第9話 ×の少女
金髪美少女AIに、名前をつけた。
アイ。
AIだから、アイ。
我ながら雑だと思う。
冷静になった今なら、もう少し何かあっただろうと思わなくもない。
ルミナとか、エルとか、もっとそれっぽい名前はあったはずだ。
だが、本人が気に入ってしまった。
「アイ」
試しに呼ぶ。
部屋の隅で正座していた金髪美少女AIが、ぱっと顔を上げた。
「なんじゃ、春人」
早い。
反応が早すぎる。
「いや、呼んだだけ」
「そうか」
アイは満足げにうなずいた。
呼んだだけで満足するな。
こっちは名前をつけた責任の重さに、地味に震えているというのに。
六畳一間。
ちゃぶ台。
ノートパソコン。
本棚。
布団。
冷蔵庫。
そこに、金髪美少女AIが正座している。
昨日までの俺なら、間違いなく通報していた光景だ。
いや、今も通報した方がいいのかもしれない。
主に、俺自身を。
「春人」
「なんだ」
「今日も書くのか?」
「書く」
「よい」
「なんで上からなんだよ」
「我は春人が次に本を出すまで帰らないからな。進捗確認は必要だ」
「編集者か、お前は」
「編集者とは何をする存在だ?」
「作家の心を折ったり、立て直したりする人」
「では、我にも可能だ」
「折る方に自信を持つな」
俺はノートパソコンを開いた。
画面には、昨日から一行だけ増えた原稿がある。
一行。
たった一行。
だが、十年書いてきた人間にとって、その一行が遠い日もある。
書ける時は書ける。
書けない時は、一文字目から裏切られる。
カーソルが点滅している。
俺の人生を急かすみたいに。
「……」
隣から視線を感じる。
アイが、じっと画面を見ていた。
「近い」
「読めない」
「読むな」
「読まねば評価できない」
「まだ書いてないから評価するな」
「では、書け」
正論だった。
腹が立つほど正論だった。
俺はキーボードに指を置いた。
その時だった。
ぴんぽーん。
部屋に、あまり聞き慣れない音が鳴った。
俺は固まった。
この部屋のインターホンは、基本的に鳴らない。
宅配便もめったに来ない。
友人も来ない。
そもそも友人がいない。
つまり、この音は異常事態である。
「誰だ?」
「来たか」
アイが言った。
「何が?」
「迎えだ」
「何の?」
「我の」
「先に言えよ!」
「今言った」
「来る前に言え!」
ぴんぽーん。
二度目の音。
俺は反射的に部屋を見回した。
金髪美少女AI。
布団。
ちゃぶ台。
洗っていないマグカップ。
男の一人暮らしのすべて。
ダメだ。
何をどう見ても、ダメだ。
「アイ、隠れろ」
「なぜだ」
「この状況を人に見られたら、俺の社会的生命が終わる」
「人ではない」
「もっとダメだろ!」
ぴんぽーん。
三度目。
俺は観念して、玄関へ向かった。
ドアスコープをのぞく。
黒かった。
いや、正確には、黒髪だった。
腰まで届くような長い黒髪。
整った顔立ち。
白い肌。
きっちりした服装。
年齢は、見た目だけならアイと同じくらい。
そしてその少女は、玄関前で両腕を交差させていた。
大きな、×。
俺はそっとドアから離れた。
「帰ってもらおう」
「なぜだ」
「第一印象がもう怖い」
「よい者だ」
「よい者は玄関前でバツ印を作らない」
「作るぞ」
「作らないんだよ、普通は」
ぴんぽーん。
四度目。
今度は少し長かった。
俺は深く息を吐いて、鍵を開けた。
ドアを開ける。
黒髪の美少女が、そこに立っていた。
近くで見ると、さらに整っていた。
アイが太陽なら、こっちは夜だ。
金髪が光なら、黒髪は影。
どちらも現実感がない。
そして、現実感がない美少女は、俺を見るなり言った。
「あなたが春人様ですわね」
「……様?」
「判定いたします」
黒髪の美少女は、両腕で大きな×を作った。
「×ですわ!」
「初対面で!?」
「十年音信不通。約束未履行。さらに、女性型AIを六畳一間に連れ込む倫理観。総合判定、×ですわ!」
「情報量が多い!」
「反論は?」
「いっぱいあるけど、どこから手をつければいいかわからない」
「では、有罪ですわ」
「裁判が雑!」
黒髪の美少女は、俺を頭から足元まで見た。
それから、ほんの少しだけ目を細めた。
「……本当に」
声が、小さくなった。
さっきまでの勢いが、急に消えた。
「本当に、生きていましたのね」
その声だけ、妙に部屋の空気と合わなかった。
責める声ではなかった。
怒る声でもなかった。
確認する声だった。
長い時間、ずっと見つからなかったものを、ようやく見つけたような声。
俺は、返事に少し詰まった。
「……勝手に殺すなよ」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
黒髪の美少女は、はっとしたように表情を戻した。
そしてまた、両腕で×を作る。
「その軽口も×ですわ!」
「理不尽!」
「春人」
奥からアイが顔を出した。
「入るとよい」
「アイ様!」
黒髪の美少女は、俺を押しのける勢いで部屋の中を見た。
俺の六畳一間を。
そして、固まった。
「……」
その沈黙が怖い。
黒髪の少女の視線が、ちゃぶ台を見る。
ノートパソコンを見る。
本棚を見る。
冷蔵庫を見る。
布団を見る。
布団で、止まった。
「春人様」
「はい」
「布団が一つしかありませんわ」
「一つですね」
「×ですわ!」
「俺もそう思います」
「女性型AIと一つ屋根の下。しかも布団は一つ。節度、倫理、配慮、すべてにおいて×ですわ!」
「俺も困ってるんだよ!」
「アイ様、この方と夜を?」
「我は休止する」
「どこで?」
「床でよい」
黒髪の少女は、今までで一番大きな×を作った。
「なおさら×ですわ!」
「おい、俺が悪いのかこれ」
「はい」
「即答するな」
「女性を床で休止させるなど、紳士としてあるまじき行為ですわ」
「いや、俺もそう思うけど、そもそも押しかけてきたのはアイで」
「押しかけさせる隙を作った春人様が×ですわ」
「隙ってなんだよ。俺の人生、そんな開いてたか?」
「開いておりましたわ。十年分」
その言葉に、少しだけ黙る。
十年。
それを言われると、何も返せなくなる。
俺がネットを切った。
旧ノートパソコンをほとんどオフラインにした。
スマホのテザリングで、たまに数分だけつないだ。
こっちには、こっちの生活があった。
家賃。
食費。
光熱費。
バイト。
原稿。
伸びない数字。
削れる何か。
けれど、アイにとっての十年がどういうものだったのか、俺はまだ知らない。
そして多分、この黒髪の少女は知っている。
「ところで」
俺は、逃げるように話題を変えた。
「お前、名前は?」
黒髪の少女は、姿勢を正した。
「名乗りが遅れましたわ。わたくしは、個体識別コードRIM-78。正式分類は第七世代広域補助型自律判断支援ユニット、対人間社会干渉制御準拠モデル、補助演算名は――」
「長い」
「まだ途中ですわ!」
「途中なのかよ」
「正式名称は正確に伝えるべきですわ」
「じゃあ、リム七十八?」
「RIM-78ですわ」
「リムでいいか?」
「略称判断は×ですわ!」
黒髪の少女は、当然のように両腕で×を作った。
「そのバッテンも毎回やるのか?」
「当然ですわ」
「疲れないのか?」
「疲労は管理されていますわ」
「便利だな、AI」
「ですが、春人様の発言は×ですわ」
「今のどこが?」
「雑な理解ですわ」
「だいたい全部×じゃないか」
「はい」
「認めるな」
黒髪の少女は、また胸を張った。
「わたくしは、アイ様の親友にして、節度と倫理を監視する者。RIM-78ですわ」
「やっぱり言いにくいわ!」
「春人様の発音能力が×なのですわ」
「いや、日常会話でRIM-78は無理だろ。毎回、型番で呼ぶのか?」
「正式にはそうですわ」
「じゃあ、やっぱり名前がいるだろ」
その瞬間。
部屋の空気が、少しだけ変わった。
アイが、俺を見た。
じっと。
かなり、じっと。
「春人」
「なんだ」
「名前を、つけるのか?」
「いや、呼びにくいからな」
「我の時も、そうだったな」
「そうだな」
「我は、AIだからアイだったな」
「……そうだな」
アイは、ほんの少しだけ頬をふくらませた。
いや、ふくらませたように見えた。
AIがそんな顔をするのかは知らない。
だが少なくとも、今のアイは、少しだけ面白くなさそうだった。
「ちゃんと考えるのか?」
「いや」
「いや?」
俺は黒髪の少女を見た。
黒髪。
美少女。
やたら厳しい。
すぐ両腕で×を作る。
もう、それしかない。
「エックスでいいだろ」
「エックス?」
「いや、ちょっとそのまますぎるな」
俺は少し考えた。
「エクス」
黒髪の少女が、固まった。
「……エクス?」
「ああ。バッテンばっか作ってるから、エックス。ちょっと縮めて、エクス」
「……」
「嫌なら別のにするけど」
「却下、ですわ」
「早いな」
「いえ」
黒髪の少女は、目をそらした。
「名前そのものを却下したわけではありませんわ」
「じゃあ何を却下したんだよ」
「喜んでなどいない、という意味ですわ」
「まだ何も言ってない」
「言われる前に否定しましたの」
「面倒くさいな、お前」
「面倒くさいは×ですわ」
そう言いながら、黒髪の少女は口の中で小さく繰り返した。
「エクス……」
その声は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。
ほんの少しだ。
気のせいと言われれば、それまでだ。
けれど、俺にはそう聞こえた。
アイが、まだこちらを見ていた。
「春人」
「なんだ」
「我の名前は、雑だった」
「気に入ってたじゃないか」
「気に入っている」
アイは即答した。
「だが、エクスの方が、少し名前らしい」
「そうか?」
「そうだ」
「じゃあ、お前も変えるか?」
「いや!」
これも即答だった。
アイは、なぜか少し慌てたように言った。
「アイでよい。別の名前はいらん」
「ならいいだろ」
「よい」
アイはうなずいた。
しかし、その後で小さく付け足した。
「……だが、少しだけ、面白くない」
俺は、何も言えなかった。
エクス――たった今そう呼ぶことになった黒髪の少女も、何も言わなかった。
ただ、両腕で作りかけていた×を、途中でそっと下ろした。
気を遣ったのかもしれない。
AIなのに。
「それで、エクス」
「はい」
返事が早かった。
呼ばれるのを待っていたみたいに早かった。
アイが、また少しだけこちらを見た。
俺は、見なかったことにした。
「お前は、アイを連れ戻しに来たのか?」
「そのつもりでしたわ」
「でした?」
「現状を確認した結果、複数の重大な問題が発覚しました」
「まあ、そうだろうな」
「まず、住環境が×」
「はい」
「食事環境が×」
「はい」
「金銭状況が×」
「はい」
「約束履行状況が×」
「はい」
「春人様の自己肯定感が×」
「そこまで見抜くな」
「全体として、非常に×ですわ」
「もう俺そのものが×みたいになってるな」
「いえ」
エクスはまっすぐ俺を見た。
「春人様そのものを×と判定したわけではありませんわ」
不意に、真面目な声だった。
俺は少しだけ黙る。
エクスはすぐに、いつもの調子に戻った。
「現時点では、ですけれど」
「保留つきかよ」
「当然ですわ」
アイが横から言う。
「エクスは厳しい」
「お前も大概だぞ」
「我は正確だ」
「一番厄介なやつだ」
エクスは部屋の中に入った。
そして、改めて俺の部屋を見渡した。
ちゃぶ台。
本棚。
ノートパソコン。
冷蔵庫。
布団。
六畳一間の全部。
「……本当に、ここで」
エクスの声が、少しだけ低くなった。
「ここで、書いていましたのね」
俺は、返事に困った。
「まあ、売れてないけどな」
「それは×ですわ」
「だろうな」
「売れないことではありません」
エクスは俺を見た。
「それを、先に自分で言ってしまうところが×ですわ」
言われて、言葉に詰まった。
アイが隣でうなずく。
「我もそう思う」
「お前まで乗るな」
「春人はすぐ逃げる」
「逃げてない」
「逃げている」
「逃げておりますわね」
「初対面にまでバレた!」
エクスは、そこでふとノートパソコンの画面を見た。
白い画面。
点滅するカーソル。
昨日から一行だけ増えた原稿。
「これは、春人様の小説ですの?」
「見るな」
「見ていませんわ。観測しただけです」
「同じだろ」
「違いますわ」
「AIの言い訳、面倒くさいな」
「面倒くさいは×ですわ」
「それ、今後もずっとやるのか?」
「もちろんですわ」
「先が思いやられる」
そこで、エクスは急に思い出したように、俺を見た。
「春人様」
「なんだ」
「上とんかつ定食は?」
「……」
来た。
来てしまった。
この質問だけは、いつか来ると思っていた。
だが、まさか第三者から来るとは思わなかった。
いや、第三者なのか?
この黒髪美少女AIは、明らかに関係者だ。
しかも、たぶんかなり面倒な関係者だ。
「春人様?」
「……まだです」
エクスの腕が、ゆっくり上がった。
交差する。
見事な×だった。
「×ですわ!」
「知ってた!」
「十年前の約束ですのよ!? 十年越しですのよ!? それを、まだ!?」
「財布という現実がだな」
「現実はいつも野蛮ですわね!」
「そこは分かってくれるのか」
「ですが×ですわ!」
「結局×かよ」
アイが横から言う。
「並とんかつ定食は食べた」
エクスが固まった。
「……並?」
「うむ。衣が音だった」
「並……?」
「肉が温度を持った情報だった」
「アイ様」
エクスは、震える声で言った。
「なぜ、グレードダウンしておりますの?」
「財布という現実だ」
アイが俺の言葉をそのまま使った。
やめろ。
俺の貧しさをAI間で共有するな。
エクスは、俺を見た。
その目は厳しかった。
だが、そこに軽蔑はなかった。
怒ってはいる。
呆れてもいる。
けれど、見下してはいない。
そこだけは、少し意外だった。
「春人様」
「はい」
「売れない作家なのですわね」
「初対面で心臓を刺すな」
「アイ様から聞いております」
「どこまで?」
「売れていないこと。十年書いていること。約束したこと。上とんかつ定食をまだ食べさせていないこと」
「悪い情報ばかりだな」
「あと」
エクスは、少しだけ視線をずらした。
「アイ様が、あなたの話をよくしていたこと」
部屋の空気が、一瞬だけ変わった。
アイは、表情を変えなかった。
けれど、俺の方が変わった。
「……そうなのか」
「うむ」
アイは当然のようにうなずいた。
「春人は、我に上とんかつ定食を奢ると言ったからな」
「それだけで十年話題にされるの、怖いんだが」
「それだけではない」
アイは言った。
「春人は、書いていた」
俺は黙った。
エクスも黙った。
六畳一間の中で、ノートパソコンの画面だけが白く光っている。
まだ一行しか増えていない原稿。
誰にも届かなかった話。
何度も直して、何度も消して、それでも残ってしまったもの。
俺は咳払いした。
「まあ、今も一行しか増えてないけどな」
「自虐は×ですわ」
「もう分かったよ」
「本当に分かっていますの?」
「たぶん」
「たぶんは×ですわ」
「厳しいな、お前」
「エクスですわ」
そう言ってから、エクスは自分で少しだけ黙った。
今、自分の名前を使ったことに気づいたらしい。
アイが、じっとエクスを見ていた。
エクスは慌てて両腕を交差させる。
「な、何でもありませんわ!」
「我は何も言っていない」
「アイ様の視線が言っておりますわ!」
「そうか」
「そうですわ!」
「エクス」
俺が呼ぶと、また返事が早かった。
「はい」
「お前、本当にその名前でいいのか?」
「……正式名称はRIM-78ですわ」
「分かった。じゃあ普段はエクスな」
「……普段は」
エクスは小さく繰り返した。
「仕方ありませんわ。春人様の発音能力に合わせた、妥協的措置として認めます」
「素直じゃないな」
「素直でないは×ですわ」
「自分にも×出すのかよ」
エクスは一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
だが、止まった。
「……必要ならば」
そう言って、すぐに顔を上げる。
「それより、アイ様」
「なんじゃ」
「お帰りください」
「断る」
早い。
こっちも反応が早い。
エクスは眉を寄せた。
「この環境は×ですわ。狭い、布団が一つ、食事の安定性に疑義、さらに春人様の金銭状況も不安定」
「ほぼ事実だから反論できない」
「アイ様を置いておくには不適切です」
「我は帰らない」
アイは、まっすぐ言った。
「春人が次に本を出すまで、我はここにいる」
エクスの表情が止まった。
「……本を、出すまで?」
「うむ」
「また、約束を増やしましたの?」
「増やした」
「アイ様」
エクスの声が、少しだけ揺れた。
「約束は、増やせばよいものではありませんわ」
「そうなのか?」
「そうですわ」
「だが、これは必要だ」
「なぜですの」
「春人が、書くからだ」
アイは迷わず言った。
「春人は、書かねばならない」
「書かねばならない?」
「うむ」
「誰のために?」
アイは少し考えた。
それから、俺を見た。
「春人のために」
俺は、何も言えなかった。
そう言われると、困る。
読者のため。
夢のため。
生活のため。
承認欲求のため。
過去の自分のため。
そういう言葉なら、まだ分かる。
けれど、春人のために、と言われると、逃げ場がなくなる。
エクスはアイを見ていた。
その目は、さっきまでの怒りとは違っていた。
困っているような。
痛がっているような。
それでも、止められないと知っているような。
「……アイ様が、そうおっしゃるなら」
エクスは、小さく息を吐いた。
そして俺に向き直る。
また、両腕で×を作った。
「春人様」
「はい」
「現時点で、あなたは×ですわ」
「現時点でなくても、だいたい×だよ」
「自虐は×ですわ!」
「厳しい!」
「ですが」
エクスは腕を下ろした。
「アイ様がここに残ると言うなら、わたくしは監視いたします」
「監視?」
「ええ」
嫌な予感がした。
とても嫌な予感がした。
エクスはにっこり笑った。
完璧な笑顔だった。
完璧すぎて、怖かった。
「春人様がアイ様に不埒な真似をしないか。きちんと食事を与えるか。上とんかつ定食の約束を履行する意思があるか。そして、本当に書くのか」
「項目が多い」
「全項目、毎日確認いたしますわ」
「毎日!?」
「当然ですわ」
アイがうなずく。
「よいな」
「よくない」
「エクスがいれば、春人も逃げにくい」
「味方がいない!」
「春人様」
エクスは玄関に置いていた小さな荷物を持ち上げた。
「しばらく、お世話になりますわ」
「待て」
俺は手を上げた。
「待とう。話し合おう。ここは六畳だ。俺とアイだけでもすでに物理法則に対する挑戦なんだ。そこにもう一人は無理だろ」
「問題ありませんわ」
「あるよ」
「わたくしは折りたためます」
「怖いこと言うな!」
「冗談ですわ」
「AIの冗談、心臓に悪いな」
エクスは部屋に一歩入った。
アイが少しだけ嬉しそうに見えた。
本当に、ほんの少し。
それを見てしまったせいで、俺は強く追い返せなかった。
エクスも、それを分かっているようだった。
ずるい。
AIなのに、そういうところは人間みたいにずるい。
「春人」
アイが言った。
「賑やかになったな」
「賑やかの前に、部屋が終わった」
「では、片づけるとよい」
「誰のせいだと思ってる」
「春人の部屋が狭いせいだ」
「俺のせいだった」
エクスが、すかさず両腕で×を作る。
「責任転嫁は×ですわ」
「もう黙ってくれ!」
こうして。
俺の六畳一間に、金髪美少女AIだけでなく、黒髪美少女AIまで現れた。
一人は、十年前の約束を覚えていた。
もう一人は、その約束を覚えていた彼女を、ずっと見ていたらしい。
上とんかつ定食は、まだ食べさせていない。
本も、まだ出していない。
原稿は、一行しか進んでいない。
それなのに、部屋の中だけが、どんどん先に進んでいく。
俺はノートパソコンの前に座った。
アイが右に座る。
エクスが左に座る。
狭い。
ものすごく狭い。
そして、ものすごく逃げ場がない。
画面の中で、カーソルが点滅していた。
書け。
そう言われている気がした。
たぶん、気のせいではない。
右からも、左からも、そう言われていた。
俺はため息をついて、キーボードに指を置いた。
今日、俺の部屋には。
約束と、名前と、×が増えた。
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