第3話「点呼の祈り:儀式化」
増加は止まらない――そう言葉にしてしまったら、本当にそうなる気がして、誰も口にはしなかった。
けれど、現実は容赦なく数字を積み上げていく。
三度目の朝。
体育倉庫の空気は、もう「朝」と呼ぶには重すぎた。人の汗と湿った毛布の匂いに、僅かな腐臭が混ざり始めている。それでも誰かが身体を起こし、誰かが咳払いをし、誰かが「おはよう」と言う。
それが、ここでの「朝」だった。
「ユウ。頼む」
背中越しに沢村の声が落ちてくる。
黒板の前に立つと、視界がほんの少し揺れた。非常灯の赤い光。粉だらけの黒板。昨日までの数字。全部、見慣れているはずなのに、急に現実味をなくしている。
でも、やることは決まっている。
「じゃあ、点呼する。名前を呼ばれたら返事を」
昨日と同じ流れ。
ユウは名前を読み上げ、返ってきた声を、頭の中で数に置き換えていく。
高城ユウ。
砂原。
楢崎。
沢村。
御子柴。
北條。
三輪。
藤咲。
小机。
結城。
田所。
片桐。
それからもう一人。
十三。
耳で数えて、十三。
ユウは黒板に「生存者十三」と書き足す。その横には、昨日までの「生存者十三」が、日にちの区別もなく並んでいた。
問題は、その次だ。
倉庫の奥。
黒い列が、また長くなっていた。
ジッパーを閉じたままの死体袋が三つ。
昨日まで二つだった列に、見慣れない膨らみが一つ増えている。誰かが移動させた形跡はない。床の上の埃の付き方も、他と変わらない。
ただ、そこに「ある」。
ユウの喉が、ひとりでに上下した。
「……死体、三」
チョークを走らせながら、指先が震える。白い粉が爪の間に入り込んだ。
生存者十三。
死体三。
十三+三。
それでも、倉庫の入口は塞がれたまま。出入りの跡はない。
足し算は間違っていないのに、世界は間違っている。
沈黙を破ったのは沢村だった。
「……今日から、正式にやろう」
彼は立ち上がり、黒板と皆のあいだに立つ。目の下には濃いクマができていたが、その声は意外なほどはっきりしている。
「点呼を。ただ名前を呼ぶんじゃなくて、“祈り”にする」
「祈り?」
三輪がかすれた声で聞き返す。
「そう。順番に名前を言って、そのたびに隣の肩に触れる。手を置く。触れた相手が、そこにいることを、全員で確認する。それを、一つの形にするんだ」
北條が小さく頷いた。
「……賛成。私も、何か形が欲しかった」
「このままだと、数字に押しつぶされる」
沢村は、黒板を一度振り返る。
「生存者十三、死体三。毎朝こうして数字を増やされるだけじゃ、俺たちは数でしかなくなる。だから、数字を俺たちの側に引き戻す。儀式だ。くだらないと思うやつもいるだろうけど」
くだらないと口に出す者はいなかった。
むしろ、その「くだらなさ」に縋りつきたい自分を、誰もが自覚していた。
「北條さん。数字を読んでくれないか」
「私が?」
「祈りは、君のほうが似合う」
少しの沈黙の後、北條は深く息を吸った。
「……わかった」
輪になるように、全員が立ち上がる。
床のざらつきが足の裏に伝わる。体育マットの端がめくれ、そこから見えるコンクリートはひどく冷たい色をしていた。
「じゃあ始める。僕から行く」
沢村が宣言し、片方の手で自分の胸を軽く叩いた。
「沢村」
その隣にいるユウの肩に、沢村の手が置かれる。
掌のあたたかさが、布越しに伝わった。
「高城ユウ」
今度はユウが自分の名を言い、隣にいる人物の肩にそっと触れる。
感触。筋肉の硬さ。体温。震え。
たしかに、生きている。
輪を回るように、それぞれが自分の名を言い、隣に触れる。
片桐の番になると、彼はぎこちなく笑った。
「片桐。……生きてます」
小さな笑いが、ほんの一瞬だけ起きた。
その一方で、北條は輪の外側で目を閉じ、低く数字を唱え始める。
「一。二。三。四……」
抑揚の少ない、読経のような声だった。
その声が、名前と名前のあいだを埋める。
名前。数字。触れる手。
それらが一本の線になって、倉庫の空気に編み込まれていく。
最後の一人まで回り終えたところで、北條の声も止まる。
「……十三」
その瞬間、誰かが小さく息を吐いた。
何も解決していない。死体は三つのままだし、出口は塞がれている。
それでも、輪の中にあった緊張が、ほんの少しだけ解けたような気がした。
「これを、毎朝やる。点呼の祈りとして」
沢村が言う。
「俺たちが生きている限り、この儀式は続く。そういうルールにしよう」
「でもさ」
小机がぽつりと漏らした。
「いつか、この輪のどこかが、欠けるのかな」
誰も答えられない。
その代わりに、北條が目を開けて、静かに笑んだ。
「欠けたら……その人の分まで数字を数えるよ」
その笑みは優しく、そして少しだけ壊れていた。
儀式が終わる頃、倉庫の隅でカリカリという音がした。
片桐が、手回し式の発電機をいじっている。
「うまくいきそうか」
御子柴が近づいて尋ねると、片桐は汗を拭いながら答えた。
「どうにか。昔、キャンプで使ったことがあるから。こういうの、得意なんだ」
ハンドルを回すたび、小さなライトに電気が溜まっていく。やがて、ぱっと光が灯った。
非常灯とは違う、白っぽい光。
片桐は、それを嬉しそうに掲げた。
「これで、少しは暗闇から解放される。電池式のライトはもう残り少ないし、これがあれば、夜も……」
「便利だな」
砂原が感心したように言う。
「お前、それを持って、死体のほうを照らしてくれ」
「死体のほう?」
「影を見たい」
片桐は一瞬だけ躊躇したが、ライトを持って黒い列のほうへ歩いていく。
三つの袋が、さっきよりも立体的に浮かび上がる。布の皺までわかるほど、白い光は強かった。
ライトを右から左へ動かす。
三つの袋の影が、床に長く伸びる。光源の位置に応じて、影の方向も変わっていく。
「何をしてるんだ?」
ユウが近づくと、片桐は真剣な顔で答えた。
「影の角度を見てる。さっきから、どうもおかしくて」
「おかしい?」
「ほら」
片桐はライトを一度消し、倉庫の天井を指さす。
「非常灯の位置はあそこ。だから、影はこう伸びるはずなんだ。俺たちの影も、そうなってる」
実際、ユウが足元を見ると、人間たちの影は、非常灯からの光に従って同じ方向に伸びていた。
ところが。
「死体の影だけ、角度が違う」
片桐の声に、背筋が冷たくなる。
見ると、三つの袋の影は、確かに別の方向に伸びていた。
非常灯の光だけでは説明できない角度。それはまるで、倉庫の反対側に窓でもあり、そこから差し込む光に従っているような――そんな方向だった。
「こっち側に、窓なんてないよな」
御子柴が壁を叩く。鈍い音が返る。土砂とコンクリートが、裏側を完全に塞いでいる。
「昼間の光も入ってこない。なのに、影は“ないはずの光”を追いかけてる」
片桐は影をじっと見つめていた。
その表情は、好奇心と恐怖が入り混じった複雑なものだった。
「……やめろよ」
三輪が、小さく震えた声で言う。
「そういうの、今は見たくない」
藤咲は死体袋から視線をそらし、お腹を抱きしめるようにして座り込む。
御子柴が、空気を変えようとするように、わざと明るい声を出した。
「まあ、明日の俺はあそこで寝てるかもしれないしな。影の向きくらい、そのとき一緒に確かめてやるよ」
冗談のつもりだった。
だけど、その言葉が空中に浮かんだ途端、藤咲の表情がくしゃりと歪んだ。
「やめて……」
涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「そういうこと、言わないでよ。誰があそこに行くとか、行かないとか……今、そんな話、聞きたくない」
御子柴は、しまった、という顔をして頭をかいた。
「ああ、ごめん。悪かった。そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味?」
藤咲の声は、涙でにじみながらも鋭かった。
「……怖いのをごまかしたかっただけだよ」
素直なその一言に、誰も追及できなくなった。
昼がどこで終わり、夜がどこから始まったのか、誰にもわからない。
外の空は見えないし、時計の針は止まっている。スマホの画面に表示される時間も、もう信用できなかった。
それでも「夜」と呼ばれる時間帯はある。
人の声が減り、疲れが重くなり、誰かの寝息と誰かのうなされる声だけになる、その時間に。
その夜、倉庫の壁のどこかが、きしんだ。
「……今、風、入った?」
三輪が上体を起こし、薄暗い天井を見つめる。
壁のクラック――ひび割れの隙間から、確かに冷たい空気が流れ込んでいた。そこだけ、ラジオのノイズのような音がしている。
ひゅう、という風の通り抜ける音に、三輪は別のものを聞いた。
「……リン」
金属同士が触れ合う、かすかな音。
風鈴の音を、もっと遠く、もっと冷たくしたような響き。
「聞こえた?」
隣で丸まっていたユウが、眠そうな目をこすりながら顔を上げる。
「何が」
「リンって。金属の音。ほら、また」
ひゅう。
リン。
壁のひびを通じて響く音が、規則的に繰り返される。
ユウには、ただの軋みの一種にしか聞こえない。だが、三輪には違う意味を帯びて聞こえていた。
「……数えてるんだ」
「数えてる?」
「うん。リン、リンって。誰かが、何かを数えてる音みたいに」
言葉にすると、余計に怖くなった。
さっき決めた「点呼の祈り」。
それとは別の場所で、別の何かが、同じように数字を重ねている。
「考えすぎだよ」
ユウはそう言いながらも、壁のひびから聞こえる音を意識してしまう。
ひゅう。
リン。
風が吹くたびに、何かが一つずつ増えているような錯覚。
死体袋の数も、いつの間にか、そうして増えていたのではないか。そんな馬鹿げた想像が、頭から離れない。
眠れない。
だからユウは、立ち上がった。
黒板の前に座り込み、チョークを手に取る。
左側に、細い線を一本引いた。
日にちを区切る線。
何日目なのかはわからない。時計は止まり、青ざめた画面に表示された数字が本当かどうかも疑わしい。
それでも、線を引かずにはいられなかった。
線の右側に、今日の数字を書く。
生存者十三
死体三
その左に、無言の縦線が立つ。
一本。
これが一日なら、明日の朝はその右にもう一本増える。そして、そのたびに「死体」の数字も増えていくのだろうか。
嫌な想像だ。
それでも、数字を記録することで、何かを掴めるかもしれないという希望もあった。
「……その字、書いたの、君?」
背後から声がした。
田所だった。いつの間にか起きていて、ユウの手元をじっと見ていた。
「え? ああ、うん。俺だけど」
「そうかな」
田所は黒板に近づき、今日と昨日、その前の日の文字を見比べるように視線を滑らせる。
「この“生存者”の“存”の字。昨日のと、形が違う」
「それは……手が震えてたからじゃないかな。昨日は」
「震えた字っていうより、書き慣れた字に見える。線の払い方とかさ。ここ二日より、今日のほうが“筆圧が安定してる”」
田所は指先で、二つの「存」の字を軽くなぞる。
「それに、この“十三”」
昨日の「十三」と、今日の「十三」。
書いた本人であるユウにも、違いはわかっていた。昨日は線が細く、たどたどしい。今日の数字は、妙に自信に満ちている。
「……言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれない?」
ユウはチョークを握りしめたまま言う。
「書いているのは、君なのか?」
田所の声は静かだった。責めるというより、確認しているような口調。
「当たり前だろ。他に誰がいるんだよ」
「最初の夜の一時間、覚えてる?」
「は?」
唐突な質問だった。
「地震のあとの一番最初の夜さ。ここに閉じ込められて、当番表を作って、死体袋を避けて寝て、それから……」
田所は目を細める。
「一時間くらいの記憶が、抜けてない?」
ユウは口を開きかけて、閉じた。
頭の中を、最初の夜から順に巻き戻す。
地震。
暗闇。
点呼。
当番表。
毛布を配って、場所を決めて。
そこまでは、はっきりしている。
そのあと、何をしていた?
誰と話していた?
何を考えていた?
どこで、どうやって眠りに落ちた?
思い出そうとすると、意識が滑る。
テープが切り取られたように、そのあたりの映像だけが白く飛んでいる。
「……確かに、あやふやなところは、あるけど」
「あるんだ」
田所は、わずかに口元を歪めた。
「君が覚えていない一時間のあいだに、誰かが黒板に触っていたとしたら?」
「そんなの、見張りが……」
「見張りも、人間だよ。疲れてるし、全部を見ていられるわけじゃない」
田所は、黒板の端に残った古いチョークの削れカスを指で弾く。
「ここに書かれている数字が、“君が”書いたものじゃないとしたら。“君の手”を使って、誰かが書いたものだとしたら」
ぞわり、と背中を汗が滑り落ちた。
「冗談だろ」
「冗談だと思うなら、それでいい。でも、僕は言葉のラベルにこだわる性格だからさ」
田所は、昨日の議論を思い出させるように微笑む。
「“生存者十三”って言葉。そこに本当に“高城ユウ”は含まれてるのか。ふと、気になっただけ」
「どういう意味だよ、それ」
「そのままの意味だよ」
田所はそれ以上何も言わず、踵を返した。
暗闇の中に戻っていく彼の背中を、ユウはしばらく見送ることしかできなかった。
黒板には、今日の数字が残っている。
生存者十三。
死体三。
左に一本、新しく引かれた縦線。
ユウはその線の起点に指を当て、自分の胸の鼓動と重ね合わせる。
一日。
一呼吸。
一人。
抜け落ちた一時間が、じわじわと存在感を増してくる。
あのとき、自分は何をしていたのか。
誰と、どんな会話をしたのか。
そして、あの時点で「死体袋」は、いくつあったのか。
思い出せない。
思い出そうとすると、壁のひびから吹き込む風の音が、やけに大きくなった。
ひゅう。
リン。
数える音。
誰かの、何かの。
ユウはふと、黒板の端に小さく書かれた字に目を止めた。
それは自分の字ではなかった。
誰がいつ書いたのかもわからない、細い文字。
生者。
死者。
その下に、さらに小さく、こう記されていた。
「どちらにいるかは、自分では決められない」
背筋が、凍りついた。




