第6話「鏡ではない鏡」
朝の点呼が始まる前から、胸の鼓動がおかしかった。
昨夜、シオリから聞いた話が、頭から離れない。
点呼の最後に、誰かがもう一度「高城ユウ」と呼ぶ。
十三人の名前が言い終わって、北條の「十三」が響いたあと、余分な一つとして。
今日は、それを確かめなきゃならない。
「輪になって」
沢村の声で、僕らはいつものように立ち上がる。
体育マットの上に円を作り、肩と肩が触れ合う距離まで近づく。北條は輪の少し外側に立ち、目を閉じて指を組んだ。
片桐のライトは、昨夜からずっと弱いままだ。非常灯の赤が、ぼんやりと輪郭だけを照らしている。
「じゃあいく」
沢村が、自分の胸に手を当てた。
「沢村」
隣の僕の肩に、その手が触れる。温度を確かめるように、ゆっくりと。
「高城ユウ」
僕も、自分の名を言い、さらに隣の肩に手を置く。
筋肉の硬さ、震え、呼吸。たしかに、生きている。
名前が輪を回っていく。
砂原。楢崎。御子柴。北條。三輪。藤咲。小机。結城。田所。片桐。シオリ。
それぞれの声に、それぞれの体温。
「一」
北條の声が、低く鳴る。
「二。三。四……」
数字が、名前たちをつないでいく。
「十三」
そこで、数字は止まる。
僕は、息を止めた。
耳を澄ませる。輪の内側も、外側も。死体袋の列も、黒板の前も。
倉庫の空気が、一瞬だけ完全な静寂になる。
……来い。
聞こえてくれ。
シオリだけじゃなかった、と証明してくれ。
心の中で誰にともなく願った、そのときだった。
「……高城ユウ」
囁きが、確かに聞こえた。
輪のどこから聞こえたのか分からない。
耳元で言われたような気もするし、倉庫の空気そのものが僕の名前を発したような気もする。
かすかな声。
でも、はっきりと僕のフルネームを呼んでいた。
背中に冷たいものが走る。肩に置いた手が、じんと痺れる。
「今の、聞こえたか」
思わず口に出しそうになり、寸前で飲み込む。
誰もざわつかない。
何事もなかったかのように輪がほどけていく。
僕だけがおかしいのか。
それとも、みんな聞こえているのに、口に出せないのか。
「ユウ」
そばにいたシオリが、そっと囁いた。
「……聞こえた?」
僕が小声で返すと、彼女はかすかに頷く。
「うん。だから、やっぱり私の気のせいじゃなかった」
それだけ言うと、シオリはすぐに目をそらし、いつもの隅の毛布に戻っていった。
胸のざわめきを抱えたまま、僕らは倉庫の奥へ視線を向ける。
黒い列。
昨日までと違う膨らみが、ひとつ増えていた。
「……六だ」
砂原が、奥歯を噛みしめながら言う。
「死体、六」
楢崎が確認するまでもない。
数えるまでもない。目で見てはっきり分かる。
生者十三。
死体六。
増加は、また再開された。
僕は足元の震えを抑えながら、黒板の前に立つ。
チョークの粉が舞う黒板は、ここ数日の数字で埋め尽くされていた。
生存者十三。死体一。二。三。四。五。
縦線が幾本も引かれ、その右側に新しい数字が並んでいる。
そして、昨日から――
十三|五
という形で、左右に分けて書くようになった。
今日は、その右側の五を、六に書き直さなければならない。
チョークを握る指が、白くなっている。
粉のせいなのか、血が引いているのか、自分でも分からない。
「……生存者十三」
まず、いつものように左側を書く。
「死体六」
右側に数字を刻み、あいだに縦線を一本。
十三|六
書き終えた瞬間、黒板の表面がふっと光った。
「え?」
思わず顔を近づける。
黒板の一部が、薄く反射していた。
チョークの粉が均一に塗り重なったせいか、非常灯の赤い光が、うっすらと鏡みたいに跳ね返っている。
そこに、自分の顔の輪郭がぼやけて映った。
頬がやつれ、目の下にクマが浮かび、唇が乾いている。
そのくせ目だけが妙に冴えている、自分の顔。
「……鏡、みたいだな」
気づけば、誰かが背後で呟いていた。振り返ると、田所が腕を組んで黒板を眺めている。
「チョークの粉が、まるで銀引きみたいに光ってる。雑な鏡面だけど」
「疲れすぎて、そう見えるだけだよ」
僕は言い返す。
黒板が鏡になるなんて、あり得ない。ここは化学室じゃない。銀鏡反応とか、そういうのからは一番遠い場所だ。
「そうかな」
田所は、僕の隣に立った。
黒板を挟んで、左右に二人の輪郭が並ぶ。
ぼんやりとした反射の中で、僕と田所の顔が、ひとつの面に重ねられていた。
「ずっと考えてたんだ。この状況を説明するラベルを」
田所は、黒板の「十三|六」を指でなぞる。
「“鏡像仮説”って名前でも付けようか」
「何それ」
「言葉の通りだよ。ここは“二つの同じ集団”が重なり合っている場所だって仮説。こっちの十三人と、向こう側の十三人。完全に同じ顔ぶれ、同じ名前、同じ経歴。同じだけど、ほんのわずかにズレた世界にいる“僕ら”」
背中に、さっと寒気が走る。
「こっちは、生きている僕ら。
あっちは、“向こう側”で生きている僕ら。そして、毎朝ここに現れる死体は、“あっち側で死んだ僕らの写し”」
「待って」
僕は、言葉を遮った。
「何それ。つまり……」
「僕ら自身が、もう一組いる。鏡の向こうに。向こう側で死んだやつが、一体ずつ“ここ”に流れ着いている。そう考えれば、“ここでは死んでいない死体”という楢崎さんの観察とも合致する」
「適当なこと言うなよ」
自分で言って、声が少し震えていることに気づく。
「自分の死体が、向こうから送られてきてるって? そんなの、悪趣味なSFの読みすぎだろ」
「悪趣味でも、現実を説明してくれるなら採用する価値はある」
田所は淡々と言う。
「例えばさ。君の顔」
黒板に映った僕のぼやけた輪郭を、彼は指で示した。
「ここに映っているのは、鏡の中の“反転したユウ”だろ。右と左が逆になってる。もしこの黒板が、ほんの少しだけ“向こう側”と繋がる鏡面だとしたら? 向こうで死んだユウが、ここに“反転して”現れる。死体の列として」
「やめろって」
喉がひりつく。
脳裏に、死体袋の顔が浮かぶ。どれも誰かに似ている気がして、でも決定的に違う。
逆さまの自分。鏡写しの傷。そう考えると、全身がざわついた。
「そんな仮説、根拠ないだろ」
「根拠なら」
後ろから別の声がした。楢崎だ。
「少しだけ、ある」
彼は一枚のメモを手にしていた。そこには、いくつかの簡単な図が描いてある。
「何の図だよ、それ」
「痣の位置だ」
楢崎は、メモを黒板の縁に貼り付けた。
「数日前から、時々確認していた。生存者の身体の左右非対称な痣や傷、それと死体の痣の位置を比べてみたんだ」
図には、丸で囲まれた肩や腕、足首の部分が描かれていた。
「例えば、御子柴。左の二の腕に大きめの痣がある。地震の時に棚にぶつけたやつだ」
「……あれか」
御子柴が自分の腕をさする。
「それがどうした」
「二体目の死体。そいつの右の二の腕に、ほとんど同じ形の痣があった」
空気が止まる。
「偶然じゃないのか」
砂原が言う。だが声には、さっきまでの軽さはない。
「偶然と言うには、他にも似た例がある」
楢崎は、別の図を指さした。
「片桐。右の鎖骨のすぐ下に、小さなほくろがあるな」
「あるけど」
「四体目の死体の左の鎖骨の下にも、同じ位置にほくろがあった」
さらに、別の図。
「三輪の足首の古傷。左の外くるぶし。あれと同じ痕が、五体目の右足首にあった」
「……」
数人が、同時に息を飲んだ。
「左右が反転した位置に、似た痕跡がある。すべてが完璧に一致するわけじゃない。しわや筋肉のつき方は違う。けれど、“鏡像”と仮定するなら説明できる程度には、対応している」
楢崎は、メモから視線を上げた。
「だから、田所の“鏡像仮説”は、馬鹿げた話とも言い切れない」
足元の体育マットが、ぐらりと揺れたような気がした。
もしそれが本当なら――
あの袋の中には、“こっちと同じ名前、同じ顔、同じ痣を持った僕ら”が、左右を反転させた形で並んでいる。
向こう側で死んだ自分たちが、向こう側のルールに従って、ひとつずつこちらへ流されている。
「じゃあ」
結城が、静かに口を開いた。
「この“六”が、こっちの誰かに対応しているとして」
黒板の右側、「六」の数字を指さす。
「もし、こっち側も六人死んだら、左右で“同数”になるのかな」
誰かが喉を鳴らした。
「“向こう”の十三人と、“こっち”の十三人。対になって並んでいる。そのうち六組がすでに“死者と死者”として揃っているとしたら」
結城の声は、淡々としているのに、内容だけが異様に冷たかった。
「残り七組が、まだ“生者と死者”の組み合わせのまま存在している。“十三|六”って数字が、それを表しているとしたら」
十三|六。
黒板の数字が、急に別の意味を持ち始める。
「もし右側が“十三”になったら?」
結城は言う。
「“十三|十三”。生者と死者が、全部対になった瞬間。左右の鏡が完全に重なったら、きっとどっちも消えるよな。重なって、ゼロになる」
「……やめろ」
誰ともなく、その言葉が漏れた。三輪だった。
「そんな話、聞きたくない」
「俺だってしたくはない。ただ、考えてしまう」
結城は肩をすくめる。
「もしここが“二つの世界の節目”みたいな場所なら、右が十三に達した瞬間、この節目自体がいらなくなる。橋が必要なくなれば、壊される。それが、この“避難所”の役割なのかもしれない」
「だからって、何ができる」
御子柴が口を挟む。
「向こうで誰かが死ぬのを止める術なんて、俺たちにはないだろ」
「一つだけある」
砂原が、そこで口を開いた。
「群れを割ることだ」
全員の視線が集まる。
「鏡は、“一つの塊”に対して成立する。片側が同じ形をしているから、反転させたときに重なる。なら、俺たちの群れを意図的に割れば、“対”にならなくなるんじゃないか」
砂原は、黒板に目をやる。
「今の俺たちは、十三人で一つの群れとして生活している。点呼も、配給も、寝る場所も。だから、向こうで測っている“十三”と重なりやすい」
「二班に分けるってこと?」
沢村が確認する。
「ああ。ここと、あそこ」
砂原は、倉庫の中を見渡した。
一方は黒板側。
もう一方は、死体袋の列の手前から奥の壁まで。
「二つの班を作る。互いが互いを直接見ないように、座り方と動線を決める。会話も交代制にする。片側の班が話しているとき、もう片側は沈黙する。こうすれば、“十三人の一つの群れ”という構図を崩せるかもしれない」
「そんなことで、死体の数が止まると思う?」
駒田が冷ややかに言う。
「分からない。分からないから、片っ端から試すしかない」
砂原の目は、いつになく真っ直ぐだった。
「今までもそうだろ。犯人役の制度も、点呼の祈りも、朗読会も。全部、“分からないまま”始めた。成功したか失敗したかはともかく、“何もしないで死ぬ”よりはマシだ」
「……反対ではない」
沢村は言った。
「ただ、“互いが互いを見ない配置”というのは、精神的にきついかもしれない。自分の背中側で何が起きているか分からなくなる」
「その不安に耐えられるやつと耐えられないやつを、二つに分ければいい」
砂原は黒板に、即興で二つの長方形を描き、名前を書き込んでいく。
「こっち側が班A。あっち側が班B。班Aは黒板側に背を向けて座る。班Bは死体袋に背を向ける。中途半端に見えるくらいなら、いっそきれいに“見ない”ほうがいい」
「勝手に決めるな」
小机が抗議するが、砂原は一人ひとりの性格や体力、病状を考えながら名前を振り分けていく。
それは、彼なりの“守り方”なのかもしれなかった。
「ユウは、こっちだ」
砂原は、僕の名前を黒板側の班に書いた。
「黒板の数字に一番近い位置。君が毎日書いてきたんだから、責任を持って見ておけ。班Bは、死体袋に一番近い位置だ。楢崎と結城と駒田はそっちに入ってくれ。観察データが必要だろ」
「了解」
楢崎が頷く。結城も、淡々とした顔で自分の名前が班Bに書かれていくのを見ていた。
「……俺は?」
御子柴が尋ねる。
「お前は、班Bだ」
砂原は迷いなく言う。
「死体袋に背中を向けて座る役。変なことを考えたら、背中越しに俺が殴る」
「はいはい、光栄だな」
御子柴は肩をすくめた。
結局、班分けはほとんど抵抗なく決まった。
「見たいか」「見たくないか」の選択の余地は少なかった。体力のある者、状況を冷静に見られる者が死体側。動揺しやすい者、負担が大きい者が黒板側。
僕らは、指示に従って座る場所を変えた。
黒板に背を向ける班。
死体袋に背を向ける班。
互いに、視界に入らないように、斜めに座る位置が調整される。
まるで二つの世界に分かれたような感覚だった。
同じ体育倉庫の中にいるのに、見ている景色が違う。
声だけが行き来し、視線だけが断ち切られる。
「これで、本当に何か変わるのかね」
御子柴のぼやきが、背中越しに聞こえる。
「変えたいから、やってる」
砂原の声が返る。
「数字の神様が、どっちを選ぶか見ものだな」
夜になっても、その配置は崩れなかった。
点呼の祈りも、班ごとに行われた。
班Aが名乗り、肩に触れ合い、北條が数字を数える。
次に班Bが同じことをする。そのあいだ、もう片方の班は目を閉じて沈黙を守る。
二つの輪。
二つの十三。
どちらも「十三」であることに変わりはない。
でも、その重なり方は、朝までとは少し違っているように思えた。
深夜。
壁のクラックから入る風の音が、いつもより大きい気がした。
ひび割れが広がっている。コンクリートの欠片が、ぽろぽろと床に落ちる音がする。
班Aの側から見ると、そのひびは黒い線にしか見えない。
班Bの側から見れば、同じひびが全く別の形に見えるかもしれない。
「なあ」
ひそひそ声で、御子柴が言った。背中で聞く声は、いつもより距離が遠い。
「向こう側の俺たちも、同じことしてんのかな」
「さあな」
砂原が答える。
「班分けして、互いに互いの背中を見てるんだろうさ」
「それ、意味あるのかよ」
「俺たちが信じない限り、意味なんて何一つない。だが、信じれば少なくとも“やったこと”にはなる」
壁のひびの向こうで、何かが軋んだ。
ひゅう。
リン。
あの風鈴のような金属音が、いつもよりはっきりと聞こえる。
「……さっきから、何か変じゃない?」
シオリが、黒板側の隅で肩をすくめた。
「声が、二回聞こえる気がするの」
「二回?」
僕は思わず振り返りそうになり、慌てて視線を床に落とす。
砂原から「振り返るな」と念押しされていたのを思い出す。
「ううん、ごめん。うまく説明できない」
シオリは毛布を握りしめた。
「みんなが喋るたびに、少し遅れて“同じ言葉”が聞こえるの。エコーみたいに。でも、反響にしては変な感じで……」
「この倉庫、そんなに音響よくないぞ」
片桐が苦笑する。
「鉄骨とコンクリートだけだし」
「だから、変なんだよ」
シオリは続ける。
「さっき、“そんな死に方はしない”って誰かが言ったときも、あとから同じ声がした。声の主も、言い方も、ほとんど同じで。少しだけ、低かったけど」
背中の皮膚が粟立つ。
僕は、壁のひびのほうへ耳を傾けた。見てはいけない。聞くだけ。
ひゅう。
リン。
風の音に混じって、確かに何かがささやいているような気がする。
「一、二、三……」
別の誰かが、数字を数えている。
北條の声によく似た声が、ひびの向こうで数字をなぞっている。
こちら側で誰も数えていないときでも、向こう側の数字は進んでいる。
「……向こうにも、俺たちがいるってことか」
御子柴が呟く。
「こっちと同じように、寝て、起きて、点呼して、数字を数えてる」
「こっちの声も、あっちに届いているのかもしれないな」
田所の声がした。黒板側の班から。
「さっきから、壁が少し震えてる。共鳴だよ。二つの世界の」
ふと、気づく。
向こう側の声が、こちらと同じリズムで笑い、同じ言葉で怯え、同じ息を吸っている。
鏡ではない鏡。
右と左が入れ替わり、ほんの少しだけ違う世界。
その節目に、この体育倉庫が立っている。
数は止まらない。
こちらの黒板に書かれる数字も、向こうのどこかで刻まれている数字も。
生存者十三。
死体六。
十三|六。
縦線の向こう側で、誰かがチョークを握って同じ数字を書いているのだとしたら――
向こうの「ユウ」も、今、同じように背筋を冷やしているのだろうか。
黒板の表面が、薄く光る。
チョークの粉が、鏡のように非常灯を返す。
ぼやけた自分の顔が、そこに映る。
いや、違う。
映っているのは、自分と、ほんの少しだけ違う誰かだ。
その誰かが、口の動きだけで、こうつぶやいた気がした。
「高城ユウ」
呼ばれている。
僕は、返事をしなかった。
すると、鏡の中の僕も、返事をしなかった。
ひび割れた壁の向こうで、誰かが数字を数え続けている。
その数え声と、こちらの点呼が、いつかぴたりと重なったとき――
何が起きるのか、誰も知らない。




