第三章 救助を待つ者、疑う者
疑うという行為は、体力を奪う。
楢崎航はそれを、地下に閉じ込められてから初めて知った。
人を疑うには、まず相手を見る必要がある。声の震え、視線の動き、手の位置、沈黙の長さ、言葉を選ぶ間。そうしたものを一つずつ拾い上げ、頭の中で組み合わせる。あのとき何をしていたか。なぜその言葉を口にしたか。なぜ目を逸らしたか。なぜ近づいたか。なぜ離れたか。
その作業は、思った以上に疲れる。
しかも、疑っている間も、余震は来る。水は減る。怪我人は痛みを訴える。空気は少しずつ重くなる。死体安置室の黒板には、誰が書いたかわからない文字が残っている。
まだ足りない。
十三番目を数えろ。
楢崎はその文字を、何度も頭から追い払おうとした。だが、追い払おうとするたびに、逆に輪郭が濃くなる。
十三番目とは誰なのか。
死体の番号でいえば、まだ確認されていない死体十三。生存者の名簿でいえば、十三人目に書かれた駒田宗一。あるいは、人数そのものの中に紛れた、存在してはいけない誰か。
数字は、答えではなかった。
問いだった。
「水をもう一本開けるべきだ」
北條克己が言った。
備蓄室の中央に、ペットボトルの箱が積まれていた。二リットルの水が二十四本入り。封を切った箱が三つ。未開封が七つ。通常なら充分な量に見える。だが、出口が見つからず、救助の見通しも立たない地下では、どれだけあっても充分には思えなかった。
藤咲真帆は紙コップに少量ずつ水を注いでいた。怪我人と小机タケル、三輪シオリには少し多めに渡し、他の大人には唇を湿らせる程度にする。それだけでも、不満は生まれる。
「喉が渇いているのは皆同じです」
藤咲は答えた。
「俺は糖尿の気があるんだ。脱水になるとまずい」
北條は腹のあたりを毛布で隠しながら言った。病気を盾にする声だった。事実かもしれない。嘘かもしれない。だが、この場でそれを確かめる方法はなかった。
「持病があるなら、最初に申告してください」
「今しただろう」
「薬は?」
「上着のポケットに……いや、車の中だ」
「車は地上です」
「だから困ってるんじゃないか」
北條の苛立ちは、水の量よりも自分が特別扱いされないことに向いているように見えた。
砂原舞が布を裂く手を止めた。
「本当に糖尿の薬ですか」
「何だと」
「車に置いてあるものって、薬だけですか」
北條の目つきが変わった。
「どういう意味だ」
「この避難所の補修工事に関する資料も、車に置いてあるんじゃないですか」
室内の空気が変わった。
田所美津子が顔を上げる。鍵束が小さく鳴った。結城蒼太も、床に描いていたひび割れのスケッチから目を離した。
北條は砂原を睨んだ。
「こんなときにまで、その話か」
「こんなときだからです」
砂原の声は低かった。
「この建物、壊れ方が変です。耐震補強済みの指定避難所としては、崩落箇所が多すぎる。私が取材していたのは、その件です」
「素人が何を言う」
「私は素人です。でも、専門家にも聞いています。補強工事の一部が、設計通りに行われていなかった可能性がある、と」
北條は立ち上がった。
沢村蓮が、ゆっくりと鉄パイプを床から持ち上げた。威嚇ではない。だが、それだけで北條の動きは止まった。
「座ってください」
楢崎が言った。
「うるさい。こいつは俺を犯罪者扱いしてるんだぞ」
「していません。確認しているだけです」
砂原は淡々と言う。
片桐周が短く笑った。
「確認という言葉は便利だな。さっき楢崎も使っていた」
「必要な言葉です」
楢崎は片桐を見た。
「ここでは、断定より確認が必要です」
「断定を避け続けると、手遅れになることもある」
片桐の視線は、死体安置室の扉へ向いていた。
楢崎は言い返せなかった。
食料の箱を開けると、乾パン、アルファ米、羊羹、ビスケット、粉末スープが出てきた。賞味期限はまだ切れていない。市の備蓄としては、むしろ管理されている方だ。だが、箱の数が台帳と合っているかはわからない。台帳は地上の管理室にある。地上には瓦礫がある。瓦礫の向こうには、たぶん救助隊がいる。けれど、その距離は今、別の世界ほど遠かった。
「食料は一人一食分ずつ。小机くんと怪我人を少し優先します」
藤咲が言った。
「子どもだから優先か」
北條がまだ不満げに言う。
三輪が顔を上げた。
「じゃあ、私の分を小机くんにあげます」
「三輪さん」
藤咲が制する。
「大丈夫です。私は水だけでいいです」
「そういう問題ではありません」
「でも、大人が揉めるくらいなら」
「子どもが大人の顔色を見て食べ物を減らす必要はありません」
藤咲の声が、わずかに強くなった。
三輪は黙った。
楢崎は紙コップを受け取りながら、そのやり取りを見ていた。三輪シオリは、ただ怯えているだけの少女ではない。周囲をよく見ている。誰が強い言葉を使い、誰が何を隠し、誰が本当に怖がっているかを見ている。
小机は三輪の隣でビスケットを両手で持っていたが、なかなか口に運ばなかった。
「食べていいよ」
三輪が言う。
「三輪さんは?」
「私はあとで食べる」
「嘘だ」
小机は小さく言った。
三輪は少しだけ困った顔をした。
「嘘じゃないよ」
「大人みたいな嘘だ」
その言葉に、楢崎は胸を突かれた。
大人みたいな嘘。
この地下には、そういう嘘が多すぎる。
大丈夫。救助は来る。すぐに出られる。水は足りる。建物は安全だった。死体の番号には意味がない。誰も嘘をついていない。
どれも必要な言葉だった。だが、必要な嘘でも、嘘は嘘だ。
「食べなさい」
藤咲が小机に言った。
小机は藤咲を見上げた。
「死んだ人も、お腹空く?」
室内が静かになった。
誰かが息を呑む音がした。
藤咲は膝を折り、小机と目線を合わせた。
「死んだ人は、お腹は空かない」
「じゃあ、あの部屋の人たちは、もう食べなくていいんだ」
「そう」
「じゃあ、なんで数えるの?」
藤咲は答えられなかった。
楢崎も、片桐も、誰も答えられなかった。
小机はビスケットを見つめたまま言った。
「もう何もいらないなら、数えなくてもいいのに」
「忘れないためだよ」
声を出したのは、駒田宗一だった。
老人は壁際に座り、羊羹を半分だけ手に持っていた。包装は開けていない。
「死んだ人間は、腹は減らん。喉も渇かん。寒いとも言わん。だから、生きている人間はすぐ忘れる。声がしないものは、数えないと消えてしまう」
小机は駒田を見た。
「消えちゃうの?」
「人の中からな」
「おじいちゃんは、死んだ人を数えたことあるの?」
駒田の指が、羊羹の包装を少しだけ握り潰した。
「ある」
それだけ言うと、老人は口を閉ざした。
田所が小さく目を伏せる。
楢崎はその反応を見逃さなかった。駒田と田所は、旧実験室について何かを知っている。あるいは、この避難所の過去について。
問い詰めたい衝動があった。
だが、今は地下の構造を確認する必要がある。
結城は壁際の亀裂をライトで照らしていた。沢村がその隣に立ち、天井を見上げている。楢崎が近づくと、結城は床に置いたスケッチを示した。
「崩落の中心は体育館のメインアリーナ側ですが、地下にも変な力が入っています。普通なら、上からの荷重でこう潰れるはずなんですが」
彼は紙に線を引いた。
「この壁の亀裂は、横方向に引っ張られたように見える。地震の揺れだけでは説明しにくい」
「補修工事の問題ですか」
「可能性はあります。あと、地下空間の配置が図面と違うかもしれません」
「図面は見ていないのに?」
「壁の厚みと音が合わないんです」
結城は壁を軽く叩いた。
鈍い音。
少し離れた場所を叩く。
今度は、かすかに空洞を思わせる音がした。
「この奥に空間があります」
「旧実験室ですか」
「位置的には、その可能性が高い。ただ、田所さんが言っていた通路とは少しずれている」
「ずれている?」
「この建物、改修のたびに壁を増やしたか、埋めたかしています。地震で塞がれた場所とは別に、最初から隠されている通路があるかもしれない」
沢村が眉を寄せた。
「隠されている通路?」
「古い施設ではあります。図面と現場が一致しないことは珍しくありません」
「それが避難所で起きてるのが問題だろ」
沢村の声には怒りがあった。
楢崎は何も言えなかった。
問題だ。その通りだった。
指定避難所は、いざというとき命を預ける場所である。だが、その場所の図面が曖昧で、補修履歴も不明で、地下には閉鎖された実験室がある。その事実だけで、市の危機管理は責められて当然だった。
そして、その担当者が自分だ。
「北條さんに聞きましょう」
結城が言った。
「補修工事を担当したなら、地下の構造を知っているかもしれない」
楢崎は北條を見た。
北條は水の入った紙コップを両手で持ち、こちらに背を向けている。太い首筋に汗が浮いていた。暑いからではない。恐れているのだ。
「北條さん」
楢崎が呼ぶと、北條は肩を震わせた。
「何だ」
「この地下の補修工事について聞きたいことがあります」
「知らん」
「まだ何も聞いていません」
「俺は現場の細かいことまでは知らん。下請けに任せていた」
砂原がすぐに口を挟んだ。
「つまり、元請けとして管理していなかったと?」
「黙れ」
「市には管理していたと報告していますよね」
「黙れと言ってる!」
北條が立ち上がった。
その瞬間、余震が来た。
最初は低い唸りだった。床下から獣が吠えるような音がし、次に天井の金属材が鳴った。備蓄棚が揺れ、ペットボトルの箱が一つ崩れる。小机が悲鳴を上げる。三輪が抱きしめる。藤咲が怪我人の上に覆いかぶさる。沢村が棚を押さえ、結城が壁から離れろと叫ぶ。
楢崎は黒板を押さえた。
生存者の名簿が書かれた黒板。
それが倒れれば、名前が擦れて消える。そんなことを恐れるのはおかしいと頭ではわかっていた。だが、彼は必死で黒板を押さえた。
揺れは二十秒ほどで収まった。
地下に、砂の落ちる音だけが残る。
誰もすぐには動かなかった。動けば、まだ揺れていることを認めるような気がした。
「全員、怪我は」
楢崎が声を出す。
藤咲がすぐに確認を始めた。
小机は泣いていなかった。三輪の服を掴み、目を見開いている。三輪の方が泣きそうな顔をしていた。
沢村が天井を見上げる。
「このままじゃ、長くは持たない」
「どのくらいですか」
楢崎が訊く。
「わからん。だが、余震がもう一発大きければ、通路側が落ちる」
結城も頷いた。
「上への階段は使えません。奥の空洞を調べるしかない」
「危険です」
田所が言った。
声が震えている。
「旧実験室の方は、昔から立ち入り禁止で」
「昔から?」
楢崎は聞き返した。
「なぜですか」
「老朽化です。機械も古いし、床も傷んでいるから」
「それだけですか」
田所は黙った。
駒田が田所を見た。
「美津子さん。もう隠せる状況ではない」
「私は……私は、詳しいことは本当に知らないんです」
「なら、知っていることだけ話せばいい」
田所は鍵束を握りしめた。金属同士が震え、細い音を立てる。
「あの部屋は、昔、防災研究のために使われていました。地震計や、揺れを記録する装置があったと聞いています。でも、私は管理を引き継いだだけで、研究の内容までは」
「いつ閉鎖されたんですか」
結城が訊く。
「二十年以上前です」
「なぜ閉鎖を?」
「事故があったと聞いています」
「事故?」
田所は唇を噛んだ。
「避難訓練中に、何人かが地下に取り残されたことがあったと」
砂原が顔を上げた。
「その記録は、市の公開資料にはありません」
「正式な事故ではなかったからです」
駒田が言った。
楢崎は老人を見た。
「正式ではない事故とは、何ですか」
「人が死んでも、記録に載らないことはある」
駒田の声は静かだった。
「特に、責任を取る者がいないときは」
その言葉は、地下の空気より重かった。
北條が苛立ったように言う。
「昔話をして何になる。今は出口を探すんだろう」
「昔話の中に、出口があるかもしれません」
砂原が返す。
「あなたにとっては、掘り返されたくない話かもしれませんが」
「しつこい女だな」
「取材対象にはよく言われます」
「こんな場所で記事を書くつもりか」
「生きて出られたら」
「出られなかったら?」
砂原は少しだけ黙った。
「誰かが覚えていれば、それでいい」
駒田の言葉を受けたような返事だった。
楢崎は御子柴の方を見た。
「監視カメラの復旧はどうですか」
「一部だけ見られます」
御子柴はノートパソコンの画面をこちらへ向けた。
「ただし、録画データが飛び飛びです。地震直後、電源が落ちて、非常電源に切り替わるまで空白がある。そのあと、数分だけ地下通路の映像が残ってる」
「高城さんは映っていますか」
高城ユウの肩が、かすかに揺れた。
御子柴は画面を操作した。
「今のところ、はっきり映っているカットはないです。死角から入った可能性はあります。でも、変な映像が一つある」
「変な映像?」
「死体安置室の前です」
全員が黙った。
御子柴は映像を再生した。
画面は白黒で、ひどく粗い。時刻表示は乱れている。地下通路の片隅が映っていた。死体安置室の扉。その前の床。非常灯の赤い光は白黒映像の中では薄い灰色になっている。
最初、何も映っていない。
ノイズが走る。
次の瞬間、人影が現れた。
扉の前に、一人立っている。
顔は映っていない。カメラの角度が悪く、上半身はフレームの外に切れていた。映っているのは、腰から下だけ。ズボンの裾。靴。右手らしきものが扉に触れる一瞬。
映像はそこで乱れた。
砂嵐。
そして、何もない通路に戻った。
「これだけです」
御子柴が言った。
「時間は?」
「表示は壊れてます。でも、データの並びからすると、昨夜の一時から二時の間。黒板の文字が増える前後かもしれない」
片桐が画面に顔を近づけた。
「靴を拡大できるか」
「画質は荒いですよ」
「いい」
御子柴が操作する。
靴が拡大された。
黒っぽいスニーカー。泥と粉塵で汚れている。つま先に白い擦り傷。靴紐の結び方が片方だけ少し緩い。
楢崎は、自分の足元を見た。
同じ靴だった。
黒いスニーカー。つま先の白い擦り傷。右の靴紐だけ、少し緩んでいる。
誰も声を出さなかった。
沈黙の中で、楢崎は自分の呼吸だけを聞いた。
違う。
また、その言葉が頭に浮かぶ。
違う。自分ではない。昨夜、自分は備蓄室にいた。全員の前にいたはずだ。少なくとも、死体安置室に一人で入った記憶はない。
だが、それは証明にならない。
この地下では、記憶はすでに何度も揺らいでいる。
「楢崎さん」
砂原の声がした。
「その靴」
「似ているだけです」
藤咲が言った。
早すぎる擁護だった。
片桐は楢崎を見ている。元警察官の目だった。人を疑うことに慣れた目。しかも今度は、疑いが職業的なものだけではない。彼自身も死体に秘密を暴かれている。だからこそ、他人の秘密を見逃す余裕がない。
「昨夜の一時から二時の間、どこにいた」
片桐が訊いた。
「備蓄室です」
「ずっとか」
「たぶん」
「たぶん?」
「余震のあと、死体安置室の音を確認しました。その前後は、黒板の前にいました」
「誰か見ていたか」
楢崎は室内を見渡した。
誰もすぐには答えなかった。
藤咲が口を開く。
「私は楢崎さんを見ています」
「ずっとか」
片桐が訊く。
藤咲は一瞬黙った。
「ずっとではありません。怪我人を見ていましたから」
「つまり、空白はある」
「全員にあります」
藤咲の声が強くなった。
「この状況で、誰か一人をずっと見張っていた人はいません」
「だからこそ、確認している」
「確認という名の決めつけに見えます」
片桐の目が細くなる。
「看護師は優しいな」
「元警察官は疑い深いですね」
「疑い深いから、生き残ることもある」
「疑い深いから、人を殺すこともあります」
その一言で、片桐の顔色が変わった。
藤咲自身も、自分の言葉が刃になったことに気づいたのだろう。すぐに目を伏せた。
「すみません」
「謝るな」
片桐は低く言った。
「間違ってはいない」
その声には、奇妙な疲れがあった。
楢崎は二人の間に入った。
「映像だけでは断定できません」
「だが、無視もできない」
片桐は言う。
「その靴を履いた人間が、昨夜、死体安置室の前に立っていた。楢崎の靴と似ている。これが事実だ」
「靴は量産品です」
御子柴が言った。
「同じモデルを履いている人がいても不思議じゃない」
「この十三人の中に?」
片桐が訊く。
御子柴は全員の足元を見た。
沢村は作業靴。砂原はブーツ。結城は登山靴に近いスニーカー。片桐は革靴。御子柴は白いスニーカー。高城は薄いグレーの靴。北條は革靴。田所は運動靴。三輪はローファー。小机は子ども用のスニーカー。駒田は古い革靴。
黒いスニーカーは、楢崎だけだった。
御子柴は黙った。
北條が勝ち誇ったように言った。
「ほらな。役所の人間が一番怪しいじゃないか」
「黙ってください」
楢崎は思わず言った。
自分でも驚くほど低い声だった。
北條が口を閉じる。
楢崎は深く息を吸った。
「今、私を疑うのは当然です。映像があります。靴も似ています。指にインクもついていました。だから、私を監視してもらって構いません」
「楢崎さん」
藤咲が言う。
「ただし、私を疑うことと、調査を止めることは別です」
楢崎は黒板の名簿を見た。
「死体の番号、旧実験室、監視カメラ、建物の補修不備。全部つながっているかどうかはわかりません。でも、どれか一つでも無視すれば、ここから出る可能性を失うかもしれない」
「自分が疑われているのに、よく仕切れるな」
北條が言った。
「仕切りたくて仕切っているわけではありません」
楢崎は北條を見た。
「あなたも、地下構造について知っていることを話してください」
「知らんと言っただろう」
「工事の記録は?」
「会社にある」
「この建物の補強箇所は?」
「現場代理人が把握していた」
「その人の名前は?」
北條は黙った。
砂原が録音機を握りしめた。
「亡くなっていますよね」
北條の顔が歪んだ。
「黙れ」
「補修工事の現場代理人。数年前に自殺している。私はそこまで取材しています」
「黙れ!」
北條が砂原に向かって踏み出した。
沢村が間に入るより早く、余震で崩れた棚の上から金属缶が落ちた。大きな音が響き、全員が身をすくめる。北條の勢いも止まった。
「これ以上、暴力に出るなら拘束する」
片桐が言った。
「元警官風情が」
「元でも、手順は知っている」
北條は荒い息を吐きながら、壁際へ戻った。
楢崎は砂原に視線を向けた。
「その話、あとで詳しく聞きます」
「今でも話せます」
「今は全員が聞いています。情報は必要ですが、刺激が強すぎる」
「事実は刺激的です」
「ここでは、事実も使い方を間違えれば凶器になります」
砂原は何も言わなかった。
その表情には、反発だけでなく、わずかな納得もあった。
御子柴がノートパソコンを閉じた。
「バッテリーを温存します。映像は保存しました。ただ、いつまで見られるかはわかりません」
「他のカメラは?」
「データが破損しています。でも、復旧できる可能性はあります」
「お願いします」
「言われなくても」
御子柴はそう答え、少し間を置いてから楢崎を見た。
「あなたがやったとは思ってません」
その言葉は意外だった。
楢崎が返事に迷っていると、御子柴は視線を逸らした。
「正確には、あなた一人でできることじゃないと思ってます。死体の特徴を集めるには、情報が多すぎる。俺の手首の傷なんて、家族でも今は知らない」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはないです。疑いの候補から少し下げただけなので」
御子柴らしい言い方だった。
だが、その言葉で楢崎は少しだけ息ができた。
その後、地下の奥を調べる班が組まれた。
沢村と結城が先頭。楢崎が同行。片桐は備蓄室に残り、死体安置室と生存者の監視をする。藤咲も残る。御子柴は非常電源を維持しながら、監視カメラの復旧を続ける。
「楢崎を行かせるのか」
北條が言った。
「靴の映像があるのに」
「だから沢村さんと結城さんをつけます」
片桐が答えた。
「俺も見ている」
沢村が言う。
北條は不服そうだったが、それ以上言わなかった。
高城ユウが立ち上がった。
「僕も行きます」
「駄目です」
楢崎は即答した。
高城は驚いた顔をした。
「なぜですか」
「体調が不安定です。記憶も曖昧だと言っていた。危険な場所へは連れていけません」
「でも、僕」
高城は言葉を探した。
「奥に、何かある気がするんです」
楢崎は足を止めた。
「何か?」
「音がするんです。さっきから。たぶん、他の人には聞こえてない」
「どんな音ですか」
高城は耳を澄ますように目を閉じた。
「水の音。あと、誰かが数を数えている声」
小机が小さく震えた。
三輪が彼の肩を抱く。
「いくつまで数えていましたか」
楢崎は訊いた。
高城は目を開けた。
「十三です」
その答えで、誰もが黙った。
片桐が厳しい声で言う。
「なおさら残れ。君を一人で歩かせるわけにはいかない」
「一人じゃなくても?」
「駄目だ」
高城は唇を噛んだ。反抗したいのではない。ただ、自分でも理由のわからない焦燥に駆られているようだった。
楢崎は彼の肩に手を置こうとして、やめた。
誰かに触れることが、今は慎重さを要する行為に思えた。
「戻ったら、話を聞かせてください」
高城は小さく頷いた。
備蓄室の奥には、崩れた棚と古い防火扉があった。田所が持っていた鍵の一つが、その扉に合った。鍵穴は錆びついていたが、沢村が力を込めると、鈍い音を立てて回った。
扉の向こうは、細い通路だった。
空気が違った。
備蓄室の空気は、汗と粉塵と人いきれで重かった。だが、この通路から流れてくる空気は、湿っていて冷たい。地下水の匂いがする。ずっと閉じられていた場所が、地震によって肺を開いたようだった。
結城がライトを向ける。
壁には古い配線が走っていた。ところどころ断線し、露出した銅線が緑青を帯びている。床には水が薄く溜まり、揺れのたびに波紋を作っていた。奥は瓦礫で半分塞がっているが、人一人がかろうじて通れる隙間がある。
「危険だな」
沢村が言った。
「行くなら腹ばいです」
結城が答える。
「余震が来たら潰れるぞ」
「でも、奥に空間があります。風が流れている。出口か、別室か」
楢崎は後ろを振り返った。
備蓄室では、十三人の生存者たちがこちらを見ている。いや、今は楢崎たち三人が通路に入ろうとしているから、残るのは十人だ。それでも、彼らの視線は一つの塊のようだった。
疑い、恐怖、期待。
すべてが混ざっている。
「行きましょう」
楢崎は言った。
「俺が先に行く」
沢村が身をかがめた。
「結城は後ろから壁を見ろ。楢崎さんは真ん中。何かあったらすぐ戻る」
「わかりました」
通路に入る直前、楢崎はもう一度、死体安置室の扉を見た。
閉じきらない扉の隙間から、暗闇が覗いている。
その奥に、番号を振られた死体が並んでいる。
一、二、三、四、五、六、七。
まだ確認されていない数字がある。
八、九、十、十一、十二、十三。
そして、十四。
楢崎は自分の右手を握った。古い傷が、皮膚の下で熱を持っているような気がした。
数字は人間を見ている。
その考えが、また頭をよぎった。
だが、通路の奥から流れてくる冷たい空気は、別のものを運んでいた。
水の音。
金属が軋む音。
そして、かすかに。
ひとつ、ふたつ、みっつ、と。
誰かが数を数えるような声が、楢崎の耳にも届いた気がした。




