ。証拠もない」
ユウは、慌てて付け足す。
それでも、黒板に書かれた「十三|五」は、どうしようもなく正しそうに見えた。
生きている十三と、死んでいる五。
神様とやらがいるのだとしたら、そこに何かしらルールを仕込んでいる気がしてならない。
「……午後は動かないほうがいい」
沢村が、現実に話を戻した。
「体力を無駄にすれば、余計に空腹がきつくなる。配給は、今日は抜きだ」
「抜き?」
何人かが顔を上げる。
「缶詰二つは、藤咲さんと、体力の落ちてるやつに回す。明日のことは、明日考える」
砂原が、異議を唱えようとしたが、沢村は首を振った。
「死人から熱をもらう話をする前に、生きている人間の優先順位で合意を取ろう」
駒田は何も言わなかった。ただ、唇をかみしめ、視線を下に落とした。
夜になった。
倉庫の温度はさらに下がり、吐く息が白く見えるほどだった。窓のない空間で、どこから寒さが入り込んでくるのか分からない。
片桐は、いつもの場所に座り、手回し発電機のハンドルを回していた。
ギリギリという音に合わせて、小さなライトがかすかな光を放つ。
その光で、黒板の「十三|五」が浮かび上がる。
「……もういいよ、休め」
ユウが声をかけると、片桐は首を振った。
「止めたら、寒さを余計に意識しちゃうから。回してれば、少なくとも“何かしてる”って気になれる」
「そんなに寒い?」
「寒いさ。手も足も感覚がない。でも、回してると体が勝手に温まってくるんだ」
片桐は笑おうとしたが、その唇は震えていた。
「ここ座ってもいい?」
控えめな声がして、二人がそちらを見る。
シオリだった。
これまであまり前に出てこなかった少女。長い前髪が顔の半分を隠し、いつも毛布を肩までかぶって隅に座っている印象しかなかった。
「眠れないのか」
ユウが問うと、シオリは小さく頷いた。
「点呼の、“声”が頭から離れなくて」
「声?」
「座って」
片桐が、自分の隣のスペースを軽く叩いた。
シオリは遠慮がちにそこに腰を下ろす。ライトの白い光が、彼女の横顔を照らした。
「点呼の時さ」
シオリは、毛布の端をぎゅっと握りしめながら話し始めた。
「みんなで輪になって、自分の名前を言うでしょ。それで隣の肩に触って、北條さんが数字を数えて」
「ああ」
「十三。ちゃんと数えてるのは分かってる。私も、自分の番が来たらちゃんと“シオリ”って言ってる」
当たり前の確認を、一つずつ積み上げるような話し方だった。
「でもね」
シオリは、自分の膝を見つめたまま続けた。
「毎回、最後に一つ、“声が余る”の」
ユウは眉をひそめた。
「余る?」
「十三人が名前を言い終わって、北條さんが“十三”って数字を言って、そのあと」
シオリは、喉を震わせる。
「いつも、誰かが、もう一回こう言うの。“高城ユウ”って」
片桐の回す発電機の音が、一瞬止まりかけた。
「え?」
ユウは、声が裏返るのも構わず聞き返した。
「誰かが、もう一度俺の名前を?」
「うん。すごく小さい声だけど、はっきり聞こえるの。輪のどこから聞こえるのかは分からない。でも、確かに“高城ユウ”って」
シオリは耳を押さえるようにして、目を閉じた。
「最初は、気のせいだと思った。でも、三回目の朝も、四回目の朝も、今日の朝も……ずっと同じ。“高城ユウ”って」
「俺は、言ってないぞ」
御子柴なら、ここで冗談の一つも挟むかもしれない。
だが今、その場にはユウと片桐とシオリしかいない。
「誰かの聞き間違いじゃないのか」
ユウは、自分でも説得力がないと思いながら言った。
「誰かが順番を間違えて、俺の名前を二回呼んじゃってるとか」
「それなら、他の人も気づいてるはずだよ」
片桐が静かに言う。
「点呼の時、みんな耳を澄ませてる。名前が一つずれただけで、すぐざわつく。でも、今まで“余計な一つ”について誰も何も言わなかった」
「だから……私、怖くて言えなかった」
シオリの肩が小刻みに震える。
「もし、私だけに聞こえてるんだとしたら、頭おかしいのは私だし。でも、もし本当に誰かが呼んでるんだとしたら……」
言葉が途切れる。
薄暗い倉庫の中。
点呼の輪。
名前を呼ぶ声。
数字を数える声。
その最後に、もう一つ、小さな声が重なっている――。
「……“数の神様”の声かもしれないな」
片桐が、冗談とも本気ともつかない口調で言った。
「十三って数字を確認したあと、最後に“高城ユウ”って呼んで、“ここにいるか”って確かめてる」
「やめろよ」
ユウは思わず強く言った。
「そんなこと言うな」
「悪い」
片桐は肩をすくめる。
「でも、誰かが君を数え直してるって話は、もう始まってる。黒板の字だって、田所が言ってただろ。書いてるのは君なのかって」
ユウの背筋に冷たいものが走る。
黒板。
十三|五。
生存者の列と、死体の列。
その三本目の、見えない列。
「……明日の点呼のとき、俺も耳を澄ませてみる」
ユウは言った。
「もし本当に、俺の名前をもう一度呼んでる声があるなら、それを聞き逃したくない」
「聞いて、どうするの」
シオリが震える声で問う。
「分からない。でも、知らないままよりはマシだ」
ユウは、黒板のほうを振り向いた。
ライトの弱い光が、「十三|五」の文字を照らす。
生存者十三。
死体五。
そして、シオリだけが聞いた、もう一つの「高城ユウ」。
数は神様かもしれない。
祈りは数字に向かっているかもしれない。
だとしたら、その神様はきっと、まだ“何か”を数え終わっていない。
ひゅう。
リン。
壁のひびから、またあの金属音がかすかに響いた。
誰かが、どこかで、まだ見えていない数字に印をつけているような音だった。




