第2話「増えるはずのない朝:死体2」
朝が来たと、誰が最初に気づいたのかは覚えていない。
天井のすき間から光が差し込むわけでも、鳥の声が聞こえるわけでもない。外界を知る窓はなく、時計も、スマホの電池もほとんど残っていない。
それでも、倉庫の空気がわずかに冷たくなり、人の体温のぬくもりが薄まり、どこかで誰かが寝返りを打つ音が重なったとき、ここにいる全員が「朝だ」と理解した。
その理解が、次の瞬間には後悔に変わる。
「……ユウ。数えてくれ」
沢村の声はかすれていた。徹夜の見張りのせいなのか、あるいは別の何かのせいなのか、ユウには判別できない。
黒板の前に立つと、白い粉を吹いたチョークが指にざらついた感触を残した。昨日書いた文字がまだそこにある。
生存者十三
死体一
数字が、ユウを見返す。
息を吸う。吐く。喉の奥がひりつく。
まずは、生きている人間からだ。
「えっと……じゃあ、点呼する。名前を呼ばれたら返事を」
ユウが振り向くと、体育倉庫の床に並んだ十三人がそれぞれの寝袋やマットの上で身じろぎした。土埃のにおいと汗のにおいが混じり、狭い空間を満たしている。
「高城ユウ」
「はい」
自分で自分の名を呼び、自分で返事をする。その滑稽さに、誰も笑わない。
「砂原さん」
「いる」
短く乾いた声。
続けて名前を読み上げるたび、かすれた返事や、ひきつった笑いが返ってくる。
楢崎。沢村。御子柴。北條。三輪。藤咲。小机。結城。田所。残り二人の名前も、ちゃんと返ってきた。
十三。
耳で数えても、目で見ても、間違いなく。
ユウはチョークを握り直し、黒板に書き足した。
生存者十三
そこまでは、昨日と同じ。
違うのは、その次だ。
倉庫の奥。無造作に積まれていたはずの死体袋の列。その、一番手前に――昨日はなかった袋が、ひとつ、増えている。
黒い布地。固く閉じられたファスナー。
その輪郭は、誰が見ても「中に人が入っている」と理解できる形をしていた。
「……死体、二」
ユウはかろうじて声を絞り出した。チョークの先が黒板をきしませ、白い粉がぽろぽろと落ちる。
その音だけが、妙にはっきりと聞こえた。
倉庫の空気が重く沈む。誰もすぐには近づこうとしない。昨日とまったく同じ恐怖が、しかし昨日よりも濃度を増して、全員の喉を塞いでいた。
楢崎が、ゆっくり立ち上がる。
「……見に行く」
救護班だった彼の顔は、ひどく青ざめていた。だが足取りは、ぎりぎりのところで安定している。
小机が慌てて止めようとした。
「ま、待てよ。ファスナー開けるのか? やめとけよ、そんなの……」
「誰かが見ないと、何もわからない。昨日もそう言っただろ」
楢崎の手が、黒い袋に触れる。布越しに伝わる体温を確かめるように、指先がしばらく止まった。
それから、静かにファスナーを下ろした。
倉庫中の視線がそこに集まる。
中から現れた顔は――やはり、誰の顔でもなかった。
ユウは、昨日と同じ感覚を覚える。
「知らないはずの顔」を見ているのに、どこかで見たことがあるような、奇妙な déjà vu が胸の奥に貼りつく。
服装も、やはり避難所の支給品ではない。薄汚れたスーツに、擦り切れたネクタイ。髪の乱れ方も、土砂に埋もれたというより、じっと眠りこんでいた人間をそのまま横たえたような印象だった。
「誰だ……これ」
御子柴がかすれた声でつぶやく。
「知らない。避難所で見たことはない」
結城が首を振った。その手には、いつの間にか小さなジッパー付きのビニール袋が握られている。
「昨日の一体目と、服の繊維が違うかどうか、あとで調べる。少しだけ糸屑をもらってもいいか」
「そんなことして、何がわかるっていうんだよ」
三輪が震え声で問いただすと、結城は薄く笑った。
「全部はわからない。でも、この体育倉庫に元々あったものかどうかくらいは、目星がつけられる。制服の繊維と、床に落ちてるマットの繊維は違う。それくらいは、俺にもわかる」
饒舌ではない。でも、妙に落ち着いていた。
砂原が腕を組み、全体を見渡す。
「まず確認しよう。昨夜の見張りは誰だった」
「俺と、沢村さん」
御子柴が答える。沢村も静かに頷いた。
「その間、倉庫の出入りは?」
「塞がってる。土砂も、崩れてこなかった」
「誰かが袋に入るのを見たか。音は」
「……何も」
御子柴の眉間にしわが寄る。沢村は目を閉じて思い出そうとしていたが、すぐに首を振った。
「見ていない。聞いていない。僕は……誰かが袋に近づいた気配も感じていない」
「ということはだ」
砂原は、結論を急ぐように言った。
「出入りがない空間で、死体が二つになった。犯人探しをしたくなる気持ちはわかる。だが“犯行不能”だ。少なくとも、俺たちの知っている理屈では説明できない。ならば、今は共同責任だ」
共同責任。
その言葉に、北條が小さく胸の前で十字を切った。
「責任なんて、今はどうでもいい。外に出られれば、それで……」
「外に出られないから問題なんだ」
砂原はきっぱりと言う。
「いいか。食料の配分を見直す。昨日は俺が全権を握っていたが、今日は当番制にする。俺を疑いたいやつもいるだろうからな。納得したいやつは、配るところを自分の目で見ろ」
そのあたりの切り替えの早さに、ユウはまた小さな違和感を覚えた。
この人は、怖がり方を知っている。怖がらせ方も。
「さっきの点呼、やり直さないか」
静かな声が響いた。
小机だった。昨日からずっと、何か言いたげな顔をしながら黙り込んでいた彼が、ようやく口を開く。
「やり直し?」
「うん。名前を呼ぶんじゃなくて、今度は、自分で名乗る。順番に輪になってさ。……俺、どうしても不安なんだよ。“誰かを数え忘れてる”んじゃないかって」
その提案は、誰かの喉に引っかかっていたものを形にしたようだった。
沢村がうなずく。
「いい案だ。異議のある人は?」
誰も手を挙げない。
輪になるように全員が立ち上がり、体育マットの上に並ぶ。中央には、開けられたままの死体袋が二つ、黒い口をあけていた。
「じゃあ、僕から。高城ユウ」
「砂原」
「楢崎」
「沢村」
「御子柴」
順番に名前が続く。声は小さいが、はっきりしている。
藤咲の番になると、彼女は少しだけお腹を撫でてから言った。
「藤咲……と、もう一人」
その冗談に笑える余裕は、まだ誰にもなかった。
「小机」
「結城」
「田所」
最後まで数えて、沢村が確認する。
「十三人。間違いないね」
「間違いない」
そう言いながらも、小机の顔にはまだ不安が残っていた。輪が解けても、彼の視線は何度も数をなぞるように、人の顔を行き来する。
合計、十五。
生者十三、死体二。
黒板に記された「十三+二」は、数学的には何の問題もない。
だがユウには、その合計が、この閉じ込められた体育倉庫という現実を説明していないことがはっきりとわかった。
入口は塞がれ、追加で誰かが押し込まれた形跡はない。昨日の時点で、中にいたのは確かに十三人だけだった。
なのに、今日には死体が二つ。
足し算は合っているのに、物語が合わない。
黒板を見つめながら、ユウは無意識に「+」の記号を何度もなぞっていた。白い粉が指に付着し、指紋の溝を埋めていく。
「……田所さん、何してるの」
背後から三輪の声がした。振り返ると、田所が黒板の隅をじっと見つめていた。チョークを持つ手が、迷うように空中を泳いでいる。
「ちょっと思ったんだけどね」
田所は、ねっとりとした口調で言う。普段から言葉を選ぶ癖のある男だった。
「“死体”って書き方、やめないか。刺激が強すぎる。ほら、藤咲さんもいるし」
藤咲は驚いたように目を瞬かせた。
「……いえ、私は平気です」
「平気じゃない人もいるかもしれない。それに、“死体”というのは確定だ。これはまだ、何なのかわからない。“生者”と対になる言葉を、こんなにはっきり置くのは、よくないよ」
「じゃあ、何て書くの」
御子柴が眉をひそめる。
「“モノ”でいいんじゃないかな。生者十三、モノ二。……ほら、少しは柔らかく聞こえるだろう?」
倉庫の空気が、一瞬にしてぴりついた。
「ふざけないで」
最初に声を上げたのは北條だった。祈り続けていた彼女が、初めて感情を露わにする。
「人だったのよ、これも。名前がわからなくても、ここに寝かされているのは“モノ”なんかじゃない」
「でも、誰だか分からないし……」
「だからって、モノって言っていい理由にはならない」
北條の声は震えていたが、芯は強かった。
藤咲もそっと続ける。
「私も、赤ちゃんが“モノ”って呼ばれたら嫌です」
田所は肩をすくめ、両手を上げて見せた。
「そんなつもりじゃない。ただ、ラベリングの問題としてだね」
「ラベリングって、何それ」
「言葉の枠だよ。僕らは“名前”や“分類”で世界を切り分けて、安心している。さっきだって、自分の名前を言っただろう。あれもラベリングだよ。“これは私だ”って。でも、ここにいる“死体二つ”は、誰のラベルにも属していない。だから、みんな不安になる」
田所は黒板の「死体二」の文字を指でなぞる。
「この字を見ていると、“この中に俺たちの未来が紛れてる”みたいに感じるんだよ。いずれ、誰かがここに加わる。その予告みたいでさ」
誰も冗談だと受け取れなかった。
沢村が静かに口を挟む。
「田所さん。“死体”でも“モノ”でもいい。どっちでもいい。ただ、今それを議論するのはやめよう。配給と見張りのことを決めないと」
「……了解」
田所は不満そうに肩をすくめながらも、それ以上は言わなかった。
結城はその横で、二体目の服の裾からほんの少しだけ糸を摘み取り、小さな袋に入れていた。
「この繊維、触った感じが違う。体育マットとも、俺らの服とも。外から来た可能性が高い」
「昨日の一体目の服は?」
「それも同じく外から。でも、質が微妙に違う。同じ店で買った感じじゃないな」
結城の観察は、妙に具体的で、数字よりも生々しかった。
「つまり」
御子柴が言う。
「俺たちの知らない外の世界から、誰かがここに“置いていった”ってことか」
「そうとしか思えない。けど、入口は塞がれてる」
「詰み」という言葉が、誰の頭の中にもよぎった。
昼を過ぎても、誰も大きな声を出さなかった。
配給は、昨日よりさらに少ない量で配られた。砂原の指示のもと、今日は小机と結城が配る役目を引き受ける。配る手つきを全員が監視し、ひとりひとりにパンと水が渡される。
疑う目。
疑われる目。
口に入るパンの固さが、いつも以上に重く感じられた。
夕方、楢崎が死体二つのそばにしゃがみ込む。昨日から何度も繰り返していたように、体温計と血圧計を手にしている。
「また測るの?」
ユウが声をかけると、楢崎は頷いた。
「当たり前だろ。おかしいと思ったことは、繰り返し確認する。これが基本だ。医療も、調査も」
彼は一本目の袋の中に体温計を滑り込ませ、時間を待つ。
その表情には、医者としての冷静さと、人間としての怯えが同居している。
「三十……七度一分」
「え?」
ユウは思わず聞き返した。
「昨日の夜は、三十六度二分だった。上がってる」
「死んでるんだよね?」
「ああ、死んでる。脈も反応もない」
二体目も測る。結果はほとんど同じだった。
「三十七度。……やっぱり、昨日より高い」
楢崎は低くつぶやいた。その声は、倉庫の全員に届くほどの重さを持っていた。
「なあ、それ……」
三輪が震える。
「死体って、時間が経てば冷たくなるんじゃないの?」
「常識的には、そうだ」
楢崎の額に汗がにじむ。
「でも、ここは冷暖房もないし、みんなの体温で温められてる空間だ。環境のせいかもしれない。……かもしれない、けど」
言葉がそこで途切れる。
楢崎の「かもしれない」は、むしろ不安を増幅させた。
死んでいるはずのものが、時間とともに温かくなっていく。
まるで、何かが目を覚ましているかのように。
その夜、倉庫はさらに静まり返った。
誰も、死体袋のそばには寝ようとしない。気づけば、その周囲だけぽっかりと空間が空いていた。
見張りの順番が回ってきたのは、深夜に近い時間だった。
ユウは膝を抱え、黒板の前に座り込む。非常灯の赤い光が、書かれた文字をぼんやりと照らしている。
生存者十三
死体二
十三+二
何度見ても、単純な算数にしか見えない。
けれど、その数字の並びは、どうしようもなく不気味だった。
ふと視線を横にずらすと、開いたままの死体袋の片方から、顔が少しだけ覗いているのが見えた。
まぶたは閉じられ、口もきちんと結ばれている。
血の気はない。けれど、頬にはわずかに赤みが差しているようにも見える。
ユウは目をこすった。疲れのせいだ。そうに決まっている。
それでも、もう一度見た瞬間、心臓が跳ね上がった。
鼻筋。口元。顎のライン。
どこか、自分に似ている気がしたのだ。
いや、違う。そんなはずはない。
ユウは必死で否定する。似ていると感じるのは、人間の脳が勝手にパターンを探そうとする性質のせいだ。雲の形が動物や人の顔に見えるのと同じだ。
目をそらし、黒板に視線を戻す。
白い数字が並んでいる。
その中の一つ――「ユウが書いたはずの自分の字」が、どこか見慣れない形をしていることに気づいた。
生存者の人数を書いた「十」の字。
昨日、自分が書いた「十」とは、わずかに線の角度が違う。押しつける筆圧も。払いの長さも。
黒板の左端に、昨日書いた「生存者十三」が残っている。その横に、今日書いた同じ文字列が並んでいた。
比べると、一目瞭然だった。
昨日の字は、少し震えている。線が細く、たどたどしい。
今日の字は、妙に落ち着いている。線が太く、力強い。
「……俺、こんな字、書いたっけ」
呟きは、自分にしか聞こえなかった。
チョークを取って、「一」の字をなぞろうとする。
だが、指先が黒板に触れる寸前、背後でかすかな布の擦れる音がした。
振り向く。
死体袋は、さっきと同じように静かに横たわっている。
誰もいない。誰も動いていない。
聞き間違いだと、自分に言い聞かせる。
再び正面に向き直ると、黒板の数字がこちらを見ていた。
十三。
二。
十三+二。
そのどれもが、自分の筆跡のようで、自分のものではない。
ユウはチョークを握ったまま、指先にじっとりとした汗を感じていた。
書くことは、自分を確かめる行為のはずだった。数字を記すことは、現実を固定するためだった。
なのに今は、黒板のほうが、自分を数え上げているような気がする。
生存者の中に、本当に自分は含まれているのか。
死体袋の中にいるのは、本当に“知らない誰か”なのか。
暗闇の中で、ユウの視線は、黒板の「十三」と死体袋の顔を、何度も往復した。
そのたびに、両者の境界が、少しずつぼやけていく。
やがて、非常灯の光が一瞬だけちらつき、倉庫の中がほんの少し暗くなった。
その一瞬の闇の中で、誰にも聞こえないくらいの小さな声が、確かに響いた気がした。
「……生者、十三」
聞き慣れた自分の声に、よく似た声だった。




