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死体を数える部屋――地震で崩壊した避難所。十三人が閉じ込められ、翌朝、死体が一つ増えていた。  作者: 二条理|アコンプリス


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第二章 最初の照合

 指先についた黒いインクは、なかなか落ちなかった。

 楢崎航は備蓄室の隅に置かれていたポリタンクの水を少しだけ掌に受け、親指と人差し指をこすった。水は冷たかった。地下に置かれていた水だからではない。彼自身の手が熱を失っているせいだと、しばらくして気づいた。

 黒い染みは爪の際に入り込んでいる。皮膚の皺にも細く残っていた。油性ペンのインクだ。昨日、黒板に名簿を書いたときに付着したのかもしれない。キャップを外したまま持っていた。緊張で、ペン先を握り込んだ可能性もある。

 そう考えることはできた。

 だが、死体安置室で見た数字が、同じ黒で書かれていたことも事実だった。

 一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二。

 夜の間に、死体の手首には番号が増えていた。誰かが一体ずつ数えた。あるいは、数えられたように見せかけた。

 楢崎は指をこすり続けた。

 皮膚が赤くなっても、黒は落ちなかった。

「それ以上やると、皮が剥けます」

 背後から声がした。

 藤咲真帆だった。

 彼女は救急箱代わりに使っているプラスチックケースを抱えて立っていた。寝ていないのは顔色でわかる。目の下に薄い影があり、唇は乾いている。それでも背筋は伸びていた。看護師という仕事は、疲労を姿勢で隠す職業なのかもしれない。

「すみません」

 楢崎は水を止めた。

「謝ることじゃありません。ただ、水は節約したい」

「そうですね」

「それと」

 藤咲は一拍置いた。

「自分を疑いすぎると、判断を間違えます」

 楢崎は指先を見たまま、苦笑に近い息を漏らした。

「疑わない方が、おかしいでしょう」

「疑うことと、決めつけることは違います」

「藤咲さんは、私が書いたとは思っていないんですか」

 藤咲はすぐには答えなかった。

 備蓄室では、十三人がそれぞれの沈黙の中にいた。完全な静寂ではない。誰かの咳、衣擦れ、遠くで落ちる砂の音、非常灯の小さな唸り。そうしたものが、かえって人間の声を抑えつけている。

 藤咲は楢崎の手を見た。

「思っていません」

「理由は」

「あなたが書いたなら、もっと早く気づかれない方法を選ぶと思います」

「ずいぶんな評価ですね」

「皮肉ではありません。あなたは、雑ではない」

 それは信用なのか、疑いなのか、楢崎には判断できなかった。

 藤咲は救急箱を床に置き、消毒綿を取り出した。楢崎の手を取る。指先に残ったインクを確認し、軽く拭いた。黒は少し薄くなっただけだった。

「油性ペンは落ちにくいです。現場でも、患者さんの皮膚にマーキングした跡は残ります」

「患者さん?」

「手術部位の確認とか、処置の目印とか」

 藤咲はそこまで言って、口を閉ざした。

 手首に書かれた数字。

 処置の目印。

 患者。

 言葉同士が嫌な形で結びついた。

 楢崎は手を引っ込めた。

「死体を、もう一度確認します」

「私も行きます」

「無理しなくていい」

「無理ではありません。必要です」

 藤咲の声は静かだったが、拒否を許さないものがあった。

「遺体の状態を見れば、番号を書かれた時間の目安くらいはわかるかもしれません。正確な検案はできませんが、何もしないよりはましです」

「片桐さんも呼びます」

「その方がいいです」

 楢崎は片桐周の方を見た。

 元警察官の男は死体安置室の扉から少し離れた場所に座り、両腕を組んでいた。目は閉じているが、眠ってはいない。楢崎が近づくと、片桐はすぐに目を開けた。

「行くのか」

「はい。藤咲さんと一緒に、番号と遺体の状態を確認します」

「全員には見せない方がいい」

「わかっています」

「子どもは絶対に近づけるな」

 片桐の視線が小机タケルに向いた。小机は三輪シオリの隣で膝を抱えて座っている。昨夜からほとんど話していない。小さな青いリュックを胸に抱き、時々、死体安置室の扉を見る。

 三輪はその視線を遮るように体をずらした。

 十六歳の少女が、小学生の盾になろうとしている。

 楢崎は胸の奥に鈍い痛みを覚えた。

 大人が盾になるべきだった。

「沢村さん」

 楢崎は消防士の沢村蓮にも声をかけた。

「扉の前で待機してください。中には入らなくていい。何かあったらすぐ動けるように」

「何かって、何だ」

 沢村が眉を寄せる。

「わかりません」

「正直だな」

「嘘を言っても仕方がありません」

 沢村は鉄パイプを拾い上げた。体育館の備品棚から折れて落ちていたものだ。武器と呼ぶには頼りないが、何も持たないよりはましだった。

 御子柴怜がノートパソコンから顔を上げた。

「俺も行きましょうか。番号の筆跡とか、写真を撮っておいた方がいい。スマホのバッテリーはまだ残ってます」

「中を見られますか」

 楢崎が訊くと、御子柴は一瞬だけ黙った。

 冷笑的な表情が、わずかに崩れる。

「見たいわけじゃないですよ。でも、記録は必要でしょう。記憶は信用できない」

 その言葉に、砂原舞が反応した。

「記録なら私も」

「あなたはここにいてください」

 楢崎は即座に言った。

 砂原は不服そうに目を細める。

「記者だからですか」

「人数を増やしたくないからです」

「御子柴さんはいいのに?」

「彼は機器の確認も兼ねます。撮影は必要最小限にします」

 砂原はまだ何か言いたそうだったが、藤咲が首を横に振った。

「遺体を見る人数は少ない方がいいです。あなたが倒れたら、処置する人手が増えます」

「倒れません」

「倒れない人はいません」

 藤咲の言葉に、砂原は黙った。

 北條克己が毛布の中から声を上げた。

「勝手に死体を調べて、何になる。警察が来るまで触るな」

 片桐が冷たく返した。

「警察が来られるならな」

「元警官がそういうことを言うのか」

「元だから言える。現場は待ってくれない」

 北條は舌打ちした。

 田所美津子は鍵束を握りしめ、うつむいている。高城ユウは壁際で両手を見つめていた。駒田宗一は、何も言わずに楢崎たちを見ている。その目には、驚きよりも諦めに近いものがあった。

 楢崎はそれぞれの顔を見た。

 十三人。

 生きている者の顔は、まだ動く。怒る。怯える。疑う。嘘をつくこともできる。だが、死体は何も言わない。その沈黙の中に、誰かが番号を書いた。

 死者を黙らせたまま、意味だけを与えた。

 それが許せなかった。

 死体安置室の扉は、昨日より重く感じた。

 中に入ると、冷えた匂いが鼻を刺した。藤咲は一瞬だけ目を伏せたが、すぐに顔を上げた。御子柴はスマホのライトを点け、画面を見ないようにしながら録画を始める。片桐は手袋代わりに布を巻いた手で、扉を押さえた。

 楢崎は壁際の黒板を見た。

 数えろ。

 間違えた者から、死体になる。

 白い文字は消えていなかった。乾いたチョークの線が、非常灯の赤い光の下で、傷跡のように浮かんでいる。

「まず、番号の確認から」

 片桐が言った。

「遺体の顔は必要以上に見ない。状態確認は藤咲さんがやる。楢崎は記録。御子柴は撮影。いいな」

 誰も異論を唱えなかった。

 楢崎は黒板用のチョークではなく、自分の手帳を開いた。油性ペンを使う気にはなれなかった。ボールペンで書く。

 死体一。

 一番奥の身元不明遺体。黒いパーカー、ジーンズ。顔面損傷。右手首に「一」。

 藤咲がしゃがみ込む。

「体温はかなり低いです。ただ、この環境ですから正確な判断はできません。死後硬直は……他の遺体と比べると、少し違う」

「違う?」

 楢崎が訊く。

「進み方が均一ではありません。外傷の状態も、地震による圧潰だけとは言い切れない」

 御子柴のスマホが小さく電子音を立てた。撮影の音だった。

 藤咲は遺体の手に視線を落とした。

「右手を見てもいいですか」

 片桐が頷き、布越しに手首を支えた。

 楢崎は見ないようにしようとした。だが、見た。

 右手の人差し指の付け根。

 そこに、小さな白い傷跡があった。

 楢崎の呼吸が止まった。

 その傷は、斜めに走っていた。長さは二センチほど。古い切創の痕。関節を曲げると、皮膚の皺に紛れる位置。

 楢崎は自分の右手を見た。

 同じ場所に、同じ形の傷があった。

 小学生の頃、金網をよじ登ろうとして切った傷だ。放課後の校庭だった。錆びたフェンスの上部に手をかけ、滑って皮膚を裂いた。母親に叱られ、近所の外科で縫うほどではないと言われ、絆創膏を貼って帰った。

 誰にも話していない。

 いや、話したことはあるかもしれない。子どもの頃の友人や家族には知られているかもしれない。だが、ここにいる人間が知っているはずはない。市役所の同僚でさえ、そんな傷には気づかない。

「楢崎さん?」

 藤咲が顔を上げた。

 楢崎は自分の手を握り込んだ。

「同じです」

「何が」

「傷が」

 声がうまく出なかった。

 片桐の目が細くなる。

「見せろ」

 楢崎は右手を差し出した。

 片桐は遺体の手と楢崎の手を交互に見た。藤咲も息を呑む。御子柴はスマホを構えたまま固まった。

「偶然……ですか」

 御子柴が言った。

 その声は震えていた。

「傷跡くらい、誰にでもありますよね。同じ場所に似た傷があることも、まあ、なくはない」

「なくはない」

 片桐が低く言った。

「だが、気持ちのいい偶然ではないな」

 楢崎は手を引っ込めた。

 右手が、急に自分のものではないように感じた。皮膚の下に、知らない誰かの記憶が混ざっているような感覚。吐き気に似たものが込み上げる。

「続けましょう」

 藤咲が言った。

 その声で、楢崎はかろうじて姿勢を戻した。

 死体二。

 遺体は中年女性。顔にはタオルがかけられている。衣服は地震時に避難していた者らしく、埃と血で汚れていた。右手首に「二」。

 藤咲は手袋代わりの布を巻き直し、慎重に状態を確認した。

「外傷は頭部と胸部。圧迫によるものだと思います。死後硬直は他の遺体と近い。こちらは、地震で亡くなった方として不自然ではありません」

「番号は」

「新しいです」

 御子柴がライトを近づけた。

「インクのにじみ方が、死体一と似てます。たぶん同じペンか、同じ種類の油性ペン」

 楢崎は記録した。

 藤咲が遺体の首元を確認しようとして、手を止めた。

「どうしました」

 楢崎が訊くと、藤咲は黙ったまま、自分の鎖骨のあたりに手を当てた。

「藤咲さん」

 彼女はゆっくりとブラウスの襟元を少し開いた。医療者らしい無駄のない動作だったが、その指先には明らかな迷いがあった。

 左の鎖骨下に、薄い手術痕があった。

 遺体にも、同じ位置に同じ手術痕があった。

 室内の空気が、さらに冷えた。

「十七歳のときです」

 藤咲は呟くように言った。

「事故で鎖骨を折って、プレートを入れました。あとで抜釘しています。傷は残りました」

「この遺体にも」

「同じ痕があります」

「偶然ですか」

 御子柴がまた言った。

 今度は誰も答えなかった。

 楢崎は、死体一と死体二の記録を見た。

 死体一には、自分と同じ傷。

 死体二には、藤咲と同じ手術痕。

 数字は、ただの番号ではない。

 順番だ。

 何の順番かはわからない。だが、死体は生きている誰かと対応している。

 そう考えた瞬間、楢崎は室内の十三人ではなく、外にいる十二人の気配を意識した。備蓄室で待っている者たち。自分たちはまだ知らない。自分に対応する死体が、この部屋のどこかにあるかもしれないことを。

 藤咲は遺体から手を離した。

「この方が私だとは思いません」

「もちろんです」

「でも」

 彼女は自分の鎖骨を押さえた。

「私と同じ傷を持っている」

 言葉にすると、異常はさらに輪郭を持った。

 片桐が死体安置室の奥を見渡した。

「全員分、あるということか」

「まだわかりません」

 楢崎は答えた。

「だが、調べる必要がある」

 片桐の声は硬かった。

「外の連中に説明する前に、どこまで事実か確認する」

「はい」

 楢崎は頷いた。

 死体三へ進もうとしたとき、藤咲が小さく首を振った。

「一度、外に出ましょう」

「なぜですか」

「私たちの呼吸が浅くなっています。このままだと判断を誤ります。換気も悪い。数分でいいです」

 片桐は反論しかけたが、すぐに頷いた。

「医療者の判断に従う」

 外に出ると、備蓄室の空気がわずかに暖かく感じられた。そこも決して安全な場所ではない。だが、死体が並ぶ部屋から戻ると、生きている者の体温があるだけで救いに思えた。

 全員がこちらを見た。

 説明を求める視線。

 楢崎は、何をどこまで言うべきか迷った。隠すべきではない。だが、すべてを一度に伝えれば、混乱は避けられない。

 片桐が先に口を開いた。

「遺体の番号を確認した。誰かが夜の間に書いた可能性が高い」

「誰かって誰だよ」

 北條が声を荒げる。

「ここにいる誰かってことか」

「まだ断定できない」

「じゃあ何だ。死体が自分で書いたとでも?」

 誰も笑わなかった。

 小机が三輪の腕を掴んだ。

「死んだ人、動いたの?」

 三輪は答えられない。

 楢崎は小机の前にしゃがんだ。

「動いてはいない」

「でも、音がした」

「音はしました。でも、何の音かはまだわからない」

「わからないことばっかりだね」

 子どもの言葉は、時に大人より正確だった。

 楢崎は頷いた。

「そうだね。だから、わかることから調べる」

 小机はじっと楢崎を見た。

「じゃあ、ちゃんと数えてね」

 楢崎は言葉を失った。

 ちゃんと数える。

 それは、ここでは命令に近かった。

 藤咲が水を一口飲み、再び立ち上がった。

「楢崎さん。続けましょう」

「大丈夫ですか」

「大丈夫かどうかは、終わってから考えます」

 その答えに、楢崎はかすかに笑いそうになった。もちろん、笑える状況ではなかった。だが、人間は極限状態でも、他人の強さに救われることがある。

 死体安置室に戻る前、結城蒼太が近づいてきた。

「中の状況、少し聞こえました」

「どこまで」

「傷が一致している、というところまで」

 楢崎は片桐を見た。片桐は渋い顔をしたが、止めなかった。

「結城さんはどう考えますか」

「普通に考えれば、ありえません」

「普通ではない考えなら?」

 結城は一瞬、目を伏せた。

「地震の研究をしていると、たまに人から誤解されます。地震予知ができるんでしょうとか、地下で何かが起きるんでしょうとか。もちろん、現実はそんな単純じゃない。でも」

「でも?」

「地震は、地面だけを揺らすわけではありません。建物も、水も、空気も、人間の認識も揺らす。強い揺れのあと、閉鎖空間で集団が異常な体験を共有した例はあります。錯覚、記憶の混乱、時間感覚の乱れ」

 片桐が口を挟んだ。

「要するに、集団ヒステリーだと言いたいのか」

「違います」

 結城は首を振った。

「傷跡は錯覚では説明できません。ただ、何が起きているのかを考えるなら、建物の構造と地下の状態を調べる必要があります。この体育館の下には、古い実験室があるんですよね」

 田所が離れた場所で肩を震わせた。

 楢崎はそれに気づいた。

「田所さん」

 彼女は顔を上げなかった。

「旧実験室について、あとで詳しく聞きます」

「私は、詳しいことは」

「知っている範囲で構いません」

 田所は小さく頷いた。

 その仕草に、北條が苛立ったような視線を向けた。二人の間に何かある。楢崎はそう感じたが、今は死体が先だった。

 死体三以降の確認は、さらに重くなった。

 死体三。

 男性。胸部圧迫痕。右手首に「三」。沢村と似た体格。左腕に古い火傷痕がある。

 藤咲が確認し、備蓄室に戻って沢村へ訊いた。

「左腕に火傷痕はありますか」

 沢村は怪訝な顔をした。

「ある」

「見せてもらえますか」

「何のために」

 片桐が短く説明した。

「死体の特徴確認だ」

 沢村の表情が変わった。

「俺に似た死体があるってことか」

「まだ断定していない」

「見せろ」

「駄目です」

 藤咲が即座に言った。

 沢村は彼女を睨んだ。

「俺のことなら、俺が見る」

「見ても冷静でいられる保証がありますか」

「消防だぞ」

「消防士でも人間です」

 沢村は言葉を詰まらせた。

 藤咲は目を逸らさなかった。

 しばらくして、沢村は左袖をまくった。肘の少し上から前腕にかけて、古い火傷痕が残っていた。死体三のものと位置が近い。形も似ている。

「昔、現場でやった」

 沢村は低く言った。

「救助中に、天井材が燃えたまま落ちてきた」

「ありがとうございます」

 藤咲が言うと、沢村は袖を下ろした。

「俺が死んでるってことか」

「そうではありません」

 楢崎は言った。

「では、何だ」

 答えはなかった。

 死体四。

 女性。右手首に「四」。手には壊れた小型録音機を握っていた。砂原舞のものと同じメーカー。さらに左耳の後ろに小さなほくろ。

 砂原はその特徴を聞いた瞬間、顔から色を失った。

「耳の後ろのほくろなんて、誰が知ってるんですか」

「確認させてください」

 藤咲が言った。

 砂原はしばらく動かなかったが、やがて髪を上げた。

 同じ位置に、ほくろがあった。

「録音機は」

 御子柴が訊く。

 砂原は鞄を抱きしめた。

「私のはここにあります」

「同じ型?」

「たぶん。でも、記者なら使っている人は多い」

「耳のほくろも?」

 御子柴の言葉に、砂原は彼を睨んだ。

「黙って」

 御子柴は肩をすくめたが、顔は青かった。

 死体五。

 若い男性。右手首に「五」。口の中から紙片が出てきた。藤咲が慎重に取り出すと、紙には数式のようなものがびっしり書かれていた。構造計算。耐震診断の略記。結城が見た瞬間、唇を噛んだ。

「これは」

「わかりますか」

「僕の字に似ています」

 結城の声は乾いていた。

「内容は?」

「建物の固有周期と、共振の可能性についてのメモです。僕が大学で扱っているテーマに近い」

「あなたが書いたものですか」

「違います」

 即答だった。

「でも、僕ならこう書くかもしれない」

 結城は紙片から目を離せなかった。

「字も、式の省略の仕方も、癖が似ている」

「誰かが真似た可能性は」

 片桐が訊く。

「僕のノートを見れば、できるかもしれません。でも、ここに僕の研究ノートはありません」

「スマホは」

「ロックされています」

「ロックを破れる人間はいる」

 片桐の視線が御子柴に向いた。

 御子柴は不快そうに眉を上げた。

「何でもできると思わないでください。スマホのロック解除なんて、ドラマじゃないんだから」

「できないのか」

「条件次第。でも今ここで、他人のスマホをこっそり見て、筆跡まで真似て、死体の口に紙を入れるほど暇じゃない」

「暇かどうかの問題ではない」

「じゃあ何の問題ですか」

「動機だ」

 片桐の声で、備蓄室の空気が再び張り詰めた。

 動機。

 誰かが死体に番号を書き、生きている者と対応させている。そこに動機があるとすれば、それは何か。脅迫か。告発か。復讐か。あるいは、もっと理解しがたい何かか。

 楢崎は黒板に新しい表を作った。

 死体一 楢崎? 右手の傷

 死体二 藤咲? 鎖骨の手術痕

 死体三 沢村? 左腕の火傷痕

 死体四 砂原? 耳のほくろ・録音機

 死体五 結城? 構造計算メモ

 クエスチョンマークをつけたのは、断定したくなかったからだ。

 しかし、全員がその表を見ていた。

 クエスチョンマークなど、ほとんど意味を持たなかった。

「ふざけるな」

 沢村が呟いた。

 その声は怒りというより、恐怖に近かった。

「俺たちが死体になってるってことか」

「似た特徴を持つ遺体がある、というだけです」

 楢崎は言った。

「だけ、ね」

 砂原が乾いた笑いを漏らした。

「便利な言い方ですね。役所の人は」

 楢崎は反論しなかった。

 北條が立ち上がった。

「こんなものは誰かの仕掛けだ。そうだろ。最初からここにいた誰かが、俺たちを脅すためにやっている」

「誰が?」

 三輪が言った。

 全員が少女を見た。

 三輪は小机の肩を抱いたまま、北條を見返している。

「ここにいる人、みんな怪我してるし、疲れてるし、昨日の夜はほとんど同じ部屋にいました。死体の部屋に入ったら、片桐さんが気づくんじゃないですか」

「ガキは黙ってろ」

 北條が怒鳴った。

 沢村が一歩前に出た。

「言い方に気をつけろ」

「何だ、消防士。俺を脅すのか」

「子どもに怒鳴るなと言ってる」

「子どもだから何だ。こいつだって、見ていないだけで何か」

 北條の言葉が終わる前に、藤咲が冷たく言った。

「小机くんと三輪さんは、私の近くで寝ていました」

「寝ていたなら、見ていないだろ」

「私はほとんど眠っていません」

 藤咲の声は低かった。

「それでも疑うなら、先に私を疑ってください」

 北條は舌打ちし、また毛布の上に座った。

 田所が震える声で言った。

「あの、もうやめませんか。これ以上調べても、皆さんが怖がるだけです」

「怖がるだけで済むなら、やめます」

 片桐が言った。

「だが、誰かが意図的にやっているなら、次は死体では済まないかもしれない」

「次って何ですか」

 田所の声が裏返る。

 片桐は答えなかった。

 答えなくても、全員がわかっていた。

 黒板には、昨夜の文字が残っている。

 間違えた者から、死体になる。

「死体は十二まで番号が振られていました」

 御子柴が言った。

「でも、十四体あるんですよね。番号がない二体は何ですか」

 楢崎は御子柴を見た。

 その問いは、今いちばん避けたかったものだった。

「まだ確認中です」

「十三と十四がない。そういうことですよね」

「そうです」

「なら、番号を振ってるやつは、まだ終わってない」

 御子柴の言葉に、誰もが沈黙した。

 まだ終わっていない。

 死体は十二まで数えられた。生存者は十三人。死体は十四体。足りない数字が二つある。

 十三。

 十四。

 その数字が、楢崎の頭の中で不気味に響いた。

 結城が黒板の表を見つめながら言った。

「一から五までが、僕たちに対応しているとして」

「対応という言葉を使うな」

 沢村が低く唸った。

「すみません。でも、他に言い方がない」

 結城は唇を噛んだ。

「仮にこれが偶然ではないなら、死体は単なる死体ではありません。僕たちの情報を持っている。傷、手術痕、身体的特徴、所持品、筆跡の癖。普通に考えれば、誰かが事前に調べた」

「普通じゃない考えは?」

 楢崎が訊いた。

 結城は答えなかった。

 代わりに、駒田宗一がぽつりと言った。

「同じ場所に、同じものが重なることはある」

 全員の視線が老人に向いた。

 駒田は杖の柄を撫でていた。

「比喩だ。年寄りの戯言と思ってくれていい」

「今は戯言でも聞きます」

 楢崎は言った。

 駒田はゆっくり顔を上げた。

「理科の授業で、波の話をしたことがある。二つの波が重なると、大きくなる場所と打ち消し合う場所ができる。音も、光も、地震波も、みな波だ。地面が揺れるとき、建物も揺れる。水も揺れる。空気も揺れる。人の記憶も、まあ、揺れることはある」

「記憶の問題だと?」

 片桐が訊く。

「そうだとは言っていない。ただ、この体育館の地下は、昔から妙な揺れ方をした」

 田所が顔を上げた。

「駒田さん」

「隠しても仕方ないだろう」

 駒田は田所を見た。

「この場所は、ただの備蓄倉庫ではなかった。昔は観測機器が置かれていた。地震の揺れ方を調べるための部屋だ。閉鎖されたが、完全に撤去されたわけではない」

 結城が身を乗り出した。

「観測機器? 地震計ですか」

「古いものだ。今の大学で使うような立派なものではない」

「それでも、地下構造の資料が残っていれば」

「今はそれより死体だ」

 片桐が遮った。

 結城は黙ったが、目の奥に火が点いていた。恐怖だけではない。研究者としての本能が、異常な現象に引き寄せられている。

 楢崎はその危うさを感じた。

「確認を続けます」

 その言葉に、備蓄室の空気がまた重くなる。

 誰も行きたがらなかった。

 それでも、事実は死体安置室にあった。

 死体六は片桐を思わせるものだった。

 元警察官の片桐周は、最初、何も言わなかった。遺体の右手首には「六」。胸ポケットには古い手帳が入っていた。警察手帳ではない。市販の黒い手帳だ。中には、聞き取り記録のようなメモがあった。

 楢崎は中を読もうとして、片桐に止められた。

「俺が読む」

「証拠になります」

「俺が先に読む」

 その声には、これまでになく個人的な響きがあった。

 片桐は手帳を開いた。数行を読んだだけで、顔色が変わった。

「知っている名前ですか」

 藤咲が訊いた。

 片桐は手帳を閉じた。

「昔の事件の関係者だ」

「それだけですか」

「今はそれだけでいい」

 その言い方に、御子柴が鼻で笑った。

「自分のことになると、ずいぶん情報管理が厳しいですね」

 片桐は御子柴を睨んだ。

「口を慎め」

「死体に番号つけられてる状況で、慎む口なんて残ってます?」

 片桐が一歩踏み出しかけた。

 沢村が間に入った。

「やめろ。ここで殴り合ってどうする」

 御子柴は肩をすくめたが、目は片桐から逸らさなかった。

 死体七は御子柴だった。

 右手首に「七」。遺体の左手首には、古い細い傷が何本もあった。藤咲はそれを見て、すぐには何も言わなかった。医療者として、その傷が何を意味するかを理解したのだろう。

 御子柴の顔から表情が消えた。

「何ですか」

 彼は言った。

「言えばいいじゃないですか」

「御子柴さん」

「リストカット痕でしょう。そう言いたいんですよね」

 藤咲は静かに答えた。

「傷の種類だけを言えば、そう見えます」

 御子柴は笑った。笑い声は乾いていた。

「はい、ありますよ。昔の話です。腕時計で隠してました。悪いですか」

「悪くありません」

「じゃあ、その目をやめてください」

 藤咲は何も言わなかった。

 御子柴は自分の腕時計を外した。細い手首に、薄く白い傷が並んでいた。死体七のものと、同じ位置に。

 砂原が息を呑んだ。三輪は小机の目を片手で覆った。小机はその手をどけようとはしなかった。

「これで満足ですか」

 御子柴は言った。

「人の秘密を一つ暴いた。次は誰です?」

 誰も答えない。

 楢崎は黒板に記録した。

 死体六 片桐? 古い手帳

 死体七 御子柴? 左手首の傷

 書いているうちに、吐き気がした。

 これは調査ではない。

 解剖でもない。

 暴露だった。

 死体は一体ずつ、生きている者の隠していた痕跡を差し出している。傷、手術痕、火傷、ほくろ、筆跡、過去の事件、自傷の跡。本人が口にしたくないものを、死者の体が代わりに語っている。

 誰がこんなことを考えたのか。

 いや、誰かが考えたのか。

 その問いが、楢崎の中で膨らんでいく。

 死体八と九は、まだ詳細確認をしていなかった。北條と田所に関わるものかもしれない。死体十以降も残っている。三輪、小机、駒田。そして高城ユウ。

 高城は、ずっと黙っていた。

 黒板の表を見つめる彼の顔は、他の誰とも違っていた。恐怖というより、何かを思い出しかけている顔。遠い場所から自分の名前を呼ばれているのに、その方向がわからない人間の顔だった。

「高城さん」

 楢崎が呼ぶと、彼は肩を震わせた。

「はい」

「体調は」

「大丈夫です」

「本当に?」

「……わかりません」

 まただ、と楢崎は思った。

 高城の答えには、いつも小さな空白がある。年齢を訊いたときもそうだった。自分の状態を訊かれた今もそうだ。

「何か思い出しましたか」

 高城はゆっくり首を振った。

「でも、変なんです」

「何が」

「この黒板の文字を見てると、知ってる気がする」

 全員の視線が高城に集まった。

 高城は慌てたように言い直した。

「書いたって意味じゃないです。そうじゃなくて……見たことがあるような」

「どこで」

「わかりません」

 片桐が鋭く訊いた。

「君は本当に、この体育館に避難してきたのか」

 高城は口を開いた。

 だが、言葉が出なかった。

 備蓄室の空気が静止する。

 楢崎は、高城を庇うべきか、追及するべきか迷った。片桐の疑いは当然だった。監視カメラには高城の姿が映っていない。彼だけが、地下へ来る経路の記憶を曖昧にしている。そして今、黒板の文字に見覚えがあると言った。

 だが、その顔は嘘をつく者の顔には見えなかった。

 嘘をつくには、もっと確かな自分が必要だ。高城には、その自分が欠けている。

「片桐さん」

 楢崎は言った。

「今は決めつけないでください」

「決めつけてはいない。確認している」

「確認なら、順番にしましょう」

「順番ね」

 片桐は黒板の表を見た。

「その順番も、誰かに決められているようだが」

 楢崎は返事ができなかった。

 そのとき、死体安置室の方から音がした。

 かつん。

 何か硬いものが床に落ちた音。

 全員が凍りついた。

 沢村が鉄パイプを握り直す。片桐がゆっくり立ち上がる。藤咲は小机と三輪を自分の背後に下がらせた。

「誰か入っているのか」

 北條が震える声で言った。

「全員ここにいる」

 沢村が答えた。

「じゃあ、何だよ」

 誰も答えなかった。

 楢崎は死体安置室へ向かった。片桐と沢村が続く。藤咲も来ようとしたが、楢崎は手で制した。

「ここにいてください」

「でも」

「子どもたちをお願いします」

 藤咲は唇を結び、頷いた。

 扉を開ける。

 中は静かだった。

 ブルーシートの上に遺体が並んでいる。壁の黒板には白い文字。チョーク受け。壊れた卓球台。折れたモップ。

 床に、白いチョークが落ちていた。

 昨日、黒板の下に置かれていた短いチョークだ。今は床の中央に転がっている。

 そして黒板には、新しい文字が増えていた。

 まだ足りない。

 その下に、もう一行。

 十三番目を数えろ。

 楢崎は、喉の奥がひゅっと鳴るのを聞いた。

 片桐が低く呟いた。

「誰だ」

 沢村が部屋の奥へライトを向ける。

 誰もいない。

 換気口は狭く、扉は楢崎たちが来るまで閉まっていた。少なくとも、備蓄室側からは誰も入っていない。

 だが、文字は増えている。

 十三番目を数えろ。

 楢崎の頭に、黒板の名簿が浮かんだ。

 十三人の生存者。

 十二まで番号が振られた死体。

 そして、まだ確認されていない死体十三。

 いや、本当に問題は死体十三なのか。

 死体は十四体ある。

 十三番目を数えろ、という命令は、死体の番号の話なのか。生きている十三人目の話なのか。それとも、この場にいるべきではない十三人目のことなのか。

 片桐が楢崎の腕を掴んだ。

「外に戻るぞ。ここに長くいるな」

 楢崎は頷いた。

 だが、目は黒板から離れなかった。

 白い文字の下に、チョークの粉が落ちている。今しがた書かれたものだ。誰かが書いた。誰かが、この部屋の中で、彼らに命じている。

 数えろ。

 まだ足りない。

 十三番目を数えろ。

 楢崎は自分の右手を見た。

 人差し指の付け根に、古い傷がある。

 その傷が、死体一にもあった。

 もう逃げられない、と彼は思った。

 数字は冷たい。だが、嘘をつかない。

 そう信じていた。

 けれど今、数字は人間を見ている。

 一人ずつ、見ている。

 そして次に数えられる者を、待っている。



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